5
真夜中。月にすら見捨てられた、今宵は闇夜だ。村の外れで詰めていた門番は、呑気に欠伸を垂れている。謡い手であるラートの母親が、それをぴしりと窘めた。集落の方から、獣の吠える声がして、それ以外は、何も聞こえない。「静かだ」と、別の門番が独り言ちた。沈んでいく感覚。砂の一粒も、流れない。
しかし。一人の門番が視界の奥で、何者かを捉えた。凪いだ風の中、それらは砂を巻き上げ、強烈な勢いと地響きで以て走って来る。動揺。このまま静寂が続くと思い込んでいた、一人の鼓動を強く打ち鳴らす。そうだ、つい最近、別の集落が襲われたじゃないか。もしかして。いや、まさか。彼らの思案を一切無視して、徐々に大きくなるシルエット。二人と、それらが乗る、見たことも無い獣が二体。それを目視してから門番が二人、門の外へと出て行った。
巻き起こされた砂埃を背景に、相手の人間らが獣から飛び降りる。仰々しくお辞儀をして、しかし彼らは薄笑いを浮かべていた。そこに、敵意以外のニュアンスは微塵も感じられない。静かに問いかける門番に、彼らは口元だけの微笑みを崩さなさなかった。
「僕達は、この集落を、欲しいんですよ」
「ラート様! 敵襲です!」
ラートがフライゴンに出会ってから数えて、三十三回目の早朝。未だ薄暗い部屋の中へと、それは何の前触れも無くやって来た。召使の声に飛び起きて、彼は父親が居るらしい半地下の広間へ急ぐ。
「門番が、怪我を負わされてるそうです」
怪我。その単語を引き金に、脳内のイメージが巻き戻される。フライゴンの傷口の、その鮮やかな赤。熟した果実のイメージ。微かな呼吸。サカモトの後ろ姿。侵攻という言葉。父親の重責。敵襲。平穏。この安寧を、護るという事。
ふと、ひとつの記憶に辿り着く。すっと血の気が引く。鳥肌が立った。そうだ、昨晩は母親も一緒に詰めていたはず。
「母さんは!?」
弾け出る、悲鳴にも似た声。
「意識はあるようです。サカモトさんが治療して下さっていますから。とにかく、早くいらしてください」
召使の回答に一先ず安心するが、それでも良くないイメージが錯綜する。屋敷の中、自分の部屋から広間へ歩くいつもの光景が、歪んでいびつな、迷路のように感じる。頭が重い。その渦中で、しかしラートは、自分の邪念を振り切ろうとした。自分が、長の息子である俺が、貧弱でどうする。しっかり、しなければ。
半地下の広間には、想像通りの状況が広がっていた。呻きながら絨毯に寝そべる怪我人達。苦しげに、彼らは大きな呼吸を繰り返す。
「ラート!」
鋭く呼びかけられ、反射的に身体が動く。視線を飛ばすと、治療中のサカモトが居た。そして、その隣には。
「母さん!」
駆け寄って、床に座り込む母親を覗き込む。その頭部と右腕には、既に真っ白な包帯が何重にも巻かれていた。大丈夫? 痛みはない? どこを怪我したの? 母に何から問わねばならないのか考えるより先に、母が口を開く。
「母さんはもう大丈夫。先生と一緒に怪我人を治療して」
「ラート、こっち」
サカモトがラートを呼ぶ。彼は母親から視線を外す。自分がやらねばならぬ事を今、強く思い出した。向かい合ったのは、寝そべった巨体で心優しい門番の彼。苦しげな呻きと、大きな傷跡。反射的に、身体が動いた。フライゴンの治療と座学の賜物か、サカモトの指示が無くてもラートは一通りの治療は出来るようだった。どうして、どうしてこんな事になった。悔しさと憤りを、治療への集中力に変えていく。サカモトの動きを思い浮かべ、無我夢中で治療を続ける彼。それなりに動けている事に、自分自身が驚く。あの時はただ、師である彼女の後姿を、黙って見ている事しか出来なかったのに。学んだ事は、身になっていたようだ。必死で彼らはその作業に当たり続け、いつの間にか、概ねの治療が終わっていた。
「死人が出なくてよかったわね」
サカモトが、広間へ帰って来た長へ声をかける。別所で敵に対する策を練っていたらしい彼は頷いた。そして、彼女とサカモトへ状況を語り始める。
“流浪の民の使者”を名乗る男二人と獣二体が真夜中にやってきた事。見た事もない大きな獣に乗った彼らは「この集落を寄越せ」と要求してきた事。拒否し、ラートの母親を含めた謡い手達が二十四番を謡い始めたところで突如、彼らを攻撃してきた事。彼らはまるで、彼女達を狙って攻撃していたようだった事。謡い手達とそれを護っていた門番らが伸され、その後、残った男三人が力ずくで相手を追い返した事。帰り際、負け惜しみにも似た「また来る」といったニュアンスを叫んでいた事。
「謡い手をまず攻撃したのか」
ラートが独り言ちる。ぞっとした。長とサカモトは頷いた。
「きっと、知っていたのよね。彼女らがフライゴンで以て敵を撃退することを」
「つい最近“渡りの民”が襲われただろう」
長はその後を言いかけて、噤み。そして、また続ける。
「彼らが、この集落の砦とは何なのかを、教えたんだろう」
“渡りの民”。砂漠の東西にある大きな街を行き来して、売り買いをする事を彼らは生業としていた。その規模は小さく、民は総出でこの砂漠を渡る。ラートらの集落は、オアシスの利用を許可する代わりに、彼らから商品や情報を得ていた。しかし。周期的にやって来るはずの渡りの民が、最近全く現れなくなったのだ。ラートらは他の集落や旅人から「あそこは見知らぬ民族によって壊滅させられた」と聞かされる。その後は音沙汰なく、今に至っていた。
その見知らぬ民族が、昨晩の男らと同じなのかは断定は出来ない。しかし、その可能性は高いだろう。もし、渡りの民達が民族達にこちらの情報を教えたのならば、謡い手だけが襲われたのも納得がいく。なぜそれを渡りの民が奴らに教えたのか。その状況を、ラートは考えたくも無かった。
「サカモト」
長が、彼女へ向く。
「この集落はもう危険だ。医術の教授はもう、うち止めでいい。今のうちに、砂漠の向こうの街へ避難してください」
ラートは、戦慄した。もう既に、この集落は戦場なのだ。改めてそれを認識する。しかしサカモトは、首を横に振った。
「わたし、ここに残るわ」
「でも」
咄嗟にラートはそれを否定する。その後を続けようとしたが、サカモトは彼にそうさせなかった。
「精霊が護ってくれてるこの集落が、負ける気なんてしないもの」
口元で浮かべるその笑みは、まるでイタズラを仕掛ける悪童のよう。笑いを誘うように、彼女はそう言い切った。
「ならば、私達も全力を尽くすまで。まず、偵察隊を送る。任せてくれ」
サカモトの言葉に答えるように、長は力強くそう言う。ラートが見つめるその面持は、長としての役割を全うするのにふさわしい程に、凛々しくあった。
夕暮れ。また、夜が戻って来る。集落は恐怖と戸惑いの中、不気味に静まり返っていた。謡い手は、何人も門番の後ろで控えているらしい。父親も、備えてそこに詰めていると聞いた。男共は獣と共に、戦闘の為の準備を着々と進めている。その中でラートは、サカモトと共に半地下の広間で怪我人に付き添っていた。足元で寝息を立てる母親の顔を、ラートはじっと眺めている。
「少し休みなさい」と、サカモトがラートへ声をかけた。でも、と言いかけた彼を、彼女は黙らせた。
「大事な時に役に立ってほしいから、休む時は休んでほしいの」
仕方なしに、彼は広間の陰へ移動する。フライゴンがそこで静かに寝そべっていた。彼の腹に上半身を預け、長い息を吐く。暖かい柔らかな皮膚の奥に、しっかりとした鼓動を感じた。
ずるずる眠気に引きずられていく。同時に、似たような感覚を思い出した。久しぶりに謡って、サカモトと楽譜の話をした、あの時だ。ラートは、同じような体勢でここに寝そべっていた。
あの時の、その次の日、早朝の事。頬にレンズを押し付け、フライゴンがラートの目覚めを促した。彼の覚醒を確認して、フライゴンは外へと歩き出す。ラートは、その後を追った。サカモトもそれに気づいて、リングマと共に彼らに続く。
やがてフライゴンは集落の外れの、前日ラート達が謡った場所で立ち止まった。フライゴンは彼らへ向き直り、ラートへ歩み寄る。そして、自身の羽根をふわり、上下させて見せた。真っ直ぐ彼を見つめるフライゴンの瞳。上下させ続ける羽根。足元で、ちりちりと砂が飛ばされていく。精霊は俺に何かを伝えたいのだろうか。ざらつく唇をそのままに、ラートはその瞳の奥の意図を汲もうとする。
ふと、ラートは閃いた。まさか。そんなはず無いと、すぐにその発想を打ち消す。なんておこがましい考えなのか。しかしラートは、その発想を目の前の聖霊に確認しなければ居られなかった。
彼は少し躊躇してから、続ける。
「俺と、一緒に謡って下さるのですか」
フライゴンは「やっと分かったか」と言わんばかり、瞳を数回瞬いて、それから羽ばたきを止める。そして、すこし屈んだ姿勢を取った後、ラートに背中を差し出した。
衝撃だった。人間が、精霊に唄を教える。思い上がりも甚だしいと、そう思っていたのに。精霊から、それを望んでくださっているなんて。あれだけ恥だと罵った俺を、自尊心にまみれた愚かしい俺を、精霊は受け入れて下さるなんて。
「乗りなさい、ってよ?」
サカモトが微笑んでラートを見やる。フライゴンも彼へ首を伸ばして、まるで急かすかのよう。ラートは決心して、その背中、首の付け根に飛び乗った。フライゴンはそれを確認すると、大きく羽根をはためかせる。徐々に足が地面を離れ、身体が宙に浮き上がった。そこから、急上昇。驚きのあまり上げた彼の悲鳴は、背景で巻き起こる砂嵐によってかき消された。
風を孕ませ、踊り狂う砂の奥に佇む太陽を俯瞰する。精霊を中心に砂嵐が引き起こされている為、ラートの思ったよりも背中の彼が砂に悩まされる事は無かった。これならば、謡える。彼に近づけども遠ざかる空の果ての王へと向かい、フライゴンは上昇を続けるため羽根を凄まじい速度で動かし始める。と、思えばすぐにその運動が終わり、ふわりと降下。不意に起きた独特の浮遊感に驚いて、思わずラートは精霊の首もとにしがみ付いた。空を飛ぶなんて、初めての経験なのだ。ただし、今の彼は、恐怖という感情など微塵も持ち合わせていなかった。精霊と一緒に、謡う。謡い手皆が憧れど叶わないその望みを、自分は精霊から許された。感極まって喉の奥から、急激にせりあがる嗚咽の感覚。
――庇護を授けし 愛し我が子よ
ああ、精霊の御声が、聞こえる気がする。
――私の授けしその庇護は この地を護る砦に成ろう さあ 謡いなさい我が子よ 護りなさい この地の安寧の為に
「この地の、安寧の為に」
思考を打ち切る。目が覚めた。自分を焚き付ける為、声を出す。やはり、休んでいる暇はない。門番と共に、父と共に詰所で待機しなければ。
ラートは上半身を起こした。立ち上がろうとして、そこでふいに、フライゴンが長い首を彼へと伸ばした。視線が触れ合う。フライゴンの方が、先に立ち上がった。
「どうされましたか」
ラートが声をかけるとフライゴンは、半地下のこの広間から外へと歩き出す。ラートは、それを追いかけて行った。
それが視界に入ったサカモトは、彼らを引き留めようとした。しかし、それを彼女の隣のリングマが制する。リングマは、サカモトの目を見据えて、自分の身体の中に彼女を抱きかかえる。彼女はリングマに「あなたも休みなさい」と言われている気がした。