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テキトーさんのお屋敷ですか? それなら、この村のあの道をそっちへ曲がって、林の中をずーっとずーっとずーっと歩き、丘を登り、峠を経たその先の村にありますよ。テキトーさんはいつもその屋敷に居る訳じゃありませんが、だいたいその屋敷に居るようです。
テキトーさんほどに適当な人は、その村には住んでいません。それだから、もしその村の人にテキトーさんのウワサを話す時には、テキトーさんと言えば伝わるでしょう。「この前、テキトーさんと道でばったり会っちゃったんだぜ」といった具合です。
しかし。だからといって、その村の人たちは本人に「テキトーさん」とは呼びかけません。ちゃんと、名前がありますからね。ただ、本人は、自分の名前を教えたか、教えていないか、それは覚えていませんでした。
もしあなたが訪ねようと思うのなら、その村の人たちに「テキトーさんの家はどこですか?」と聞けば大丈夫。そう言えば皆、きっと何かしら答えてくれるはずです。
「ああ、村はずれのぼろぼろの屋敷に、サーナイトと住んでいるあの人のことですよね?」
「若いのか老けているのか、よくわからないよね。うーん、男性なのは、間違いないと思うんだけれど」
「テキトーさん! 木の実のタルトをご馳走してくれるし、美味しい紅茶も淹れてくれるし。とってもいい人だよ!」
「フン。借金を滞納したり。莫大な金になりそうなガラクタを持っていたり。全く、悪い奴だよあいつは」
テキトーさんのことになると、てんでばらばら、言うことが違います。村の人たちですら、テキトー、テキトー。
少年、バーナードが、テキトーさん家の前で佇んでいます。その顔は不安そうに、こわごわとしていました。ぼろぼろの家に不似合いな真新しいその呼び鈴を眺めて、手を伸ばしてみたり、引っ込めたり。たまに後ろへ振り返っては、ちらちら、とあたりを見回したりします。
やがてバーナードは、意を決したようです。その呼び鈴を引いて、鳴らしました。
ちりん!
思ったよりも大きい音が鳴って、バーナードは思わず驚きましたが、それには構いません。なぜなら、その瞬間に彼は、くるりとテキトーさんの家から背を向けて走り始めたからです。
大きく手を振って、全力疾走。まるで、テキトーさんの家から逃げているような。彼は何度も振り返ってテキトーさんの家を確認し、そして誰も追いかけてこないことに何度も安心しました。やがて家の影も見えなくなったところで、バーナードは立ち止まります。
よし、成功だ。彼はそう思い、ふう、と安堵の息を漏らしました。いやでも本当に、誰も追いかけては来ないだろうか。テキトーさんの家には、エスパーポケモンのサーナイトがいたはず。また後ろを見やって、しかし。やはり、彼を追う者はどこにもありません。よかった。さあ、みんなの元へ帰ろう。くるり、前へ向き直ります。
おや?
バーナードの視界を、何かが遮っていました。それは、大きい壁のような。もちろん、さっきまで彼の目の前には、木が何本か並んでいる公園しか無かったはずです。バーナードは、突然現れたそれに驚いて。
「え」
と、思わず独り言ちました。そしてそれがポケモンだと気づくと、顔を確認するために上へ見やります。
それは、リングマでした。その仏頂面が、バーナードを見つめています。
「うわあ!」
彼は驚き慄いて、お腹の底から甲高い声で叫びました。のけ反って、バランスが崩れます。膝がくだけて、彼はそこに尻餅をついて座り込んでしまいました。バーナードは、そのポケモンを図鑑やテレビでしか見たことがありません。まして、こんな近くに現れるなんて。野生のポケモンでしょうか。リングマ。リングマ。どんなポケモンだったっけ。すっかり思い出せません。長い爪。鋭い眼差し。大きいお腹。どっしりとした図体。見た目だけでも、とんでもなく恐ろしいポケモンだということは分かりました。逃げなきゃまずいぞ。頭では分かっているのですが、どうにも腰に力が入りません。いや、むしろ動いてもまずいんじゃないか。そう考えたらぴくりとも動けません。メメントモリ。彼は死を想いました。
その時です。そのリングマが、おもむろに動き始めました。仏頂面でバーナードの顔をぐい、と見やると、彼へ両手を伸ばします。思わず目を閉じたバーナードの体をひょいと持ち上げ、そのまま彼を抱いて歩き始めました。腹ばいでリングマの肩に乗るバーナードは、どこへ連れて行かれるんだろうと不安でしかありません。のしのし。歩くリングマのリズムに揺られ、彼は来た道を戻されていきました。
やがてそのリングマは、テキトーさん家までやって来ました。ふたつノックをして、なんの躊躇も無くその家に入っていきます。
「お帰りなさい」
奥の方から、声が聞こえてきました。テキトーさんでしょうか。リングマはバーナードを床に降ろし、椅子に腰かけるようジェスチャーをします。相変わらずの仏頂面。それは、声がした方へ引っ込んでいきます。はあ、とバーナードはため息をつきました。
参った、参った。もう、逃げられそうもありません。仕方なくバーナードは椅子に腰かけました。手持無沙汰で、誰も居なくなった部屋の中を、ぐるりと見渡します。天井まで届きそうな本棚が至る所に並び、それでも入りきらないのか、レコードや古書が床へいくつも積んでありました。その上の大きな窓から差し込んだ陽の光は、すきま風に舞う埃をさらって、きらきらと照らし出しています。どうやらその窓は立て付けが悪いようで、強い風が吹き込むと、がたがたひどい音をたてていました。
「お待たせ」
後ろから声をかけられ、バーナードは、声の方へ向き直ります。その人物は、テーブルの一番散らかった場所にある一番大きな椅子に座りました。本の束を避けて「散らかりすぎだわ、本当に」と独り言ちています。リングマも、後から続いてきました。人物の背後に立って、その指示を待っているようです。
バーナードは、戸惑っていました。村の人や、友達から聞いた話とは全く違います。ここにはサーナイトも、若いのか年老いているのか分からない男性も居ません。
この家に居たのは、仏頂面のリングマ。そして、目の前に悠々と座る、きれいな女の人でした。
「さっき、訪ねてくれたでしょう? ごめんなさい、シャワーを浴びた後で服を探していたの。結局、こんな安っぽい服しか見つからなかったわ」
彼女は着ている白衣を嫌そうに摘まんで、それから、リングマへ何か指示を出しました。本の束を簡単に片付け終え、ふう、と一息つきます。バーナードは、本当にこの人がテキトーさんなのか、まだ分かりませんでした。しかし、まあテキトーさんの家に居るのだから、きっと彼女がそうなのでしょう。バーナードは、そう思うことにしました。
「リングマが呼び戻してくれたみたいね。あなた運がいいわ。ところでご用件は何?」
バーナードへ、テキトーさんが問いました。彼はそれまでずっと押し黙ったままでしたが、とうとう口を開きます。
「別に要件があったわけじゃ、無かったんです。ただ、ベルを鳴らしたかっただけなんです」
「え、何それ。どういうこと?」
「度胸試しです」
「は? 度胸試し?」
「つまり、その、イタズラの、つもりで」
「ああ、なんだ。そういうことだったの」
怒られるんだろうな、と思いながら彼は言いましたが、しかし。テキトーさんはそう返してから「わざわざここへ連れてくる必要も無かったわね」と笑うだけ。
その間に、リングマはトレーを持って部屋にやって来ました。乗せられているのは、見たことはあるような気がするけれど飲んだことは無い、緑色の飲み物と。見たことはあるような気がするけれど食べたことが無い、丸い食べ物でした。
「それ、いかりまんじゅうって言うの。わたしは甘いものも、そのマッチャも嫌いだけど、それなりにいいモノらしいから買って来たわ。あなたが好きなら食べなさい」
バーナードは驚きました。追い出されるかと思ったのに、お茶とお菓子をご馳走してくれるなんて。勧められるまま、少年はそれを一口食べてみます。ほんのり甘くて、しっとりとして、柔らかくて、なんだかほっとする味です。マッチャという飲み物は、甘みが無いものでしたが、しかしまんじゅうとの相性は、ばっちり。
テキトーさんの家では、タルトが食べられる。そう聞いたことがありましたが、例外もあるのでしょうか。いやいや、それよりも、本当にこの女の人がテキトーさんなのかも、まだ分かりません。しかし、まあテキトーさんの家に居て、しかも自分に要件を聞いたのだから、きっと彼女がそうなのでしょう。バーナードは、そう思うことにしました。
「あなた、お名前は?」
テキトーさんはバーナードへ問います。彼は、自己紹介すらまだだったことを詫びて、彼女に自分の名前を言いました。
「そう、バーコード君ね」
テキトーさんは続けます。
「あなたやっぱり運がいいわ。さっき、リングマがチーゴの実を拾って来たの。それを砕いてスパイスにしてくれるんだけど、これが絶品なのよ。よかったら持って帰りなさい」
「え、いいんですか」
「別にいいわよ。その辺で調達した木の実だからお金もかかってないし。もらって帰っちゃいなさい」
テキトーさんは、さして気にもとめずにそう返しました。
「このいかりまんじゅうも、マッチャも、初めて見ました。すごく、美味しい」
バーナードの言葉に、あら、とテキトーさんは笑います。
「お気に召したならよかった。それを買った帰り道、手足にメタモンを付けた女の子がなんだか派手にバトルしててね。あっというまに巻き込まれちゃって、散々だったわ」
「旅行に行ってらしたんですか?」
バーナードが問います。「そんなものね」とテキトーさんは適当に答えました。そして、続けます。
「旅はいいわよ。いろんなことが見える。いろんなものを知ることができる。とある地方では、ポケモンが引き起こす犯罪を取り締まるイケメン警官が活躍していたり。またとある地方では、ポケモンに関わる事件を担当するものずきな弁護士が居たり、ね」
「いいなあ」
バーナードはテキトーさんの話が羨ましくて、思わず、そうつぶやきます。そりゃ彼だって旅行には行きますが、それだって近場の温泉くらいです。テキトーさんのように、文化の違うような遠い場所になんて、出て行ったことがありませんでした。
「でしょう? まあ、でも、この村もとってもいい村だと思うわ。」
「そうかなあ」
バーナードにとってそれは、あまり共感できないものでした。
「そうじゃない?」
テキトーさんは返しますが、問われた彼は、うーん、とうなるだけ。
「どうして、あんなイタズラなんかしたのよ」
テキトーさんは思い出したように、難しい顔をしてマッチャを飲む少年に問います。彼はより一層に苦い顔をして、言いました。
「友達も似たことをしていたから。僕も同じことをすれば、仲間に入れてもらえると思って」
「んん?」
生返事のテキトーさんへ、溜めこんでいたことを吐き出すように、バーナードはさらに続けます。
「僕、身体も小さいし、声も高くて子供っぽいから、いつもからかわれるんです。だから、度胸試しに参加すれば、いくらかは認めてもらえるかな、と思って」
「ふうん」
「もう、僕、早くオトナになりたいんです。親に、あれをしろ、これをしろ、って言われるのも嫌だ」
「こどもの時にしか出来ないことだって、あると思うんだけどねえ」
テキトーさんは小さく野次を飛ばしてから「オトナか」とまた呟きました。一つ息を吐き出して、リングマを呼びます。何かを言いつけたあと、席を立って別の部屋へ。
少し愚痴が過ぎたかも。ひとり部屋に残されたバーナードがどんよりと座っていると、帰って来たリングマは、彼に新しいマッチャといかりまんじゅうを出してくれました。まだまだ、ここに居てもいいみたいです。
テキトーさんはすぐ、大きな本を抱えて帰って来ました。椅子に座ると、本と本の間に挟まっていた紙の束を抜き出します。
「これ、何だか分かる?」
そう言って、バーナードに手渡しました。見ると、その紙は平行の横線が何本も書かれています。その線の上には、なにかの足跡みたいな丸い点々がいくつも書かれていていました。そしてその線の隙間を埋めるように、外国語でしょうか、読めない文字と記号がびっしりと走り書きしてあります。よくわかりませんが、なんだか楽譜に近いような。
「楽譜ですか?」
バーナードが恐る恐る思った通りに答えると、テキトーさんはにこりと笑いました。
「そうそう。私もそう思う」
「そう思う、というと」
バーナードは勘が当たった、と一瞬安心しかけましたが、すぐに聞き返します。テキトーさんは「それがね」と笑いながら言って、続けました。
「さっき、ものずきな弁護士が居る街がある、って言ったでしょう? その街の外れにある古い楽器店で見つけたから、多分楽譜だとは思うんだけど。さっぱり解読も出来ないのよね」
「え」
「なんだか価値がありそうじゃない? タダも同然だったから思わず買っちゃった」
うふふ、と笑うテキトーさんに、バーナードは思わず呆れてしまいました。
「きっとこれは、ある日、ある時。ある民族の、ある人間が、あるきっかけがあって作った、ある曲なのよ。間違いないわ。あなた、これを誰が作ったと思う?」
「買った本人が分からないのに、僕が分かるはず無いじゃないですか」
ふいに問われ、バーナードは困ってしまいました。しかしテキトーさんは構わず続けます。
「違う、違う。そうじゃない。考えるの、作り出すのよ。あなたの頭の中で、この楽譜が、どんな背景で作り上げられたかを」
「は」
何を言っているんだろう、馬鹿らしい。バーナードは思った通りにそう言おうと思いましたが、しかし、やめることにしました。お茶をご馳走になったし、お礼を兼ねてテキトーさんに付き合うことにしたのです。
「大丈夫よ、もちろん私も一緒に考えるわ。きっとこれはポケモンに対する楽譜なんだと思うのよ。そっちの方が、価値が上がる気がする」
そう言いながらテキトーさんは、自分の手元に洋紙と万年筆をたぐり寄せました。どうやらそれにメモを取るようです。楽譜を眺めるバーナードは、うーん、とうなりながら、やんわりとそれを否定します。
「この書き込みは、人間が書いたものなんじゃないかと思いますよ。演奏する人間が、メモを取ったんじゃないかな」
なるほど、とテキトーさんは返します。万年筆で書いたメモに、バツのしるしを付けながら。
「あなた、なかなか鋭いわね」
「僕、楽器をやっていて」
遠慮がちに言ったその言葉を聞いて、ぱ、とテキトーさんの顔がバーナードを向きました。思わず彼は、テキトーさんを見やります。
「ちょっと、それを先に言いなさいよ! 経験者なのね。いいわ、もっと、どんどんちょうだい。さあ! この紙きれを! 札束に! 変えるわよ!」
「いや、親にやれって言われて、仕方なくやってるだけですよ。友達にからかわれるから、最近はやってないし」
バーナードが言い訳のようにそう言いましたが、しかし。聞いていないのかテキトーさんは「さあさあアイデアを!」と彼をどやします。バーナードは仕方なく、うんうんと頭をひねらせます。
「人間が、ポケモンの鳴き声を楽譜に表わしたとか」
「鳴き声か。面白いけど、もう少しひねりましょうよ。そんな設定、その辺にありそうだわ」
そう言って、彼女は手元に持ってきた分厚い本を開きます。その本には“ポケモン図鑑・各論V”と書かれていました。
「歌ったり、変わった鳴き声だったりするポケモンって、いっぱい居るのよね。どれが、こう、一番、それっぽいのかしら」
テキトーさんが独り言ちているので、バーナードは「僕にも見せてください」と声をかけました。テキトーさんから本を受け取って、眺めてみます。確かに、何種類ものポケモンがそこには載っていました。どうやら、特徴的な鳴き声や歌声など持つポケモンをまとめたページのようです。
ここで彼は、とある説明文に目が留まりました。テキトーさんに伝わるように、声に出します。
「羽ばたく音が女の人の美しい歌声に似ているため」
「せいれいポケモンのフライゴンだったっけ」
テキトーさんはそう返して、万年筆を走らせます。
「フライゴンって砂漠に住んでいるのよね。若い頃、砂漠の土地を舞台にした絵本を読んだことがあるわ。ノクタスが可愛くてね。丘だと思って歩いていたところが、大きなポケモンの背中だったりして」
「へえ!」
バーナードは砂漠の街なんて、テレビや物語の中でしか見たことがありませんでした。辺り一面に敷かれた砂の中を歩くなんて、大変そう。でも、一度でいいから行ってみたいな。
「うん。羽ばたき、いいわね。面白いし、それっぽいわ。誰がそれを楽譜にしたの?」
テキトーさんの問いに、バーナードは困って彼女を見つめました。テキトーさんは何も言いません。ただ、口元に笑みを浮かべ、期待を込めた瞳で彼を見つめ返すだけ。バーナードはやはり、うんうんと頭をひねらせました。
「きっと。きっと、そのフライゴンが住んでいる砂漠の村人です」
「それでそれで」
「フライゴンの美しい羽根の音を、それにまつわる思い出を。ずっと忘れないように、この楽譜を書き留めた――」