「未来の僕へ
『いまどんな風になっていますか?
なりたい自分になっていますか?
そもそもなりたい自分ってどんな自分ですか?』
そんなメッセージを目にしたのは、ヒャッコクシティへ向かう道中だった。
レンリタウンの丘の上、レンリステーションのベンチの一角。そこにその文字が記されていた。
細いペンで書かれた短い文章。落書きにしては綺麗な文字で、それを指でなぞりつつ小声に出して読んでみる。
三文目の終わりに辿り着いて、僕は息を吐き出しつつ空を仰いだ。
清々しいほどの快晴。聞こえる音は風と遠くの滝の音だけ。長閑な街だった。
横にいるパートナー、ハリマロンとトリミアンも僕に倣ってぼんやりと空を見上げる。
と、ポケットの中からアップテンポな曲が流れ出す。メール着信を知らせる音楽だ。そういえばこのグループの新譜まだ買ってなかったなと関係ないことを思いつつ、メールを開く。
送り主には「アヤカ」とある。本文には七個目のバッジを手に入れたこと、八個目もすぐに挑戦するとの旨が写真付きで書かれていた。アヤカとマフォクシーの眩しい笑顔に耐え切れず、僕はケータイを再びポケットに突っ込んだ。
アヤカと僕は同じ日にヒヨクシティを旅立った。僕はハリマロンを、アヤカはフォッコを受け取り、「ポケモンリーグで勝負しよう」、そう約束し合って僕達は冒険の第一歩を踏み出した。
それから九ヶ月が経ち、アヤカはバッジ七個。対して僕はどうだろうか。持っているバッジはミアレとハクダンの二つのみ。さらにはエイセツのジム戦に破れ、何も収穫を得られないままヒャッコクへふらふらと歩いている。
僕は何をしてるんだろう……。
さっきの誰かの言葉が頭の中でこだまする。
『いまどんな風になっていますか?
なりたい自分になっていますか?
そもそもなりたい自分ってどんな自分ですか?』
僕は旅立ちの時に思い描いた僕になれているのだろうか。
そもそもなりたい「僕」とは何なのだろうか。
分からなかった。
最初の頃は全てが好奇の対象だった気がする。草むらから飛び出すポケモン、植物、観光名所に洞窟、そしてトレーナー。レポートも見返してみれば、驚くくらい文字で黒くなっていた。
けれど段々とレポートの分量は減り、ペンの力強さもどこかへ消えてしまった。今ではなんとか数行書いている程度だ。
どうしてこうなったのか。
その理由は僕なりに色々考えてみた。そして行き着いた先が、本当はこんな事思ったらいけないはずなのに、アヤカだった。
といっても直接的にアヤカが何かをしたわけじゃない。
アヤカは本当にすごい人だ。何にでも要領が良くて、ポケモンの相性から戦術、そして旅の心得やコツなどをあっという間に習得してしまう。僕がやっとのことで手に入れたものでも、アヤカはものともせずに、すぐ学習していく。
何かをする度にアヤカと比べて、追いつけないと分かって落ち込んで。何度もその繰り返しが続き、とうとう僕はその"何か"をするのを諦めてしまった。
僕が出来ることは他の人でも出来てしまう。なら、僕が何かをしたところで何も変わりはしない。
だったらもう……。
澄んだ青が、空っぽの心に染み渡る。
不思議とその決断に後ろめたさや迷いはなかった。
「帰ろう。ハリマロン、トリミアン」
二匹は空から僕に視線を移すと、一度互いに顔を見合わせ、そして静かに頷いた。
もうやめよう。
そう考えると、気が楽になった気がした。
向かう先はヒャッコクではなく、ヒヨクシティ。
「それじゃあ行こうか」
声を合図に僕たちは長い階段を一段ずつ降りていった。
それからは同じような日が毎日続いた。フレンドリィショップのアルバイトを始め、手持ちの世話をし、残った時間は適当にテレビやベッドで潰す。今と同じように。
初めの何日かは平坦すぎて、このままではいけないんじゃないか、そんな妙な焦りもあったけれど、もうすっかり慣れてしまった。
確かに何も起こらないのは面白くない。でも何も起こらなければ、比較することも落ち込むこともない。出来ることがない僕にはこれで充分だった。
さらに何週間か経って、アヤカがヒヨクに帰ってきた。
おそらくポケモンリーグの出場権を得たことを家族などに報告しに来たんだと思う。
その話を聞いても、僕はアヤカに会おうとは思わなかった。会えばきっとまた沈んでしまうから。上を見てしまうから。
だからバイトを終えた後、CDショップにも本屋にも立ち寄らず、早足で家へと帰っていった。けれどそれが失敗だった。
きっと偶々だったんだと思う。僕もアヤカも。
狭い路地の曲がり角。そこで出会ってしまった。
アヤカは驚いたように口元を押さえ、目を大きく開いて僕を見ている。対して僕は視線を落とし、極力彼女が視界に入らないようにしていた。
しばらく沈黙が続いた後、アヤカが僕に一歩近づいた。反射的に足の位置を下げる。
「久しぶり。最近連絡つかないし、心配してたのよ。でも驚いたわ。あなたもヒヨクにいたのね。旅はいまどんな感じかしら?」
「…………」
矢継ぎ早に放たれるアヤカの言葉に、僕は尚も口を閉じていた。開いてしまえば何を言ってしまうか分からなかったから。
「ねえ、どうしたの?」
僕の様子がおかしいと思ったのか、怪訝そうに眉をしかめ顔をのぞき込んでくる。僕はまた視線を逸らし、一言絞り出すように声に出した。
「旅は止めたんだ」
「え……?」
アヤカの動きが止まった。
「もう旅はしないし、ポケモンリーグも目指さない。だからもう……、もう……!」
結局何を言いたかったのか自分でも分からない。「構わないでくれ」だったのかアヤカのせいにしたかったのか。僕は彼女の視線を振り切って駆け出していた。
自分の部屋に逃げ込んで、ベッドに飛び込み、ケータイの電源を切る。もう嫌だった。
うつ伏せに耳を塞いで膝を折る。結局僕はこうしているのが一番だった。何もしないで部屋の隅で小さくなって。これが精一杯の僕が僕でいられることだった。一歩手を伸ばせばきっと僕は押しつぶされてしまう。
――いまどんな風になっていますか?
――なりたい自分になっていますか?
――そもそもなりたい自分ってどんな自分ですか?
どれだけ強く目を瞑っても、痛くなるほど耳を塞いでも、何度も何度もこの言葉が再生される。
何にもない僕には何にもなれない。
何にもなれないのなら、未来の僕もきっと今とまったく変わらないだろう。
突き抜けた才能は一つもない。何をしても中途半端。だったら初めから投げ出してしまえばいい。
そうやって自分勝手に諦めて、独りよがりで傷ついて。
思考は同じところを繰り返すのに、時間はどんどん過ぎていく。
次もまた同じことを自問するだろう。
これからも、その次も、ずっと……」
どん、という音が突然部屋に響きわたる。続いて、トリミアンとハリマロンが雪崩込むように扉から現れた。二匹が体当たりで無理やりドアを開けたのだった。
「どうした」と訊く間もなく、ハリマロンはテレビの電源をつけると、トリミアンが「とにかく見ろ」と言うように短く吠えた。
おとなしく従ってテレビに視線を向ける、と――
「アヤカ……」
液晶の向こう側にアヤカがいた。
後ろではホウオウの聖火が紅く燃え、数え切れないほどの観客がスタジアムを取り囲んでいる。
ポケモンリーグ。トレーナーの頂点を決める大会。スタジアムにアヤカは立ち、その彼女にマイクが向けられている。
「カロスリーグ初優勝おめでとうございます。今どんなお気持ちでしょうか」
「まだ……全然実感持てなくて、夢を見ているみたいです」
優勝……、アヤカが? ポケモンリーグの?
「去年は悔しい二回戦での敗退でしたが、今回優勝するまでに上り詰めたのは何によるものだと思いますか?」
「去年せっかく来れたのにすぐ負けてしまったのはとても残念で、宿舎に帰ってからは泣いていました。でも、悔しいのは私だけじゃなくて、実際に戦っていたこの子達はもっと悔しいはずだと思って。だからいつまでも落ち込んでいないで、気持ちを前向きに切り替えられたのが大きいと思います」
すごいな……アヤカ。ため息をついて僕は身を屈める。
僕がこんなことをしている間に、アヤカはずっとずっと遠くへ行ってしまった。僕とアヤカの距離は、もうどのくらいなのかさえ分からない。
やっぱり僕がアヤカに並ぶなんて無理だったんだ。
「この一年間、苦労したこともおそらくあったのではないかと思いますが、その時に心の支えとなったことはありますか」
「この子達が側にいてくれることが一番の支えでした。あとはそうですね――」
少し長くなってしまいますがと前置きして、アヤカは続ける。
「『いまどんな風になっていますか?
なりたい自分になっていますか?
そもそもなりたい自分ってどんな自分ですか?』
旅の途中、こんな言葉を見つけました。誰にも気づかれないような小さな落書きだったんですが、この質問が頭に残って、私なりに答えを探してみました。
なりたい自分って何だろう。その目標に近づいていけるのか。今どんな風になっているのか。このころの私はまだ落ち込んでいて、負けたばかりの私には辛い質問でした。壁にぶつかったときにこの問いを突きつけられると、色々投げ出したくなってしまいそうになりました」
画面の向こうのアヤカと目が合った――気がした。
そもそもなぜアヤカがあの言葉を。
二匹に目を向けると、いいから黙って見てろと一蹴された。
「でも最後の二行を読んで胸に何かがすとんと落ちたような気がします。
『わからないけれど楽しく生きている。
そう胸を張っていえるような毎日だとすばらしいよね』
なりたい自分、未来のことを思い描くのは楽しくて、けれど遠すぎる目標に嫌気がさしてしまうかもしれません。でも今があってこそ未来があって。未来はたくさんあるけど今は「今」しかないから、私に出来る精一杯をしよう、楽しかったと言える毎日にしよう、そう心に留めたおかげだと思います」
ちょっと長すぎてしまいましたね、とアヤカは照れたように肩をすぼめると、深くお辞儀をしてその場を後にした。テレビには引き続き会場の様子が映され、盛り上がりはしばらく収まりそうにない。
その歓声を聞きながら僕はアヤカの言葉を思い返す。
『私に出来る精一杯をしよう、楽しかったと言える毎日にしよう、そう心に留めて頑張ってきました』
遠くばかりを見つめて、自分一人で落ち込んで。言葉の最後まで目を通さなかったのもきっと一つの原因で――。
ふっと短く息を吐くと、僕はベッドから立ち上がった。
いじけてるのはひとまずお終りにしよう。落ち込んでるのがなんだか止めたくなってきた。
バトルが強いわけでも、要領がいいわけでもないけど、とりあえず「今を精一杯」やってみよう。
――わからないけれど楽しく生きている。そう胸を張っていえるような毎日だとすばらしいよね。
今からでもまだ間に合う。
「ハリマロン、トリミアン」
呼びかけに二匹が振り返る。
「散歩に行こうか。レンリまで」
笑顔で力強い返事が返ってくる。
心配かけさせたかな。
たぶんすぐまた落ち込むかもしれない。弱音を吐くかもしれない。こんなトレーナーだけど――ありがとう。
バッグをつかんでドアの外へ。
さあ、もう一度あの場所から始めよう。
『いまどんな風になっていますか?
なりたい自分になっていますか?
そもそもなりたい自分ってどんな自分ですか?
わからないけれど楽しく生きている。
そう胸を張っていえるような毎日だとすばらしいよね
未来の僕へ 今の僕より』
答えはきっと――