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「何処へ行かれるんですか」
外へ出たフライゴンを、ラートは追いかける。オアシスの方へと向かっているようだ。
集落の民達は、息の根を潜めているようだった。道端には誰も居ない。屋内でじっとしているのだろう。時折ラートを窓の外から見つけた民達から、ねぎらう言葉や感謝の言葉を受けた。心底有難いが、自分の仕事は医術の施し以外まだ他にある。本当はすぐにでも父の元へ行かねばならない気持ちになっていたが、しかし。追いかけるフライゴンはオアシスへと真っ直ぐに歩いて行った。
民家の並びが途切れる。外れ、オアシスの源流までやって来た。夕日が照らすその中で、野生の獣達が水浴びに興じている。このオアシスは、精霊の齎したこの集落の財産。広がる美しい水辺。そこに憩う獣達と、人間。それは、生命の源。オアシス利用するために、人間達は分け合うのでは無く、争い合おうとする。命を繋ぐ泉が、命を奪い合う理由になる。人間は、愚かだ。分かっている。それでも、護らねばならない。自分たちの安寧を、今までを、これからを。
フライゴンは、オアシスの中を入っていく。水を弾く音が、乾いた空気の中で響いた。ラートはそれを追いかけず、水際でその足を止める。目の前のフライゴンから、ふいに水しぶきが舞い上がった。揺れる水面が波を打つ。ラートの足元に水を届け、靴の中に、水が入り込んで来る。冷たい。視線を足元に置いた彼は、フライゴンが飛び立つ瞬間を、目視出来なかった。
轟音。は、と見上げたラートを、砂嵐が襲う。思わず顔を背けて、身体を縮めた。
フライゴンとラートが共に空を飛んだあの日から、彼らは幾日も共に謡い続けた。フライゴンの背中に跨り、急上昇。砂嵐を背景に、ラートの声が旋律を鳴らす。それを、やがて奏でられ始める羽根の音で以て、フライゴンが追いかけていくのだ。
始め二人の和音は、不快に等しい程に淀んでいた。慣れ親しんでいた謡い手の美声同士のそれとは程遠い、不協和音。迫り来る乾きを連想させるような、寝静まった首元を何者かに攫われるような、そんなイメージ。耳孔から脳へと突き抜ける程の頭痛の中、まるで獣が敵を混乱させる為に用いる超音波のようだと、ラートは感じた。
本当に、この調子で精霊の御声は美しいそれに変わっていくのだろうか。不安と焦燥を背負いながらも、彼は精霊を先導し謡い続ける。その原動力は、心底彼が愛する“謡う”という行為を、精霊と共に成し得ているという単純な喜びにあった。自分自身の声を恥だと感じるが故に。そして、醜く肥え太った自尊心が故に、長く閉じ込めていた感情。
「どうして、自分の才能を自分で殺すの」
瞳を侵す砂塵の群れを庇いながら、サカモトの言葉を思い出す。そう。自分に与えられた才能を、自分が生かさなければ。俺は、謡う為に生まれてきたのだ。精霊が俺に与え続ける庇護は、この時の為にあったのだ。それが俺の思い込みだろうと、馬鹿のような勘違いだろうと、もう、何だっていい。俺は、もっと謡っていたいんだから。
「――」
水しぶきの奥。瞼の裏の暗闇と、巻き上がる風の音。支配された視覚と聴覚の精霊の御声が聞こえてきた。それは聞き取ろうとすればする程、離れていき。あえて意識しなければ、聴覚の奥から浸み出してくるようだった。間近で巻き起こされる砂嵐の奥で、御声は朗々と響き続けている。
気持ちがいい。ラートは心の底からそう思った。不安定な揺らぎは殆ど消え去り、しなやかに伸びゆくその御声。ついこの前までのひどく不協和な響きなど、今の歌声を聞いたら誰も想像なんて出来ないだろう。幾日も謡い続けフライゴンは、ただ飛んでいるだけでは美しい音を出せないという事を理解していった。ラートの声との距離を近づける為、羽根の動かし方や風の操作の仕方を、フライゴンなりに学習していく。やがて、その二つが同一音に近づいて行く、その間近。昨晩、敵襲がやって来たのだった。
悪しきあの者らが来なければ、今頃謡っていたはずなのに。そう考えると、ラートは敵陣が憎らしくて仕方が無かった。このままじっとして居るだけならば、明日も明後日も気持ちよく謡う事なんて出来ない。
「この地の安寧を護られたり、清きなる聖霊よ」
フライゴンに向かって、ラートは呼びかけた。叫ぶでも無く、呟くでも無く。口を付いて出るようなトーンで彼は続ける。
「俺は、集落の男共と、敵の偵察へ向かいます。相手の状況を知り、襲撃に備えるのです。奴らの出方次第では、侵攻も厭わない所存であります」
ラートの甲高い声の響きと反比例し、砂嵐が、徐々に弱くなっていく。
「俺はこの地の平穏、民の為に、歴史の為に。この集落を守り抜くと、そう言い切ります」
殺されるかもしれない。ここで血族は絶えてしまうかもしれない。悪いシチュエーションを挙げたら、切りが無かった。だからこそ、彼は言い切った。精霊の前で宣言することで、自分を焚き付けるために。
フライゴンは、ラートの前に舞い戻って来た。着地したオアシスが静かに揺らめく。陽光の沈み切る寸での光が、精霊としてのフライゴンのシルエットと、水面の模様を映し出した。レンズの奥。彼を見据える眼差し。その意図を、理解しようとした。
「俺を、激励してくださるんですね」
問われたフライゴンは、しかし、瞼を閉じて。違う、というニュアンスをラートに示した。それから、再び彼と視線を合わせる。広げた羽根。不意に動かして。フライゴンは、彼に背中を差し出した。
そうか。
「俺と、一緒に来て下さるのですか」
振り返って眼差しは、一つ瞬きで以て、それを肯定した。
陽は沈み切り、また夜がやってくる。詰所では既に、相手の陣営に向かう偵察隊が作り上げられ、今にも出発しようという算段になっていた。見送る謡い手が、彼らの無事を願い謡う。
「――」
九番、祈りの歌。重々しいその響きに聞き入り、長を含む詰所の男らは、じっと息をひそめる。各々は最悪のシチュエーションを、交錯する思案の中で各々が巡らせていた。その場を取り仕切っていた長ですら、凛々しい横顔の反面でそれに苛まれている。目の前に置かれた炎が、駆け抜ける勢いで凄惨なイメージを加速させていた。
その時だ。
「俺に、行かせてください!」
瞬間の、沈黙。唄は止み、男達が声の方へ振り返る。誰もが思いがけず詰所へ飛び込んで来たのは、戦闘用の衣装を身に付けた長の息子と、彼らが保護していた傷つきし精霊だった。詰所の雰囲気が突如として変わっていく。出し抜けに彼が放った言葉の意味を、ここに居る誰もが理解しようとし、騒めいた。
ラートの父親である長は、対峙する息子に動揺していた。彼は、射るような視線で以て自分を見据えている。彼と同じように、自分を正視する精霊。その神聖なるシルエットを後ろに携えたラートに、畏れに似た態度を取ってしまいそうだ。それを、悟られぬよう、あくまで静かに彼は息子に語り掛ける。
「何を言っているんだ」
「俺に考えがあります。行かせてください。精霊が、共に行こうと言って下さったのです。この集落を、俺は護りたいのです!」
ラートは甲高い声で以て、弾けるように言葉を紡ぐ。彼と精霊とでしか実現し得ない、それは偵察でなく、侵攻のプランだった。長はラートの言葉を聞きながら、腕を組み、目を伏せる。考えあぐねるような、それでいて、彼らの発言を根こそぎ否定するようなニュアンスで。それは、長の息子であり、愛する民の一人である自分を案じているからなのだろうと、ラートはその感情に気づいていながら、しかし。
「行かせてください」
そう言い切って、長の元で地に膝をつく。仰ぐようにして鋭く、俯き沈黙を続ける父親を見据えた。そして、深く、頭を下げる。
「どうか」
この集落の中における、最敬礼。地に頭を付け、彼はそれで以て許しを乞う。彼の父親は、その行動に衝撃を受けた。未だ精霊の庇護を解かれぬ、愛おしい馬鹿息子が。つい先日まで、侵攻という言葉に怯え激昂したラートが。自ら敵陣に攻め入ろうと、その許可を取ろうとして、自分に頭を下げている。見守る男達も謡い手も、その気迫と厳粛たる態度に静まり返った。
「捕虜にでもなったらこちらに更に負担だ。その可能性があることも、もちろん考えているんだろうな」
長は、ひねり出すように。低く、静かな声色で息子に問うた。
「その場合は、集落の安寧を優先してください」
息子は、父の言葉に対し即座に答えを出す。それは、捕虜になろうとも、弄られ晒されようとも構わないという強い意思表示だった。その言葉に、父自身が覚悟を決める。
「これを持って行け」
ラートはその言葉に、父親へ首を上げた。彼の目の前に差し出されたそれは、戦闘用の鉄砲だった。
「扱い方は分かるな。武器商人から仕入れたものだ。“火煙玉”が入っている。いざとなったら、迷わず使え」
受け取ったその手に、独特の感触と重さを感じる。生唾を飲み込んだ。改めて、覚悟を決める。
「深謝します」
ラートのその瞳に、迷いは無かった。