夢のような
今日もまた、空を見て彼女は呆けたようにぺたんと座り込んでいた。ピンクの寸胴に短い手足。下がった花弁のようにかわいらしく特徴的な耳をふわふわ躍らせて、彼女は暖房の前を陣取り、窓の奥を眺めている。ポケモン、タブンネ。わたしは彼女に「ミミ」と名付けた。安直だと笑わないでほしい。下手に格好つけたネーミングをするより、語呂がいいこの名前こそ、わたしの相棒に相応しいのだから。彼女はもともとおっとりひかえめで、そのくせおこりっぽい天邪鬼で天邪鬼な性格だけど、その変化には容易に気付かされた。
半年間と遡らないであろうか。最近の彼女はどうにも落ち着きがない。今日だって、何かを想い耽るような遠い眼差しを雲の向こうへ送り、そうしたかと思えばうつむいてまぶたをおろし、そうして、なにやら微笑んでいるような、とても幸せそうな表情でうたた寝をする。わたしが隣へ座ると、「いつの間にわたしのそばにいたんだ」とでも言わんばかりに驚き跳ねる始末。「あんた最近ぼーっとして、なんかあったの?」わたしが笑いかけても彼女は、気にしないでと言わんばかりに、また眠りにつくのだった。
ポケモンレンジャー。ポケモンの力を借りて人間たちの平和な世界を作り出すために、様々な地方のさまざまな街にレンジャー協会から派遣される、わたしはその一員だ。ここから遠く離れた南国から、イッシュ地方の田舎町、カラクサタウンへやってきて、今年でちょうど二回目の春を迎えた。ここでの主な業務を平たく言えば、管轄の地区の草木や、ポケモンと人間を守ること。時間があれば草むらへもぐり、きのみを育てたり、植林活動を行ったり、夜間の安全パトロールなどもしている。幼いころから、ポケモンレンジャーになることがわたしの夢だったから、こうしてこの職業に就いたことで、毎日やりがいのある日々を送っていた。ミミはイッシュに来てすぐできた新しい仲間で、そろそろ一緒にいて二年が経つ。毎日の衣食住をともにしているし、心の通ったパートナーだとわたしは心から思っている、だのに。充実した毎日ゆえの忙しさに身を押し流され、彼女の些細な変化にわたしは気づいてあげられていないような気がして、いつも彼女の澄んだ、遠くへの視線を見るたびに、なんだか切ないような、悔しいような気持ちになっていた。
「“ハイリンク”? ごめん、もう一回お願い」
「だーかーらー。そこに宿る膨大で出所不明のエネルギーの中に、私の研究チームが開発した“ゲームシンク”っていうハイテクな機械で吸い取ったポケモンの夢を、ムシャーナたんの“ゆめのけむり”で吸い取ってぶち込むと、そのポケモンの夢が、その“ハイリンク”で現実になるの。私たち人間は“Cギア”っていうハイテクな機械でそこにワープすることができて、自分のポケモンが見た夢の中の世界へ行けるってわけ!」
熱弁後、マコモは何かを取り戻したように煎茶をすする。「ショウロー、いかりまんじゅう足りなーい」と叫び、また一口。彼女の摂取した糖分は残らずすべてあの脳に吸収されるんだろうなと、彼女の細い体を見てしみじみ思う。同世代、同性ということもあり、彼女と会話をすると、なんだか「わたしもがんばらなきゃ」という気持ちになり、それはわたしにとってとてもいい刺激になっていた。会話の主導権は、だいたい彼女のほう。恋愛に対する持論の熱弁は特に、彼女の経験を交えながら話しものだから、とても勉強になった。少なくとも、わたしは彼女の“過去のオトコ”みたいな人には引っかかりたくないな、なんて、内心思ったりしている。そんな彼女はカラクサシティの隣町、サンヨウシティに住む若い研究家だ。彼女の研究に必要なムシャーナ捕獲の際に協力を要請されて知り合い、何かと頻繁にお互いがお互いの家に行っては話し込んでいる。今日は、ふとした流れから彼女の研究についてわかりやすく解説してもらっているのだが、具体的なイメージが浮かばず、片耳で聞いては片耳から抜け行くという感じで、さっきから同じことばかりを彼女に質問してばかりだ。
「つまり、マコモの研究のおかげで、わたしがミミの夢のなかに行けるってこと? だよね?」
マコモはいかりまんじゅうを含んで膨らんだ口元を緩ませ「実験段階だけどね」と答える。もう実験する段階まで進んでいるんだね、呟いてわたしは、現代の科学技術に感心し、フル回転の脳に糖分を送り込むためにチョコレートをつまんだ。
「だからね」マコモは続ける。
「たくさんのポケモンの夢が“ハイリンク”の中に存在する。ポケモンたちはそれぞれ見る夢はもちろん違うから、“ハイリンク”の光景はそのポケモンの数だけ存在するの。基本的に、自分の眠らせたポケモンの夢の世界にしかワープすることはできないんだ。だけど、自分のポケモンの夢の世界の外れにある“せかいのかけはし”を渡ると、なんと! 自分のポケモンとは違う別のポケモンの夢に飛んでいけるの! だから、ポケモンの夢の中で、トレーナー同士の交流もできちゃうわけ」
この時のわたしの顔は、相当間抜けのようだったのだろう。マコモは、わたしの顔を見て噴き出す。「ごめん、ちょっと熱くなりすぎちゃった」と言って、しかし、また続ける。
「百聞は一見にしかず。よかったら、行ってみない?」
ミミのことを、知りたい。いつも女子どうし、馬鹿のように間抜けな話しかしないわたし達だが、わたしのそんなささいな願望に、マコモは持論を繰り広げてくれた。そんなに気になるんだったら、ミミの夢を見て来なさい、というのだ。「あれこれうだうだ悩むより、さっさと解決してスッキリしたほうがいいのよ」彼女は最後のいかりまんじゅうを頬張り、恋愛もね。と無駄に一言付け足して、わたしにめがけて、なんだか憎めない、いつもの表情で笑った。
「それじゃ、“Cギア”起動するわよ」
それからひと月の歳月がたって、わたしはまたマコモの研究室にいる。今日の目的は、“ハイリンク”への転送実験だった。やはり実用段階へはまだ早いものの、実験はイッシュ全土で大々的に行われていて、わたしはその一人として参加することになったのだ。彼女の部屋の奥。特殊なベッド型の機械の上で、ミミは眠らされていた。すでにミミの夢は“ハイリンク”に送られているとのこと。今度は、わたしが彼女の夢へ飛び込む番だ。未知の世界。少し緊張するけれど、マコモの研究だ、成功例もたくさんあげられているという安心感と、好奇心がそれを上書きする。「わかった」とわたしは返し、マコモと目を見合わせて笑って見せた。
「行ってきます!」
突風。
巻き上がる砂埃と灰燼に思わず瞼でふさぎ、ぱっと開いた瞳の映したものは、薄暗く、ゴミの臭いが熱気で込み上げる狭い道と、見上げても果てが見えないほどのコンクリートの谷だった。そうして、もう、とにかく暑い。羽織っていたカーディガンを脱いで、腕に装着してある、蒸れた“Cギア”をポケットにしまい、カットソーの袖を捲った。さて、ここがミミの夢なんだろうか? 足元に溜まる汚水に漂う水面。眼前に広がる光景があまりにリアルすぎて、怪訝にすら感じてしまうが、現実の季節が春先だったから、この天候はあり得ない。ここは、夢なんだろう。妙に納得したわたしは、立ち尽くしていた足を一歩踏み出す。その音に反応して、ぱちぱちとバチュルが隅のほうへ逃げていった。ここはどこだろう。見覚えはある。しかし。コツコツと地面を踏みしめる自分の音が聞こえ、遠くでは無数の人間の声とクラクションの喧騒と、間抜けな船の号笛が渦巻いていた。ふと思い出す。ああ、そうか、ここはヒウンシティか。ここに来たのは、そう、半年前。レンジャーの研修で初めて赴いて、それきり。初めて見る高層ビルに感動し、いろんなところを見て回って、ミミとはしゃいだ覚えがある。
そうだ、彼女は、ミミはどこにいるんだろう。これはミミの夢の中。だから、彼女の夢の中のわたしと一緒にいるのだろうか? もしかして広くてごみごみしたヒウンシティに紛れるミミを探し回らなければならないのだろうか。疲弊を感じて、額の汗を拭う。まあ、わたしがあの時彼女と歩いた道を辿ればいいだろう。とにかく、この路地を出たい。吐息を腹から勢いよく吐き出して、「よし!」と声に出して、わたしは早足で歩きだす。
その瞬間であった。わたしは背後にそれまで感じ得なかった気配を感じ、ぱっと振り返る。そこにいたのは、鋭い太陽光のシルエットで浮かび上がる、二体のポケモンの姿であった。一匹のポケモンの特徴的なあの角は、メブキジカであろうか。座り込んでじっとしている。一匹のポケモンは、ぼってりとした容姿と太い腕を見る限り、ヒヒダルマのようである。なんだか、どこかで見たような組み合わせ。そうして、満ちる殺気。ヒヒダルマの方は落ち着きがなく、ゆったりとした動きで辺りを見回して、手近あったゴミ袋の束を、ひょいと持ち上げては散らかして、どうやら彼らは遊んでいるようだ。中にはヤブクロンも紛れているらしく、それの断末魔が路地に響きわたった。ふと、ヒヒダルマが投げたヤブクロンがわたしへ飛んできた。それはわたしを見て驚き、小さい手足をぱたぱたさせて、闇に逃れていく。彼ら特有のひどい臭いが立ち込めて、わたしは狼狽した。瞬間、地響き。ぱっと視線を遠くへ送ると、ヒヒダルマの瞳を暗がりに確認できた。メブキジカも、すくっと立ち上がって、小さくその喉を鳴らし、頭部をゆらゆらとさせ。わたしを、見ている。
瞬時。それは、猛烈な勢いでわたしに突進してきた。はっと意識を戻されて、わたしは走り出だす。そうだ、“Cギア”で現実世界に帰ろう。ポケットから探って取り出す、瞬間、わたしはそれを地面に落としてしまった。ああ! まずい。拾おうとした直後。鋭い刃がわたしへ飛び散る。激痛と同時に“Cギア”画面が粉々に砕け、わたしの腕から血が滴った。はっと視線を正面へ送ると、メブキジカの角が光を放っているのが見える。逃げなければ、逃げなければ、まずい。日頃モンスターボールを入れているはずの場所を手で確認し、やはりないか、とわたしは落胆した。とにかく路地を抜けて広場に出よう。わたしは腕の傷をかばう余裕もなく、がむしゃらに疾走を続けた。次第に、口元から漏れ出す、嗚咽にも似た喘鳴が、恐怖で満ちた遁走で疲弊した体をさらに痛めつける。背後から感じ続ける殺気に、背中の鳥肌が止まらない。振り返れば、わたしを追うものがもう消え去っているんじゃないか、そんな期待を続けながらも。ああ、やはり、期待はするものではない。その瞬時、わたしの頭上に規則正しく輪を描き、美しく空に描かれる、それは花びらの舞。見とれるも、つかの間、同時に感じる悍ましい程の熱気を帯びた炎の渦。繰り広げられるその熾烈な絢爛の競演は、路地を抜けた向こうへ一直線に逃げ抜くわたしの後ろ足元へ突き刺さった。その瞬時、一閃の如く、爆発音。強烈な熱風に歩幅が追いつかない! 足を取られ、吹き飛ばされたわたしの体は軽々と宙へ翻る。「うそっ」思わずつぶやいた言葉は空へ掻き消され、手を地面に着く余裕もなく、わたしは頭から叩きつけられた。まばたきよりも早い激痛。呼吸をする余裕もなく、わたしはその場から動くことを諦めざるを得ない。呼吸が苦しい。視線を落とす湿ったコンクリートに、巨大な逆光のシルエットがじりじりと迫っている。脳裏に刻まれる恐怖との最悪のシチュエーションに耐え切れず、わたしはそこで視界を遮断した。
遠くからやってくる、激しい追い風。それに乗って、ああ、聴覚の果てで、男声が聞こえた気がする。昼間だから、もしかしたら、夢の中の誰かが助けに来てくれるかも。いや、そんな都合のいい話はないだろうか。もう、諦めるしか。夢の中で死んだら、わたしは元の世界で行方不明扱いになるんだろうか。ミミの夢の中に、家族は、マコモはわたしを探しに来てくれるだろうか。つむった瞳に、何かを考える時間が残されていることにわたしは驚く。そうして、気づくのは、こつこつとこちらに向けて聞こえてくる足音だった。
「キミ! しっかりするんだ!」
耳元に届くそれはやはり、男声だ。直後。肩を抱き起され、わたしは体を揺さぶられた。はっと意識が明瞭になった視界が、男性の華奢なシルエットとその瞳をとらえる。思わず、え。なんて、間抜けに声が出てしまった。彼はわたしの意識があることを確認すると「よかった、間に合って」そう言って、視線を前方に向けた。
「やあ、はじめまして」と早口で彼はそう言うと、逆光で影になった口元に、やんちゃ、という言葉がピッタリの声で言う。
「助けに来たよ」
混乱するわたしを置いて「ギギギアル、放電だ!」と彼は、鋭く叫ぶ。瞬間の、閃光と超音波のような破壊音。思わず瞼を閉じたわたしを、彼は舞い上がる粉塵と衝撃から庇うかのように、抱き寄せた。途端に、なんだか、胸の奥の奥がちくっとして、恥ずかしいような、むつかしいような感情が噴き出して、だのに、思わぬその力強さになんだか安心してしまう。ポケモンに対する指示の度、相手との特殊攻撃のぶつかり合いによって生じる衝撃波がびりびりと押し寄せて、しかし彼は動じない。この人、バトルに慣れているようだ。自分のポケモンの位置、次に相手の繰り出すのが物理的な攻撃か特殊攻撃か、など。トレーナーには今置かれている状況を瞬時に見分ける能力が求められるが、彼は的確にそれを見抜いているように見えた。この戦闘を掌握しているのは、間違いなく、彼だ。ふと感じる、強大な熱風の勢い。よし。と、彼は呟いて、身をぐっと起こした。同時に、男性の鎖骨がわたしの頬に触れ、驚いて思わずするまばたきの隙間に、薄く血管の浮き出る首筋がちらついた。汗の匂いと、とくとくと響くお互いの心臓音。ああ、近い、近い! 恐怖とか、絶望とか、そんなのはもういつのまにか遠ざかって、わたしはただただ、男性との密着に、この状況に赤面していた。
セントラルエリアと呼ばれるヒウンの中心にある大きな公園は、ジョギングや談笑を楽しむ人であふれている。そんな中、まるで満身創痍、砂と埃とでひどいありさまになったわたしは、ベンチにだらしなく座り込んで、夕暮れが近くなった空を仰いでいた。いつの間にか腕の傷からは出血が止まり、それと打ち付けた膝がヒリヒリ痛んだ。そういえば、Cギアを落としてそのままだったっけ。あれが無くてもわたしは帰れるんだろうか? 焦燥の中、ふとマコモの言葉が浮かぶ。
「“ゲームシンク”は、そのポケモンがその時見ている夢を吸い取るだけじゃなくって、そのポケモンが今まで見た夢全部のデータを回収することができるの。だから、そのポケモンの見るどの夢に飛ぶことができるかはわからない。ただ、今までの結果上、そのポケモンがよく見る夢に飛んでくらしいわね」
わたしは、改めてこの世界を見渡してみた。半年前のこの日の出来事の夢を、彼女はよく見るんだろうか。ちょうど、ミミの様子に違和感を覚えた頃と重なるが、なぜだろう。初めての街だったからかな。
「これ、飲む?」
例の男性がわたしの隣に座って、自動販売機で買ったのだろう、冷たいミックスオレをわたしに差し出す。感謝の言葉と同時にそれを受け取って、喉を潤した。
「あの、ありがとうございます」改めてわたしは彼に感謝の言葉を述べ、自己紹介と、この世界に来た理由、自分の置かれた状況をそれに重ねて伝えた。男性は首を横に振って、「構わない」と一言。
「ボクはネイバー。“ハイリンク”の住人さ」そう言ってほほ笑みながら、わたしが飲みかけたジュースを全て飲み干した。わあ。と、思わず声が出るが、彼は「ん?」という表情でその容器をゴミ箱に投げ入れる。そうして、彼は語り始めた。
ネイバーっていう名前は、ボクの仕事上での名前。“せかいのかけはし”で繋がっている、僕たちは隣人同士だっていう意味合いで、自分でそう名付けた。“ハイリンク”には研究家や企業がさまざま介入していて、マコモ達の研究はその一つ。ボクは“ハイリンク”内にある“せかいのかけはし”を渡って、各人のさまざまな不具合やミッションにフリーで対処して暮らしている。“せかいのかけはし”を渡って対岸、相手の世界へ行くと、ボクの姿は、その世界で相応しい姿かたちになるんだよ。キミのトモダチの夢は現実の世界に即した夢だから、普通の人間の姿をしているけど、モロバレルになってしまったこともあったし、ポリゴンの発するサイコキネシスになってしまったこともあったな。まあ、中にキミをこうして助けに来たのも、マコモ博士から依頼を受けたからなんだよ。
「マコモが、あなたを呼んだの?」わたしが問うと、彼は頷く。
「“Cギア”から異常電波が飛んできたから様子を見に行けと言われてね」一呼吸開けて続ける。
「このキミのトモダチの夢の世界は、彼女のさまざまな夢が混ざり合ってできた世界だ。キミを襲ったあのポケモンはきっと、別の夢から入り込んできたように思う。ヒウンにはあんなに強い野生ポケモンは出てこないからね」
その発言で、わたしはあのメブキジカとヒヒダルマに感じた既視感に納得した。たしか、ミミと出会って少し経った頃、業務中に対処した暴走族の手持ちがその2体だった。まだミミはレベルが低かったから、わたしは彼女でない、ほかの自分のポケモンでそれを伸した記憶がある。ミミは、それらへの恐怖を覚えていたのだ。
「まあ、お互いにお互いのことはわかった。“Cギア”が壊れてしまっていても、この夢が終われば、キミは勝手に現実に引き戻される」
だから、と彼は続ける。「キミの目的を達成しよう。キミのトモダチの気持ちを知りたいんだろう? 付いていくよ、ボクはお人良しだからね」
夕暮れのヒウンシティを、ミミを探して歩き回る。回る場所は、半年前わたしがミミとその時間歩いた場所。それ以外モンスターボールから出していないから、その場所に彼女がいるのは明白だった。この日、ヒウンでは大規模な夏祭りがあって、イッシュ全土から人が押し寄せてごみごみとしていた。そんな中、ネイバーはずんずんと前へ進んでいく。わたしのことなんかお構いなしに、彼は思うままに歩いているようだった。突然立ち止まったと思うと「よし、ヒワンアイスを食べよう」とか「元気かい?」とポケモンにいきなり話しかけたり。いきなりわたしへ振り返りって「キミ、何をそんなに楽しそうなんだい?」なんて無邪気に笑いかけたり。とにかく不思議で、それがわたしにとってはとても新鮮で。彼はもしかしてマコモの言う「ワガママで自己中心的な、だけどカワイイ典型的ダメ男」となのかもしれないなあ、なんて、ヒウンアイスを食べながら、そう思った。
この祭りでは、花火大会も行われる。レンジャーの研修の後にその花火を海辺まで見に行って、隣でミミははしゃいでいた記憶を引っ張り出して、その旨をネイバーに伝える。「その花火大会は何時からだった?」彼の問いに「18時過ぎ」と答える。彼が時計を確認し「もうすぐだ、それからどうした?」と矢継ぎ早に更なる質問。
わたしは、その時の出来事をひねり出した。花火の音にびっくりした野生や市民のポケモン暴れ出して、一緒にいたレンジャーと一緒にそれを静めたこと。そのあとはホテルに帰って、次の日はもうカラクサに帰る日だったために早く寝たから、彼女をモンスターボールから出したのはこの花火大会までだということ。「なるほどね」とネイバーは答える。瞬間、視界の先の頭上、一発目の花火が空を彩り、始まったね、お互いそう言って視線を交わした。
「あのさあ」ネイバーの話しかけてきたのに、ん? と答える。彼は続けて、問うてきた。
「キミには、夢があるかい?」
ヤブカラボウに、なんて戸惑ったけど、彼の口調の穏やかさの奥に、真剣な鋭い響きも混ざっていた気がして、わたしは素直に「あるよ」とだけ言う。でも、なんだかその言葉に自信を持って言えない自分がいた。ポケモンレンジャーになることで、一つ夢は叶えた。でも、その先は? きっと、何かあったはず。
夢ってなんだか、ぼんやりとある幻想のような気がして、いつしか目の前の業務に食らいつくだけの毎日だったこの二年間。パートナーの気持ちも汲んでやれない、未熟な自分。わたしは、なんのためにこうして生きているんだろう、なんて、馬鹿のように幼い考えがふっと頭よぎっては、それは夢のためじゃないかなんて思う。でも、その夢はいつの間にか、忘れてしまっていて。ああ、こんなわたしに、夢を語る資格なんてない。だけど、それを認めたくなくって、わたしは強がってもう一度、「あるよ」と、わたし自身に言い聞かせるように呟いた。「そうか」と彼はなんだか満足そうな顔をして、それ以上の会話はない。
ああ、耳の奥が捉える、甲高い女性の悲鳴。それに同じて広がるパニックの渦。花火大会も闌、この日一番大きい花火が空へ舞って、港へたどり着いたわたしたちを混乱が出迎えてくれた。ポケモン達の暴走が始まったのだろう。遠巻きからそれを確認し、その中心でポケモン達を伸すミミを探す。そこでは大小さまざまなポケモンが混乱を極めていた。火の粉や水鉄砲が行き交い、奥の方でヤブクロンとその進化系の集団が悪臭を放つ。空に咲く大輪の花はその輝きを掻き消され、むなしく宙に消えていった。ああ、なんてひどい光景なんだろう。そんなことを隅に思いながらも、わたしの目は彼女を探し続けた。タブンネという種類のポケモンは基本的に出現率が低いから特定しやすいものの、プリン族やピッピ族と体毛が似ているのでなかなかに探し出すのが難しい。ふと、聴覚の先から聞きなれたビードロの音。これだ。
「見つけた! 見つけた!!」わたしはネイバーの腕をつかんで、引き寄せる。彼はわたしの視線の先、ポケモンにメロメロ攻撃するミミと、黄色いビードロを吹いているわたしを見やった。
「なかなか愛嬌があるタブンネ、と、トレーナーだ」と、彼は笑う。ほっとして、でもなんだか恥ずかしくて。わたしはしばらく、そのバトルを見守ることにした。
「キミの戦い方はおもしろいね」彼は感心したように続ける。
「メロメロで相手を油断させ、その隙にあくび。なかまづくりで相手と心を通わせている間、相手はうとうとと眠りにつく。キミはその間、様々なビードロを吹き、混乱状態に苛まれるポケモンの意識を戻す。文字通り、戦闘不能だ」
そう言って、うん、と唸った。わたしは物理攻撃を自分のポケモンに指示することを極力避けている。ポケモン同士がトレーナーに従順に従い、トレーナーのために傷を作りあうポケモンバトルというものがあまり好きではなかったから。それらを最小限にし、催眠術や甘える、メロメロなどの、相手の能力を極限まで下げて戦闘不能にするのが方法がわたしの主流だ。それだから、タブンネというポケモンはわたしのそのスタイルに即していて、とても頼りにしていた。
「キミの戦い方、すごく好きだ」そう言ってネイバーはわたしへほほ笑む。思わぬその感想がただ嬉しくて、「ありがとう」と返した。
相手の能力や技をすべて無に返し、自分は、もちろん相手も何一つ傷つかないというこの戦法は、トレーナーによって好みが分かれる。潔くないだとか、つまらないだとか、お前のその地味な性格が表れてる、だとか。レンジャーの養成校でも散々言われてしまっていたけど、わたしも意地でこうしてこのスタイルを変えずにいたのだ。そんな今までが、その一言で、わたしはこのままでいいんだと、すべて報われた気がした。
ふと記憶が、ネイバーがわたしに問うてきた「夢」の話へ遡る。わたしの夢はそう、ポケモンレンジャーになって、一体でも多く野生のポケモンを守ることだ。何かの拍子で混乱してしまったり、狂暴な力を抑えきれなくなった力の強い野生ポケモンは、正気に戻ることなく、大体がポケモンレンジャー駆除される。そう、殺されるのだ。人や家畜、畑などに危害を加える恐れがあるからと、それがまるで常識のようになっている。だけどそれはきっと、違う。ポケモンと人間は共生を現代まで続けてきたはず、だのにどうして、人間の利己的な判断で、その命を破壊してよいのだろうか? いや、そうじゃない。ビードロを使う理由もその考えの元にある。わたしの育った土地で作られるビードロという楽器は、それらの野生ポケモンを静めるのに非常に有効だったから。このビードロを全世界に広め、ポケモンと人間の共生を図ろうだなんて、大それた、それがわたしの夢。ぼんやりと頭を漂っていたそれが、はっきりとわたしに刻まれる。わたしは夢を達成するために、毎日を繰り返しているじゃない。
戦闘と花火の打ち上げが終わって、落ち着きを取り戻した夜のヒウンシティは、足早に帰っていく人の波が四方へ去りゆき、歓楽街という本来の顔を徐々に取り戻してゆく。ミミは、夢の中のわたしと一緒にホテルへ帰っていった。さて、彼女の胸中はつかめないまま、この夢が終わるのだろうか。いや、終わらせない。ミミはわたしの大事なパートナー。彼女のおかげで夢を実現するための道を歩めるのだから、彼女のことを知りたい。彼女の背中を見つめながら、考えをめぐらせ立ち尽くすわたしに、ネイバーは言う。
「どうやら、やはり今の出来事がキミのトモダチのぼんやり、の原因だったみたいだね」
「え?」振り返るわたしに、彼は続けた。
「ほら、言ったそばから」
彼の言葉の後の瞬間、急に目の前がぶれ、足元がうそのように、柔らかいような、弾むような、そんな感触になる。思わずよろめく体幹を支えるのがやっとだ。焦って彼の名が衝いて出る。彼はわたしの手を取って、引き寄せた。やはり、ネイバーは動じない。むしろ、楽しんでいるようにも見えた。
「ミミが夢の中の時間をすこし早送りにしてるんだ。きっと、この続きが早く見たいんだよ」そう言ったネイバーは、わたしの手をつかんで走り出す。
「行こう。彼女の心中の核心へ」
まどろみのような視界がクリアになり、硬い地面に触れる。ここは、わたしが最初に送られてきた場所だ。
「スリムストリートって呼ばれてるらしいね」
やはり、彼女の思いが一番こもっていた場所だから、ここに飛ばされて来たのだろう。その思いに引っ張られた別の夢も入り込んでしまい、あの時のこの場所は、混沌としたものになっていたのだろうと安易に想像できた。
「行こうか」と彼はそこへ一歩立ち入り、わたしもそれに続く。夜のその場所は、ネオンの明かりから逃れるようにひっそりとして、遠くで鳴るクラクションの音と声の塊がかすかに飛んでくる。先ほどまでの夜、とは違う、さらに深い丁夜の刻。夏の熱気を解かす湿った風が、わたしとネイバーの繋ぐ手と手の間を行き過ぎた。「男性の耐性がないのね」なんてマコモに馬鹿にされそうだけど、出会った時から、なんだか心のドキドキなんていうむつかしい感情が消えない。少し躊躇した指先に、少し力を込めてみた。骨ばった手の甲を感じる。彼が握り返してくれるのを期待したけれど、そうしてくれないことは、もう分かっていた。それでも。このまま二人、闇に飲み込まれて、深い夢と夢の狭間、揺蕩っていたい。なんて、そんなたわごとが、ぽつぽつとわたしの中で浮かんでは、消えた。
ミミは、路地の真ん中で、一人、迷い子のように天を仰いでいた。
やがて、ぺたぺたとコンクリートを踏みしめ歩きだした彼女は、何かをさがすようにきょろきょろとあたりを見回した。わたしたちは、物陰に隠れて、その様子を見守る。タブンネという種族は聴覚に優れているから、なるべく遠巻きにそれを眺めていた。ポケモンは、一度モンスターボールに入ってしまうと、その内側からは外へ出ることはできない。だから、モンスターボールから抜け出して、この場所へ来ることは物理的に不可能だった。これは、完全に彼女の想像の世界なんだろう。少し前まで彼女のことを全て知りたいだなんて思っていたのに、彼女の頭の中の世界を、見てはいけないものを見てしまっているような気がして、わたしは、内心いい心地がしない。
「なにか探してるようだね」ネイバーはお構いなしに身を乗り出して、彼女の様子を観察している。言われてわたしも、良心が許す限り彼女のことを注視した。すると、奥の方から別の足音。何か来た。彼とわたしは今以上に息をひそめる。ミミへ一直線に、徐々に浮かび上がる巨大なシルエット。同時に漂ってくる、ひどい臭い。
それは、ゴミすてばポケモン、ダストダスだった。
まさか、ミミが探していたのはこの、直接的な表現は憚れるが、それこそこのゴミのポケモンなんだろうか。驚いてわたしは、なぜだか笑ってしまった。ネイバーは口元だけ笑って言う。
「あのダストダス、花火の時、暴走していたうちの一体だね」なるほど、とわたしはそれだけ言って、彼女らの注視を続ける。
見つめあう、ミミとダストダス。次第に近づき合う2体の距離は無いに等しくなる。やがて、ミミは彼の体にぴったりと頬をうずめ、そのままで瞳を閉じた。ダストダスがふと、左の腕をタブンネに添える。ミミとの少し距離を保ってそれは、自分の体をその腕で指した。そこからは、糸が伸びているようで、その終点は、長く垂れ下がっている。感情が溢れだしたのだろうか。それを見つめていたミミから癒しの波動が放出され、辺りはそれで満ちていった。あれは、なんだろうか、彼に目で問うと、「“真っ赤な糸”みたいだね」そう言って、一度言葉を置いた。
“真っ赤な糸”。メロメロ攻撃をした相手がその道具を持っていると、こちら側もメロメロ状態にさせられてしまう、不思議な道具。
「ダストダスは周囲のゴミを自分に取り込むことができる。きっと中に“赤い糸”が紛れ込んでいたんだろう」
「そうして、あの祭りのとき、彼にメロメロ攻撃をした時、ミミもそのポケモンにメロメロになってしまった……」
ああ、すべてがつながった。彼女は、メロメロになってしまった相手。恋をしてしまった相手を、探していたのだ。赤い糸が導く、運命の相手を。
目が覚めてからも、夜に夢の中までも、ミミは彼を想うんだろうか。見つめ合い、頬を寄せ、くすぐったいほどに純粋な愛のことばを囁き合い、そうして、また朝を迎えるのだろうか。そう考えると、ミミがなんだか、ひどく愛おしいと感じられた。同時に、彼女を連れまわし、結果として恋を引き離してしまっんだと、申し訳ない気持ちになる。トレーナーはなんと身勝手であるのか。なんとポケモンは従順なんだろうか。わたしは乗り出していた身を縮ませて座り込む。
「わたしは、ミミの何もわかっていなかったわ」と、助けを求めるように、縋るようにネイバーへつぶやく。彼はそんなわたしの頭の上で、静かに言った。
「ボクは一度、イッシュ全土を旅したことがあるんだ。今までに見たことがないさまざまな人やポケモン、考えや感情と出会って、ボクは確信した。“好き”という思いは、この世の中を作り出す数式ですら測ることができない、無限の可能性を秘めているって」
彼は続ける。
「ミミはダストダスを好きでいるけど、それ以上に、もっとキミのことを好きだ。そして、キミもきっとそうだし、それでミミは満足だって思っているよ。お互いがお互いを、全て知ることなんて不可能だ。好き、という強い感情でつながっている絆を、キミたちは持ってる。それさえあれば、充分なんだよ」
彼の言葉の後、ふと感じる、ミミの視線。彼女はそっとわたしへ頷いて、音も無く闇に溶ける。視線を泳がせ見上げた先。ネイバーは、いつのまにかわたしを見つめていて「何も泣くことはないじゃないか」と、小さく笑った。
瞬間の、ゆらめき。先ほどの地面からくる感覚も、視界も、先ほどとは比にならないほどの衝撃に襲われる。やはり沈着なネイバーは言う。
「“ゆめのけむり”で吸い取ったミミの夢が、終わりかけてるんだ。そろそろ、キミは現実世界へ強制的に連れ戻される」
ネイバーとの別れは、一閃の光によって、刹那のうちに過ぎ去ってしまうようだ。劈くような耳鳴りに瞑った瞳。開いた光景は、白く濁って、宙に浮いているような、水に浮かんでいるような感覚に苛まれた。そのままだんだんと彼とわたしの距離は大きな川に流されるように引き離されていく。ああもっと、もっと一緒に話したい、もっとそばにいてほしいなんて、そんなこと、とても言えない。へたり腰が砕けたまま、わたしは涙で遮られた視線の先を仰ぐ。これが彼との永遠の別れみたいに。それこそ、この出来事が夢のように思われて、体の中、爆音で響く心臓の音の奥。
「――!」
白く薄れゆく視界の奥で、わたしの名を叫ぶ彼の叫びが聞こえた。その声に、まどろんでいたような意識が引き戻される。彼がわたしへ差し出す手のひらを、その先で見つけた。わたしもそれ目がけ、必死に指先まで手を、伸ばす。
さあ、指先が触れ合った。
彼の指がわたしの指に絡まり、そのまま、また近づく距離。重なる視線。そこにいるのは、ああ、先ほどまでの男性とは違う、長髪の青年だった。
「これが本当のボクの姿。キミのトモダチの夢が終わったから、戻ってしまったようだ」
説明の後。「びっくりしたかな?」彼が笑いかける。「少しね」涙を拭って、わたしもほほ笑んだ。
「キミには夢があるといったね」時間が無いのだろうか。突然、彼はそう言って、一呼吸。
「その夢、叶えろ!」彼は馬鹿のようにまじめな顔で、力強くわたしに向け、はっと息をのむわたしへ、また続けた。
「キミとミミなら、これから先、どんな困難にだって乗り越えられる。その夢をかなえた頃に、キミに会いに行くよ」
うん、うん、と、わたしは何度もうなづいて、「ありがとう」と、繰り返した。
そう。わたしは、夢を追いかけて選んだ人生を歩んでいるはずだった。だのに。その目的である夢を、日常の不安や焦燥の中で、いつの間にか見失っていた。それでもわたしは、確実にそれを叶えるために行動をしていたんだ。それを自覚できた今。夢を叶えろというたったのその一言で、ミミとの絆を確かめられたことで、黒い遮蔽の中で霞む思いも自信も、これからの道さえも、きっと見つけることができる。だなんて、そんな気がした。
彼はそんなわたしの考えを見透かしてかわからないけれど、少しの沈黙のあと。
「きみならできるさ」と、風に揺蕩うような前髪をかき分けた。彼の体が、だんだんと透け、白く濁ったような背景の色と同化する。もう、お別れのようだ。
「それじゃ……」わたしから切り出す。彼も、うなづいた。
お互いが、指先を解く。ああ、遠ざかっていく、瞳。薄れる聴覚と意識の隙間に、彼の声が聞こえた気がした。
「サヨナラ……!」