◎◎◎
フワライドの群れだ。
晴天に、春待ち風。テンガン山へ落ちていく太陽を背にして歩く幼き彼女は、その陽光を遮る自分以外の影を認めた。東へ向かう風に流されていくそれらは、ふわふわと、ゆるゆると。冬の雪が溶け出していく様を彷彿させるほどに、穏やかに空をたゆたう。手近な大きい石で腰をかがめ、飛んでいくフワライドを追うように見つめた。そうしながら、彼女は両親に買ってもらったポケモン図鑑の項目を回想する。
ゆうがた たいぐんで とんでいく いきさきは だれも しらない
そのポケモンの名前は、フワライドといった。その時の彼女は、その項目を音読すると、とん、とだんまりした。そのまま、するすると空想に飲み込まれていく。
フワライドはどこへ消えちゃうんだろう? 日が暮れて太陽が隠れちゃう真っ暗な空で、はぐれてしまっているんじゃないか? そりゃ、フワライドが可哀想だ。じゃあ、飛ばされないように捕まえてあげよう。でも、そのまま一緒に風に乗っちゃったら? 帰ってこれなくなっちゃうかもしれない。それはいやだ! でも、どこに消えちゃうのかは確かめてみたい。そうだ、エンばあなら、知ってるかな。
膨らませた想像が、まるでその通り目の前で起こっている感覚。幼い正義感と冒険心、足元を付いてくるささやかな恐怖を胸に、彼女は外へ駆け出した。
「エンばあ!」
彼女の家から走って三十秒。挨拶もおざなりで玄関を越え、彼女は家へ入っていく。エンばあさんは、いつも南向きのサンルームで編み物をしていた。
「あら。いらっしゃい、パロ」
ここにさんさんとそそぐ陽光は、まるで舞台装置の照明のようにこの老婆を照らし出している。春日和の暖かな色で染まる彼女は、パロへ優しく微笑んだ。彼女、パロはそこで思い出したかのように「お邪魔します」と声をかけた。目じりのしわを緩ませずエンばあさんは、編み物の手を止める。
「そんなに急いで、どうしたんだい?」
「あのね、あのね! フワライドは、どこへ消えちゃうの?」
食いつくように、パロはエンばあさんへ質問をぶん投げる。問われた老婆は、おや、とまた繰り返して、そうして少し思案するように、鼻眼鏡をくい、と上へ押しやった。
「ごめんなさい、私にも、分からないわ」
パロは驚愕した。この近所一帯の中で、一番ポケモンに関して物知りなエンばあさんですら、フワライドの行方を知らないとは。直後から、パロに流れた想像の波。太陽が沈んで、真っ暗な空。星すら避けて通る音ひとつ無い暗闇の中へ、風に飛ばされ、抵抗虚しく流されていくフワライドと、わたし。そこは、絶望の淵を彷徨うに等しい程の、漆黒かもしれない。はたまた、幸せや希望を表現したような、淡くとろける桃色かもしれない。広がりうずいて止まらないその世界を、見てみたいと彼女は、強く、強く思った。
温度の変わり目。にわかに強く風が吹き付ける。彼女は大量のフワライドの中に、フワンテの姿を見つけた。フワライドよりも、低い空を飛んでいる。認めた瞬間、彼女の方へ下降するようにそれらが流れてきた。視界を覆い尽くす、淡い紫色。夕日のかすんだ桃色の空を背景に、それは逆光で暗く浮き上がって見えた。フワンテの頭部に乗った雲のような部位も鮮明に見え始める。垂れる紐のような手足は、彼女にもはや届きそうだ。手を伸ばせば、届くだろうか。思わずつま先で立つほどに背伸びをして、うん、と手を空へと突き出す。見上げた空。吹雪のように押し寄せるふわふわの大群。後ろへ流れていく強風。赤く照らしつける陽光。ああ、さっきよりもずっとずっと、近く感じる気がする。見上げるものがすべて、降下してくる感覚。ぐんぐん視界を支配していくそれら。感動の極みでパロは、両手を上げて叫んだ。
「わたしも! 連れて行って!」
彼女のその声に反応するように、何匹ものふわふわが視線をパロへ送っては流れていく。向かい風。強烈な逆光。それでも彼女は目を見開いた。やがてふわふわ達の声もはっきりと耳に届き始めて、今まで聞いたこともない虫のさざめくような音の渦に巻き込まれる。同時に、彼女は手が届く程に近いフワンテの手足を認めた。まるまる見開いたフワンテの目と、彼女の視線がぱちりと合った心地。こっちへ来て! わたしも、あなたへ行きたいの! 伸ばした手。空からの糸。触れ合う時。さあ、今だ!
「パロさん!」
目覚ましビンタを浴びた心地。呼ばれた彼女は、驚いて声の方を見やる。引き戻された意識の、目の前には彼女が世界一嫌いな教師が立っていた。
「はい」
パロは、遅れて返事を返す。いつの間に来ていたんだ、この教師は。あたりをちらりと見渡す。ついさっきまで談笑の声で満ちていた教室が、今はシンと静まり返っていた。なんてこった。ため息が口から洩れそうになるが、おかんむりの視線をじんしん向けてくるこの教師の前で、そんなことはできなかった。
「あなたはいつもぼんやりして。この前だってそう」
教師はぐずぐずと続けるが、パロはそのあたりで、真面目に聞くことを放棄した。どうせまた、同じことを繰り返すだけだろう。ローブシンみたいな顔しちゃってさ。わたしのサイコキネシスが発動する前に、どこかに行っちゃえ。パロは俯いて、機械的に教師へ返事を返しながら、しかし頭の中では教師と格闘していた。無論、パロはサイコキネシスの攻撃をすることなどできないし、逃げるという選択肢すらこの教師とのバトルでは無効だ。くろいまなざしは依然彼女へ向けられる。もう、こりごりだと心底パロは思った。
フワンテと共に宙を浮いた、あの日。
足が地を離れ、幼い身体が、空へと吸い込まれた。テンガン山へ日が完全に沈み切り、陽光の名残が山際を赤く縁取っていく。暗がりに浮かんだフワライドの奥で、それは彼女の視線を釘付けにした。進行方向の遥か向こう。漆黒に塗りたくられたキャンバスの奥で、かすかな光。ゆっくりゆっくり進む度に近づくそれが、きっとフワライド達の行先なんだろう。どんなところだろう。わくわくする!
ここで、彼女の記憶はぷつりと切れる。気が付くと、目の前には涙を溜めた母親と父親がそこにいて、それを確認するなり彼女を強く抱きしめたのだった。後々彼女が知ったのは、散歩をしていた隣町の主人がフワライドの群れを見つけ、同時に浮かぶ人影、パロを目視。大慌てでポケモンレンジャーへ通報し、パロは救出されたという顛末だった。彼女の周囲にとっては奇跡にも近い生還に沸いたが、本人にとっては極まりなく不満だった。せっかくフワンテが連れて行ってくれたのに、全く覚えていないなんて。きっと、わたしが見たあの先は。そのセカイは、きっと、きっと。
パロは幼きあの日から今この時まで、フワンテの消えるその先の空想を、胸に抱いて生きている。彼女が嬉しいとき、そこはかわいいポケモン達が躍る華やかな場所であり、悲しいときは、真っ青な海の果てでラプラスが涙の歌をうたう。何かで見たきらきらの美しい風景。この前食べた美味しい木の実の味。どこかで吸い込んだ幸せをもたらすいい匂い。いつか聞いた眠りを誘う心地よい旋律。それら全てが、パロのセカイを作り上げるのだ。
放課後。書面で、教師との個人面談の日程が発表された。来年からの進路決定に関して話し合うらしい。今年度で卒業を迎える彼女らは、学校を出た後で生きていくその場所を今、決めなければならない。むしろ、既に決めていなければならないのだが、パロにとってはそれがひたすら憂鬱で、億劫で、まだ結論には至っていなかった。まだやりたいこともみつかっていないのに、未来の自分を、この先生きていく道を今、瞬間的に決めろ、なんて無理な話なんだ。内心はそう思うが、自分はそう言って教師につかみかかることができる人間じゃない、ともパロは自覚している。しかも、相手は世界一嫌いなローブシン顔の教師なのだ。途方に暮れて、彼女は日程表をにらみながらため息を繰り返す。彼女の面談は、三日後にあるようだ。それまでに、進路を決めていない事に対する上手い言い訳を考えておかなきゃな、とパロは思った。
学校から家までの道。十五分をかけ、南北に真っ直ぐ伸びる二百十番道路を南下していく。彼女は道からそれて、牧場の隣にある小さな公園に向かった。日没も近いためか、そこには誰もいない。真っ直ぐにブランコへ走り、荷物を放り投げて腰掛ける。勢いに任せて両足で地面を蹴りあげれば、ブランコの振り子運動が始まった。振幅を大きくするために、彼女は身体ぜんぶを使ってブランコを揺らす。高いところから低い位置へ、するん、と落ちていくときの、独特の浮遊感が心地よい。風を纏っている心地だ。ふわふわ達と空を飛んだあの日と、同じ匂いの風。彼女はその風が吹くこの季節を、心から愛していた。瞳を閉じれば、想像の波がよし寄せる。セカイがするすると、彼女へ入り込んできた。
突風。使者であろうフワライドに、こんにちは、と挨拶を交わす。飛び乗って、前進、急加速。宙へ舞い上がった彼女は、一面に染まるミルク色の背景に歓声を上げる。背後で巻き起こされる風に乗り、自分たちの後ろでふわふわの群れが追いかけてくるのをパロは目視した。さあ、わたしを連れてって、ふわふわ達! 振り返り、いつものように群れに声をかけた彼女は、ふと、それらがいつもと違うと気づく。彼女はその原因を探ろうと目をじっと細め、えい、と身を乗り出した。群れの総数は、きっと数えきれない程。奥の方まで伸びて行って、視界を覆うそれら。ぽん、ぽん、ぽん! あら、なんだか、だんだん増えているみたい。それらは風に逆らってじりじりと、彼らの前で飛ぶパロへ迫って来た。群れが近づく程にパロは、ひとつひとつ異変に気づいていく。尖る頭部の雲。ゴースのように黒い身体。わらわらと何本何百本も生えている針のような触手。ノイズと歯ぎしりと超音波を組み合わせたような激しい鳴き声。そして、彼女を射るような黒い眼差し。それらは、じわじわと彼女に近づいて来た。こいつら、ふわふわじゃないわ! 自分だけのセカイに、外部からの侵略者。しかも、それは彼女にとっての大敵にしか思えない。滾る怒り。腹が立つ。パロの噛み締めた歯がきりきりと鳴り、寄せた眉間に尖った瞳が、彼女に怒りの火を付けた。えせのふわふわね。わたしのセカイを、邪魔するな! 息を大きく吐き出す力で、腹の底から放つ咆哮。敵に向かって激しく鳴らせば、それは強大なエネルギーを持つ炎に変わった。あんたたちなんか、燃えちゃえばいいの。ごうごうと燃えて果てしない炎はやがて、風に飛ばされそれらに到達する。炎の渦に巻き込まれたえせふわふわの甲高く耳障りな断末魔が、パロの鼓膜へ飛び込んでくる。さようなら。言葉を吐き捨てた後、ふいに流れてきた向かい風が、彼女の頬へ火の粉を運ぶ。は、と思わず瞬きをひとつ。終えたところで、彼女のセカイはぱちりと閉じた。
うすら寒い風が足元を這う。暗がりに、林が鳴っていた。ああ、まずい、そろそろ、帰らなきゃ。今や光源は、街灯と牧場の奥に佇む民家のみ。ほの暗い園内。ひょいとブランコから飛び降りて、闇夜に目を凝らす。この世界では、火炎放射を使うことも吠えることもできない。押し寄せてくる恐怖を自覚し、その瞬間、駆け出した。わき目もふらず、徒歩5分の家を目指す。ああ、セカイの中だったら、こんな距離、ひとっとびなんだけどなあ。自分の荒い息と鼓動が響くその奥。彼女は頭の片隅で、そんな事を思っていた。
パロは今、彼女が世界一嫌いなローブシン顔の教師と対峙している。既にパロは、その怖い顔を見たその時点で白旗を上げたい気分になっていた。
彼女がその教師を嫌いな理由は、その授業を受けるたび、どんどん増えていた。高圧的な態度。それを助長する眼差し。怖い。ひたすらに彼女の頭にはその単語だけがひしめいていた。現在、机を一つはさんだだけの距離の、正面にキチンと座るその教師。パロは狭いこのフィールドの中、教師からの攻撃から逃げる術を探したが、適当にやりすごす以外に打開策は見つからない。そうやってまたこれからも逃げ続けるのならば、もう、正直に言ってしまおうか。わたし、ここを出たら何になればいいのか、分からないんです。だいたい、これからの人生を今の瞬間に決めろなんて、無理ですよ。噛みついて、そうしたら、なんて返ってくるんだろう。ああ、怖い。
「あなた、進路、まだ考えてなかったの?」
「はい」
ローブシン顔の口元からなんの遠慮もなく吐き出される、絶対零度。もはや戦闘不能の心地で、パロは続いての攻撃を待った。
「じゃあ、これから先生と見つけていきましょうか」
「へ」
がつがつと攻め入ってくると思った彼女は、その柔らかいものの言いように驚いて、思わずローブシン顔を見やる。ファイリングを見るために目を伏せていた彼女は、その眼差しを感じてパロへ視線を返した。は、と思わずパロは目を見開いて、そのまま居心地が悪くなって、黒目をくるりと回す。
「どうしたの?」
教師が問うてきた。いや、とパロは否定から入った。
「怒られるかと、思って」
焦りと緊張で満ちる頭の中、上手い言い訳も無く、その教師へ返答する。あらら、と教師は言いながら、少し、微笑んだ。
「こんなことじゃ怒らないわよ。授業をそっちのけでぼんやりしているときは、そりゃ怒りますけど」
ローブシン顔の表情がするりと解ける様を見て、パロは思わずまごついた。あれ、このセンセイ、こんな感じだっけ。授業で見るのと全然違うじゃないか。
「あなた、どんなオトナになりたい?」
思わぬ言動に面食らっていたパロに、教師は続けて一つ、問う。オトナ? と聞き返すパロへ頷いて、教師は続けた。
「未来の自分の理想に近づく道、それが進路なの。まずはそれを明確にしなきゃ。なんでもいいのよ。毎日ポケモンと接していたいとか、お金持ちになりたいとかね」
「お金持ち、ですか」
あまりに飄々とした物言いに、パロは思わず教師へ一言を挟む。
「あら、お金はとっても大事じゃない。センセイは大好きよ」
にやり、とその教師は笑った。
「焦ることないわ。パロさんなら大丈夫よ、ゆっくり決めましょう。また、近いうちにお話ししましょうね。」
すっかり、話し込んでしまった。結局、自分の目指すオトナとはどういうものか、全く見当がつかないままだった。しかし、この先の自分が想像できないことも、今の自分にはこれから先の進路を決められないということも。ぽろぽろとその教師に吐き出して、すっかり気持ちは軽くなっていた。ローブシン、思ったより優しかったな。意外とへらへらして、面白い人だった。もう、センセイのこと、ローブシンなんて言うの、やめよう。うきうき、軽い足取りで校舎を出て、照り付ける夕日を仰ぐ。未だ、高い位置にいるようだ。日が長くなったんだな。パロは独り言ちて、近づいて来る明日を憂う。ふう、と一つため息。くるり、陽光から背を向けたところで、見慣れた姿が彼女へ飛び込んできた。それはパロに気づいて、それに向かって大きく手を振る。
「シャン!」
ぱ、と気持ちが一瞬で軽くなって、パロは彼へ駆け寄った。
「一緒に帰ろうよ」
視線を交わせるほどに距離を詰めた彼が、パロへ声をかける。彼女は、うん、と頷いた。
二人は、幼い頃からの腐れ縁だ。引っ込み思案でもじもじ、と何にも尻込みする彼女に、しっかり者の彼は幾度となく手を差し伸べてきた。ポケモンの知識は、パロの方が上。バトルの立ち回りは、シャンの方が上手。お互いに足りないところを補い合うように、彼らはいつの時も手を取り合ってきた。
「ねえ、シャンは将来何になるの?」
ぽつぽつと言葉を交わし、ふと話題が途切れたところで、パロがシャンへ問うた。俺? と聞き返してから、彼はすぐに答える。
「俺はやっぱりポケモンレンジャーかな」
その単語を聞いて、彼女は思い出したと言わんばかりに、そうだった、と返す。彼は昔から、俺はポケモンレンジャーになって困っている人を助けるのだと、よく言っていた。その光景を回想して、少しばかり、懐かしい気持ちに馳せる。
「そういえば、言ってたねえ」
うん、と頷いて、シャンは続ける。
「パロの方は?」
彼はパロへ質問を返す。ふう、とため息ひとつをついて、苦笑いを彼に返した。
「センセイとも話してたんだけどね。なんにもないの。わたし、どんなオトナになりたいのかな。全然、見当がつかないわ。自分が何かを、頑張って取り組む姿なんて、想像ができない。だいたい、無理よ。今のわたしが、これからの将来を決めるなんて」
勢い付いた早口、だんだんと小さくなっていく声量。それが、こうこうと照らす夕日に溶けて、生ぬるい風で流れていく。シャンは、そうか、とだけ返した。だんまり沈み込む空気。パロは既に思考の渦で、もがき始めていた。さっきまで感じていたうきうきした気持ちは、いつの間にか消え失せている。焦燥、不安。隣でしおれているパロへ、何と言えばいいものか。シャンには上手い言葉が見つけられない。それでも、彼はこの沈黙に耐えきれず、口を開いた。
「まあ」
パロは、うっすらと泣きべそで、彼へ振り返る。
「とにかくさ、何も見つからなかったら」
シャンは立ち止まった。彼女の視線をぱちりと受け止める。
「俺に、ついて来いよ!」
瞬間。しん、と鳴る空気。え、と唖然と目を見開いた彼女。なんだか無性に、嬉しさや、恥ずかしさが込み上げてきた。
「ちょ、何言ってんのよ」
感情を誤魔化すため、くつくつと笑っていたパロは、ぽ、と熱い自分の頬に気づく。わたし、何照れてるんだろう。なんだか自分自身がくすぐったくて、おかしくて、彼女は徐々に、大きな笑みでもって声を上げ始めた。
「そんなに笑うなって」
シャンも釣られて笑い始めるが、心境はその表情とは裏腹だった。本気な言葉は、いつも茶化される。ちょっとクサかったかな。もう少し、真面目な顔で言えばよかったかな。まあ、好きな人が笑ってくれるなら、今はとりあえず、それでいいか。彼女は楽しそうに、大きく開けた口を隠そうともしない。それを眺めるシャンもなんだかおかしくなって、二人で腹を抱えながら、澄んだ空へ声を響かせた。
眠れない。そう思い始めて、どのくらいが経ったのだろう。これからの事を考え始めたら、また、不安になった。目は閉じたまま。思考が止まらず、今の今までため息ばかりついている。学校が休みだからと言って、遅くまで起きていたからだろうか。ベッドで横になるにはすっかり頭も冴えてしまっていて、今の今までこの調子である。
わたしは、何になりたいのだろう。わたしは、何がしたいのだろう。わたしには、何ができるんだろう。ひとつひとつ頭でこねくり回して、答えは出ないと諦めて、しかしまた自問自答を繰り返す。
「これから、考えていきましょう」そう言ってくれた教師の言葉を思い出して安心したり。
「ポケモンレンジャーかな」そう言い切ったシャンと自分を比べて、焦ってみたり。
ああ、なんだか、もどかしい。じれったい。歯がゆい。いらいら。むかむか。自分自身が分からないなんて。情けない。みじめだ。そんな自分に、腹が立つ。彼女はベッドの上、布団の中でぐるぐると、身体を丸めてきゅっと目を閉じた。ふわふわのセカイに救いを求めようとも思ったが、なんだか、セカイを暗い色で染めてしまうようで、嫌だった。黒くて攻撃的なふわふわも、それを火で焼き尽くすことも、もう、したくない。なんでかな。今までは、セカイを想像するだけで幸せになれたのに。最近は、辛い事から抜け出すときばかりに、セカイを使ってる気がするわ。
陰鬱。だめだ、このままじゃ。振り切るようにパロは瞳を開いて、視界を得る。布団からそろりと顔を出して、窓の外を見やった。既に、カーテンから陽光が透いて見える。寝る事はもう、諦めようか。外に出て目を覚まそう。眠たくなったら、お昼寝でもすればいいわ。そんなことを考えながら、彼女は、そろり、身を起こす。
町の中は、冷たく、少しばかり強く風が吹き付けている。すっかり昨日の陽気は洗い流されていた。暖かさを失くした空気が、晒された彼女の頬をつんつんと刺していく。しん、と音が沈み込んだ夜明けの町。公園のブランコに座りながら彼女は、白く広がっていく空を眺めていた。振り返れば未だ、空の果てでは微かに星のまたたきが聞こえる。しかし、徐々にそれらはフェイドアウトして消えていき、なんだかそれを見届けるのが寂しくて、彼女は目をそらした。その手前、低い空に、鳥ポケモンの影が通り過ぎていく。牧場の農夫やそれに連れられたポケモンが、動き始めた気配も感ぜられた。朝が、始まる。そろそろ帰ろうかな。すっかり目が覚めたし。パロは、ブランコからひょいと降りて、そのまま目を閉じて、うん、と大きく背伸びをした。そうして、目を開ける。瞬間、彼女の視界の端に、ポケモンの群れが映り込んだ。
フワライドの、群れだ。
彼女は、驚いて息を飲む。あの光景が、記憶が、一瞬で戻って来た。夜から朝へ、温度の変わり目。にわかに起こった強風にあおられ、フワライド達は彼女へと真っ直ぐに流されてくる。それらは、林に囲まれたこの狭い空を、覆い尽くすかのように増えていった。パロの視界を埋め尽くすたび、思考がすべてそれに支配されていく。ああ。たくさんの、ふわふわだ!
ふいに、風が動いた。込み合っていた群れは、林の果て、海の方へと少しずつばらけていく。夢にまで見た、しかしいつも思い描いていた、フワライド達との遭遇。目を見開いて、見入っていた彼女は、それに気づいて風下へ走り出す。始めパロは小さい歩幅で上空を確認しながら進んでいったが、この速度では徐々に群れから離されてしまう。待って、待ってよ! 無我夢中に彼女は、大きく足を踏み出してから、全身を使って駆け出していた。木と木の間をすり抜け、草木を踏みしめて、段差を飛び越えて。フワライド達は、一度林の木々の下まで降下していたが、今度はその位置から高い空に向かい、上昇を始めた。風が、上向きへ変わったんだろう。それらの速度もどんどん早くなっていく。あの時と、同じだ! わたしも、わたしも連れてって! 喘ぎながら走る彼女の体力。自分でも、そろそろ限界だと分かっていた。このままでは、置いて行かれそう。しかし、もつれた足が、上手く前へ出ない。激しく呼吸を繰り返した喉の奥が、ひりひりと痛む。苦しい。もうだめだ。最後の息を吸い込んで、緩やかにスピードを落とした彼女は、その場で立ち止まってしまった。胸から肩まで、上半身全体で荒々しく呼吸を繰り返す。視界が端の方から黒に染まっていって、とうとう地面に尻餅をついた。また、ふわふわと一緒に行けなかったなあ。独り言ちて、空を仰ぎ見る。白んだ朝の色は消え失せ、既に一面は雲のうっすらと流れる青に染まっていた。一瞬であふれ出た汗が、流れる空気で冷えていく。鼓動も落ち着き始め、人やポケモンが動き出す気配にも気づき始めた。ため息のように長い吐息を一つ吐き出して、ふと、前を見やる。そこで彼女は、は、と気づいた。見上げた先、林に立ち並ぶひとつの木に、それは引っ掛かっていたのだ。
瞬間。地面に付いた手を押し付け、それをバネにして彼女は飛び起きる。未だもたつく足を一生懸命に動かした。すぐにその地点へ駆け寄って、その影を真下から見上げる。ああ、やっぱり、フワンテだ。それは、彼女が背伸びをして、手を伸ばして、それでやっと届くくらいの位置にある枝の間で、必死にもがいていた。吹き付ける風に煽られて、上手くそのしがらみから逃れられないらしい。独特の、虫がさざめくようなかすかな鳴き声が聞こえる。手足をばたつかせて、そろそろそこから抜け出せそうだ。ふと、それと彼女の視線が触れ合う。しかし、フワンテはひょいと、すぐに眼差しを空へ向けた。
ああ、なんて、小さいんだろう。ふと、そんな薄っぺらい雑感が、なんの遠慮もなく彼女をよぎる。こんな小さなポケモンの、あんな細い手足につかまって、本当に飛べるのかしら? なんだか、すぐにフワンテごと落ちてしまいそうだ。そしたら、わたしは、きっと。
そう、わたしにとってそこは、幼き日に行くはずだった、未知の場所。将来へのしがらみもなく。何にも縛られない。自由なセカイ。眠気と覚醒の間でたゆたう、白く光で満たされた海のような。そんなセカイなら、行ってみたい。今確かにそう思う。でも。
いきさきは だれも しらない
思い出すのは、図鑑の説明文。学者ですら解明できない場所に飛び込んだら、きっとわたしはこの世界に帰ってこれないんだろう。
「俺と一緒に、来ればいいじゃんか!」思い出すのは、シャンの言葉。この世界では大切な友人が、こんな弱気なわたしのそばで、ずっと笑っていてくれる。
「どんなオトナになりたい?」思い出すのは、センセイの言葉。この世界には、未来がある。当たり前のように、明日がある。行く末を見守ってくれる、オトナがいる。
大好きな季節が、風景が、場所が、匂いが、色が、風が、人が。存在するこの世界を飛び出して、そんな想像に賭けるなんて。
想像。パロは思考がその単語に至ったところで、はたと気づいた。そうよ、自分自身でも分かりきっていたことじゃない。セカイは、わたしの想像したもの。それが実際にふわふわ達の行く先にあるだなんて。そんなの、たわごとでしかない。そんな馬鹿げたことのためにこの世界を捨てる事なんて。今のわたしには、出来ない。
ぽかん。パロは呆然と、立ち尽くしていた。林から抜け出したフワンテが飛び去ったあとの空から、視線を外せない。あの日から、焦がれる程に思い続けていたフワンテを。すぐそこまで手が届きそうだったフワンテを。ああ、わたしは、自分から手放したのか。遠い昔に夢見たあのセカイ。自分から切り離した、想像のセカイ。思わず忘れた呼吸。にわかに咽て、次第に涙が込み上げてくる。絶望感か。喪失感か。後悔か。どの感情が彼女を洗い流しているのか、今のパロには分からなかった。力を失い、だらんと垂れた両腕。疲れ切った身体は、水分を欲している。帰らなきゃ。まばたき一つのあと、くるり、踵を返した。とぼとぼと、来た道を戻る。
「パロ!」
ふいに、聞きなれた声。ぱ、と視線を前へ向けると、遠くで人影が、パロを見て手を振っていた。
「エンばあ!」
思わず駆け出して、小さい老婆へ飛びつく。優しく抱き返して彼女は、パロの泣き腫らした顔を見やる。あらら、と、その老婆は困り顔で、微笑んだ。
「怖い夢でも見たのかしら。よかったら、家へ寄っていかない? 朝ご飯をご馳走するわ」
パロの近所に住むエンばあさんの家は、洒落た赤いレンガでできていて、日当りがいい。パロはキッチンのテーブルに着き、差し出されたホットミルクで、いつの間にか冷え切っていた体を温めた。ちょっと待っててね、と言ってキッチンに立つエンばあさんの帰りを待つ間、パロの意識はとろとろと沈んでいく。食器が鳴る音でふと視界を取り戻すと、老婆はパロを見やって微笑んでいた。
「できたわよ、冷めないうちに、さあ」
焦げ目がきれいなトースト。色とりどりの野菜が盛られるサラダ。更にベーコンエッグを焼き上げてエンばあさんは、パロの正面の椅子へ座った。いただきます、の合図で、パロはトーストをかじる。その様子を見つめてエンばあさんは、おどけたように彼女へ話し始める。
「びっくりしたわ。朝の散歩に出たら、林の奥からお嬢さんがとぼとぼ歩いてくるんですもの」
パロは苦く笑って、ごめんなさい、と告げる。
「昨日、眠れなくて」
陰る視線。エンばあさんは、あらら、と一つ言ってから、続ける。
「きっと、何か、あったのね?」
パロはうなずいた。そのまま、二人は視線を交わす。あのね、とパロは話し始めた。将来のこと。シャンのこと。センセイのこと。不安。焦り。気づき。そして、セカイのこと。ふわふわ達。巨大な群れ。見つけて、追いかけて、すぐそばまで届きそうなフワンテ。それでも、この手を伸ばさなかったこと。ゆっくりと、たどたどしく。うまく言葉を伝えられているだろうか。心配になって、老婆を見やるが、しかし老婆はうなずきながら、黙って最後まで話を聞いている。話し終えたときにはすっかり朝食は冷めてしまっていて、老婆はそれについて少しばかり後悔した。パロは勧められるがまま最後のトーストを口に投げ入れ、深く、暗い気持ちを吐き出す。
「なんだか、寂しいわ」
そうねえ、と老婆はそれに同調する。俯き加減で、パロは続けた。
「セカイを捨てちゃったんだ、わたし。もう本当は、そのセカイはただの想像だってことも、知ってたのよ。気づかないふりをしていたわ。それでいて、悲しい時にばかりセカイに逃げたの。セカイに行きたい、セカイに居たいって。そんなことしたって、問題は何も解決しないのに」
「パロ」
名を呼ばれ、パロは視線を老婆へ戻す。目が合ったところで、老婆は語り始めた。
「想像を想像だ、と自覚し、現実世界と線引きをすること。それはね、パロ。オトナになるって、ことなのよ」
「オトナ」
聞き返したパロに、老婆はうなずく。
「空想も、妄想も、ただの現実逃避。自分の身に起こっている問題は、そのセカイを膨らませるだけじゃ何も解決しないわ。だから、線引きをするの。そうしなきゃ、この世界じゃ生きられないのよ」
そうよね。パロはそうつぶやいてまた目を伏せる。しかし、エンばあさんは続けた。
「でもね、その想像のセカイがあなたを救う時がこれからきっとあるわ、絶対に。だから、フワンテと一緒に行かなかったことを、セカイを捨てたからだと思い込んじゃ、だめよ」
必死に、その意味をパロは理解しようとしたが、なんだか上手く自分で消化ができない。表情に出たのだろうか。黙りこくったパロを見て、老婆は微笑む。
「これから、わかる時が来るわよ。そう。あなたは、嫌だったセンセイのいいところに、気づくことができたわ。それはとっても、いいことだと思うの。あなた、素敵なオトナになれそうね」
「素敵なオトナか」
独り言ちて、彼女は黙する。
「あなたは、どんなオトナになりたい?」思い返すのは、センセイの言葉。そんなこと聞かれても、全く想像できなくて、そんなの分からないって、ヤケになりそうだったけれど。センセイはわたしの笑いを誘ってくれて、ふわり軽くなった心のまま。わたしは、進路に対して思うことをすべてを、正直に話すことができたんだ。どんなオトナになりたいかだなんて、そんなの想像出来ないだなんて、無茶苦茶なわたしにも馬鹿にせず、寄り添ってくれて、話を聞いてくれて。ゆっくりでいい、一緒に考えるって、安心させてくれて。授業では少し厳しいけれど、生徒のありのままの気持ちを、ちゃんと思いやってくれる、すてきなセンセイ。ああ、センセイこそ、わたしの思う素敵なオトナなのかもしれない。
「センセイみたいなオトナになりたいのかな」
自分で発した言葉に、自分自身が気づかされる。そうだ。センセイのようになりたいんだ、わたしは。
ぼやけたピントに、焦点が合った心地。瞳に、一筋光が灯る。老婆は、それをじ、と眺めていた。ああ、もう自分で答えを見つけ出したのね、この子は。
「センセイも喜ぶわね。じゃあ、学校のセンセイになるのかしら」
ん、と考える。センセイのようにはなりたいけれど、学校の教師を目指すべきなのか。それでも、いいかな。そこで、ふとパロは、シャンを思い返す。ちくりと突き刺さって、決意が揺らいだ。
「ゆっくり決めましょう」センセイも言っていたわ。そうだ。次に話す時、ゆっくり、センセイと一緒に考えよう。
「いや。まだ分からない。ゆっくり考えるわ」
老婆に伝えると、彼女は笑みを湛えてうなづいた。ついこの前まで、シャンに引っ張られてようやく、歩き始めるような子だったのに。自分自身で決断して、踏み出せるようになったのね。回想しながら、エンばあさんは彼女と視線を合わせる。何度この光景に立ち会ったのだろう。自分の孫や子供たちと同じように。パロもオトナになれば、知らない街へ羽ばたいていく。新しい出会いの中で、落ち込むこともあるだろう。その前に、伝えておきたい。この老婆心を、パロに。
お邪魔しました、と玄関先で伝えたパロを、エンばあさんが引き留める。差し出したのは、パロが好きなモモンのジャムだ。受け取って、パロはエンばあさんに感謝を伝えた。
「ありがとう。今日は、よく眠れそう」
にこ、と笑うパロへ、とんでもない、と老婆は微笑みを返した。そして続ける。
「きっと、これから辛いこともある。悲しい時もある。だけど、あなたにはいつの時も、セカイがそばにあるから、大丈夫よ」
前に進めず辛いことがあったとき。花や風の美しさに触れたいとき。遠い日の思い出を掘り返すとき。そこにはいつもそのセカイがあった。いつかまた立ち止まりそうなとき。童心に焦がれたとき。セカイはパロの望み通りに姿を変化させ、彼女を救ってくれるのだろう。
ふと、遥か遠くで、ムクホークの鋭い鳴き声。見上げると、薄雲は一面に平たく伸び、陽光はかすんで柔らかく地を照らしていた。ようやく緑も萌え始め、木の実の成る木はそろそろ甘い香りを一面に漂わせるだろう。おだやかな、淡い色。湿った空気。生ぬるい風。シンオウに長く続いた冬の終わり。そして、春の始まり。彼女は、それを全て自分に取り込むかのように、おおきく、おおきく、息を吸い込んだ。
わたしはこの世界で、生きていく。セカイと一緒に、オトナになるんだ。春風に流され晴れやかな空をたゆたう、ふわふわ達のように。だれもしらない、その未来へ