おねがいひとつ
ナツはただ走り続けました。
懸命に足を動かして、丘を谷を草むらを進んでいきます。
息が切れていても、葉っぱで体が傷ついても、ナツは止まりたくありませんでした。
もっともっとたくさんのものを見たいから。そう約束をしたから。
夕焼けの中ただひとり。ナツは空に向かって大きくないたのでした。
1
林に囲まれた一つの神社。真夏の照りつける太陽は木々に遮られ、境内の空気は昼だというのに涼しく澄んでいました。そんな中一匹の子狐、ロコンは自分のふかふかとした尻尾を枕にうたた寝をしていました。社(やしろ)の屋根の上で時々のどかなあくびをしては、顔を尻尾に埋(うず)めます。
そのロコンの耳がぴくりと揺れました。続いて聞こえるかつかつという石段を踏む足音。
寝ぼけ眼で鳥居の方を見れば、一人の少年がこちらに向かって歩いてきているところでした。
その男の子は備え付けの手すりに縋って一歩ずつ前へと進み、頂上つまり鳥居の手前に来ると、座り込んでしまいました。
なんだか変わったお客さんを、ロコンは眠気が残った霞んだ目で眺めます。
やがて男の子は立ち上がると、まずは
手水舎で手と口を濯ぎ、参道を通って拝殿の前に立ちました。
賽銭箱へお金の入る音に鈴の音が合わさり、そしてぱんぱんと二拍。
何かをお願いしているようですが、ここからでは屋根が陰になって様子が見えません。なんとなく気になったロコンは瓦の端へ身を乗り出し――ふっと足を滑らせてしまいました。空へ投げ出されたロコンは足をぱたぱたとさせましたが、重力には逆らえません。そのまま下へ落ちていき、少年の真後ろにどすんと尻餅をつきました。
いたたたた……と目に涙を溜めて顔を上げると、男の子が驚いた顔でこちらを見ていました。かわいそうなことに、胸を押さえてびくびくしています。
悪いことをしちゃったかな。気まずい雰囲気の中、そう思ったロコンは前足を挙げて、
「きゃう!!」
元気に鳴き声をあげました。
無垢なロコンの態度のおかげで、いくらか緊張のほぐれた男の子はおそるおそるロコンに近づきました。額をそっと撫でると、幸せそうに目を細めます。もっともっととせがむロコンに、どうせなら座れる場所でと、一人と一匹は石段へ移りました。
膝に乗ると、もっと男の子の距離が近くなりました。黒い瞳に自分の姿が映るのが面白くて、ロコンはお腹を抱えて笑いました。笑うのに夢中になって、膝からころんと落ちそうになったところを、男の子が慌てて手で支えます。間一髪、蹴鞠みたいに階段を落ちることを免れたロコンは男の子と一緒にため息をつきました。そして今度はふたりで声を上げて笑ったのでした。
「そういえば挨拶がまだだったね。僕はナツ。君は……神様?」
質問にロコンは首を横に傾けました。
神様なんて呼ばれたのは初めてでした。確かに自分は神社に住んでいるし、ロコンの神様がいるというのも聞いたことがあります。けれど自分は特別な力なんて持っていない普通のロコンです。とても神様だとは思えません。
「違う……のかな? でも、それにしては……うーん」
ナツは考え込んでしまいました。難しい顔をしているより笑っている方が楽しいです。前足でぽんぽんとナツの手を叩くと、ぴょんと砂利に降り、こっちにおいでと尻尾を左右に振りました。
それを見てナツも悩むのをやめ、ロコンの後をついていきました。
本当は追いかけっこをしてほしかったのですが、ナツがすぐに息を切らしてしまったので、予定を変えて神社の軒下に座ることにしました。
長い階段を上った先にあるここからは、町の景色がよく見えます。水の張った田んぼに、まばらに走る自動車。遠くの湖では太陽の光が眩しく反射しています。
それらを眺めているうち、やがて遠くから鐘の音が響いてきました。夕方を告げる合図です。
「あ、そろそろ帰らないと」
ナツは立ち上がり、ロコンの頭に手を置きます。ロコンはなんだか寂しくなってきて、くうんと声を出しました。
「大丈夫、また明日来るから」
そう言ってもまだロコンは悲しい表情をしています。そこでナツはロコンの前足を取りました。
「じゃあ約束。嘘ついたらマトマの実だよ」
それを聞いたロコンはぷふっと吹き出してしまいました。明日来なかったらマトマの実、それは大変です。じゃあ明日もナツはきっと来てくれるでしょう。
ロコンは笑顔に戻って、ばいばいと前足を振ってナツを見送りました。
小さい背中が木の陰に見えなくなるまで、ないていました。
次の日。ロコンは朝早くに目が覚めてしまいました。こんなにわくわくするのは初めてのことです。ニンゲンと約束してまた遊べるなんて、楽しみで仕方がありません。
鳥居の陰から顔を覗かせ、石段の様子をじっと見守っていました。早く来ないかなとそわそわして何時間か経って、お日様がてっぺん近くまで昇り、なんだかうとうとしてきた頃、その日初めての足音が聞こえてきました。ナツです!
ロコンはナツが上ってくるのを待ってられず、石段から飛び出し空へダイブしました。
「きゃうきゃんっ!」
「わわっ!?」
「きゅ……っ!!?」
前足を広げてナツの元へ飛び込もうとしたロコンでしたが、驚いたナツがとっさに身を屈めると、ロコンが着地できる場所はもう地面しかありません。
ナツは顔を両手で抑え、おそるおそる手をのけると――ロコンは見事四つの足で着地していました。思わずおおと拍手をすると、ロコンはばっと振り向き、泣きながらナツの胸に駆け込んできました。
よしよしと頭を撫でながらふたりは一緒に鳥居をくぐりました。
それからは昨日と同じように、ゆっくり歩いてのんびり話してたまにお昼寝をして。まるでふたりの間だけ時間がのんびり歩いているようでした。そんな日が何日も何日も続いていきました。
毎日がロコンにとって幸せで、それはナツにとっても同じでした。ただ一つロコンが気になったのは、ナツがすぐに疲れてしまうことでした。ロコンは元気には自信がありましたが、それにしてもナツはちょっと運動しただけですぐに息が切れてしまうのです。大丈夫かなと思いつつも、ナツが大丈夫と言うのだからそれ以上追及は出来ませんでした。
その日は突然雨が降ってきました。ナツとロコンは神社の社に駆け込んで雨宿りをしていました。
雨の日は退屈でつまらない――なんてそんなことはありません。ナツといられれば、ロコンといられればそれで良かったのです。ロコンにとってナツは楽しいニンゲン、ナツにとってロコンは「神様」でした。
今までも時々ナツはロコンを「神様」と呼んでいましたが、ロコンにはその理由がわかりませんでした。
「僕がロコンと会った時さ」
ロコンを膝の上に乗せてナツは語り始めました。
「あの時ここで何をお願いしてたかわかる?」
ナツの質問にロコンはむうと考えて、首をふるふると横に振りました。だよね、とナツは苦笑しつつ続きを話します。
「『長く生きられますように』ってお祈りしてたんだ」
「…………?」
「僕、体が弱くて。ロコンも見てて分かったでしょ? でねお医者さんが言うにはそう長くは生きられないだろうって。治そうにもこんな小さな村じゃ設備なんて揃ってないし、町に行くには遠すぎて、しかも行ったとしても治る保証なんてどこにもなくて。それで、最後は神様にお祈りするしかなかったんだ。そしたらね」
ナツはロコンを持ち上げて顔の前に持ってきました。
「君が空から降ってきたんだ」
ロコンを元の膝の上におろして、ナツは話します。
「偶然っていうにはタイミングが良すぎて。しかもロコンとキュウコンは長生きする種族。もしかしたらって思ったんだ。でももしそうじゃないとしても、君は大切なロコンだよ」
ナツの話すこと全部がわかったわけではないけれど、自分にとってもナツにとってもお互いが大切だということだけははっきりと分かりました。
ロコンはナツの首元に抱きつき、ほっぺに自分の頬をすり寄せ、それからキスをしました。ロコンの体温が心地よくて、ナツはロコンを腕で抱え込みます。気がつくとナツからも小さな雫がこぼれていたのでした。
雨が止んでお別れの時間がやってきました。遠くからはヤミカラスの鳴き声が聞こえてきます。鳥居を出る前にナツはふとロコンに聞いてみました。
「そういえばロコンはお願い事ってないの?」
お願い事。今まで考えたことがありませんでした。お願いするなら何がいいだろう。もっと強くなること? 進化できること? それも魅力的ですが、それでもやっぱり――
「きゃんっ!」
ナツと一緒にいることが一番の幸せなのでした。
2
次の日は朝から雨が降っていました。ざあざあと激しい雨で外を歩くことも出来ません。遠くからはぴちゃぴちゃとニョロモの跳ねる音が聞こえてきます。アメタマもきっと水面を滑っているのでしょう。
さすがにナツは来ませんでした。ふたりのときの雨は楽しいけれど、ひとりの雨はちっとも面白くありません。小さなロコンはぷくっと頬を膨らませ、大きな黒い空を文句言いたげに睨むのでした。
三日ほど雨が降り続き、ようやく晴れた日の早朝からロコンはいそいそと鳥居へ向かいました。霧の向こうに見える村はまだ暗くて、人やポケモンの気配がほとんどありません。雨で気分が落ち込んでいたのもあって、なんだか不気味に思えてきました。
なかなか霧は晴れませんでした。いつまで経ってももやがかかって太陽の光も届きません。ひとりなのも相まって、ロコンは寂しく尻尾を体の方へ寄せました。
結局その日はナツが遊びに来ることはなく、夜になってしまいました。道がぬかるんで歩きにくかったのかなとか、雨漏りして直すので忙しかったのかなとあれこれ考えながら、ロコンは眠りにつきました。
次の日はどうだろう。そう思って鳥居の前で待っていてもナツは現れません。次の日もその次の日もそうでした。
もしかしたらナツに何かあったのかな。ロコンはだんだん心配になってきました。心臓がばくばくいって、目の前が揺れてきそうです。
一瞬嫌な予想が頭をよぎりましたが、そんなことあり得ません。なんていったって嘘をついたらマトマの実なのだから。
ロコンはぶんぶんと頭を振ると、鳥居の外へ飛び出しました。
ナツがどこにいるのか。全く見当もつきません。住んでいる場所も、村の地図も知りません。
それでもロコンは走りました。約束したのは自分も同じだから。ひとりだけでは約束は出来ません。ふたりが同意して初めて結ばれた約束なのです。
ロコンは舗装路も畦道も、疲れても泥だらけになっても駆け続けました。北を探し、西を過ぎ、南へ向かおうとした時、ロコンは一軒の民家の前で足を止めました。塀に囲まれた二階建ての少し大きめの家。ここに何かがある気がしてならないのです。ただの思い過ごしかもしれません。それでもここで止まったのは、偶然ではない気がしました。
時間は夜。門はがっしりと閉まっていて正面から中には入れそうにありません。
それでも確かめないと。
どこからか中に入れないかとロコンは顔を上げます。塀を登ろうにもロコンから見れば高すぎて――ううん、待って。
ロコンは視線を右に移しました。塀は隣の家にも続いていて、そちらに行くにつれ、階段のように低くなっています。
あれを使えば。
気づくと同時にロコンは塀に飛び乗りました。塀を伝い家の裏へ回ります。そこからベランダへ飛び移ると、ロコンは部屋の中をのぞき込みました。
戸棚がたくさんあり、それぞれに瓶が揃えられています。床の上には車輪のついた運ぶ台やベッドがありました。
「…………」
日が暮れてきて、視界があまり良くありませんが、ベッドで誰か寝ているようです。声を上げて呼んでみようかとも思いましたが、人違いだったら大変です。ロコンは思いとどまると、窓の鍵に視線を向けました。ロコンの目が淡く光り、鍵が下に降りていきます。『じんつうりき』を使ったのでした。音を立てないように注意して、前足で少しずつ窓をずらしていきます。やがて体ひとつ分の隙間を作ると中へ滑り込みました。
部屋はとても静かで、音を立てればすぐに響いてしまいそうです。薬のにおいがいっぱいで、鼻がつんとしました。
ロコンは抜き足でベッドに近づき、寝ている人の顔をそっと見上げます。
「……!」
とっさにロコンは口元を抑え、声を出さないようにしました。誰かに気づかれてしまえばたちまち追い出されてしまいます。
せっかくナツに会えたんだ。慎重にしないと。ロコンはベッドに飛び乗ると、ナツの腕を揺すりました。
起きてと願っているとやがてナツは目を覚ましました。ぼんやりとした瞳にロコンを写すと、ナツははっとした表情になりました。
「ロコン……! どうしてここに」
そう聞かれてもそれはロコンにも分かりません。きっと神様のおかげかもしれない、そう伝える術はありませんから、ロコンはナツの腕に頬をすり寄せました。それだけで十分でした。そのロコンの頭をナツはそっと撫でます。やっぱりこれが落ち着きます。ふたりは顔を見合わせるとくすっと笑いました。
ところでナツはどうして急に神社に来なくなってしまったのでしょう。ロコンが訊ねるのとナツが教えてくれたのはほぼ同時でした。
「ごめんね約束したのに。急に体調が悪くなっちゃったんだ。それでこの診察所で入院してたんだ。あ、入院っていうのは病気を良くするためにお医者さんに泊まることだよ」
調子が悪いと聞いて曇った表情になったロコンは、入院の意味を教えてもらいぱっと明るくなりました。つまりここを無事出られれば、また遊べるのです。そう考えたら少しぐらいひとりでいたって我慢できます。
対してナツの顔はさらに暗くなっていました。ロコンを胸に抱き寄せると、ナツは続けます。
「前に確か話したよね。治し方が分からないって。だから本当はこんなところにいても意味がないんだ」
「…………」
「もうロコンの神社にはいけないかもしれない……」
「……っ!」
そんなことあり得ません。だって約束したのです。「また明日遊ぼう」と。ロコンは必死にかぶりを振りました。それに応じてナツの声も震えていきます。
「『長く生きられますように』最初はそうお願いしてたんだ。でもロコンと会って、たくさんお話して遊んで、本当は君がうらやましかったんだ。長く生きられるし体も丈夫なロコンが」
ロコンは黙って聞いていました。涙を溜めるナツを見守ることしか出来ませんでした。
「こんなことロコンに言っても仕方ないのにね。でも、僕だって外で元気に遊びたかった。僕も――」
「僕も、ロコンになりたかった!」
それから堰を切ったようにナツは大粒の涙を流しました。つられてロコンも泣きました。わんわんと声を上げて泣きました。何もして挙げられない自分が悔しくて悲しくて。
たった一つのお願いなのに、どうして神様は叶えてくれないのでしょう。
ただナツと一緒にいたい。望むのはそれだけなのに!
ロコンの初めての願い事は消え入り、ロコンは細いナツの腕の中で泣きじゃくりました。
泣いて泣いてやがてふたりの声が枯れてしまうと、ナツはもう一度ロコンをぎゅっと抱きしめました。
「さあ、外に、行っておいで。見つかると、起こられちゃう、から」
いやいやとロコンは必死に首を振ります。ここで別れたらもう会えない気がしたのです。「ふたり」を知ってしまったから、もう「ひとり」に戻ることは出来ません。ロコンはナツの服に爪を立てて抵抗しました。
「僕だってロコンと別れるのは嫌だよ」
でもね、そう言ってナツはロコンの背中を優しくさすります。
「せっかく君はロコンなんだから。長生きできて、いっぱい走れる元気があって、これから先きっとたくさんのことがあるから。だから僕が見れなかったもの、僕の分まで全部見てきて」
そんな寂しいこと言わないで。ロコンは精一杯の声で訴えます。けれどそれがわがままだということもどこかではわかっていました。
「お願いは叶わなかったけど、『神様』に一つだけいいかな?」
ロコンはしばらく悩んで――黙って頷きました。
それを確かめると、ナツはロコンの前足を取るとそこに白い布を巻き付けました。
ナツのお願い。二つの願い事を小さな体に抱えて、ロコンは神社へと帰っていきました。
3
それからまた天気の悪い日が続き一週間が経った頃、ロコンが例の家へ向かうとナツの姿はもうありませんでした。
またこみ上げてくる雫を堪えて、ロコンは前足の布に触れました。黒いペンで書かれた大切な言葉「ナツ」。最後にナツがくれたものでした。
「ナツ」の願い事、それは「ナツ」とずっと一緒にいられること。見られなかったもの全部をこれから探しに行くから。ナツはロコンにお願いを託しました。
雨上がりの虹が村全体を覆っています。
あの果てに行ったら知らないものが待っているでしょうか。
ナツは一歩を踏み出しました。続いて後ろ足を前に出し、段々と速度を上げていきます。
ロコンは前へ走り続けました。
もっともっとたくさんのものを見たいから。そう約束をしたから。
ふたり分の願いを乗せてロコンは丘を草原を駆けていきます。
大空の下ただひとり。ナツは空に向かって大きくないたのでした。