オーロラになれなかった君のために
 弾む吐息は白く染まって、深夜の澄んだ空気と混ざり合っている。進めば進むほどに深さを増す雪の中を、エニは黙々と歩き続けていた。針葉樹の林を縫うように、野生のユキカブリが作ったのであろうけもの道を辿って進み続ける。不意に背後から吹き付ける風に煽られて、その少女はその度に深くニット帽をかぶりなおした。これ以上風が強くならないことを祈りつつ、これ以上視界が悪くなったら、諦めて家に帰ろうと彼女は決意する。手を突っ込んだポケットの中、片方に入っているのは携帯用のランタン。もう片方で転がしているのは、父の相棒であり、家族の一員でもあるカイリキーが収納されたモンスターボール。一緒に歩いても良かったが、外があまりに寒いので出し渋っていた。
 そもそも、どうしてこんな真冬の真夜中、こんなに一生懸命歩いているんだろう。自分自身に苦笑しかけて、しかし、ため息に変えて吐き出した。少しの儲けにもならない。時間の無駄なんじゃない? そうは思いながら、ここまで来たから、どうせなら、せっかくだしと、一歩一歩踏みしめるリズムで思いを巡らせた。とにかく、もう少し歩けば、父が教えてくれた場所がある。そこまで行ってみよう。予報通り晴れたら、きっとよく見渡せるはずだ。この空に、この漆黒に広がるであろう、未だ見ぬオーロラを。

 シンオウ地方の南北に渡って聳えているテンガン山の、更に北に位置するこのキッサキシティは、陸の孤島と呼ばれて久しい。唯一の陸路である217番道路は絶え間なく暴風雪が吹き付けているし、キッサキ港周辺の海域の海氷を越えるのも、専用の船と船乗りの熟練した技術が必要だ。そんな辺境の町が、この冬シンオウ中の注目を浴びる事となった。発端は、ひと月前に“シンオウ・ギンガ宇宙研究所”が7年半ぶりに発表した、オーロラの出現予想だ。このシンオウで観測できるのは、最北に位置するこの町だけということで、町民が今まで見たことも無い程に多くの観光客が、今この町に滞在している。
 
 他所のオーディエンスを避けるように、奥へ、奥へ。絶好のロケーションを求めて歩き続ける。ひざ丈まで雪に埋もれたところで、エニはカイリキーが入ったモンスターボールを放り投げた。飛び出した人型のシルエットは、彼女よりも少し背が高い。
「ごめんね、寒いのに」
エニの声にカイリキーは、うんうんと頷いてから「任せろ」とでも言うように身体を大きく広げて見せる。それから、いつものように彼女を軽々と抱きかかえて、自分の肩に乗せた。
「父さんがいつも休憩してる小屋まで行きたいんだけど」
 少女のお願いに、カイリキーは高い声で返して、道なき道をずいずい進み始めた。4本あるうち2本の腕でエニの足をがっしり掴み、その下に生えている2本の腕で柔らかい雪をかき分ける。小走りで進む巨体に、そんなに急がなくてもいいよ、とエニは声をかけたが、当のカイリキーは楽しげに白い息を弾ませていた。その身体はほんのり暖かい。吹きすさぶ突風も徐々に弱くなってきた。天気予報の精度は素晴らしい。これから雲が晴れれば、絶好のオーロラ観測日和になるはず。宇宙研究所のオーロラ予報は当たるだろうか?
 カイリキーの肩車の上、高く、広くなった視界の中、気分良く彼女は、空を見上げた。月も太陽も、とっくに沈んでしまっている。流れる風に煽られ、低く軽い雲が背後から次々に流れていく。その隙間から、大小さまざまな星の瞬きが見え隠れしていた。しかし、オーロラらしき影は無い。日が落ちてすぐの時間帯には、薄っすらと空から緑色のカーテンが降りていたようで、観光客に交じって彼女の母も父も、玄関先で空を見上げていた。今もどこかで、オーロラが見えているのだろうか? ただ今はじっと、その登場を待つしかない。
 かすかに野生のポケモンの声が、どこからともなく人の話す声も聞こえてくる。いつしか木々の囀りも冴え渡り、暗がりに輪郭がぼやけた風景の中、カイリキーが雪を踏みしめる音と、自分たちの呼吸の音がやけに大きく聞こえた。静かだ。あくびが出る。カイリキーの頭にもたれるように身体を伸ばして、ふと空を見上げて、エニはそこで、ようやく気付いた。
「あれ!」
 思わず声が漏れる。「見て!」と足をばたつかせ、頭上を指す。カイリキーは足を止めて、その先を見上げた。視界の先、針葉樹の隙間、うっすらと空の中を、淡く緑の光が彼方まで伸びているのだ。じんわりと空を染め上げ、更に広く広く染み出すかすかな光。眺めつづけていると、林の各所から観光客の歓声が聞こえてきた。昨日、一昨日と天気が良くなかったから、殊更感動も大きい事だろう。月明かりもなく光源が存在しないのに、不思議なものだ。これがオーロラかとエニは思う。あれが、黄泉への入り口? 魂のゆらめき? 色のついた湯気みたいだ。その手前の低い空に、テンガン山から流されてきた雲が通り過ぎて行く。しかし、もはやじわじわと消えてしまいそう。歩き始めたカイリキーに「帰ろう」と声をかけようとして、しかし。
 
 遠くで聞こえる声が、ひと際大きくなる。は、とエニは空に目を向けた。
 一瞬の出来事だった。空が、うねりによって支配され始めようとしていた。それはえも言われぬ光景だった。雲が切れ、広がった視界の奥、雲に隠れていた一筋のオーロラの放っていた光が徐々に膨れ上がっていく。
「すごい、見て、空が!」
 想像していた以上に、いや、想像もし得ない程に鮮やかな色彩が、視界いっぱいに押し寄せてきた。カイリキーはエニの声に空を見上げてから、両手で「急がなきゃ」と言わんばかりのボディランゲージを見せて走り始める。目的の小屋に近づくにつれ、針葉樹林がまばらになり、更に視界が広がっていく。空が渡せるようになるにつれ、その全体像を仰視できるようになってきた。
 エニは目の前で繰り広げられる光景に、ただただ圧倒されている。収縮と膨張を繰り返すように、天上のオーロラは刻々と姿を変え続けていた。最初に現れた強い一筋の光に寄り添うように、またひとつ、またひとつと、どこからともなく同じ色が滲み溢れてきて、それはやがて幾重ものカーテンを作り上げ、それらは優雅に空を揺蕩い始める。
目的の小屋の前で足を止めたところで、2体は初めて後ろを振り返った。小高い丘の上にあるこの開けた場所からは、聳えるテンガン山を一望できる。山並みのシルエットをくっきりと浮かび上がらせる程に成長したその煌めきに、ふもとでは一段と大きな歓声が上がっていた。何重にも束になったオーロラは、そのうちに渦を巻いて、テンガン山の頂にオーラを送り込んでいるような。まさに、強大な力で空が練り上げられているようだ。瞬きする間もなくダイナミックに姿を変えるその姿が、美しいという感動を通り越し、もはや怖くなってきた。カイリキーの太い首に腕を回して、しがみつく。一緒に来て正解だったとエニは思う。しかし、その恐ろしい光景から目を離すことが出来ない、緑、白、そして鮮明な赤のコントラストで瞳が吸い込まれていく。このまま空が降りてきてしまいそうだ。これがオーロラの本当の姿。こんなにも美しく、そして恐ろしいものなのか。

 しばし呆然と空を眺めていたエニの耳が、聞き慣れた音を捉える。野生のユキノオー、そしてユキカブリの鳴き声だ。カイリキーと共にそちらを見やる。父が仕事で使うプレハブ小屋のその奥で、降り積もった雪が舞い上がっていた。突如、放たれる閃光。何らかの技を繰り出したのだろうか? 同時に鳴き声の激しさも増す。ユキカブリは昼行性のポケモンだが、このオーロラの発生が彼らの活動に影響を与えているのか。これ以上林の奥に入るのは危険だし、そろそろ町の方に降りてもいいかもしれない。持って来ていたランタンをポケットから出して、カイリキーの頭をぽんぽんと叩いた。
「そろそろ戻る?」とエニは提案する。しかし、カイリキーはユキノオーの声の方にじっと耳をそばだて続けていた。
「どうしたの、兄ちゃん」
 エニの声に、言葉を持たないカイリキーは、余った2本の腕を使って、彼女に手振りで答える。
――向こう 聞こえる 声 仲間
「この声、兄ちゃんの友達の声?」
――仕事 手伝い もらう 仲間 子ども 泣いてる 光 気になる
「確かにすごい光だった。ユキノオーの技? オーロラのせいで起きたの?」
――わからない すこし 見に行く いい?
「いいよ」
 ありがとう、のハンドシグナルを表しながら、カイリキーは更に深い雪の中をかき分けて進み始める。プレハブ小屋は、出入口の半分以上が雪に埋もれていた。カイリキーの肩越しに、ランタンで照らして家の中を覗いてみる。短い夏の時期にしか利用されないこの場所は、少しの家具と家電がシンと佇み、誰かがスイッチを入れるのを待っていた。窓越しに映り込んだ頭上のオーロラは、うねり波打ったその活動でエネルギーを消費し切ったのか、空いっぱいにじんわりと、静かに呼吸したまま伸びつくしている。エニは改めてその不思議な光景を仰ぎ見た。頭上で放たれていた恐ろしい程のエネルギーは、今は既に四方に拡散しているようだ。あっという間の出来事だったなと少女は思う。7年前のオーロラも、このくらい綺麗だったのかな。観光客から聞いた伝説も、おまじないも、今ならわかる気がした。
 にわかにカイリキーが立ち止まって、大きく息を吸ってから、何かを叫んだ。暗がりにオーロラが迫る、この視界の隅々まで声が鳴り響いていく。驚くエニに「ごめん」と表現している間に、林の奥からそれに答える声が返って来た。思ったよりも近い。
「あっちだ」
 姿の見えないユキノオーを探して、針葉樹林の中に入っていく。度々、電気か炎に近い何かが鋭く光を放ち、木々を照らし出した。空の方からどんどん降りてくるようだ。この辺りに電気ポケモンなんて居ないはず。観光客のポケモンが、はぐれて迷子になってしまったのかもしれない。凄まじいオーロラを見て、きっと驚き森に逃げ込んでしまったんだとエニは推測する。そのエネルギーが伝播するたび、様々な生き物の鼓動や呼吸の気配がこの林に満ちていく。ズバットが群れを成し飛び立つ。ヨルノズクとホーホーの瞳が照らされ浮かび上がる。ユキノオーの声がどんどん近くなっていく。生き物の息吹を今確かに感じて、エニは息を呑んだ。
――怖い?
 カイリキーは少女を見上げて問いかける。
「怖くない。ちょっとわくわくしてる」
――分かった
 ちょっとだけ嘘を吐く。もう自分は15歳なのだ。
 木々の影から、不意にユキノオーのシルエットが浮かび上がる。カイリキーが声をかけると、こちらを向いて低く返事をした。野生のユキノオーとエニの目がばっちり合ったが、興味無さげにその巨体は視線をそらして、林の奥を見やる。視線の先を確認しようとして、またフラッシュを焚いたような光が辺りに広がった。その対象に近づいているはずなのに、攻撃の威力は先ほどよりも弱くなっているようにエニには感じられる。
「このユキノオーが攻撃したの?」
――ちがう 見ていた それだけ
 雪の上に横たわり、ちりちりと音を立てて放電をし続けているその生き物。ユキノオーが、それに何か声をかけた。それから、先陣を切って近づいていく。カイリキーもそれに続いた。
 その生き物は、発していたエネルギーに比べると、随分小さい身体をしているようだった。ほんのり熱を帯びているのか、周りの雪を溶かしていて、まるでチルタリスの羽根の中で眠っているような印象を受ける。光源の無いこの林の中で、自らを包み込む白をほんのりと照らしだしていた。
「ロトムだ」
 エニは、その生き物の名前を知っていた。


トビ ( 2019/02/14(木) 23:20 )