バケモノ、それは冤罪につき。
小さい頃、わたしには友達と呼べる人間がいなかった。
今もそれほどいるわけではないけれど、そのような次元ではなく、中学校以前に、友達のような関係の人間関係を体験した記憶がまるでないのだ。わたしはいつも、どのような人間と、なにをしていたのだろうか。思い出をたどっていくと、友人関係にとどまらず、なにもかもがうっすらと感じられ、自分がまるで、アイデンティティを確立し終わってからこの人間社会どこかから送り出されて、わたしという“完成品”が市場にぽんと登場したような、そんなイメージに苛まれる。わたしという人格の形成が、どのような経緯をたどってされていったのかが、自分自身で掌握できない。わたしにはそれが堪えざることであり、それだから、過去を振り返るのはわたしにとって苦痛の所行でしかなかった。
今、そんな苦行を敢えて犯しているのも、幼少から十八歳まで住んでいたここでの人生を少しでも思い出して、感傷的な感情に思いを馳せようと。そして、今まで燻っていた過去に真正面から立ち入って、慢性的な喪失感から抜け出したいと。そう考えていたからであった。この春、わたしは、この街にもう足を踏み入れることがないであろう、遠い彼方へ、やはり一人で出かける算段であったから。雪解けが終わりかけた、三月の終わり。淡い桃の色の風を感じながら、わたしは通っていた小学校から自宅までを散策していた。
この辺りは、地震が頻繁に発生する。数年前、桃の花の匂いがこの街に訪れた季節に、前例が無いほどの規模で大地震が発生し、津波がこの街を襲った。それからは、高台以外の人家が極端に少なくなり、海辺のニュータウンは閑散としている。わたしの実家はもともと高い場所にあったため、津波の被害は免れたものの、この天災でたくさんの知り合いが死んだような記憶が残っている。「あなたの幼いころの記憶が曖昧なのは、この出来事が“トラウマ”になっているからだと考えられます」と、精神科の医師はわたしにそう言った。
自宅から小学校まで約一キロ程度の道のり。市街地とは名ばかりの、寒い国道沿い裏の路地を行くと、視界が我が母校の校庭で開けた。高いフェンス越しに、校舎を見やる。3階立て、鉄筋コンクリート製の外観はひどく冷たい。わたしの思い出を置いてきたはずのこの敷地内は、わたしに“淋しい”というニュアンスの感情しかもたらさなかった。ぐるり。校庭の裏へ周りって、北に位置する場所へ移動する。目的地は最初からここであったから、わたしはそこへまっすぐに歩みを進めた。“裏山”と呼ばれていたこの小高い丘には、街や海を見晴らす展望台があったはずだ。高台に続く小路には、桃の木が並び、豊満な匂いが一面に漂っていた。
一年前。大学三期生の冬の終わり、わたしはこれに似たような匂いに惹かれた。それは、わたしは実家のある街を離れ、大学へ通うために、もと居た町よりはるかに大きな都市に一人で住んでいた頃。当時も、わたしは他人との交流を積極的に持つことは無く、ひたすら研究と読書、精神衛生を保つための筋力増強に時間を費やす日々を送っていた。しかし、なぜだろう? 彼女に出会ったそのときから、わたしは彼女を目の端で追っていた。しかし視界に入ると、むず痒いような、居心地が悪いようなそんな気になって、彼女に恋愛感情を抱いているのだなと認識したときには、もうその女以外なにも見えなくなった。
女は、何かにつけて愉快そうに笑う女だった。へらへら、という擬態語がよく似合って、いつも着古した奇抜な洋服ばかりを着て、耳にはピアスの穴が何個も開けてあって、顔のつくりは整っているのに、間抜けそうに無防備でいて、そのくせ人の感情には敏感で。ああ、そうだ、馬鹿な女だった。そんな彼女が、関係が深まったある夜、わたしが寝ている隣で、わたしを見つめて涙を流していたときの彼女は、なぜだろう、格別に美しかった覚えがある。
「どうした?」わたしは驚いて彼女に問う。彼女もわたしの目が覚めたことに驚いて慌てたようなフリをして、ベッド・ルームのほの暗い中、赤く腫らした瞼を、わたしからそむけた。「寝ぼけてた」と彼女は身体ごとわたしに背を向け、布団を頭からかぶって、そのまま何も言わない。しばらくの沈黙。目が冴えてしまい、いたたまれなくなったわたしは、彼女を後ろから抱き寄せた。華奢な彼女の身体はわたしの胸の中で小さく、その瞬間、わたしは彼女が、今まで以上に、無性に、いとおしく感じられた。
「あなたはなぜ、あたしがよかったの?」震えた呼吸でそうつぶやく。
「……匂い、いや、唇かもしれない」彼女の期待しているであろう返答には遠いかもしれない。だが、わたしは本心を答えた。あえて、ここで美しい言葉なんてならべたくなかったのだ。「この匂いがお好きなら、この香水と寝ればいいじゃない」そう言って笑う彼女に、そういうニュアンスじゃないと、わたしは撤回する。そして、なぜ彼女がよかったのか、という的確な理由を探した。彼女と出会ったあの時、その刹那、手繰ることを拒んでさえいたわたしの記憶から、なぜか自然に、ある出来事が思い出されたのであった。
小学生の頃だったろうか。学校の帰り道、何かを探してわたしは、今現在歩いているこの裏山を進んでいた。どういった目的で裏山に侵入したのかは覚えていないが、探検とか、秘密基地探しとか、そういった名目だったんだろう。ひたすら山を登って行って、夕暮れで辺りが赤黒い光で照らされた頃。わたしは、そこで、見知らない白い肌の美しい少女と出会い、短い会話をした。――いや、実際は出会っていないかもしれない。そのあたりで記憶が曖昧になる。今思い返すと、それは、精神科の医師の言う“トラウマ”になった地震の日だったのだろう。少女の出会いもつかの間、恐怖の感情の中、視界がぼやけて、意識が遠のいて、いつの間にかわたしは病院のベッドで眠っていた。
なぜこの記憶が、彼女の登場で思い出されたのかはわからない。だが、この記憶が引き出されてから、わたしは彼女を強く意識するようになったのだ。彼女にはそこまでのことは言わず、ただ「きみの匂いで昔を思い出して安心するんだ」とだけ言う。
「あたしの匂いと唇の色で、あなたは、なんか分かんないけど、昔のことを思い出して、それで、結局、あたしのことを好きになったの?」彼女はわたしに身体を向き直った。いつもの、馬鹿のようなしゃべり方でわたしに問うてくる、わたしは素直にそれを肯定する。彼女は心底楽しそうに笑って、腫らせて熱を帯びたその唇で、わたしにキスをした。
大地震が発生したのは、その一週間後の事だ。彼女はその混乱の中、わたしの前から、あっけなくその姿を消してしまった。「まあ、どうせまた会いに来てくれるでしょう」そういい残して。
その女との関係はそれまでだった。年月だけが流れて、彼女が結局何者だったのかはわからずじまいである。職場を去り、アパートすら手放した彼女。連絡が取れなくなってから、半年はさまざまな手段で必死に探したが、それを過ぎたあたりから何故か、彼女の言うとおり、またどこかで彼女を見つけ出せるんじゃないかと、妙な自信がついて、それ以来は、普通の人間のように、また決まった日常生活を送ることに専念した。あれから何年も経ち、そうして今、彼女を思い出した匂いをたどって裏山を歩いている。初春の匂いを帯びた風がわたしを感傷へ誘うと、ああ、ぽろぽろと、精神科の医師のいう“トラウマ”の記憶がわたしへ戻ってきた。
あの日。わたしはそのころの友人たちと一緒に、普段は立ち入り禁止であるこの裏山へ探検をしに来たんだ。秘密基地を作ろう、とか、いろんな本が落ちているとか、おばけが出るとか、そんな情報を教えあった。わくわくと、高ぶる感情。それを持ったまま、ずっとこの遊歩道を歩くと、桃の花の匂いがさらに増してきて、わたしは、その道が外れた遠く向こうで、おんなのこの姿を見たような気がした。「ねえ、あそこに女の子がいる」わたしはそう発言し、そのほうへ興味の赴くまま、引かれるように、惹かれる様に、ずんずん歩いていく。「やめようよ」「いいじゃん行こう」「こわいよう」友人たちの声。歩くたび遠ざかっていって、ふと気がつくとわたしは一人はぐれる形になっていた。夕日が赤い。寒さの残った風が、その火照りをぬぐう。むしろそれ以上の寒気を誘って、わたしはその場で足を止めた。「だれかいるの?」の言葉を、耳の静けさをかき消すために独白のように搾り出して、周囲を見回す。草を意踏みつける音も無く、背後に気配を感じてふっと振り返った。それはやはりおんなのこだった。
「いるよ」それの声が聞こえる。
「だれ?」わたしは問う。
「ないしょ」それが返す。
「いじわるするなよ」茶化された怒りを隠さないわたしに、それは、短く、ごめん、とだけ言って、そうして「来てくれたんだね」とつぶやいて微笑んだ。
辺りの薄暗闇が、足元から、ぞわぞわと冬の寒さで淋しく果てた山肌に忍び寄る。少女の髪が木枯らしのごとく降りた風になびいて、そのあと、一呼吸。
「ねえ、アブソルって知ってる?」
彼女は問うてきた。「知ってるよ」と寒さに乾いた唇でわたしは答えた。アブソル。それは普段姿を潜めているが、極稀に人の前、特に子供たちの前に姿を現す。そして、その後は決まって天災が起こると伝えられている幻の獣である。それなので、普段それは別の呼び名で忌み嫌われていた。「“バケモノ”でしょ?」
その一言に、彼女の視線が刺さる。今までの静けさから変わって、瞬間に、す、っとわたしのそばで彼女がわたしを直視していた。背丈は同じくらい。肌の白さと唇の赤のコントラストが、わたしにはなぜが強烈に印象に残っている。「アブソルはね、災いを呼ぶ者ではないの」視線そらすことが許されない。「ただ彼はね、あたし――災いの匂いに、惹かれてしまうだけなの。彼も被害者なの」静かに彼女はまくし立てる。思わぬ気迫に怖じてわたしは、緩んだ視線を外し「ごめんなさい」とだけ言った。「ううん、それだけちゃんと言いたかった」と、彼女。一瞬の沈黙の後、「あなたも、あたしの匂いに惹かれたでしょう? あなたならわかるはずよ」と笑った。内心、わたしは何もわかっていなかったから、その返答に困った。だけれど。確かに、わたしは匂いの方へ、彼女の方へするする歩みを進めたから、たしかに、アブソルの気持ちは分からないことも無かった。それ以上に、彼女が笑った、それだけで、今は他に答えなんて無いんだと思ったから「うん」とだけ言って、わたしもつられて笑った。
瞬間、町に響き渡った、十七時を知らせる町内放送が入ってきて、気がつくと、空は紫のころであった。そろそろ帰らねばという焦燥感。視線を正面に向けると、彼女は「今は山を降りちゃだめ」と言う。なぜ、という言葉を遮るように彼女は続けた。「この上をずっといくと、小さな展望台があるから。そこで今日はいなさい。あたしも一緒にいてあげる。山を降りても、だめ。ここにいればきっと、誰か大人が迎えに来てくれるから」
明かりひとつ無い中、この山を降りるのははばかれたということもあって、反抗のひとつもする気も起きずに、わたしは彼女の言うとおり、展望台へ歩いた。わたしたちはそこで、打ち解けるわけでも、拒絶するでもなく、複雑な距離で会話を続けた。この裏山には野良エネコがよってきて会議をするとか、ジグザグマはまっすぐ走るんだよとか、そんな話。沈黙の合間、見上げれば、漆黒の空は星の粒に彩られており、瞬いた一つ一つは、今まで以上に近く感じられた。わたしたちは手をつないで、展望台へ上りきり、そこで寝そべって、きれい、とふたりつぶやいて、寒いだとか冷たいだとか、そんなものも全てぬぐわれていって。ああ、わたしは彼女に惹かれているのかもしれない。見つめる横顔。見つめ返す彼女の視線、ほほえみ。くすぐられるように甘く漂う彼女の匂い。彼女は何なんだろう。どこからきて、なにをしに、なぜわたしへ? 何も分からないまま、何も聞けないまま、そのまま、泥のように意識が溶けていって。
気がつくと病院で、母に手を握られていた。驚いたのか、目を丸く、輝かせる母の目。その頭部には包帯を巻いていて、それでもわたしを、自分のそれよりももっと深い傷を痛むように、そっと頭をなでた。わたしが目を覚ましたのは、この街を大地震が襲った、一週間後のことだったと、後に知った。
地域全体が鬱々とした中、通う学校では新学期がはじまり、わたしは、裏山に一緒に行った友人のうち三人が津波に飲まれて行方不明であるということを知らされる。そして、わたしが見た少女の話はその生き残りによって広められ、わたしは瞬く間に“バケモノ”として虐げられることとなった。わたしが記憶を捨てたのは、そのころからだ。以来、信頼する友人を作らず、ここまで生きてきた。振り返ってみて、わたしの“トラウマ”になっていたのは、医師の言う地震でも災害でもない、わたしたち“人間”だったのだ、と、妙に納得した。そして、そんなわたしが惹かれた馬鹿な女は、きっと、“人間”じゃなかったのだろうと、わたしはそんな、それこそ馬鹿のような結論に至る。嘲笑した。木の株に腰を下ろし、夕日を見やる。少し疲れた。ああ、あの時と同じ景色。頬を焼く、熱い光。周囲に咲きほこる桃の花はよりいっそうに匂いを増し、彼女が、あの時の少女が、すぐそこにいることを教えてくれた。
――衝動。
わたしは走った。立ち上がり、眼球をむき出しにして、前傾姿勢。脚を前へ、前へ。走った。ひたすらわたしは走った。遊歩道からそれて、急勾配の荒々しい斜面、呼吸がどうしようも荒くなり、唾液と汗とが舌に絡み付く。苦しい胸をかきむしって、喉が渇き、噴出す汗にも、しかし、何にも構わない。足元から、頭上から、茂った枝や雑草がわたしに押し寄せる。波のように行く手を阻んで、それを除けるわたしの腕から、鮮血。追いかけてくる桃の匂いと血液の臭いと同時に、血管がむき出しになっているような鼓動を感じた。
瞬間、木の根に足を奪われ、前に体勢を崩される。否応なしに掌を地面に預ければ、それは三番目、四番目の脚となった。聴覚と嗅覚とが研ぎ澄まされる感覚。四肢で地面を駆け抜ける感覚。それはもはや快感に近く、全身の毛孔の奥が蠢くのを感じて、視界が狭くなった。無我夢中のまま、我に帰ることも許されないまま、わたしの身体は獣に変態していた。覚醒と呼ぶに相応しい熱に犯されながら、わたしは有り余る高鳴りでわたしは咆哮の如く声を張り上げる。刹那、それに反応した周囲の空気が旋風を巻き起こし、それは刃に変わり。生み出された疾風はさながら鎌鼬の如く、わたしを遮っていた何もかもを切り裂いていった。
遥か視線の先、遠くで、わたしを呼ぶ声が聞こえる。桃の花のような、甘ったるい匂いが、ああ、彼女の匂いがする。全身が漲って毛が逆立つ。欲情が止まらない! 今わたしの意識は正常だろうか、狂っているのだろうか。わたしは走っているのか、飛んでいるのか、どこへ向かおうとしているのか、ああ、わからない。ただ、ぬかるんだ、道なきこの視線の先を、彼女の匂いがするこの先を、わたしは走った。