テキトーさん家冒険録 がいでん?
 フライゴンと出会ってから数えて、九つの目の夜を迎えた。半地下の広間で、彼らは共に寝泊りをしている。最近になってからは、サカモトに代わってラートがフライゴンの処置を施していた。そんな彼の背後でサカモトは、彼とフライゴンの距離感が縮まるのを、微笑ましく見守っている。
「〜〜」
 ラートを含むこの集落の民にとってフライゴンは、この地を護る精霊、いわば守護神のような存在だ。ポケモンという種族の一括りだが、彼らはフライゴンとその他を区別していた。長共々、民達は傷ついたそのポケモンを愛しむように、そして精霊に対する畏怖の念を抱いて接しているのだが。ラートはそれすらを越えた、愛情で以てフライゴンに注いでいる印象をサカモトに与えた。そんな彼にフライゴンの方も答えているようで、その傷口を処置する手馴れない彼の作業を、静かに受け入れている。ポケモンと人間の関係はそれぞれだが、愛情という繋がりが一番美しく、強いのだ。と、彼女は心底そう思っている。

「〜〜」
 聞きなれないメロディを口ずさむサカモトの後ろで、ラートはそれを聞いていた。いつも楽しげに鼻歌を口ずさんでいる彼女の姿を、彼はいつも無性に疎ましく感じている。彼女に限らず、謡い手の唄をも遮断したくなる衝動に駆られていた。それだから、サカモトの唄が下手だからという、そんな乱暴な理由ではないんだろうと、そう彼は自分に問いかける。精霊の治療をしている今、手元に集中できないから疎ましく感じているだけなんだろうと、彼はそう結論付ける事にした。
「あなた、唄が好きだったんでしょう?」
 サカモトがラートに声を掛けた。フライゴンの方へ身体を向けたまま、彼はそれの回答を熟考する。
「好きでしたよ、昔は」
 そう、好きだったんだ、昔は。謡う事を避けるようになったのは、いつからだろう。母から受け継いだこの声を、精霊の庇護を受け続ける事を、恥だと感じ出したのは、いつからだろう。昔は良かった。何にも縛られず、何にも干渉されず、謡い続ける事が出来たのだから。謡えば誰もが自分を褒め立てて、何より謡う事自体が楽しくて仕方が無くて。俺は、唄が好きだったんだよな。
 ふと、治療の手が止まっている事に気づいてラートは、思考を打ち消した。

 ラートはそっとフライゴンの包帯に触れた。結んでいる箇所をナイフで落として、回転させるように、ゆっくりとそれを外していく。彼らが献身した甲斐があったのか、痛々しく抉れていた皮膚は既に再生していた。羽根も美しく透き通ったそれに戻り、小さな傷はもうほとんど目立たない。腫れが収まった脚で、それは外を歩けるまでに回復していた。包帯を外されたフライゴンは、立ち上がってから羽根をゆっくり上下させる。
「もう、飛べるんじゃないかしら」
 サカモトが、フライゴンを撫ぜながら言う。フライゴンは、彼女にレンズを摺り寄せた。眼は爛々と光り、嬉しい、という感情がそこににじみ出ている。しかしサカモトは、一つの不安も抱えていた。前の街で買い漁り、読み耽ったフライゴンに関する論文を思い出す。この子は、謡えるだろうか。

 砂漠の太陽が、起伏の激しい地表へと吸い込まれていく。真上で照らすそれよりも、沈みゆくそれの方が大きく見えた。風は凪いでいる。温度の変わり目に引き起こされた強風が、この地を吹き抜けていく、それまでのわずかな時間。それを狙って彼らは、オアシスを越えた先まで歩いて来た。
 立ち止まってフライゴンは、感触を確かめるように羽根を動かす。次第に上下運動が早くなって、辺りは引き起こされた風でにわかに揺れた。風に連れられる乾いた砂が、渦を巻くように彼の足元を這う。徐々に巻き上がって、まるでフライゴンを包み込むように。優しく舞って散り、強烈な陽光に照らされてそれは煌めいていた。
「すごい」
 ラートは呟いた。精霊の羽ばたきをこんな間近で見たのは初めてだったのだ。サカモトも、リングマも同調する。少し距離を置いて彼らは、しばしそれに見とれていた。

「〜〜」
 おもむろにサカモトが、突然立ち上がって謡い始めた。
 ラートは、その唄に聞き覚えがあった。それは、サカモトがいつも、思い出したように口ずさんでいる曲だったのだ。決して上手とは言えず、むしろ、正しい旋律がどんなものなのか見当もつかない程に。そして、もし本当にこんな曲があっても絶対に評価されないだろうと思う程に。それはひどいものだった。ぽかん、とラートは彼女を見やる。羽ばたきをやめてフライゴンにも、読み取れない表情の奥に「?」というニュアンスが浮かんでいた。リングマは慣れているのか、瞳を閉じてじっとしている。
「良い唄よね。こことは別の、どこかにある砂漠の街の唄なの」
 謡い終えて彼女はそれだけ言って、フライゴンに歩み寄った。
「フライゴンの羽ばたきはね、綺麗な女声が謡っているようにも聞こえるのよ」
 サカモトはフライゴンに、説明を始めた。その女声のおかげで、自分はこのオアシスにたどり着けたのだ。という事も含めて。
「あなたも謡ってごらん。回復の具合を確かめたいの」
 フライゴンは頷いた。
 にわかに動かした羽根の動きが、だんだんと強くなる。渦を巻いた砂が、低い音を立てて鳴った。大丈夫そうだ、とサカモトは確信する。やがてフライゴンの身体が、にわかに浮上した。脚の先が地面を離れて、ゆっくりと、空へ飛び立つ。
「飛んだ!」
 ラートが叫ぶ。サカモトも同調する。引き起こされた砂嵐が目に染みて、しかし顔を逸らさせない。膨れ上がった夕陽を浴びて、逆光のシルエットが明らかになる。なんて美しいんだろう。ラートは、フライゴンがこの集落で神格化されている意味を知る。やがてその砂嵐の奥に、ふいに女声を聞いた気がした。
 しかし。それは掠れるようであり、安定もせず。金切声のような高音でオトナに窘められる、子供のような印象をラート達に与えた。サカモトの後ろに控えていたリングマは、その音を聞いた瞬間から強く拒否を示す。そこで、サカモトはフライゴンに羽ばたきを止めるように声を掛けた。
 彼は驚く。精霊は飛び立てば皆、当たり前のように謡えるのだと思い込んでいたのだ。サカモトは、やはりか。と唸った。これにも回復するための助けが必要だろう。

 砂嵐が収まったところで、サカモトは、読んだ論文の内容をラートに伝える。フライゴンは基本的に群れを作らず、単体で行動するポケモンだ。同族同士での仲間意識が強いが、縄張り意識も同じように強い。他の個体との意志疎通をする場面は多くあり、例えば同族との意志疎通、繁殖のための求愛行動、縄張りの誇示などである。それは様々な手段で行われるが、砂嵐の中ではその女声のような音でやり取りをするらしい。美しい音を出せる個体ほど、繁殖などに有利なのだそうだ。
「彼が謡えない理由は多々あると思うの。羽根が傷ついて上手く音を出せないのか。音の出し方を忘れたのか。進化したてなのか。それのどれなのか、断定は難しい」
 ラートは深刻な面持ちでそれを聞いていた。傷を癒すことは出来た。空だってもう飛べる。それなのに、謡えないなんて。フライゴンは、どうやったら再び謡えるようになるんだろうか。どうせなら、そこまでの助けをしたいのだが。
「あなた、唄が上手いのよね?」
 サカモトは唐突に、考えに耽るラートへ問う。彼は、曖昧な返事を返したが、しかし。サカモトは、続ける。
「フライゴンの謡う音に似たあなたの声を聞けば、あなたと一緒に謡い続けていれば、もしかしたらこの子も謡えるようになるかも」

「まさか」
 彼は心底そう思った。とんでもない理論だ。馬鹿げている。ラートが持つこの声への恥じらいも相まって、彼はそれを、強く否定した。
「決めつけられないけれど、この子は多分、進化したばかりなんだと思うのよね。小さいし、成長した個体にこんなにも深い傷を残す野生ポケモンって、この辺りじゃそうそう居ないわ。もしかしたら、縄張り意識の高い先輩フライゴンに攻撃されたのかもしれないしね」
 彼女は、ラートへ向き直った。
「美しい音、というものを知らないのなら、私達が教えてあげればいいのよ」
「どうやって?」
「だから、あなたが謡うのよ。その音を真似てもらうの」
「精霊に唄を教えるだなんて。おこがましい」
 サカモトから視線を逸らして、彼はやはり否定を繰り返す。しかしサカモトは引き下がらなかった。
「この子がこのまま野生に返ったら、仲間との意志疎通も繁殖も上手くいかないかもしれないわ。わたしは、最善を尽くしたい」
「ならば、村の謡い手に」
「ラート」
 サカモトは、彼の言葉を遮った。
「わたしね、あなたが自分の声を嫌だって事、知ってるのよ」
 村に来て彼の両親と出会い、医術を教える人間としてラートを挙げたその時。サカモトは、彼が自分の声を嫌いなのだという話を両親から聞いていたのだ。いつかは、低い声しか出せなくなるのだとも、彼女は彼に伝える。精霊の庇護という言い伝えとは関係なく、人間は性徴によって身体を変化させていくことを、彼はサカモトから教わっていた。知っているはずだったのに。彼にとってはそれが、自分の声を好きになる理由にはならなかった。
「今しかできない事が、今のあなたにはあるのよ。恥ずかしいから、なんて。そんなちっぽけなプライドを守る事と、それのどっちが大切なの」
「ちっぽけだなんて!」
 彼は思わず声を荒げた。自分の葛藤を、ちっぽけなプライド、という貧弱な言葉で片付けられたく無かった。
「俺は、集落を率いる長にならなければならない。その為には、精霊の庇護など不必要なんだ。この村を護る為の体力や腕力が必要だ。それが無ければ、長になって村を護る事なんてできない! 聖霊の庇護など俺にとって恥でしかないんだ!」
「そんなのおかしいわ。あなたのその声だって立派な砦に成り得るんでしょう? それなのにどうして、それをこの村の為に活用しようとしないの。どうして意固地になって謡わないの。どうして自分の才能を自分で殺すの!」
「才能なんて関係無い!」
「はぐらかさないで! あなたは、声が高いって、身体が小さいって、それを周りからからかわれるんじゃないかって、馬鹿にされるんじゃないかって、そう思ってるから謡えないんでしょう?」
「違う!」
 サカモトに詰め寄られて、否定して。しかし彼は、それから言葉を続けられない。腹の底で滾る悔しさを抱き、そのくせそれを強く否定できなかった。
 与えられた精霊の庇護を恥じだと感じていたのも。その為にオトナの男になれないと憂いていたのも。全て、自分の自尊心を守る為だったのか?
「違う」
その為だけに謡う事を拒否して、村を護る大切なその役割を放棄し続けたのか?
俺は、この村の平穏や安寧を護る事なんて、微塵も考えて居なかったのか?
「違う」
 嘘だ。違うなんて、そんなの嘘だ! 嘘を指摘されて激昂して。本当の愚か者は、こちらだ。
 俺はただ、見栄を守る為だけに生きていたんだ。ああ。それなのに、父親に反発したのか。言葉に怯えて、言葉で攻撃したのか。

 黙りこくって俯くラートへ、サカモトは諭した。
「今しかできない事があるのよ、ラート。オトナになってから、あの時謡えばよかったって、絶対に後悔するわ」
 後悔。考えたことも無かった。声を失ったその後の事なんて、彼の眼中には無かったのだ。
「後悔」
 その言葉を、改めて独り言ちる。俺は、この声を失って後悔するだろうか。それは喜ばしい事だろう。後悔なんて、するわけがない。
 そこでふいに、フライゴンがラートの視界に入って来た。黙ってサカモトの言葉を聞いていた彼の、頬に赤いレンズを摺り寄せる。そうだ。この声は、精霊から授かりし庇護なんだ。弱き者を護って下さる、精霊の温情。それを、今まで俺は否定し続けていたのか。精霊の加護を、蔑ろにし続けていたのか。謡う事が好きで、謡う相手を疎ましく思う程に焦がれていたはずなのに、それは自分の掲げた理想とは違うのだと一蹴して。精霊の前で、恥だと言葉にして。それこそ、最も愚かしい。俺はこどもだ。この声を失う後悔は、未だ想像がつかない。それでも、きっと精霊の温情を無視し続けた事は後悔するだろう。

「教えてあげなさい。あなたが先生よ」
 サカモトはそう言って、彼から視線を外す。距離を取った。そして、地表に僅かな光を残して沈みゆく夕陽へと振り返る。
「〜〜」
 三番、歓迎の唄か。やはり上手いとは言いがたい音程の取り方だな、とラートは思わず苦笑する。きっと記憶も朧げなんだろう。辿るその旋律はずっとかけ離れていた。ちょっと違いますよ、サカモト。その唄は、こういう唄。
「――」
 女声。サカモトは驚いて、謡う事を忘れ振り返る。ラートが謡っている。その驚きを上書きしたのは、聞いたことも無いような、人間の発する美しい声の響きだった。
それは、干からびた土地に命を与えるオアシスのように。強大なエネルギーを避けて光を放つ、天上の星たちのように。可憐で、繊細で、しかし強い芯を持っている。砂嵐の中で聞いた女声への感動も、歓迎を受けたあの夜の事も、それは彼女に蘇らせてくれた。

「素敵だった」
 夜、半地下の薄暗闇の中。二人と二体は寝床に就いていた。
サカモトが独り言ちるの見て、ラートは照れ臭そうに肩を竦める。自分の恥のように思えたこの声も、改めて、誇れるものなのだと知る。それ以上に、やはり謡う事は自分にとっての癒しであり、心地よい気持ちにさせてくれるものなのだ、と彼は再確認した。
「〜〜」
 真似てサカモトは、その旋律を口ずさむ。「違いますよ」とラート。笑って、茶化すように。
「――ですよ」
「―〜?」
 二人のハーモニーは、まるで不協和音だ。二人は思わず、噴き出すような笑い声をあげた。
「わたし、楽譜も読めないのよね」
 音楽のセンスが無いのよ。と続けてから笑うサカモトに、ラートは訊ねる。
「楽譜? とは?」
「え?」
 知らないの、とばかりの表情で、彼女はラートと視線を合わせる。唄は年長者から唄で以て教わるものであって。この集落にはそれを書き残すという文化が無いのだそうだ。
「音は、紙の上で表わすことができるのよ」サカモトはそう言って、楽譜の説明を始めた。それは音階も、表現の方法も、音の表情ですら書き残せると。ラートはそれを聞いて、至極驚いた。
「知らない事が多すぎる」
 全て聞き終えた彼はそう言って「世界は広いですね」と笑った。


トビ ( 2013/08/10(土) 22:14 )