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「さあ、行きましょう!」
屋敷の外に出たラートを、待っていたサカモトが呼びかけた。その後では、精霊も彼を見つめている。駆け寄って、朝の挨拶を述べて。
「行きましょう」
そう言って、寂しさを誤魔化すように、あえて微笑んだ。
前日までの砂嵐は収まっていた。二人と二体は、いつものように談笑を交わしながら、集落の外れへと歩いて行く。そこは、サカモトがこの村に足を踏み入れた場所。フライゴンが初めて謡った場所。そしてこの場が、彼らとの別れの場所となるのだ。
フライゴンが、立ち止まった。赤いレンズの奥から彼らを見据える。サカモトは近づいて、フライゴンの鼻先に一つキスをした。フライゴンはそれに同調するように、レンズをその頬に摺り寄せる。
「あなたが先に、行っちゃうのね?」
感慨深げに彼女はそう訪ねて、相手はそれを肯定した。サカモト達よりも先に、フライゴンはこの村から飛び去ってしまうのだ。ついにこの時が来てしまった。ラートも、何か精霊に声を掛けようと思うのだが、何だかどんな言葉も野暮な気がして、何も言い出せずにいた。
フライゴンはサカモトの抱擁を受けた後で、ラートと正面で対峙した。そして、その背中を彼に差し出す。ラートは、その意図を否定した。
「俺は一緒に行けません」
「ラート」
言葉を続けようとしたラートへ、サカモトは口を挟んだ。戸惑う彼へ、サカモトは微笑む。
「行きなさい。この子は賢いから、あなたと一緒に暮らせない事なんて分かっている筈よ。きっと、お別れが言いたいの」
そう言ってから「そうよね?」と彼女はフライゴンへ問いかける。背中を向けた状態でフライゴンは、首をこちらに向けてそれを肯定した。
「それならば。お見送りを、させていただきます」
ラートはそう言ってから、フライゴンの背中に跨った。
「ゆっくりお別れしてきなさい。屋敷で待っているから」
フライゴンはそれを確認すると、サカモトとの距離を置いて、その羽根を、大きくはためかせた。大きく風が引き寄せられる。その巨体がふわり、浮力を持つ。そこから、急上昇。サカモト達は、その先を追いかけるように見上げた。激しく照り付ける陽光に照らされるその影が、砂嵐によって隠されていく。リングマが、風から彼女を護るようにして抱きしめた。
「さようなら!」
服も髪も、涙をも、全て吹き飛ばしてしまう程の強風の中。
「――」
フライゴンの唄が、聞こえる。
ラートは精霊の背中でその歌声を聞きながら、一つの旋律を謡い始めた。
この唄は 精霊への畏怖と尊信を孕み
この唄は 精霊の御声の如く広漠たる大地に響めく
この唄は 精霊による救済と脅嚇を齎す故に
この唄は 精霊から授かりし牢固たる砦
褒めよ称えよ 精霊の御声を その御姿にひれ伏せ 全地は精霊の御心のままに
褒めよ称えよ 褒めよ称えよ 全地は精霊の御心のままに
この声は 我らに恵みと愛しみを与え
この声は 我らの安寧を永久の光と共に護り給う
この声は 我らへ慰めと癒しを齎すが為
この声は 我らから精霊への賛美としてここに響かん
褒めよ称えよ 精霊の恩恵を その御姿に仕えよう 全地は精霊の御心のままに
褒めよ称えよ 褒めよ称えよ 全地は精霊の御心のままに
一番。この集落が最も大切にする、精霊を称える為の曲だ。謡い切って、最後の低音の余韻はやがて小さくなる。フライゴンは満足したように、地上へ降りて行った。
背中から地へ降り立ち、ラートはその精霊と真正面に向かい合った。
「これからも、この集落の安寧を、お守りください」
精霊は肯定するように赤いレンズを彼の頬へ摺り寄せて、やがて精霊は、彼に背を向けた。その刹那。一陣の激しい突風が視界を奪った。思わずラートは顔を背けて、それがそよ風に変わった時。そこにはもう、何も残らず。ちりちりと小さく砂の流れる音を残すのみ。ただまっさらに干からびた砂の丘が、遠くへ続いていた。
「おかえりなさい」
サカモトは、全ての荷造りを終え、集落の出口でラートを待っていた。リングマと共に、彼女は改めて教え子と向き合う。掌を差し出して、握手を求めた。
「先生、本当にありがとうございました。精霊の庇護が消えてしまう前に、謡えた事。村の安寧を護れた事。全て先生のおかげです」
「こちらこそありがとう。教え子に寄り添うのも、先生の役目ってものよ。きっと、フライゴンを肖って唄を謡い続けている限り、この村はフライゴンの恩恵を受け続けるわ」
「俺も、それを確信しています」
確固たる自信の元に彼はそう言って。それから、ポケットの中を探り出した。
「これを」
ラートがサカモトに、小さく折り畳まれた紙を手渡した。彼女はそれを受け取って、彼に尋ねる。
「これ、何?」
「開いて見てください」
彼に言われた通り、サカモトはその紙を丁寧に開く。見ると、その紙は平行の横線が何本も書かれている。その線の上には、何かの足跡のような丸い点々がいくつも描かれていた
「これ、もしかして、楽譜?」
ラートは照れ臭そうに、一つ、頷いた。
「先生に教えて頂いた通り、想像して書いてみました」
サカモトは微笑んだ。
「あなたは、教え子として最高の人間よ、ラート」
そう言って、彼女は瞳の涙を誤魔化した。そして、走り書きされているメッセージを読み下す。
“三番、歓迎の唄”
“どうか貴方の旅に追い風が吹き、はらむ歌声が貴方を元気づけ、そして、貴方のことを守りますよう。”
おわり