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「長よ! ラート様も! 来てください!」
それは、三日三晩続いた砂嵐の後だった。それまでの荒々しさを、微塵も感じさせない程の快晴の下。民の男が叫びながら、屋敷へ飛び込んで来る。
「敵襲か!」
どよめく屋敷内。広がる喧噪。それを聞いた集落の男共が、ぞくぞくと集まって来る。父親の後を追い、ラートもその男の元へ駆けつけた。男は、集落の周囲を監視する門番の役割をしている者だった。敵、という言葉に、彼は大きく首を振る。急いでやって来たのだろう。息を切らせて彼は、自分が今まで監視をしていた場所を指した。
「獣が、大きな獣が向こうで倒れているのです。早く、何かしらの手当てをしなければいけない」
なるほど、そういうことなら。長親子を含めた民達は、戦闘態勢から一変。そのポケモンを救う体制に入る。やがて現場に到着したラート達は、そのポケモンを見て、息を飲んだ。このポケモンは、まさか。
屋敷の召使に呼ばれ、サカモトはリングマと共にその場所へ向かう。村外れの、しかもオアシスの反対側。集落から遠ざかる度、足元の砂も増えていく。足を取られ、彼女は心底げんなりした。応急処置の道具は、全てリングマが持ってくれた。それでも息は上がり、降り注ぐ強烈な陽光には体力を削られる。それでも、走らねば。やがて、揺らめく視界の先、焼けた砂地の中に、そのポケモンは横たわっていた。驚いて彼女は、思わず立ち止まり、リングマと目を合わせる。そして、独り言ちた。
「フライゴンじゃないの」
自分よりも大きなフライゴンを背負い、村外れから長の屋敷へ戻ったリングマは、民達から驚きの声と称賛を受けた。リングマがちやほやと持て囃されている間、サカモトはフライゴンの様子を確認する。それはオアシスの水を飲んで、いくらか体力は戻ったようだが、羽根の損傷はやはり酷いものだった。
本来透き通り、美しいはずのその羽根。それは切り裂かれて傷付き、所々が裂けている。それを繋ぐ背胸は、まるで羽根と身体が離れてしまいそうなほどに抉れ、体液は巻いた包帯からも滲んでいた。下敷きになっていた右後ろ脚の骨は赤く腫れ上がっている。特徴的な頭部も、赤いレンズも、尻尾の方まで擦り傷や切り傷は続き、まさにそれは瀕死状態であった。
ラートは、処置を続けるサカモトの姿を、後ろで見ている他無かった。この地を庇護し、安寧をもたらす精霊を。傷だらけの、目の前の聖霊の御身体を、今の俺では救えない。悔しくて堪らなかった。知識だけじゃ、駄目だ。実践が伴わなければ、この手では何も出来やしない。彼は思い知って、しかし。傷口の鮮やかな色彩に耐えきれず、ラートは思わず目を逸らした。
野生のポケモンと戦闘したんだろうか。サカモトは思案する。発見した時点でいくらかの処置は施したから、あとは時間をかけてゆっくりと治療していこう。彼女はそう思った。後ろで苦い顔をして自分の作業を見つめるラートの、良い実習にもなるだろう。
「この集落では、昔から傷ついた獣を丁重に保護していた」
処置を終えサカモトは、ラートと彼の両親と共に晩餐に興じていた。同じ円卓を囲う長が、サカモトに話し始める。
民達が傷ついたポケモンを手厚く看病することにより、ポケモンと人間に一つの関係が生まれる。やがてその関係性は、湛える唯一のオアシスを平和的に共有し合う為の橋渡しへ繋がっていくのだ。救ったポケモンが、同じ集落で暮らす仲間になる事も少なくない。村で繁殖し、今では家畜になっているポケモンも、元は野生同士の縄張り争いに負け、傷ついたポケモンだった。
「この村の砦である聖霊の多くは、私たちの先祖が救い、命を繋げて差し上げた精霊達なんだ」
「フライゴン達は、あなた達に救ってもらったその恩を返すために、砦としてこの村を護ってくれるわけね」
そうです。と、長は答える。
「サカモト、あなたを招いた意味はそこにあるんだ。この村で最先端の医術が根差せば、より多くの獣を救える。それがこの集落の力になれば、オアシスを狙う敵共を撃つだけで無く。やがて、侵攻にも」
「侵攻?」
食事に手を付けず、そして何も発しなかったラートが、ふと、独り言ちる。
「それは、いざ、と言う時の話だ。ついこの前も、あの民達が襲われたそうじゃないか。力を蓄えなければ護れない状況だって想像しなければ」
宥めるように、父親は彼にそう言った。実際、つい最近。オアシスの利用を許可していた、小さな商人の集落が襲われた事があったのだ。しかしそれは、ラートの癇癪を突如として引き起こす。
「先生を呼んだのも、長の息子である俺に医術を学ばせたのも、その為なのですか? 争いを有利に進めるための、その後ろ盾なのですか?」
「ラート」
口調が荒くなる。彼の母親は、困惑して思わず彼の名前を呼んだ
「この地の安寧を、あなたは自ら壊そうというのか!」
熟れた果実のように開き切った傷口をそのままで、満身創痍で横たわる聖霊の姿が、脳裏にこびり付いて離れない。何も施して差し上げられぬ自分。黙ったまま、立ち尽くす自分。“精霊の庇護”を受けたままの自分。その恩恵すら活用せず、恥ずかしさから、謡えない自分。不甲斐なさや悔しさが、悍ましく凄惨な、侵攻という言葉への怯えと混同する。
自分は、オトナに与えられた平穏だけを享受する能力しかない。そんな自分が長に意見するなんて、おこがましい事だ。分かっているはずなのに、その衝動は止められなかった。
「ともかく」
サカモトの声。
「フライゴンの治療、その後の経過観察についても、わたしとラートに任せてください。いいですね?」
父親は、二つ返事でそれを了承した。
浮かんだ月の光が、集落を青白く染め上げている。民の全てが寝静まった頃、フライゴンは目を覚ました。そろりと首をもたげてそれは、この半地下の広間を見回している。それに気づいたのは唯一、リングマのみだ。密やかに開いた眼。膝で眠るサカモトとラートを、そっと抱き寄せた。フライゴンは、その気配を察知して彼へと振り返る。静かに視線を重ね合う彼ら。緊張感を孕むその目に、フライゴンは訊ねた。リングマは、瞬きもせずその目に答える。フライゴンは、ふ、とその視線を和らげた。ぴんと立ち上げた首を、音も無くまた絨毯の上に戻す。瞳を閉じて、それきりだった。それを確認したリングマもまた、視界をそこで打ち切る事にした。
陽が昇った。瞳を閉じたままのフライゴンを、サカモトとラートが囲う。
「敵は、真っ先にこの羽根を狙った。飛べないように、そして、その羽根で引き起こす砂嵐や超音波を止めるために」
ラートは洋紙にメモを取りながら、サカモトの講義を聞いていた。度々、寝そべってそのままのフライゴンを見やる。千切れかける程の損傷が布で巻かれ、繋がれていた。思い出して、思わず顔が引きつる。
「でも、ビブラーバ含め彼らの種族は、浮遊という特性を持ってる」
「びぶらーば? ふゆう? とくせい?」
ポケモンの能力に関する世界共通の単語は、未だラートを悩ませていた。言わば僻地と言えるこの集落では、独自の文化以外は発達していないのだ。「後で教える」と、彼を突き放して彼女は続ける。
「それだから、伸されて動けない状態にあったはずなのに、重力に逆らってこの子は逃げ続けた。でもとうとうオアシス手前で事切れて、その衝撃で脚に打撲傷を受けた。と」
「はあ」
「それに、フライゴンにしては小さいのよね、この子。もしかしたら、進化したてなのかも。慣れない身体のまま襲われたとしたら、この深い傷にも納得がいくわ」
「ほう」
サカモトはそれから処置の詳しい解説をして、すぐさま足元へと視点を変える。打撲の傷の処置の仕方や、その応用について解説し、次は尻尾へ。医術を覚えるどころか、講義するサカモトの言葉一つ一つに付いていくだけでもラートは精いっぱいだった。
尻尾を離れ、腹から頭部へと視線を移したところで、サカモトは不自然に黙りこくる。ラートもその視線を追った。
「目を覚ましたのね!」
フライゴンはサカモトの声に反応したかのように、緩やかに頭をもたげた。彼女らの奥、視線の先のリングマへ、一つ瞬きを返す。すると、リングマはおもむろに立ち上がって、フライゴンへ寄り添った。目線をぱちりと合わせたまま、巻かれた包帯の上を、そっと、撫ぜる。それから、彼の主人であるサカモトへ一瞥し、それを見て彼女は微笑んだ。
「敵意は持たれていないようね」
ラートもそれに同調する。お互いに安堵して、小さな息を吐いた。彼女らはその特徴的な赤いレンズに触れて「初めまして」という挨拶から、言葉を紡いでいく。
この集落の人間は皆、敵ではない事。自分たちが処置を施した事。体力が回復し、万全になれば以前までの自由を保障するという事。そして、医術を学ぶラートに協力して欲しい事。真っ直ぐな視線で以て聞いていたフライゴンは、一度の瞬きで以てそれを承諾する。その穏やかな眼差しと、警戒せず寄り添うリングマの様子を見て、彼女らは保っていたフライゴンとの距離を取り払っていった。
「見知らぬ人間やポケモンとでも、一緒にお茶すれば仲良くなれるものなのよ」
手元の水を飲み干して、サカモトはラートに言う。旅人の言う事なんだから間違いないんだろう、と彼は思った。フライゴンとリングマは、互いに木の実を分け合っている。リングマは辛い木の実が好き。フライゴンは、渋みがあった方が好き。お互いの主張はすんなり通ったようだ。
「いつの間に仲良くなったんでしょうね」
二体の様子を見て、ラートは独り言ちる。「そうね」と彼女は微笑んだ。お互いに言葉を交わさなくても、意思の疎通が出来るなんて。不思議だな、と彼は思う。集落の獣達を見ていても、その様は人間達の癒しになる程に温かだった。
「獣達は良いな」
そう言ったラートへ、サカモトは言葉を返す。
「ポケモンは素敵よ。言葉を必要としないから、感情任せの齟齬も無いし、陰湿な誹謗ももちろん無い」
そこまで聞いて、ラートは昨晩を思い返す。父の言葉を最後まで聞くことなく、単語の恐怖だけに縛られ。自分に対する劣等感と苛立ちを言葉に変えた。あの叫びを聞いた父は、母は、何を思っただろう。
「言葉に振り回されて、言葉に傷ついて。人間って、本当に哀れね」
サカモトが呟く。転がっていた木の実を一つ咥えて「渋いわ」と続けた。