テキトーさん家冒険録 がいでん?
「――」

 この唄は、精霊への畏怖と尊信を孕み。
 この唄は、精霊の御声の如く広漠たる大地に響めく。
 この唄は、精霊による救済と脅嚇を齎す故に。
 この唄は、精霊から授かりし牢固たる砦。


『メロディアス・レター』


 彼女の耳元で始終鳴り続ける、強く激しい風の音。巻き上げられる砂塵は、彼女の感覚器の何もかもを遮っているようだ。広大に続くこの砂漠の中でそれは、狭い箱に閉じ込められているような、ひどい閉塞感をもたらし続けている。吹き込んでくる砂に阻まれ呼吸もままならず、さらさらと崩れ落ちる砂に足を取られた。灼熱の陽光は大地を焦がし、汗すら干からびてしまいそうな程に。
 座り込めばきっと、背後から付いてくるノクタスが自分を襲うだろう。しかし、隣で共に歩くリングマも、そろそろ歩けなくなってしまうだろうということに、彼女は気づいていた。ノクタスが諦めるか、自分達がここで倒れるか。どちらが早いかなんて、考えたくも無い。それなのに、最悪のシチュエーションが脳裏を巡り続ける。やがて、次第に彼女の意識は遠のいていった。
「――」
 彼女はその奥で、ふと、女声を聞いた気がした。それは歌っているようでも、彼女に話しかけているようでもある。旋律があるのかすら分からないほどの、かすかな声。音階を追うように耳を傾けるが、漠然としていて、掴めない。なんてもどかしいんだろう。目を見開いて、その音の出所を探ろうとする。果たしてどこから? 後ろ? ――前か。リングマにも聞こえるようで、共に顔を合わせて頷き合う。
「“砂漠の聖霊”の噂、本当だったみたいね」
 彼女は独り言ち、高ぶり始めた感情に、疲労がいくらか飛んだ心地。もう少しで、オアシスだろう。ぼやけた視線を真っ直ぐに直して、彼女は前を瞠った。ここでくたばる訳にはいかないと、乱暴な言い回しで自分を焚き付ける。途切れながらも続く女声を道しるべを辿って、彼女らはひたすらに歩みを続けた。


 ラートは、目を覚ました。窓にかけられた庇をめくりあげ、ラートは外の様子を確認する。外は相変わらずの日照り状態だったが、砂嵐は過ぎ去っていた。目下では今日も民が、オアシスの恵みに感謝を捧げている。
「――」
 十番。ラートはその曲名を思い浮かべながら女達が謡うハーモニーに耳を傾ける。
 平和だ。彼は心底、そして毎日そう思っていた。瞳を閉じ、掌を顔に押し当て、この地を庇護する精霊へ感謝する。ふいに見上げた一人の民がラートに気づき、彼に声をかけた。彼はにこやかに手を振り返して、民達の歌声に微笑む。しかし、彼は、その声に聞き惚れているわけでは無い。陰鬱に満たされた感情を吐き出すような、長い溜息を吐き出した後。彼は分厚い庇を静かに閉めきって、それらを遮断した。
 その、直後。今度は部屋を仕切る庇が、ラートの背後で開かれる。振り返った彼に微笑んだのは、彼の母親だった。
「ラート、お客様よ。広間へいらっしゃい」
「客人? 俺に?」
 彼の問いに、はい、と短い返事を返した後。「お待ちですよ、さあさあ」と母親はそう言いながらラートを急かした。
 誰だろう? 母に背中を押され応接間へ歩きながらも、しかし彼は訝しがって、その客人の正体を詮索しようとする。確かに、一昨日この集落に招いた客人が訪れて、昨晩には集落の長である父が“歓迎の宴”を執り行っていた事は知っているけれど。しかし、果たしてその旅人が俺の客人なのだろうか。
 なんだか、嫌だな。ラートはこの状況の中に居る事で既にげんなりしていた。人間やポケモンと関わることが生きがいで、話好きでもある父親と違い、彼は人前に出ることを好まない。彼は、自分の声が何にも代えがたいほどに嫌で嫌で仕方がないのだ。
 同世代の男達は“精霊の庇護”から解かれ、どんどん野太い声へと、がっちりした体格へと、変わっているのに。自分は女や子供と同じような高い声と、小さな身体のままだ。それだから“謡い手”の母親はいつまでも、自分に謡う事を強要する。母親は自分の持つこの声を喜んでいるようだったが、この声は彼にとっての恥でしかない。いつになったら自分はオトナになれるんだろう。このままでは、民にも示しがつかない。初対面の客人と接する機会は滅多に無かったが、きっと客人は驚き、その反応に自分は傷つくだろう。

 応接間の庇は開けられていた。豪快に笑う彼の父親の声が、乾き切った土壁に響く。生ぬるい風がさらりとラートを撫ぜて、その部屋に知らない匂いがある事を教えてくれた。奥まで見やればそこには大きな獣と、客人に与えられる白い衣装を纏った美しい女性が座っている。ふと、彼女と目が合った。
「ラート、お客様だよ。入りなさい」
 父親もラートに気づいて、彼を部屋に招き入れた。入室し、彼は父親の隣に座る。対峙した客人は、髪の色も肌の色もまるで違う、異国の人間のようだった。父親は、ラートへ客人の説明を始める。彼女の名前はサカモト。医術を教えるために、各地を回る旅人らしい。隣はリングマという種族の獣。強面だが、優しい子なのだそうだ。長である彼の父親は、万国共通の医術をこの集落に根差すため、彼女を招いたそうだった。巨大な荷物が、彼らの背後で山のように積まれている。これを抱えて歩いて来たのかと、ラートは心底驚いた。
 ラートについても、彼の父親が率先して紹介する。こんな華奢な成りだが、頭は誰よりも良く、村の子に教えを施しているのだという事。そして、息子の持つ美しい声は、民の皆から愛されているという事。話好きの父親は、久々の客人の来訪に心底喜んでいるようである。
「と、言うわけでラート。お前にはサカモトから医術を教えていただきなさい」
 父親のこの言いつけは、彼にとって別段悪い気もしなかった。村の男達のように力仕事が出来ず、女や子達のように謡う事も出来ない自分に、役割が与えられた心地。
「喜んで」
 客人であり、そして先生であるサカモトに改めて挨拶をしたラートへ、彼女は微笑む。まるで彼のその、高い声なんて気にも留めないその態度に、ラートは至極安堵した。
彼女は、「頑張って、わたしに付いてきてね」と、飛び切りにこやかにそう告げた。
 
 
 灼熱の陽光が沈み切り、砂漠の集落に夜が訪れる。日中の焼けるような感覚とは打って変わって、地表は強大なエネルギー源を失った空と流れる風に冷まされていた。温度差からか、体の芯から冷えていく心地。サカモトはリングマに抱きかかえられながら「寒いわねえ」と独り言ちた。
「ここまで出来ました」
 蝋燭の明かりの下。ラートは出された問題を解き終えた事をサカモトに伝えた。文字列で埋め尽くされたその洋紙を受け取って、彼女は満足げに彼へ微笑む。
「やっぱりあなたは頭がいいわ。医術の基本を、だいたい理解できたんじゃないかしら」
「まだまだですよ」
 ラートはそう言って、しかし得意げでもあった。
 サカモトが砂嵐の中からこの村にやってきて、五日ほどの時間が経っていた。彼女は長の言いつけ通り、ラートに医術の教えを施している。この集落では、サカモトが思ったよりも医術が発達していた。傷ついているポケモン達を、民達は絶対に見過ごさないのだそうだ。それに、教え子のラートは彼の父親の言う通り頭が良く、それなりに医術の知識もある。この調子であれば、あと半月もすれば自分の役目は終わるだろうと、サカモトは思った。そろそろ、次の目的地を探し始めなければならない。それと同時に彼女は、もう少しゆっくりしても良いな、という気持ちにもさせられていた。
「〜〜」
 思わず口をついて出る、昔何処かで聞いた砂漠の唄。この広大な砂漠の真ん中、いくつか数える程度しかないらしいオアシスを、この村は湛えていた。その恩恵により、果実がみのり、花は咲き、砂嵐と焼けつく陽光を避けるしっかりとした家屋と、人々の生活を支えるポケモンがある。そして人々はそれに驕る事無く、それらの恵みに感謝し、それを称えて敬っている。この村は、絵に表わしたような楽園だと、彼女はそう確信していた。 

 そういえば。彼女はふと、思い返す。サカモトがこの村にやってきて、長の許可を受け客人として迎えられた時。半地下の広く薄暗い大広間の中で、彼女は何人もの女性と子供らに、唄でもって歓迎を受けていた。この村は、謡う事で感情を表すのかもしれない。どんなメロディだっただろう。確か。
「〜〜」
 鼻歌でなぞってみる。女性の三部合唱。砂嵐の後、開けて視界を遮るものが無いこの砂漠の空へ舞い上がるような、ひどく心地のいいソプラノの高音。それを見守るようにして、優しく低音が旋律を謡う。それは、この村にたどり着く前に聞こえた気がした、あの女声を彷彿させる程の美しい歌声だった。彼女は前に留まっていた大きな街で聞いた、噂話を思い出す。
「あの砂漠にはね、聖霊が住んでいるんだよ。砂嵐の中で女の声が聞こえるんだ。それが聞こえる方に、必ずオアシスがある」
 この砂漠を越える。そう言うと、その街の人間はこぞって彼女らを引き留めた。あの砂漠は、死の砂漠だ。絶対に越えられない、と。それと同じ数だけ聞こえてきたのが、その噂話だった。精霊の声とやらは、フライゴンというポケモンの羽音だという情報も掴んではいて、それに纏わる論文もその街で買い漁っていた。しかし。それが本当に聞こえるのか、について彼女は半信半疑であった。
 しかし。歩けども歩けども、変わるのは隆起している砂の山と岩波の形のみ。不意にやって来る砂嵐に足止めを何度も食らい、目指す目的地は見えず、そして背後から追いかけてくるノクタスに死すら覚えた、あの絶望の中。その歌声は突如としてその女声は彼女らを包み込んで、一筋の希望と道しるべを与えたのだ。あの感情の高ぶりを思い出しながら、彼女はメロディに感情を委ねる。ああ、唄というものはなぜ、こんなにも色濃く、過去を今に映し出してくれるのだろうか。
「先生」
 引き戻される意識。ラートに呼ばれてサカモトは、は、と視線を彼へ向ける。
「うるさかったわね」
 彼は、首を横に振った。
「三番。歓迎の唄? ですか?」
「そう、それ。素敵だったわ。歓迎されてるんだな、って素直にそう思えたの」
 そうですか、と彼はそれだけ言って目線を逸らし、まるで音程のずれたそれに内心苦笑した。それを誤魔化すように、また目の前の課題を取り組み始める。サカモトはそれを見て、もう彼に作業をやめるように言った。ラートはそれを素直に聞き入れて、うん、と大きく伸びをする。ああ、肩の緊張がほぐれる心地。

「わたしね、砂漠の聖霊の伝説なんて、ちっとも信じていなかったの」
 サカモトが続ける。静かな声色に、ラートは顔だけでなく身体ごと彼女へ向く。サカモトの目は、輝いていた。
「でも、確かにこの耳で聞いたわ。精霊の歌声を」
 そう、あの時。半信半疑で踏み入れた不毛の大地に、しかしその伝説は真実なのだと女声は彼女らに知らしめた。
 ラートはそこまで聞いて、口を開く。

 彼らの先祖がこのオアシスで暮らし始めた時から民は、それを精霊の歌声として崇めていた事。先祖たちは、実りや客人、この集落の発展や安寧を全て精霊の恩恵として深謝していた事。民はそれらに纏わる、全て合わせて二十七の唄を作り出した事。専らその唄を謡うのは、精霊に似て高く美しい声を持っている、女や子供だという事。
「美しく高い声は、非力な者にだけ与えられた“精霊の庇護”なんですよ。男共はやがて、その美しい声を失いますが、代わりに精霊から、自分や民を護る力を与えられます。屈強な身体や、体力がそれです」
 面白い文化だな、とサカモトは思う。人間の変声や体格の変化などの性徴が、精霊という存在とそれに纏わる文化によって、意味合いを大きく変えるとは。フライゴンの存在は、彼らにとって神にも似た位置にあるんだろう。羽ばたきに鳴るその音は、民達にとっての恩寵であり、娯楽でもあり。それでいて、この上ない程に神聖な物なのだ。その気持ちに、サカモトはひどく共感した。
 ラートの方は、自分の言葉がちくり、と胸に突き刺さる。自分は精霊の庇護を受ける、未だ高い声のままの、非力な男だ。長の息子であるという事も、男であるという事も、否定されているようだ。俺は、いつになったらオトナになれるんだろう。
 彼はその声を、村の為に活用するように両親や民からも望まれているのだが、しかし。彼は、この高い声を人前で披露する事を恥だと感じ、拒否し続けていた。長の息子が、こんな歳にもなって精霊の庇護を受けているなんて、示しがつかない。その謡い手である母親から受け継がれたその美しい声は、ラートの小さな自尊心を引き裂くものでしか無いのだ。
「なるほどね」
 サカモトが独り言ちるのを見届けて彼は、さらに続けた。
「そして、その歌声はこの村の砦でもあるんです」
「砦?」
「豊富なオアシスがあるこの集落には、今まで何度も他の民族が攻めてきました。しかし僕らは、それらを迎え撃つよりも真っ先に唄、二十番から二十五番を謡うんです」
「どうして?」
 それまで、なるほど、と耳を傾けていた彼女が、初めて疑問を抱く。襲い来る敵に向かって、謡うとは。ラートはにわかに微笑む。彼女のした反応は、彼にとって期待通りだったようだ。
「まず、その唄は精霊の歌声に似た、特に美しい声色を持つ選ばれた“謡い手”しか謡えません。先人が作り上げたその旋律と歌声は、遥か遠くで俺達を見守って下さる精霊に届き、そして精霊はこの村へやってきて下さるんです。その時、精霊は猛烈な砂嵐を纏ってやって来ます。巻き起こるそれは強大な盾になり、侵略者からこの村を守ってくれるんです」
「理屈は分かった。それでもよ? もし、攻めてきたら?」
「その時は男共と、その相棒の獣達が迎え撃ちます。精霊からの庇護が無くなり、その代わりの力を与えられれば、その為の鍛錬を欠かすことをこの村では許されません」
 へえ、と心底感心してサカモトは、やはり面白い文化だな、と思った。フライゴンが移動時に巻き起こす砂嵐を、外敵からの盾に利用しているのか。それだから、精霊に恩恵を受けている、という感情がより強いのだろう。敵を迎え撃つ為にフライゴンを呼び寄せるその唄は、フライゴンの羽音に限りなく近い音域と声色で作り上げられているのだろうか。きっと美しいんだろう。聞いてみたいな、とサカモトは思う。反面、滞在中外敵がやってくるなんて、そんな物騒な事は起こらないで欲しいな、とも彼女は思った。


トビ ( 2013/08/10(土) 22:04 )