虹に願いを、かけて
◎◎◎
 黒い塵は微かに蠢いた。まるで、意志を持っているかのように。


 太陽がぽかぽかと暖かい陽気を投げかける。風は草原を撫でるようにして流れて行く。無造作に生える背の低い草々は一斉に頭を垂れる。
 そんな若草の群れに座る影が二つ。そのうちの一つは一抱えに出来るほどに小さい。その正体は、愛らしいまん丸の瞳、豆のような嘴、山吹色の羽、夕焼け色の体、アチャモである。彼はさぞ嬉しそうな、頬のゆるんだ顔をして隣を見た。
 その隣には、つぎはぎだらけの半着を身にまとった齢十程の少女。麻で出来たもんぺ袴には、泥の汚れが斑点のようにして模様を形作っている。彼女は、眩しげに目を細めた。艶の無い、蒼白ともいえるほどに白い肌が弱々しく光を乱反射する。
「見て、アチャモ」
 少女は遠くの空を指さした。アチャモの目線がそちらへと向けられる。瞬間、彼は目を見開いた。
 その先にあるのは、遙か遠くに輝く七色の光。青い空にとけ込むような透明感のある虹。
「きれいね」
 その声にアチャモは瞳を輝かせてうんうんと頷く。
 風が清涼な空気を運ぶ。一人と一匹の間を心地よい沈黙が流れる。
「アチャモ、知ってる?」
 少女はふと、思い出したようにして口を開いた。アチャモは遠くの虹を眺める少女の横顔に目を遣る。
「遠い遠い虹にはね、ある秘密があるの」
 少女の瞳はあこがれているかのように、夢を見ているかのように細められる。
「虹のてっぺんまでたどり着いたら、願いが叶うのよ」
 アチャモは驚いたようにして小さく鳴き声をあげた。虹の頂点は空高くにあり、空を飛べない彼の翼ではどうやっても行けそうにない。彼は何とかして飛び立とうと小さな両翼を必死になって羽ばたかせた。当然、何度やってもその身が宙に浮くことはない。
 少女はその姿を見てくすりと笑った。
「ふふ、大丈夫よ。虹の架け橋は、歩いてわたれるもの」
 彼は安心したように胸を一撫でする。空を飛べなくても行けるなら、飛べない自分でもいつか行けるはずだと思った。
「いつか、一緒にいこうね」
 アチャモは一つ大きく頷き、遠く輝く虹を仰ぎ見た。この世のものとは思えない程に幻想的な輝き。それを記憶に焼き付けるかのようにして瞳を閉じる。
 彼は願った。いつの日か、少女と手をつないで虹の天辺まで行けるように。


 少女の体は病に蝕まれていた。先天的な病。体が年を経るごとに衰弱し、心臓の機能が弱まってゆくという奇病。
 そんな少女とアチャモは物心付いたときから共にあった。
 彼は頭が悪く、先のことなど想像ができない。日常が変化する事など夢にも思わない。頭をよぎることすらない。
 ただ、少女と共にいられる今を幸せに感じていた。


 枝葉の隙間から、太陽がふわりとした日差しを投げかける。木々のざわめきがアチャモの耳に心地よく届き、緑の濃い香りが鼻をつく。 
 アチャモは少女と共に山菜を摘みにきていた。食べられそうな草や木の実を選別し、少女の持つ、植物の蔓を編んで作られた葛籠へと入れてゆく。一つ葛籠に入れる度に頭を撫でられ、アチャモはご機嫌だった。喜色満面で鼻歌を歌いながら山菜を摘む。
 風が柔らかく少女とアチャモを包む。緩やかな時間と共に流れてゆく。
 隣を見る。雪のように白い少女の横顔。彼女は山道をゆったりとした足取りで歩く。その存在を隣で感じながら、 穏やかな時を過ごせるのがうれしくて、アチャモは笑った。
 彼の向ける笑みに気づいた少女は微笑み返す。目尻に皺を寄せながら笑みを浮かべる彼女は、ガラス細工のように綺麗で眩しくて……
 瞬間、その笑顔が凍った。
 不意に少女がうずくまる。額には脂汗が浮かんでおり、呼吸は喘いでいるかのように絶え絶えとしている。表情は苦悶一色に染まり、彼女の手から葛籠がこぼれ落ちる。
 それは、ある意味少女の習慣と化した発作。激しい胸の痛みと息苦しさに目を開けていることさえできなくなる。
 アチャモはそんな少女の背中を慌ててさすった。病苦に耐えるその背中はあまりにも小さい。
 少女は苦しげに呻く。その声はアチャモの耳に届く度、彼は泣きそうになる。こんな時、少女を励ます言葉一つ出せない自分が嫌で嫌でしょうがなかった。

「うん、うん、もう大丈夫」
 少女はひとしきり咳をした後、アチャモに笑みを見せた。その笑みは若干ひきつっており、元気とは到底呼べそうにはないが、笑みを浮かべられる事自体が、発作の峠を越したのだということを示していた。
 アチャモは安心して嘆息した。とその時、視界の隅にあるべき物が煙のように姿を消していることに気づいた。
 無い。先ほどまでそこにあったはずの葛籠が。きょろきょろと目を皿のようにして辺りを見回す。
 すると、小さな影が走り去って行く姿が目の端をかすめた。紫がかった体表、くるりと丸まった長い尾、コラッタだ。口に葛籠をくわえている。その姿はあっと言う間に小さくなってゆき、木々の間に消えていった。
 彼らはそれを為すすべもなく見送り、少女の追うようにして伸ばした手が、力を失ったかのようにしてだらんと落ちる。
 彼女は一つため息をついた。
「うん、また集めなおせばいっか」
 あの子も、おなかが空いていたんだろうね、と付け加える。
 アチャモは見た。その言葉を告げる少女の横顔を。その瞳の色に悲しみの色を。それは単純に採った山菜を失った故か。はたまた、駆けることのできるコラッタを見て湧いた、健康への嫉妬故か。
 許せなかった。少女にそんな顔をさせる泥棒が。彼はいつの間にか駆けだしていた。
「あ、アチャモ!」
 制止の声が後方から聞こえたが、彼の足は止まらない。見えなくなった影の方向へと全速力で駆ける。
『加速』
 アチャモの全身に纏う羽が風をはらみ、大きく膨らむ。と、次の瞬間、全ての羽が音を立てて窄み、大きな風を作り出す。後方へと投げ出された風は推進力を生み、前へ前へと進む力となる。彼の足は加速度的に速さを増してゆく。さながら山吹色の弾丸のようにして、彼は駆ける。
 走り出してから十数秒、彼はコラッタの姿を見止めた。豆粒のようだったその姿が徐々に大きくなってゆき、遂に触れられる距離にまで肉薄した。
 追いつかれるとは思っていなかったのだろう。コラッタはぎょっとした顔でこちらに振り向いた。が、もう遅い。アチャモはその背中に飛びつき、豆のようなくちばしで思い切りつつく。
 痛みに声を上げたコラッタは葛籠を取り落とし、脇目も振らずに一目散に逃げて行く。アチャモは足を止め、一息ついた。
 まさか自分があれほどの速さで走れるとは思わなかった。よくよく考えてみれば、本気で走ったのは生まれて初めて。泥棒を追うことばかり考えていたら、いつの間にか羽を収縮させ、速く走れていたのだ。
 彼は不思議に思ったが、考えることが苦手なので頭を働かせる事をやめた。足下に落ちている葛籠の紐をくわえて元きた道を歩き出す。少女の元まで引きずって行く。走ると短かった道のりが、歩くとやけに遠く感じる。木々のざわめきは一匹きりだとやけに寂漠感に溢れていた。故に歩む足が自然と速まってゆく。そしてようやく、少女の姿を見つけた。
「アチャモ!」 
 少女の元にたどり着くなり、アチャモは飛びつかれた。病気の身ながら、獣道を必死に走ってきたのだろう。枝で切ったのか、少女の半着が所々破れ、そこから覗く素肌には血が滲んでいた。
 その胸に抱かれていると、アチャモは先ほどまでの寂漠感はどこへやら、伝わってくる温もりと安らぎに心から安心できた。
 彼はそのまま少女の顔を見上げると、少女は心配げに顔をゆがませていることに気づいた。その瞳には少々の涙がにじんでいる。だが、アチャモのくわえている葛籠に気づいたのか、少女は微かな笑みをうかべて、アチャモの頭を優しく撫でた。
「すごいね、アチャモ」
 誉められて、撫でられて、嬉しくないわけがない。少女が相手ならなおさらだ。アチャモの口元がゆるむ。暖かくて、幸せで、心が満たされてゆく。
「ねえ、いつか虹の天辺へ行くときは」
 少女の笑みが曇る。太陽の光を遮る薄雲が満ちてゆくように、ゆっくりと。
「私の願いも、連れていってね」
 いつしか、少女は悲しげに微笑んでいた。
 アチャモは、葛籠を取り返したというのに、どうして少女がそんな顔をしているのかわからなかった。どうして一緒に行くと約束したのに、そんなお願いをされるのかわからなかった。
 だから彼は、ただ不思議そうに首を傾げていた。


 その日が、少女がアチャモと外に出た最後の日となった。アチャモは知る由も無かったが、一時でも走ったことが彼女の心臓に大きな負担をかけていた。
 少女は寝たきりの生活を余儀なくされた。立つことすらできず、ただ布団から空を眺める日々。アチャモはそんな彼女の隣に、ずっと寄り添っていた。
 
 彼女の病気には特効薬が存在しない。まだ発見から間もないその病気を完治させることができるほど、医学は進歩していなかった。しかしながら、症状を遅延させる薬なら存在した。だが、それは驚くほどに値が張る。一ヶ月分で、牛が一頭買える程の値だ。貧しい農家にそんな大金が易々と払えるわけはなく。生活は貧窮していた。 
 故に彼女の両親は働きづめだった。朝から晩まで一人娘のため、自ら肉体すら省みない労働を続けていた。
 だが、それでもまだ薬の代金には不足。足りない分はどうやって補うか。持っている物をを売ってゆくしかない。それは彼女の両親にとっても苦渋の決断だった。
 家にある物が減ってゆく。いつか来るはずだった少女の晴れの日の為の着物も、母親が大事に身につけていたかんざしも、農業に必須である牛でさえ。
 爪に灯をともす様な日々は続く。全て、少女を長らえさせるために。


 障子の隙間からのぞく太陽の光が、薄暗い部屋の中を弱々しく射す。外界から隔絶されたような殺風景な部屋の中、少女は堅い布団で眠っていた。彼女は時折苦しそうに顔を歪める。小さなうめき声とともに。
 その横顔を見ているアチャモの視界は、涙でぼやけた。
 いつからだろう、少女の様態が悪化したのは、少女が起きあがれなくなったのは。彼は遠い日を思い出していた。
 初日は、ただ疲れたから休んでるだけだと思った。
 一週間が経ち、もう二度と起きあがれないのではないか、という嫌な予感が頭の中に巣くい初めた。
 一ヶ月が経ち、その予感は確信へと変わった。
 少女はもう外に出ることができない。これから、ずっと。その事実がアチャモの胸に重くのしかかる。
 彼女はいつもわざと明るくふるまっていたが、アチャモは、その瞳の奥に悲しみが深く深く根ざしていることに気づいていた。
 アチャモは思った。自らの体がもっともっと大きければ、彼女を乗せて何処までも行けるのに。駆けて駆けて、どんん遠い所だろうと、彼女を連れてゆけるのに。
 アチャモは思った。せめて、自らに言葉を話せる口があれば、外の様相を伝えられるのに。彼女の目となって、鼻となって、耳となることができるのに。そうすれば、美しい湖の輝きも、甘酸っぱい花の香りも、優しい小鳥のさえずりも。全部全部言葉に変えて、伝えることができるのに。
 こんなにもたくさんの伝えたいことがあるのに、どんなに努力しようとも、嘴から言葉が出ることはない。彼は役立たずの嘴を強く強く噛みしめ、涙に塗れた瞳を伏せた。
「そんな顔をしないで」
 アチャモの頭に、いつの間にか目を覚ました少女の、暖かな手のひらが触れられた。
「あなたがそんな顔をしてたら、私も悲しくなるから」
 その手のひらは、慈しむようにして右へ、左へと優しく撫でる。
「ほら、笑って」
 その彼女の手の平は以前より遙かにやつれていた。その事実がさらに涙を誘う。溢れる滴が次から次へとわいてきて止まることはない。
 それでもアチャモは笑おうとした。なぜなら、それが彼女の願いだから。自分に出来ることならば、どんな小さな事だろうと叶えてあげたかった。それで少女が喜んでくれるのなら。
 アチャモは泣きじゃくりながらも、顔を上げ、無理矢理に口角をつり上げた。
 彼は自分が笑えているかどうかすら、わからなかった。


 何もかもがなくなってゆく。箪笥も、時計も、蝋燭の一本ですら残さず売られてゆく。結果、少女の部屋にあるのは彼女自身と、アチャモと、後は煎餅のように堅い布団だけであった。その他は何もかもが薬代の足しにされ、売られていった。
 それでもまだ足りない。来月の薬代を払うには、ほんの少しだけ足りない。雀の涙ほどの代金。たとえばこの時期が収穫期だったならば、労せず払える金額。たとえば少女か、彼女の母親の髪が長かったならば、辛うじて払えた金額。だが、そんなはした金すら家には残っていなかった。だが、買わないという選択肢はない。買わなければ少女がすぐさま死んでしまうかもしれない。買わなければならない。どんな手段を使おうとも。
 結局、最後に売られるのは……。


 厚い雲に覆われ、月光すら届かない暗闇。雨がざあざあと音を立てて屋根を叩く。風が古ぼけた家へと叩きつけるようにして吹き荒れる。
「ねえ、アチャモ。お願いがあるの」
 もう何も残っていない、灯り一つ無い部屋の中。少女は唇を噛みしめながら蚊の鳴くような声で呟いた。
 その声にアチャモは一つ頷く。そして、薄ぼんやりと見える彼女の瞳を真っ正面から見つめた。
 彼に出来ることなら何でもやるつもりだった。それが彼女の望みなら。そのつもりだった。
「早く、ここから逃げて」
 息が止まる。心臓がばくばくと早鐘を打ち。目の前の世界が崩壊するかのようなめまいを覚えた。彼は自分の耳を疑った。だが、少女が告げる次の句が聞き間違いでないことを如実に示す。
「明日には、あなた、売られちゃうのよ。だから……」
 少女は大粒の涙を瞳にためて呟く。アチャモが、未だかつて聞いたことのない悲痛な声。一句一句放つ度に、命を削っているかのような嘆きに満ちた声。
「売られる前に、逃げて、お願い」
 血を吐くようにしてアチャモへと懇願する。
 そう。最後に売られるのはアチャモだった。たとえ少女の心の拠り所だろうと、家族の一員だろうと、少女の命には代えられない。それが少女の両親の判断であった。
 アチャモは呆然とした。彼女の言葉を、頭が判断したくないと拒んでいた。
 逃げて、と彼女は言った。彼女を置いて、逃げて、と。
 彼は、生まれてからずっと一緒にいた少女との別離など想像したこともなかった。頭をよぎったことさえなかった。傍にある温もりが、優しさが、無くなる事など。彼女を見捨てて、逃げることなど。
 ようやくその意味を理解したアチャモは、嫌だ、嫌だと首を横に振った。何度も何度も振った。彼の瞳からは涙が溢れる。その滴が遠心力で飛び散る。
「ごめんなさい、私にはどうすることもできないの」
 少女も同じくして涙を流していた。自らの無力さを憎むかのようにして歯噛みしていた。
 だが、彼女はそんな自分を諫める様に、涙を袖で拭いた。そして無理矢理に笑顔の形へと口を歪ませる。
「私のことなんて忘れて」
 引きつった笑みは言った。次から次へと溢れてくる涙は言った。心から、彼女は言った。
「幸せに、なって」
 アチャモの瞳から流れる滴は止まる事を知らない。滝のように流れては、頬を伝って畳を濡らす。
 彼は言いたかった。僕一人じゃ幸せになれないと、君と一緒じゃなきゃ意味がないと。言葉が出せない。どれだけ祈っても嘴は言葉を発することはない。身振り手振りでは伝えられない想いがあった。言葉でしか伝えられない想いがあった。だが、想いは彼の口から発せられることはなく、心の中に深く沈殿してゆく。
 人間になりたい。彼は思った。もしも自分が人間だったなら、たくさんの、たくさんのお金を稼ぐのに。彼女が元気になれるように、たくさんの薬を買って贈るのに。
 人間になりたい。彼は思った。もしも自分が人間だったなら、この胸に溢れる気持ちを伝えられるのに。声を大にして、君に伝えられるのに。
 虚しい願いは誰にも届かない。闇夜に吸い込まれて、溶けてゆく。
 代わりに彼の胸に去来するのは、今ある現実。自分は決して人間ではなく、明日売られてしまうという現実。
 彼は、たとえ明朝売られるとしても、今晩だけでも彼女と一緒にいたかった。一秒でも、一瞬でも長く彼女と共にいたかった。彼女を見捨てたくなかった。
 だが、逃げることが彼女の願いだった。彼女が涙を流しながらアチャモに告げた願いだった。
 だから、彼は涙に溢れた目をきつく瞑り、少女に背を向けた。
 少女の手のひらが彼の背を押す。さようならと言うように。
 俯き、アチャモは駆けだした。吹きすさぶ風が彼を襲う。激しい豪雨が彼を刺す。涙で一寸先も見えない闇夜の中、彼は走り続ける。
 家から遠く離れ、見えなくなっても、彼は決して振り返ることはなかった。


 どれだけ走ったのか、いつから歩いていたのか、アチャモは覚えていなかった。
 彼は時折しゃくりあげながら、夢遊病者のようにして歩いていた。どこへ向かっているのか、自分でもわかってはいなかった。泥だらけになった脚を引きずる彼の顔には生気はなく、彼の心情を物語っていた。
 いつしか雨はやんでいた。山間から太陽は顔を出し、その日差しが彼を包むようにして照らす。だが、彼はそれを暖かいとは思えなかった。
 彼の胸には、大きな穴があいていた。その穴を風がひゅうひゅうと音を立てて通り抜ける。少女を見捨てることしかできなかったという悲しみが心を凍らせていた。
 ただひたすらに寒かった。暖かい日差しの中、彼は凍えていた。寒くて寒くて、両翼で体を抱きしめた。温もりが欲しかった。彼を暖めてくれる温もりが。アチャモは心の内から吹く寒波に耐えかねたようにして、空を仰ぎ見た。
 瞬間、彼は息を呑んだ。
 そこには虹があった。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫に輝く光の架け橋。霞むほどの遙か遠くの空に、大いなる輝きをもって目映くその存在を主張する虹。
 その虹を見て、アチャモは少女の言葉を思い出していた。
『虹の天辺までたどり着いたら、願いが叶うのよ』
 在りし日の事。夢見るように、あこがれるように、目を細めて彼女はそう言った。
 彼の願いは決まっていた。少女の病気を治して欲しい。少女に元気になって欲しい。その願いは他の願いとは比べ物にならないほどに大きく、そして心からの切なる願いだった。少女の元気な姿がみたかった。少女の笑顔がみたかった。そして、出来るのならば、ずっと一緒にいたかった。
 
 虹に願いを、駆けて。

 アチャモはびしょ濡れになった体を振り、水滴を飛ばす。羽についた水滴を一滴も残さないように丹念に。感覚を確かめるようにして脚を上下させ、両翼をぱたぱたと羽ばたかせ、
 そして彼は前を向いた。視界に映るは遙か彼方に輝く虹。柔らかな追い風が彼の背中を押す。
 彼の体は強い強い意志に震える。
 小さな胸に似合わぬ大きな希望を抱え、まん丸の瞳に確かな決意の炎を灯して、彼は駆けだした。
 向かうは虹の天辺。願いの叶う場所。かつて少女に誉められた脚は喜びに打ち震えるかのように疾り、土を巻き上げる。
『加速』
 全身の羽は風を掴む。彼の体が一瞬大きく膨れ、瞬時に風を投げ出して縮む。小さな体は弾丸のように大きな推進力を得る。前へ前へと進む力となる。それはきっと、願いを叶える力となる。
 竹林を越え、橋を渡り、低い山を越え、果てのない荒野をひた走る。
 だが、虹は未だ遙か彼方。どれだけ駆けても一向に近づく気配すらない。まるで、近づくアチャモから逃げて行くように。
 彼はコラッタを追った日を思い出した。逃げて行く背中。速く走れば走るほど近づく背中。きっと、それは虹も同じ。ならば、もっと速く走ればいい。虹に追いつけるまで、誰よりも、何よりも速く。
『加速』
 両翼が風を抱きしめ、放つ。脚はちぎれんばかりに土を蹴りあげる。疾風のようにして彼は駆ける。
 それでも、求める場所は未だ遠い。
『加速』
 羽が強い負荷にピリピリと震える。過ぎ去る景色はあっという間に見えなくなるほど遠くへと置いてゆかれる。
 それでも、虹は遙か彼方。
『加速』
 走る。疾る。誰よりも速く、何よりも速く。
 彼の小さな体が悲鳴を上げる。全身の骨がギシギシと軋み、筋肉が止まれ、止まれと叫ぶ。
 それでも彼は止まらない。加速し続ける。速度を増すごとに視界は狭まりつづけ、もう虹の欠片しか瞳に映らない。
 もしかしたら、虹にはたどり着けないのかもしれない。
 アチャモは不意に頭に湧いたその考えを振り払うようにして首を振った。
 認めるわけにはいかなかった。虹にたどり着く事が出来ないということを。少女の病気が治らないということを。何としてでも認めるわけにはいかなかった。
 彼の瞳に涙が溢れる。流した先から風にさらわれ消えてゆく。音を立てて、脚先の爪が一本ちぎれ飛ぶ。激痛に顔を歪ませる。それでも彼は止まらない。強い意志につき動かされるようにして走り続ける。希望に向かって走り続ける。
『加速』
 アチャモはついに音の速度を超えた。風圧に耐えかねた嘴が音を立てて割れる。網膜が破れ、視界が暗闇に閉ざされる。
『加速』
 何も見えない、何も聞こえない暗闇の中でも、網膜に焼き付いた虹は消えない。願いは消えない。
『加速』
 摩擦熱により生まれた炎が彼の体を覆う。全身に吹き荒れる熱が彼の身を焦がす。それでも彼の意志は駆け続ける。
『加速』皮膚は溶け『加速』血は流れる端から蒸発し『加速』嘴は砕け『加速』瞳は焦げ『加速』羽はちぎれ飛び『加速』脚に亀裂が走り『加速』内蔵は潰れ『加速』筋肉はちぎれ『加速』骨は砕けても『加速』少女のために。
 ふいに、彼は潰れた瞳で幻視した。
 それは草原であった。さわやかな風が吹く草原の中、少女が笑っている。元気そうに駆け回っている。幸せだと心から叫ぶようにして。
 その隣には一つの影。山吹色の髪をした少年。彼も同じくして駆け回っている。その顔を喜色満面に染め。その顔は、アチャモには見覚えがなかった。少女の隣に、自分はいなかった。
 彼はそれが未来だと確信した。彼の願いが叶い、少女の病気が治ったという未来。
 アチャモは笑った。嬉しかった。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
 少女の病気が治って、幸せそうに笑っている。それだけで、彼は満足だった。
 たとえ、その隣に自分がいなくても。
 未来の映像が消える。再び視界が暗闇に閉ざされる。音も無く視界もない暗闇の中、加速し続ける自身の体が崩れてゆく。炎に侵され消えてゆく。
 砕けかけた彼の頭に浮かぶのは、最後に聴いた彼女の言葉。
『幸せに、なって』
 彼は、脳裏に遠い日を思い描いた。少女と過ごした日々が所狭しと頭の中を駆け巡る。
 撫でられる手の感触、隣にいる少女の暖かさが胸によみがえる。少女の優しさが、温もりが、彼の心を優しく包む。
 少女とずっと一緒にいられたから。数え切れないほどの思い出があって、両手に抱えきれないほどの温もりをもらったから。彼の胸は少女の優しさで溢れていたから。
 だから
「僕は、幸せなんだよ」
 アチャモは屈託のない笑顔の花を咲かせた。
 瞬間、彼を包む炎はいっそう大きく燃え上がる。弾丸の様に疾る炎は徐々に速度を落としてゆき、そしてくすぶり、消えていった。愛らしいまんまるの瞳も、豆のような嘴も、山吹色の羽も、夕焼け色の体もそこには無く、ただ、黒い塵が残るのみであった。


 どこまでともなく続く荒野。所々に短い草が生え、赤茶けた土壌を点々と緑に染める。
 それを一直線に横切る足跡があった。三本爪の小さな小さな足跡。いくつもいくつも連なって続いている。気が遠くなるほどまでに続く足跡の先には、少量の黒くて細かい燃え滓があった。黒い塵があった。
 黒い塵は微かに蠢いた。まるで、意志を持っているかのように。
 その時、一陣の風が塵をさらった。細かな粒子が風に吹かれ、飛んで行く。
 それは彼が何度も掴み、放した風。加速の源である風。
 風が吹いたのは偶然であったか、それとも彼が遺した意志のせいであったか、それは誰にもわからない。
 かつてアチャモであった塵は舞う。風に乗って空を飛ぶ。風に手を引かれて彼は行く。
 向かう先は、遠く輝く虹の天辺。体は崩れ落ち、粉々の塵になってしまっても、それでも彼は行く。
 虹に願いをかけて。


 少女が目を覚ますと、全身に違和感を感じた。体にはかつて無いほど活力がわき、ぼやけていた頭はいつになく晴れ渡っていて、そして何より、心臓の痛みが消えていた。
 彼女はふと思いついたように、何ヶ月も動かすことの出来なかった上体を、軽々と起こした。
 そして目を見開き、驚愕した。身を楽に起こす事ができたという事実が不思議でしょうが無かった。夢ではないかと頬をつねる。痛い。そこは紛れもない現実であった。
 彼女はすくりと立ち上がり、誘われるようにして縁側から空を見上げる。
 そこには、虹があった。遙か彼方、七色の鮮やかな色彩が瞳に映る。しばらく眺めていると、その虹の天辺に山吹色の影が見えた。山吹色の影は、こちらに向かって手を振っているかのように見えた。彼女は見間違いかと目を擦り、凝視する。
 だが、既に影は跡形もなく消えていた。
「まさか……」
 何故か彼女にはわかった。アチャモは命を懸けて虹の天辺まで行き、消えてしまったのだと。
 少女の瞳から涙が溢れ出る。頬を伝ってこぼれ落ちて行く涙は、麻で出来た寝間着をしとどに濡らしてゆく。
 彼女はアチャモが言葉を話せないことを苦に思っていることを知っていた。人間になりたいと願っていることを知っていた。
 だから彼女は虹に願いをかけたのだ。彼が望むことを、全て叶えて欲しいと。
 でも、もうアチャモはいない。彼は消えてしまった。自分の病気を治して。
「私、こんなに元気になったんだよ」
 彼に生きて欲しかったのに、幸せになって欲しかったのに。
 涙は溢れて止まることを知らない。唇を噛みしめ、彼女は思いの丈を口にする。
「だから、帰ってきてよ」
 悲痛な声は虚しく響く。彼を呼ぶ声は透き通った空気に溶けてゆく。
「ねえ、アチャモ」
 嘆き悲しむ彼女の姿を、虹だけが見つめていた。



 赤茶けた荒野のどこかで、彼は目を覚ました。眠たげに瞳を擦りながら立ち上がり、きょろきょろと辺りを見渡す。
 すると彼は違和感に首を傾げた。小さい。生える草木が一回り小さくなっている。
 彼はどうしたことかと頭を悩ませた。
 だが生憎彼は頭が悪い。故にいくら考えても答えは出ない。頭を抱える彼の頬を柔らかく風は撫でて、通り過ぎて行く。
 その時ふと、少女が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。遙か遠くから、自分を呼ぶ声が。
 彼は顔を上げた。
 行こう、彼女の元へ。
 一つ頷き、彼は駆けだした。小さな足跡を逆にたどって行く。どこまでも続いていく道のりをひたすらに駆けて行く。
 その足取りを羽のように弾ませ、その顔に満面の笑顔を咲かせて、その胸には溢れんばかりの喜びを、いっぱいに膨らませながら。
 山吹色の頭髪をたなびかせて、少年は、走っていた。

トビ ( 2013/06/03(月) 04:19 )