狐火をさがして
目が覚めると、キュウコンがいなかった。
抜け出して朝の散歩に行ったのだろうか。そうとも思ったが、朝食の時間になっても、昼になってもキュウコンは戻ってこなかった。
彼女の尻尾を枕にして寝ていたはずのバクフーン、キラメに聞いてみても行方は知らないという。
彼女が姿を消してから一日が経ち、三日が過ぎ、そろそろ捜索の協力を頼んだほうがいいのではないかと焦り始めた頃、キラメが言った。
「なあユウト、俺達でスズネを探しに行かないか」
スズネのいない静かな部屋でそう呟いた。窓の外へ向けていた視線をこちらに向ける。
「俺達で?」
「ああ。あいつが黙って出て行くなんて何か理由があるはずだ。俺達を含め誰にも言いたくない何かが。だから多くの人に知られるのは望んでないと思う」
キラメの言う通りスズネが何も言わずに数日姿を消すなんて、普段の彼女であれば絶対にしない。ならばなぜスズネが消えたのか、何が原因なのか。それはスズネに直接聞くしかない。
壁にかけたバッグを手に取り、ランニングシューズを引っ張り出す。
「キラメ、準備はいいか?」
「俺はいつでもいいぜ」
スズネの行方を捜しに。何も分からないままもう会えないなんてそんなこと、絶対にさせはしない。
「捜すって言っても、当てはあるのか?」
問題はそこだった。スズネが行きそうな場所はすでに捜してみた。それで見つからないとすると、もっと遠くへ行っている可能性が高い。
今いるのはエンジュシティ。ここから東、西、南の三方向へ道が延びているが、スズネがもし町を出てどこかへ向かったのなら、どの方角へ行ったのか手がかりがないと動けない。
「キラメはどっちだと思う?」
答えを期待せずに聞いてみるが返事はなかった。
「キラメ?」
呼びかけるとキラメは一定の場所を見つめていた。その先を辿ると――
「炎……?」
建物と建物の間、僅かな隙間に見えたのは青白い炎だった。
「何であんなところに炎が……」
キラメは先に近づくとそれに触れてみる。そして、
「なんだよ、これ……」
触れた手と炎を見比べてキラメが呆然としていた。肩に触れ声をかけるとようやく我に返る。
「どうした?」
「ユウトも触ってみてくれないか。熱くはないから」
「これに?」
ああ、とキラメは頷く。触れると何かが起こるのか。そもそも熱くない炎とはどういうことなのだろう。考えても仕方がない。キラメに従い、ユウトは炎に手を近づけた。
直後視界が暗転する。
薄暗かった場所はセピア色の空間へ。ユウトの目の前には一人の人間とバクフーン、そしてキュウコンがいた。――あれは紛れもなく自分達だ。それぞれ今よりもやや若く、ユウトとキラメはスズネに注目していた。同時に言葉が頭の中に直接響く。スズネの声だった。
『密かに練習していた技を初めてふたりに披露しました。お見せしたのは鬼火を使った応用術。まずは尻尾の先に鬼火を灯します。青白い炎が九つ並び、次にそれぞれに与える力を少しずつ加減すると――炎のグラデーションが出来上がるのです。橙、青、白と徐々に色を変え、幻想的に彩ります。実践ではあまり効果のないものですが、それでもふたりはとても喜んでくれました。ユウトはこれならコンテストにも出れると張り切り、翌月ちょうどエンジュシティで開かれる大会に参加することになりました。運よく強敵がいないこともあり、見事優勝することが出来たのです。その時のリボンは今でも私の自慢の一つです』
声に合わせて目の前の光景が動いていく。庭、会場、ステージ。ナレーションが切れるとともに景色が元に戻る。キラメは先ほどと同じ体勢で、今のはほんの一瞬の出来事だったようだ。
「何だ今の……」
キラメと同じ感想が漏れる。スズネが今の技を見せてくれたのは二年ほど前のこのあたりだ。その時のリボンはスズネが胸につけている。
「スズネの記憶……なのか?」
「……かもしれないな。けどどうなってんだよ……」
それはさっぱり分からなかった。炎に触れたら記憶が流れるなんて話は聞いたことがない。けれどもしかしたらこれが手掛かりになるかもしれない。もしこれがスズネの作り出したものであれば、炎がある場所をスズネが通ったことになる。あくまで推測でしかないが、一縷の望みに賭け、次の炎を探す。
そう決めた時、触れたスズネの炎は既に消えていた。
夜中に怪しい狐火を見た。そんな噂が耳に届いたのは、翌日の夕方だった。急いでその場所へと向かっていく。エンジュシティ東ゲート外。当たりだった。
道からやや離れた森の中、一つ青白い炎が妖しく光を放っていた。
この場所は知っている。忘れるわけがない。
「なあここって……」
二人で顔を見合わせ、炎に手を触れる。前回と同じく景色が変わり、スズネの声が流れ込む。
『私がふたりと初めて出会ったのは、ちょうどこのあたり、スリバチ山の麓でした。その日はたまたまいつもより遠くへ遊びに来ていて、木の実をお腹いっぱい食べた帰りの事でした。一人の人間と一匹のバクフーンが技の特訓をしていました。ユウトの指示に合わせてキラメが「かえんぐるま」を繰り出す。ふたりの息はぴったりと合っていました。それに見惚れているうちに、やがてふたりは私に気付きこう言いました。「一緒にやってみるか?」と。その日から私はふたりの仲間に加わり、一人と二匹の旅が始まったのです。私はここで二人と出会えたことを幸せに思っています』
懐かしい記憶だった。スズネがまだロコンだった頃だ。もうあれからだいぶ経つがそんな風に思ってくれていたと思うと嬉しいと同時に少しこそばゆい。キラメも照れ笑いを浮かべ頬をかいていた。
しかしそれでもスズネがどこに行ったのかは分からない。
「炎があったってことは、スズネはここに来たんだよな」
「ああ。ならこの先へ進んでみるのがよさそうだ」
スリバチ山を左手に見ながら東へ進んでいく。スズネの狐火を探して。
旅路ではスズネの炎を幾度となく見かけた。
氷の抜け道では内部で迷った記憶。キラメの炎とスズネの暖かな体毛に助けられたこと。フスベジムに勝利しリーグの挑戦権を得たこと。45番道路で土砂降りに当たり、雨宿りの最中ライコウの影を見たこと。トージョウの滝でキュウコンに進化したこと。
そのどれもがスズネの口調で語られ、彼女の記憶が映し出された。記憶の炎は役目を終えると消えてしまい二度と同じ場所に現われることは無かった。先へ進むにつれ炎を見つける間隔が狭まっていく一方で、その勢いは徐々に弱まっていた。嫌な予感を想起させ、焦燥感が日に日に増していく。早くスズネに会いたい。それでも彼女とどのくらい距離が離れているのか、今どこにいるのか。それはまだ分からない。
「悪い予想なんだが……話してもいいか?」
ある日キラメが控えめな口調でそう言った。下を向き言葉が重いようだった。
「……話してくれ」
一呼吸間を置いてユウトは頷いた。
キラメはふっと息を吐き吸い込むと、意を決したようにこう話した。
「俺が思うに……スズネは忘却病なんじゃないか……?」
「忘却病……か」
その名前は知っていた。
忘却病と呼ばれるものが知られ始めたのは三年ほど前だった。その名の通り、時が経つにつれ徐々に記憶が失われていく病気である。一度無くした記憶は決して戻らず、最終的には全ての思い出が消去されてしまう。発症の要因については解明されておらず、同時に治療法も存在しない。一度罹ってしまえば、あとは記憶が抜け落ちるのを待つしかなく、肉体的には何の害も無いものの精神的には心が壊れてしまうほど耐え難い病気であった。
「スズネがいなくなる前、なんだかぼーっとしてること多くなかったか? 元気がないというか、無理してるっていうか……」
「記憶に無いと聞き返してくることも何回かあったしな……」
なぜもっと早く気付けなかったのだろう。元気が無いことくらい注意を払えばすぐに分かっただろうに。
自分に苛立ちを込めて地面を殴る。冷えた固い地盤はびくりともせず、手に痛みだけが残る。
ユウトの肩にキラメが右手を乗せた。
「情けねえのは俺も同じだ。毎日一緒にいたのに、何も出来なかったのは悔しい。けど――もしスズネが忘却病に罹ってるなら、俺達よりももっと苦しんでる」
だから、とキラメは前を見上げて言う。
「早くスズネを見つけよう」
その通りだ。後悔はあとで幾らでも出来る。けれどスズネに会えるのはこれからの行動次第で決まる。今はまだ嘆いている場合ではない。
「ありがとうキラメ」
「いいってことよ」
キラメに手を借りて立ち上がる。先には遥か遠くまで道が続いている。数年前に訪れたはずなのに、その距離は果てしなく感じた。
「こんなところで挫けてたまるか!」
太ももを強くたたき喝を入れる。狐火に導かれ遠くへ遠くへ駆けていく。
「ここまで来たか……」
エンジュを発ってから数十日が過ぎ、ついにセキエイ高原にまで辿り着いた。
「結局スズネと出会ってからの道のりを全部辿ったんだな」
あの頃は三人旅だったが今回は二人だけの旅。一匹(ひとり)足りないだけでこんなにも寂しく感じてしまうのか。
目の前には自分達の何倍もの高さの門がそびえ立ち、その奥に実力者達がしのぎを削り合うポケモンリーグの会場がある。今は訪れる者は無く、ただその扉を閉ざしていた。そして門の手前、柱の脇にそれはあった。
「ここにもやっぱり来てたか」
何度も見つけた青白い炎。けれどそれはもうほとんど消えかかっていた。不吉な考えを振り切り炎に手を伸ばす。
三人で門を見上げていた。開かれた奥からは喧騒が聞こえてくる。歓声、戦闘音、審判の笛……。
『ユウトが目指していたセキエイ高原に来ることが出来ました。トレーナーもポケモンも今まで出会ってきたひと達よりもかなり強そうで思わず体が震えてしまいます』
気付けば記憶の中のスズネが側にいた。
『そんな中、ユウトはせっかく来れたのだから楽しんでいこう。そう励ましてくれました。結果は四回戦で敗退。予選は二対二のシングルバトルだったから良かったものの、もし本選に出場できていたら、どうするつもりだったんでしょうね』
くすくすとスズネが笑みをこぼす。セキエイ高原はスズネにとっても楽しい思い出だったのだろう。
映像が続く中キラメが口を開く。声はかすかに震えていた。
「思ったんだが……これってスズネから抜け落ちた記憶なんじゃないか。忘却病で消えた思い出がこうして再生されている」
「スズネから抜け落ちた記憶か……」
「キュウコンって不思議な力を持ってるだろ。忘れたくない気持ちが狐火として残させた――あくまで想像だがな」
忘却病の話が出た時からそんな予感はしていた。つまりスズネはもうこの場所のことをすでに憶えて――、
ふいにスズネの声が変わった。歌うような朗らかな音から、悲哀を溜めた声へ。
『なのにどうして……っ!』
スズネの叫びと共に映像は止まり、元の静寂へと引き戻される。現実に戻ってきてもスズネの声が頭の中に響いていた。やり場のない悲しみ、叫び、訴え。スズネは今それらを全てひとりで抱え込んでいる。きっと自分がしてやれることはほとんどない。それでも、ひとりだけいなくなるなんて寂しすぎる。ただ側にいたい、それだけを願う。
『ユウト。キラメ』
声がした。呼んでいる、どこから?
目を開き耳を澄ます。スズネはどこにいる?
視界の左端で何かが光った。暗い森の中、青い燐光が幽(かす)かに見える。考える間もなくユウトは走り出していた。すぐ後をキラメが追いかける。
「スズネ!」
草を掻き分け奥へ進む。声はこちらから聞こえてきた。どこに、どこにスズネはいる?
「ユウト、右だ!」
キラメが後ろから声を飛ばす。
明りの元、草むらの中でキュウコンが倒れていた。顔を膝の上に抱き上げ呼びかける。
毛並み、顔立ち、胸のリボン。間違いない、スズネだ。
「スズネ、俺だ! 分かるか?」
微かに震えスズネはうっすらと目を開ける。暖かであるはずの体は冷え切っていて、開いた口からは白い吐息が漏れ出る。かなり衰弱していた。毛は汚れ、尻尾は力なく垂れ下がっている。続くキラメがスズネに触れ、弱火を体に吹きかける。「もらいび」を受け、スズネの呼吸が整い火照りを取り戻していく。
「大丈夫か、スズネ」
「はい……ありがとうございます」
スズネは体を起こすと後ろ足を畳んでユウトに向き直る。横ではキラメが炎を当て続けていた。
「勝手に出て行ってしまって御免なさい。心配をお掛けしてしまいました」
目を閉じ深く頭を下げる。すぐさまユウトは首を横に振り言った。
「いやスズネの様子に気が付かなかった俺達にも非があるから、深く気にしなくていい。スズネに会えた、それで十分だ。それよりもどうして出て行ったのか、その理由を教えてくれないか」
ユウトに言われスズネは頭を上げる。それでも申し訳なさは晴れず、俯いたままスズネは話し始めた。
初めはすぐに帰るつもりだった。一日だけ出掛けて帰ってきて、ふたりと一緒にまたいつもの日常を送る、そのはずだった。
最初に異変に気付いたのは三ヶ月ほど前だった。皆で部屋の片づけをしている時、ふたりが写真を見ながら懐かしそうに話していた。後ろから覗いてみると、写真の中の三人は木漏れ日の落ちる森の中で、籠にいっぱいの木の実を詰めていた。
「あの後村に持って帰ったらポフィンにしてもらって、おいしかったよな。スズネはモモンが一番気に入ってたっけか?」
話を振られ――答えることが出来なかった。写真の景色に全く憶えが無かったのだった。
「珍しいな、スズネが憶えてないなんて。俺達の中で一番記憶力がいいのに」
その場所は3の島という名前だと教えられても、思い出すことは無かった。それから憶えていない≠アとが度々あった。旅行で訪れた場所、部屋にあるグッズ、友人の名前……。「忘れた」というより、そもそもその出来事が存在しないと言った方が感覚的に近い。
少しずつ私の中から何かが消えていく。一つ思い浮かぶものがあった。
忘却病。
それは気付かないうちに私から大切な記憶を奪い去り削除する。思い出せないことが増える度、怖くなっていった。このまま私が空っぽになってしまったらどうなるのだろう。想像したくもなかった。
だから「知っている」場所に訪れて、少しでも気持ちを落ち着かせようとした。そうして向かったのが、エンジュのすぐ外だった。私にとってとても大切な場所。今の私がある理由と言ってもいい。そこに足を踏み入れると、不安だった気持ちは和らいだ。記憶が消えていっても忘れたくないものだけは残っている、そう安心した。けれど次の瞬間、なぜその場所が大切なのか――分からなかった。
気付けば私は走り出していた。まだ、まだ憶えていることがあるはず。ふたりとのこれまでの思い出が。氷の回廊を抜け、竜の町を過ぎ、急斜を駆ける。訪れた場所に再訪する毎に、私の記憶はどこかに消えていった。知っているはずなのに思い出せない。そこで何をして何を感じたのか。何一つ憶えていない。
不安で怖くて、ただただ走っているうちに、もう何もかもが分からなくなっていた。私には何が残っているのか、何が私を形作っているのか、心を保つことが出来なかった。
「けれど、ふたりが私を見つけてくださって――本当にありがとうございます」
もう一度スズネが頭を下げる。
「やっぱりふたりといる時が、何よりも安心できますね。勝手なお願いですが、こんな私でもずっと側にいていいですか」
答えはもちろん決まっている。ユウトとキラメは同時に手を差し出した。
「んなもん、当たり前だろ」
「俺達だってお前がいないと寂しいし辛いんだ。だから俺達からもお願いだ、側にいてくれ」
重ねた二人の手の上に、スズネは前足を上げる。
「ありがとうございます。 、 」
スズネの口から空気だけが漏れた。その場にいた誰もが、何が起こったのか理解することが出来なかった。
初めに気付いたのはスズネだった。
「え……、そんな、嘘……。 、 、 ! ! !!」
喉の奥から絞り出すように言葉を吐き出す。それでも出てきたのは苦しそうなスズネの息の音だけだった。
目から大粒の涙を落とし、喉元を両方の前足で押さえる。
『ユウト、キラメ』
スズネの声が蘇る。もしあれがスズネの記憶の声ならば、もう彼女は自分たちの名前を憶えていない。
スズネの手を取りユウトは彼女を抱き締める。スズネの頬を伝った水滴が、ユウトの肩に流れ落ちる。
「もういい。無理はしないでくれ」
「でも、でもっ! 大切な人達の名前まで忘れるなんてそんなこと……! いけない、のに……。ふたりまで忘れてしまったら、私は……!」
「お前のせいじゃないんだ。だから」
「けどっ! どうして!」
ユウトの腕の中でスズネが吠える。その叫びは夜空の彼方へ吸い込まれていく。スズネの頭をユウトはそっと撫でた。
「大丈夫だ。忘れたら憶え直せばいい」
「けど、またすぐに忘れてしまうんですよ?」
「その度に思い出させてやるさ。何回でも話して聞かせるよ」
「そうそう。思い出は俺達三人のものなんだ。だから忘れた時は三人で共有し合えばいい」
ユウトの肩にもたれかかるようにキラメが腰を下ろす。
「それにな、」
スズネとキラメ二匹を抱き寄せ、ユウトは二人の耳元で囁いた。
「どんなことがあったって、これだけは絶対に忘れないだろ」
ユウトの温もり、キラメの暖かさ。二人の名前が思い出せずとも、全身が知っている。懐かしさの毛布に包まれ体中が温まっていく。
「帰りはやっと三人で旅が出来るな」
「そうだな。お前が残した記憶、今度は俺達が伝える番だ。一つずつ見て行こう」
スズネの狐火はもう無いけれど、大切なものは受け取っている。
「……はい!」
涙を零し笑顔で答えるスズネの声は、三人の胸に深く深く沈んで行ったのだった。