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この民族がオアシスを欲しがる理由、それは。この砂漠を征服し、巨大なる国を作る。という、その崇高な野望を実現する為にあった。この砂漠には、大小合わせて五十程のオアシスが存在し、一つ一つに集落がある。決まったオアシスを持たず、砂漠の外の街とオアシスを行き来する民族は“渡りの民”と言われ、彼らはまずその規模が比較的小さい民族を征服していった。着々とその範囲は広がっていき、全ての制服までは時間の問題だろうと、この民族の男共は確信している。西側に面した地域では、まずフライゴン使いが居るとされる一つの集落の侵攻の陥落を目指した。その理由は、それが持つ広大なオアシス。そして、強大な力を持つフライゴンを手にする事にあった。あの集落も、すぐに陥落出来るだろう。偵察隊の男共はそう言いながら、酒と肉を貪った。
「あのオアシスが巨竜を呼び寄せる方法。それさえ消してしまえば、あいつらは何も出来やしない」
「明日の夜にでも襲撃する。あのオアシスを征服できれば、他の集落への足掛かりも出来るだろう」
それを聞いている民達も、その油に塗れた口元で以て、欲望に胸躍らせるように笑みを零す。欲するがままに侵攻を続ける事。それが、彼らの生き甲斐であった。
誰かの耳が不意に、風の音を捉えた。月が消え失せた、沈み切る夜の帳の中。それは不気味に蠢き、地を這う獣の足音を彷彿させた。誰かが、外に出た。別の誰かも、後に続く。光源の無い果ての砂地に彼らは、じっと目を凝らした。風が尚も強くなり、足元の砂塵は胸元まで飛ばされる程だ。舞い上がって目を突き刺すそれを避ける為、思わず顔を背けて。その瞬間。
「――」
風に乗って、何処からか女声が運ばれてきた。それまるで、この頬をさらりと撫ぜるられるような。吐息を孕んだ口元が、耳孔を悦ばせるような。欲情をそそる程の美しさで以て、それは彼らの耳に届いていく。しかし、聞き惚れるのもつかの間。衣服がたなびく程の風圧に至り、移動式のテント群は、その脆さ故に飛ばされそうになっていた。
「何事だ!」
「巨竜使いか!」
集落の男共は、酒を投げ捨て外へ飛び出した。襲い来る風に顔を歪める。その発生源へと身体を向けると、各々にそちらの方へ家畜たちに攻撃を指示した。
衝動。轟音。爆ぜる炎の衝動が地面を揺らし、巻き起こり続ける砂塵を焦がしていく。男共の身体を掠める火の粉は、彼らに流れる獰猛な戦闘本能を擽った。それを鎮静する程の美しい女声を意識的に遮って、沸き立たせる血潮。家畜にも伝播し、漲る憤激の情。徐々に明らかになっていく相手方のシルエットを、けぶる視界の中から見出していけ。我々に侵攻してくる者共、生きて無事には二度と返さぬ。命を賭して、戦うべし。
しかし。
「―〜」
砂嵐の中に鳴り響くその響きが、徐々に揺らぎ始めた。攻撃の度に響く轟音の奥で、それは彼らの意識を引き付ける。
「〜〜」
その音色は、まず男共の家畜に作用し始めた。滾る興奮に血走った瞳が、なお以て腫れ上がっていく。それらの吐き出す炎は一層に高く渦を作り上げて、空を朱く染め上げながら舞い上がった。そうだ、もっと、もっと激しく。男共は、家畜達の勢いに後押しされるかのように声を張り上げいきり立つ。
「〜〜」
徐々に激しさを増し、途切れる事が無いそのエネルギー。異様なまでの気迫が放つその猛火は激しく荒れ狂う。流れ渦を巻く風の流れで以てそれは、瞬く間に男共の足元にまで雪崩込んだ。
そこで、彼らは家畜達の異変に気付く。我を忘れ何事にも構わず、家畜達は炎を吐き出し続けている。もはや瞳の焦点も合っていない。伝播する悲鳴。しかし、時は既に遅すぎた。舞い上がる火柱が彼らの頭上まで上り詰める。それは灼熱の陽光に焦がされる、炎熱の感覚とは比べるのも烏滸がましいものだった。男共は家畜達を収めようとし、しかしそれをも許されない。錯乱と動揺を極めたその間にも、この一帯を飲み込む業火の勢いは止まらなかった。
「〜〜」
不協和音が響き渡り、誰かが思わず耳を塞いだ。聴覚を支配する、それはまるで濁流のよう。怒涛のように押し入って来て、五感を四肢を全てを奪っていく。自身の咆哮で以て抵抗を続ける者は、徐々に喉の奥から迫る口渇とも戦わねばならなかった。今聞こえてくるのは自分の叫びなのか、誰かの叫びなのか、狂った女声の響きなのか、もはや考える事さえ叶わない。そのエネルギーにはもはや抵抗できず、彼らは劫火の如く炎に全てを飲み込まれていった。
ラートは静かに、最後の高音を砂嵐へと沈める。頬を掠める火の粉へ気にも留めず、戦闘用のゴーグルを外して彼は、目下を俯瞰した。
こんなに、上手く行くなんて。
絶叫。悲鳴。断末魔。自分達の唄に上書きされて聞こえてきたのは、強大な炎に焼きつくされる人間の叫声だった。光源の無いこの真っ暗な大地の中で、異様なまでに爛々としてそれは煌めきを放つ。
「聖霊の庇護を受けたり我々の力を、敵へ見せつける為。偵察を兼ねた、夜襲を」
長にそう言って、説明した通りの心算だった。フライゴンの美しい御声の上に、それとは全く異なる音で以てラートが謡う。まるで、つい先日までフライゴンが奏でていた不安定な揺らぎのような音色で、二つは交じり合うのだ。まるで超音波のようにそれは獣達に作用し、混乱状態を引き起こすだろう。そうすれば、敵に隙ができ、こちら側に有利な状態で攻撃をできるはず。
唖然として黙りこくった彼へ、不意に足元を熱風が吹き付けた。焼かれ逃げ惑う人間と獣達が、下から手を伸ばしているようなイメージが過って、思わず足を身に引きつける。ラートはそこで、自覚した。自分が作り上げた状況に、自らが恐怖しているのだと。
「行きましょう。炎が落ち着いた頃、また偵察に来ます」
毅然とした声を出そうとした。果たして叶っているだろうかと、精霊には問いかけられない。この場を早々に立ち去りたくて仕方がなかった。これでいいんだ。ラートは何度も自分に言い聞かせる。自分達の生、それを壊そうとする者に立ち向かう事。この地の安寧を、護るという事。それがこんなにも苦しくこの胸を締め付けるという事を、彼は今、身を以て知った。
ふと、風の音をラートは捉えた。
それは、フライゴンの引き起こす砂嵐と歌声の、それよりも遥か遠くから。低く忍び寄る足音のように、彼らの聴覚を刺激する。ラートよりも、フライゴンが先に気づいたようだった。帰路へ真っ直ぐ向いていた首を、右の方へ大きく傾ける。ラートも同じようにそちらを向いたが、日の入り前の暗がりのせいで、彼の視界では特定が出来なかった。
生き残りが居たのだろうか。背筋に戦慄が走る。風の音は、前方から。それは一定の距離を保っていたが、こちらが気付いた途端、徐々に近づいて来るようだった。攻撃に備え、身を屈める。戦闘用のゴーグルを装着し、生唾を一つ飲み込む。強く握りしめた鉄砲に、掌が食い込んでしまいそうな程だ。
フライゴンは、依然として首を立てたまま、遠くへ目を凝らす。そして。
「――」
唄を、謡い始めた。
柔らかい旋律。弾むような音色。まるげ楽しげに、まるで友人に問いかけるように。ラートは困惑した。「え」と小さく呟く。自分達の集落まではまだ距離があるはずだ。誰が居るのかと、ラートが精霊へ問いかけようとしたが、しかし。ラートは、言葉を続ける事が出来なかった。
「――」
「――」
聖霊の声が、聞こえるのだ。今一緒に居るそれの声とは、全く違った音が、風の彼方で響いて来る。
彼は、屈めていた身体をゆっくりと起こした。何が起こっているんだと、それを確かめようとして。
「――」
「――」
その声は、数を増やして重なり幅を増して、深く深く、彼の聴覚を支配する。驚きと、感動と、今まで感じたことも無く高ぶる感情が、溢れ出して止まらない。
「――」
「――」
美しい。なんて、美しいんだろう。足の先から頭頂まで、五感から思考まで。全て飲み込まれ、包まれて。まるでオアシスの湛える水の中に揺蕩っているような。
「――」
「――」
ラートの足元で精霊が、その首を彼へ向けた。圧倒しきって呆然としていた瞳へ、精霊は微笑むように。ぱちりと触れ合う視線。は、と思考を取り戻したラートに、精霊はより大きい歌声を、高らかに響かせた。
「――」
堪え切れず、ラートは声を張り上げた。何重にも層になった音と音の間をすり抜けるように、彼は朗々と謡い始める。咽頭を揺らし、頭上へ跳びぬけるように高音を響かせて。抜きんでたその声を、周囲の音はそれを否定せずに許容し、抱擁した。混ざりあって、壊されて、また別の音の調和が整えられて。高低の移ろいを楽しむように、軽やかに旋律が紡がれていく。まるで無限に繋がっていくような、この名も無き唄。伸び上がって果てしない音の螺旋の中にラートは、激情と共に身を委ねた。
快感の隙間、彼の視界は砂嵐の奥を捉える。地平線の奥、輝く朝日の逆光に浮かび上がったのは、何体も並び続いていく、精霊達のシルエットだった。