レクイエム
ナギサシティの外れ。その小屋は、広がる砂浜の果て、ソーラーパネルが敷き詰められた道路も通らない、獣道を歩いた先にあった。空は快晴のはずだが、生い茂る草木や蔦が日光を遮り、ここだけが取り残されたように薄暗くある。
ここか。俺は少しの間、自分の背丈と変わらない小さな小屋を前に唖然、にも似たように立ち尽くした。感傷的な気分に浸るのは好きではないはずだが、どうしてだろう。その少年をこの小屋に重ねると、簡単に立ち入ることが、憚れた。意を決し、立て付けの悪く、埃のたまった小屋の扉を、勢いをつけて開く。パートナーのヘルガーを俺の後ろに控えさせていたが、野生ポケモンが飛び出してくることもなく。代わりに粉塵と、カビ独特の臭気が舞い上がって、俺の視界を遮った。長い年月、何者も立ち入らなかったのだろう。小屋に足を一歩、ようやく踏み出すと、潮風で湿った木造の床が軋んだ。
ロトムとその少年、アカギは、この場所で出会い、そうして、この場所で別れを告げることになる。彼の遺した書物から記憶の断片を拾い集めて、ここに彼の半生を書き記すことにしよう。
太陽の町、ナギサシティ。大小さまざまなビルが立ち並ぶ近代的な街であり、同時に、海辺はシンオウの中では随一の美しさで有名である。市場は活気であふれ、ポケモンリーグを目指すものにとっては最後の難関が待ち受ける試練の街でもあった。さまざまな一面をもつこの地の中心、高いマンションの一室に、アカギは生まれた。元々控えめで物静かな子供、というわけではなく、幼少の彼は活発で元気がよく、それでいて皆の模範になるような優等生であったと、幼き日のアカギを知る人々は繰り返す。母親をエリートトレーナーに持ち、父親がスクールの教授である彼は、ポケモンバトルの才能も早くから開花させ、同年代とのバトルでは負けることがなかった。憧れにも似た感情を抱かれるようになっていったアカギは、自然に人々を惹きつけていく。
「彼には、自分の目指す野望にいかなる困難や妨げがあろうとも、動じず、不乱で遂行するだけの能力と才気を持ち合わせていた。彼に心奪われたものは、彼の大志を信じて疑わなかったよ。その才能を悪用しようとしてギンガ団で活動していた奴もたくさんいた。しかし、アカギはそんな下心すら飲み込んで、彼らを利用し、自分の望みを1つ1つ、着実に現実にしていった」
ギンガ団の幹部であった男性は、アカギをそう語った。
「俺は、アカギの姿に感動すら覚えた。自分の生きてきた人生の、なんと半端なことだったろうか、なんてね」
アカギの魅力は、人々に憧れや畏怖、尊敬や目標を与え、その影響はシンオウ全土を震撼させるものとなる。そんな彼の特異な能力ゆえ、自分自身に絶対的な自信持つようになり、同時に、その過剰な自身ゆえ何にも縋ることができず、慢性的な「淋しさ」に彼は巣食われ、それに縛られることとなった。
「……ロトム?」
いつもの場所に、あの子がいない。少年は不安になって、狭い倉庫の中をきょろきょろと見回した。古い本棚、たくさんの書物。時代に置いてけぼりにされた電化製品の数々が造作もなく押し込まれて、記憶の奥へ放り投げられた、ここはガラクタ小屋であった。だが、しかし。少年にはそれらが、自分だけの特別なひみつきちであり、そのすべてが宝物であった。がさり。彼の視線の斜め後ろ物音に感じる気配に彼はぱっと振り返り、手を伸ばす。
瞬間。静電気に触ったような小さな衝撃が彼の指先に伝わり、半透明で青目の大きなポケモンが、そこに姿を現した。
「みーっけ!」
少年は嬉々として叫ぶ。
「今日は隠れるのが上手だったね!」
そのポケモン、ロトムは宙に浮いたからだを翻し、壊れかけの電子音のように幽かな鳴き声を上げた。帯びた微量の電気をぱちぱちと鳴らせ、「遊ぼう!」という意思を少年に伝える。今日は何をしようか。そうだ、一緒に本を読もう。それとも、へんしんごっこをしようか。ポケモンレンジャーごっこでもいいね。
この空間は、少年とロトムだけの世界だ。時間という概念が消え失せ、何事にも縛られない、現実世界とは非なるものだという錯覚すら、少年は思っていた。ただ純粋に笑い、精一杯楽しむ。それが彼らのすべてで、それを失くしてしまった後のことなど、無いと信じて疑わなかった。
幼き日のアカギは、この町の外れへなぜ足を踏み入れたのだろうか。何かに導かれたのかもしれないし、ロトムが彼を引き寄せたのかもしれない。アカギはスクールのない日はもちろん、たまにスクールを無断欠席し、ロトムと一緒に時間を過ごしたようだった。親が買い与える当時流行っていたおもちゃよりも、スクールのポケモンをレンタルして楽しむポケモンバトルなんかよりも、ロトムとのかくれんぼやかけっこが、彼にとって一番の魅力だったのだろう。どうやらここは、ナギサシティが発展する前に集落があったところの名残のようで、ロトムは放置されたガラクタ小屋に取り残された電化製品の亡霊として、ここにじっと住み着いていたようだ。
「君は、ずっとひとりだったのかい?」アカギがそうロトムに問うと、それは静かに少年の瞳を見据えるだけ。
アカギは、何に対しても恵まれ、しかし満たされることのない心のスキマを、このロトムこそが埋めてくれると信じていた。自分に対する自信やプライドのせいで、うまく人に甘えられない彼は、ロトムに依存していく。彼にはこの場所が、現実とは分け隔たれた、“新しい世界”のように思えた。日常生活での疲れ、苛立ち、うまくいかないことも、眠れない夜も。この場所を、ロトムを思えば安らぎ、どんな逆境にも耐えられる。アカギはこの場所をずっと、ずっと心に留め、流れゆく時の中、そのまま青年に成長していった。
スクールを首席で卒業したアカギは、ポケモントレーナーの道を選ばず、研究員として一般の企業で働くこととなる。スクールに縛られていた彼が見たのは、人間同士の愛憎と駆け引き、社会の規範、常識、上下関係という新たなしがらみの数々であった。毎日をもがく様に生きるアカギは、次第にこの世界で生きる喜びを見つけていく。自分が、この何千何万という人間の中で必要とされているということ。自分の才能を、最大限に引き出すことができる人間がいるということを、彼は知る。自分はこの世界で生きていく。いつしか彼は日々を戦い抜くことを喜びとして受け入れることができるようになり、小屋のこと、ロトムのことは心の奥から闇へ葬られた。
ふと、アカギがロトムを思い出し、その小屋へ立ち入ると、もうあの子はそこにいなかった。
喪失感に、立ち尽くす。
どこへ行ってしまったのだろう。私を見捨てて、どこか遠いところへ? いや、見捨てたのはどちらだ。散々彼に縋っておきながら、わたしはこんなにも長い時間ロトムを忘れていたじゃないか。
湧き上がる、“悲しい”という感情。そうしてそれは、彼のすべての感情を支配し、膨らんで、止まらなくなった。当たり前のように何かがそこに存在している間、私たちは簡単にその何かの価値を忘れてしまうのだ。全てを知るのは、それらが自分の前から無くなってしまってからなのだ。そう、彼は思い知る。
なんて愚かな。ああ、私はなんて愚かな人間なんだ!!
「感情。それは、自分自身に対する言い訳なのだよ」
白が黒となり、上が下になる。暗闇に染まるはずのこの世界は、今まで生きてきた裏側の世界の希望のように、まばゆい光を放って俺を迎え入れた。ねじれた世界。ここは、アカギが自身の能力と、それに群がる人間の脳を駆使して、こじ開けた世界。不完全で争いしか生まない“感情”の飛び交う世界の中でアカギの求めていた、何にも縛られない、何にも矛盾がなく、何にも完全で整然とした、新しい世界である。
「ここまで執拗に追ってきたのは、お前くらいだ」
そう言って振り返ったアカギは、俺の目をじっと見据えて、呟くように。ロトムとの出会い、自身の野望を静かに淡々と語った。
「シンオウは、伝わる神話に思考を制限される人間の巣窟だ。彼らは自分の理想、思い、ひいては感情すらそれに支配されている。そういう意味では、整然とした世界かもしれないな」
彼は続けた。
シンオウ神話。それに抑制された人間達は、アカギが切り開く未来に惹かれていく。それらを動かすことは、彼にとって簡単だった。いかなる人間をも利用し、彼は自分の野望を達成していく彼。その規模は瞬く間にシンオウ全土を巻き込んで膨れ上がり、幻のポケモン、ギラディナが住む伝説のこの世界に到達することに成功したのである。
「わたしには、ロトムのいない世界など不必要だ。彼を失ったあの日からの“悲しみ”“淋しさ”という感情で、彼がいない世界を無理やり納得させる日々も、これで、終わりだ」
アカギはまた俺に背を向けた。そうして、歩き出す。
「国際警察の、ハンサム君、と言ったか」
一歩一歩離れていく彼は呟くように俺のコードネームを呼び、そのまま、姿が遠巻きにぼやけていく。
「ありがとう」
待て! 思わず叫んだ俺の声に、彼は一言、残した。
「ナギサシティの外れだ」
すっと、慄く程の巨大な黒い影が俺の前を飛び去ったあとに、耳の奥に劈く轟音。突風と呼ぶにはおこがましい程の強い風にあおられ、そうして俺は、この世界から追い出されるかのように吹き飛ばされた。
暗がりに目が慣れてきた。
左足に次いで、右足を踏み出す。舞っている砂も落ち着き、小屋の奥が見渡せるようになる。
カビの生えた本や、風化した家具。棚、ガラクタが雑作もなく散らかるここは、彼の語ったそのままの状態で時を過ごしていたようだ。
ふと、目の前の机に視線をおくり、俺は息をのむ。それは、古ぼけた紙切れだった。
指先でそれを手に取り、ゆっくりと開く。
に出会えて わたしは本当に良かったと思っている わたしの人生はこの場所で 大きく変わった
が 今も昔も生きる目的なのだ
に出会わなければ わたしはもっといい人生を送れていたのかもしれないだなんて そんなの痴れ事だ
なしでは 今のわたしは生まれていない 出会えたから今を生きて そうして 新しい世界を切り開くことができた
がなかったらわたしは 溺れ死んでいたも同然なのだ
はわたしの青春だった なんて 美しく脚色しすぎているのかもしれないね まるで まぼろしのようだ
ありがとう さようなら
「ナギサシティの外れだ。すべて終わったら、焼き払ってくれ」
アカギの言い残した言葉が、脳内を反芻する。手に取った紙をそっとそのテーブルに戻し、ヘルガーに火炎放射を指示した。
木造の小屋は、儚く、まるでなんの躊躇もなく燃えて広がっていく。
俺はその光景を直視できず、背を向け、シティの都心部へと歩き出した。