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「君を虎にしてやるのは簡単だよ」
店主はそう言うと、品定めするような目で李徴をしげしげ見下ろすのだった。
李徴は歓喜に震えた。それは揺るぎない夢であった。虎になるが為にこそおれは生まれてきたのだと李徴は長く信じてきた。皆の反対を押し切って生家を飛び出したのも、諸々の鬱憤の末とは言えど、その諸々の所以を求めてゆけば必ずそのひとつの願望に辿り着く、その位に虎への憧憬は凄まじかった。
勇ましい虎の躍動に抱く、大いなる畏怖と崇敬。その背に父親に描くべき情熱を見たのは、よちよち歩きも脱して間もない頃であった。テレビ画面の中で猛然と枯れ草の海を駆る黄土の狩人に、幼心は掻き毟られるような慕情に焼ける。己の内の何かが産声を上げ、むくむくと膨れ、沸き立ち、血肉踊り。激情の末に李徴は駆けずり回った。家主の殊勝な制止も虚しく、捕らえたのは一匹の小鼠であった。キュウと泣く、我が支配下の窮鼠。犬歯に滲む血潮の香。李徴は震えた。知ってしまってはもう戻れない。大きくなったら虎になるのだと。信じてしまった時にはもう遅かった。
神が李徴に与え給うた試練というもの、これがまた凄まじかった。則ち李徴は元より虎ではなかったのだ。己がイーブイの形でこの世界に降り立ったのは何かの間違いだったと気付いたのは、不幸なことに随分大人になってからであった。幼き日の李徴は、ただただ無垢で純情であった。ただただ夢想する子供であった。虎になる日を、自然と成り変わる日を、今か今かと待ち望むだけであった。
自分が黒くて小柄でスマートな獣に成り変わった時、李徴の内に、進化の喜びなどあるはずもなかった。
代わりに覚えたのは動揺。拒絶。失意。絶望。時さえ経れば当然のように成り変われるものだと思っていた虎の姿とは掛け離れた、そのスマートさ。反吐さえ出た。李徴は無垢で純情なただの阿呆だったのだ。己のことを、虎の子だとばかり思っていた。だって、体の色だって、首のなんかこう、この、もふもふだって。もふもふだったじゃん、さっきまで。おれのもふもふどこいった。その時李徴は自分の親が、虎などという獰猛な獣ではまるでなく、ただお向かいの桜井さんちに住んでいるぬるっすべっとした体のやつであったことを知った。早く言ってくれよと思った。確かに知ったら知ったでおれは廃人みたいになっていたかもしれないけれど。ニンフィアという獣になるのだと言って彼方の地方に武者修行に出た鈴木さんちの旧友の袁慘、ああいう風な阿呆の夢想家に逃げていたかもしれないけれど。
ただ、親のつるつるすべすべぬらぬらでなく、その凛とした黒い毛皮に選ばれたことは李徴にはまだ救いであった。進化して数日は鏡を見るたびに窓ガラスに映り込むたびに水を飲もうとして水入れに顔を覗かせるたびに咽び泣いてどうしようもなかったから気付かなかったけれど、その咽び泣いて赤く腫らしていた自分の瞳は、咽ばなくたって赤かった。血肉の色。獰猛色。それはなかなか気に入った。
そこからの李徴の努力にまつわる血と汗に滲んだエピソードの数々を語るならば、到底一万字ちょっとなどでは足るまい。なのでここでは割愛させていただく。
ともかく李徴は速さを極めようとした。李徴は周りのブイズたちの中でも特別足が遅かった。硬さに関して言えば人一倍ではあったけれども、己を呪い、不意打ち、しっぺがえす、またあくびしてつきのひかり浴びてあくびしてつきのひかり浴びて、なんてまるで脇役じみたやり方は残念ながら李徴の気質にはとことん合わなかった。地鳴りの如く吼え、疾風の如く駆け、龍神の如く舞い、その首元へ鈍い牙の閃き、そしてザクッと掻っ捌く。その圧倒的パワースピードたるや、抗う術など有り得ない。ああ宜なるかな、霧となり迸る血潮! たった一撃で決する勝負。李徴にすればそれは触れれば瞬く間に融解蒸発の路を辿り昇る蒸気の塵となり天高くまで達するような、宇宙で最高のアツさであった。
李徴はまた小鼠を捕え続け、自在に空へ逃げゆく小鳥達にも果敢に挑み続けた。特に士気の高い時には一人山へ登って兎を探した。それらは逃げ足よりも飛び蹴りの方が痛かった。それでも李徴は守る事だけは断じて覚えようとしなかった。己を顧みる、もとより己の適性を見極めることからとことん目は背けた。攻めの快感に粗方酔い潰れていたのである。
そうして鍛え、鍛え、鍛え抜いて、泥沼の時代をもがき抜いて、李徴はついにそんじょそこらのブイズには負けようもないほどの強靭な肉体を手に入れた。己に平伏す同族を俯瞰する絶景に李徴は随分と酔った。そして、その酔いもじきに醒めてふと平静に立ち返った時、李徴は気付いた――それでおれは果たして虎になったのか、と。
恐る恐ると鏡を覗く。いつもの『おれ』がそこに立っていた。さすがに見るたびに反吐は出なくなっていたが、その折だけは鏡にほとほと嫌気が差した。体を鍛えたところで、幼き日の黄土の毛皮も襟巻の白いもふもふも、もう取り返せない。赤い瞳の獰猛色は、矢庭に力を失った。甘やかな、ひそやかな絶望の闇が、頂きに君する李徴の黒へずぶずぶと浸透していった。
「――だけど、おれは諦めなかった。探したよ、虎になる方法を。どんな手段もいとわなかった。噛み付いたミネズミたちや、追い払ったポッポたちや、追い払われたミミロルたちにたくさんの貢物をして、虎になる方法を知らないか聞いて回ったんだ。たくさん情報を集めた。もちろんブイズの同胞たちにも尋ねた。そんで知ったんだ、ここを。あんたの店を」
弁を振るう李徴の目は赤く熱く輝いていた。装飾小物屋の店主はそれほど興味も示さなかった。
店の奥に一旦引き、出会い頭の冴えない顔のまま戻ってきた店主の手には、李徴が幼き日に失ってしまったあの、あの純白の襟巻の質感がそのまま携えられていた。
店主はまず、李徴の首にそれを回した。胸のあたりをもさもさとくすぐるその感触の懐かしさに、あの無垢で純情で阿呆であったあの頃の無邪気さを思って李徴は涙した。店主は淡々と事を進める。首の周長を凡そ測ると、次に柔らかく垂れ流れた白の毛をもうっと上に引っ張り上げて、その長さを見た。何か印をつけると、首から全部を外した。暫くかかるよ、とくぐもった声を落とすと、レジスターの脇の作業台のようなスペースにとんと腰掛けて、もぞもぞ何かを始めたのである。
いつまでも待てるとも、と李徴は思えた。けれども出来うる限りは早い方がいい、とも思った。この苦節の何年かの歩んだ軌跡を望むにはきっと短すぎるくらいの時間であろうし、その苦節の何年かの体軋むような忍耐を思えば長すぎるくらいの時間であろう。
極彩色の羽飾り、豚鼻を模したペンダント、ささやかな凶器を携えた草の緑のとんがり帽子。装飾小物と言ってもその店はなかなか奇抜であった。人の大きさもある電気鼠の着ぐるみは妙に精巧で、単なる黒いビーズとは思えぬ瞳には何らかの悲しげな光が灯る。首を回し、埃っぽい灰の壁からぶらついているものに既視感を覚えて、李徴は悪寒に震えた。黒塗りに、シンプルな月色リングの紡錘形。己の尾っぽと瓜二つである。その横に垂れているくるんと器用に巻いたふさふさ、あるべき炎のぷすんと消えたどっしりとした太さの橙。そこは尻尾の模造品のコーナーだった。
「あるべき姿でしかあれないと、おれは思っている」
店主がまたぼそっと言う、何だって、と李徴は返した。聞き取れなかった訳ではない。
鼻孔が突かれる。李徴は顔を顰めた。酷い臭いのスプレーを、店主は襟巻へ躊躇いもなく吹きかけはじめた。忽ちに純白は虎の色へと変わっていった。
「おまえさん、虎になって、何か成し得たいことがあるのかね」
問いかけに李徴は少し悩んだ。
「強いて言うなら、あの日テレビで見たあの虎のように、枯野を逞しく駆け回り大きな獲物を捕らえたい」
「それは黒い毛皮では不便か」
「不便もなにもありゃしない。それは虎じゃなくただのブラッキーにすぎないじゃないか。おれは虎になりたいんだ。虎じゃなきゃ全く意味がない。そもそも、憧れて悪いと言うのかい。何がしたいも、何が得たいも、おれにはないよ。虎になる、それが、おれのたったひとつの夢だった」
その先を問われたのだと李徴は知っていたが、それへ答えられなかったとして、だから何だというのだろう。自分は虎でないという高すぎる壁を眼前にして、その先が見えないのは当然であるし、その壁を越えさえすれば、新しい景色は、自ずと李徴の前に姿を現すはずである
虎になること。それは本当に、本当に李徴のすべてであった。それ以外のことはすべて擲ってきたと断じてもよかった。笑う者もいたし、馬鹿にする者もいた、最初のうちは案ずる者も、引き止めんとする者もいた。それもそのうちに諦めて、消えていった。呆れたと言ってもいい。そうだってよかった。孤独だって、虎にさえなってしまえば、あの至高の狩人に仲間など要る筈もなかったから、どうだってよかった。どんなに笑われたって、けなされたって、虎になれば全部全部見返すことができる、支配し征服することができる。それは虎になるということ付随する結果に過ぎないと言え、李徴の中でこの副産物は存外に膨れていくこととなった。虎になることで、今までの全部を清算するかのような。虎になれないならば、今までの全部は、全部……。確かに幼い頃は英雄への単なる憧れのような可愛らしい夢だったかもしれない、だけども今となっては、李徴にとって虎になることとは己に課せられた唯一無二の使命、絶対的な存在意義、必ずや為さねばならぬ人生の課題と言える程の、アイデンティティとなっていたのだ。
ふっふっと尾を振る。虎になったら。その後は、何をしよう。何ができるだろう。なんだってできる。なんだってできる中から、まずは一体、何を選ぶ? ――完全に虎の色と化した襟巻へ今度は鋏を入れながら、店主は徐に沈黙を破る。
「何者かになりたい輩の為に、この店はある」
短く刈られる襟巻の残骸が、その手元にばらばらと散らかっていく。
「けれども、なりたくてもなれない奴だ。虎になりたかった自分にはうってつけの店だと言う風にお前は言ったが、それはまるで違う。ここに来るのは一時の夢しか見れないと知っている奴だ。こんなことで、見かけだけ真似るだけで本当の意味で憧れになることなんてできないって、きちんと知ってる奴だよ」
「それは、おれは虎にはなれないって言ってるのか」
「いいや」
刈り揃えられた襟巻。ワックスらしい白く濁った粘性のものを両手に広げると、店主はにやりとした。
「おまえさんなら笑うまい。おれは昔、ポケモンになりたかった。かわいく、かっこよく、どいつも体裁整っていて、気ままにしているだけで大勢の人に愛される存在であるポケモンに、本気でなろうとおれは思った」
そのささくれた指が毛並みの間を通ると、へたっとしていた襟巻はみるみる鬣へと近づいていった。
李徴は目を丸める。そこにはきっと、涙ぐましい努力があったろう。問うと、それの浮かべた笑みは実に寂しげであった。
「したさ。努力をした。バックパッカーとなり、ポケモンの一匹も携えなかったおれは、この足一つで世界中を旅して回った。ポケモンになる為の『グッズ』を求めて、どこまでも飛んでいったんだ。ありとあらゆる方法で情報を集め、グッズを買う為ならどんな仕事もこなして金を稼いだし、已む無く汚い方法にも手を染めた。そして、最後におれの元に残ったのは、部屋に収まりきらず借りた倉庫にも最早詰め込みきれなくなった莫大な量のコスプレグッズと、こうやってポケモンコスプレ屋が開けるぐらいの知識と人脈、あとは、結局、ポケモンになんかなれる筈もなかった自分」
……沈黙。李徴は静かに男を見据えた。出来た、とひとつ机を打つと、男は立ち上がり李徴に寄った。李徴は頭を差し出して、幾許か目を閉じた。
積み重ねてきた日々が、李徴の闇の中を、流星のように駆け抜けていった。
「おまえさんは、おれたちとは違う。理由がどうあれ、まず内側から、己を磨いた。憧れの姿に向かって、己の心を高めていった。それは、とても、誇れることだ」
ご覧、と男は言う。李徴は目を開けた。
目の前に、黒い、虎がいる。それは鏡だった。かつてなら見たくもなかった、それは鏡であった。
「……おまえさんなら、こんなものなくたって、もう立派な『虎』だとおれは思うけどね」
店主は肩を竦めて言う。
それは、あっけない、あまりにもあっけない、李徴の虎人生の幕開けであった。
*
店を出ると、普段よりたくさんの目がこちらを捉え、そして笑った。
李徴は歩いていく。いつも追い掛け回していたポッポ。どうしたんだいそのお洒落、と空高くから李徴を笑った。いつだか二度蹴りで瀕死を食ったミミロル。あんたって本当にヘンね、と李徴をけなした。首根っこを捕らえて、何度も獲物にしてやったミネズミ。物陰に隠れてこちらを伺いながら、表情はかなり怪訝としていた。
……李徴は気づいてしまう。何か違う。何か違うのである。何が違うのだろう。李徴は考えた。もう一度鏡を見た。そこには虎がいる。黒い虎。虎色の鬣をした、ブラッキーのおれ。ブラッキー。あれ。ブラッキーだな。これは虎というより、鬣つきのブラッキーだな。おかしいな。なんだろう。虎になれば、もっとびびっとくるものが、感動とか、沸騰するくらいの興奮とかが舞い込んでくるものと思っていたが、それはなんだか違っていたようだった。むしろ李徴は冷めていた。なんだろう。なぜだろう。つまるところ、まだ、虎になりきれなかったからに違いなかった。なにかがまだ、虎として足りていない。なんだろう。尻尾か。牙か。やはり体毛か。存分に首を捻って検討した。しかし考えても分からぬ。それならば、もう本場の虎に聞いてみるのが手っ取り早い。李徴は思い立った。そうだ、スマトラに行こう、と。
スマトラ。インドネシア共和国大スンダ列島に属する島。マラッカ海峡に臨み、かねてから東西交通の要衝である。西海岸沿いに火山活動を伴うバリサン山脈が走り、最高点はクリンチ山で三八〇五メートル。メダン南のトバ湖はカルデラ湖であり、ここ二百万年では地球最大の噴火跡として知られる。避暑地、観光地として有名で、湖に浮かぶサモシール島はバタク人の伝統家屋や舞踊などが楽しめる。タバコ、茶、天然ゴム、パーム油などのプランテーション農業が行われるほか、パレンバンを中心とする石油、天然ガス、錫、ボーキサイト、石炭などの鉱産資源もある。全島の半分以上が森林に覆われ、木材伐採や開拓などの開発が進められている(Wikipediaより)。
降り立つと李徴は虎を探した。ほどなくして虎は見つかった。スマトラトラである。
スマトラトラ(Panthera tigris sumatrae)。トラの中で最小の亜種である。また現存する亜種の中で最も南に生息し、唯一島に生息しているトラでもある。スマトラ島の熱帯モンスーン林を生息域とする。体色はくすんでおり、黄色みがかった赤褐色(黄土色)。縞模様は縞が多く黒く幅広、肩部より後は2本ずつの束になっている。シカやイノシシの大型草食獣からサルやウサギ等の小獣、クジャク等の大型鳥類、更に魚や昆虫等まで捕食する。ネコ科としては珍しく水を嫌わず、泳ぎも上手い。木登りも時々する。インドネシア国では絶滅危機から守るため、一九九五年よりスマトラトラプロジェクトが開始され、野生での研究や保護活動などが行われている。WWF(世界自然保護基金)とトラフィックは、「インドネシア国に生息するスマトラトラが、違法取引の広がりと、生息地の激減によって絶滅に向かっている」と二〇〇四年三月十六日に発表した(Wikipediaより)。スマトラトラ。トラトラ。トラト……とら……いや虎、正真正銘の虎である。アポ無しにも関わらず、スマトラトラは李徴との対話に快く応じてくれた。
小洒落たオープンカフェに案内されて、テラスの一テーブルに二人は向かいあって座った。李徴はワイルドに肉を頼んで、スマトラトラはワイルドに肉とか、血のドリンクとか頼むのかと思えば、いつものと言って運ばれてきたのはほかほかの焼きたてパンとシーザーサラダであった。中性脂肪が気になる年頃でねとスマトラトラは照れくさげであった。
李徴はスマトラトラに、事の次第を打ち明けた。自分に今何が起こっていて、今何に悩んでいるのかというのも全て話した。ウンウンと言って微笑ましくスマトラトラは聞いていた。が、途中からいくらか顔つきが曇って見えた。
おれはなぜ虎になりきれぬのか、あとは何が足りぬのかと矢継ぎ早に問うと、スマトラトラはうーんと唸った。
「では、スマトラトラさんは、虎である為には何が重要だとお思いか?」
スマトラトラはうーんと唸った。唸り続けた。ウエイトレスが空になった肉の皿を下げ、お冷を継ぎ足してくれるまで、うーんと悩み続けた。李徴は目を輝かせ続けた。
「……寝ること?」
そして結局、スマトラトラの出した結論はそれである。
「……うん、寝ることかな。うん。睡眠大事だよ。お腹がすいたときにしっかり走れるように、早寝早起きできっちり生活リズムを整えることは大事だね。あとは毎日の運動かなあ。このあいだもさ、せっかくシマウマが呑気に歩いてたのにぼく、走ろうとした瞬間に足を攣っちゃてさ。もー痛いのにヨダレ止まんなくて、たまったもんじゃないよね、ハハ」
朗らかに話すスマトラトラの話を適当に受け流しながら、これがカルチャーショックってやつなのかなと李徴はちょっと思っていた。
「あとはー、うーん、自分らしさを大事にすること? 虎だからこうあらなくちゃ、なんて窮屈な考えに縛られずに。ていうか君、虎っていうよりはどっちかっていうとライオンだよね。ハハ。鬣って。ライオンじゃん」
李徴は激怒した。
そこからどうなったのか、もう李徴には知れぬ。見も知らぬ土地を遮二無二李徴は駆け抜けた。どこをどう走ったとも最早分からず、気づけば街は消え、太陽も消え、雲隠れする者の残光を踏みながら森を抜け、飛び、そして小高い丘の上に立っていた。
静かな丘であった。冷ややかな光に満ち満ちていた。見下ろす眺望には星屑が幾多瞬いて夜半を彩り、促すように体躯を滑る冷風はほどなくの暁を知らせていた。李徴は吼えた。ひたすらに吼えた。訳も分からず吼えた。夜闇に吼えた。銀砂に吼えた。眠りに潜む森へと吼えた。間違いを指摘しなかった店主へ吼えた。己の妄言をもっと必死に止めてくれなかった親族に吼えた。かつて己を憧れせしめた者へと吼えた。虎とも知れない虎。そんなものへ心酔して疑わなかった、そして今己の歩んだ軌跡に関して当てつけのように他人へ吼える、阿呆で惨めでどうしようもないかつての自分へ、そして今のおれへと吼えた。吼えた。
朝風が朗々と鳴る。李徴の光も闇もなく、空は滔々と白み始める。その時、雲に覆われていた月が、迫りくる日に冒されて殆ど力を失った白い月が、ようやく李徴の前に姿を表した。全身の月の輪が共鳴するように光を帯びる。弱々しい月光の中で李徴は輝き、もう一度、高く吼えた。
――その時。
何かが目の前に躍り出た。軽やかな足取りで目前に立った。目の眩むような眩い体色。その四肢に纏わりつく虹色の帯が風に優美に揺蕩った。耳元の蝶の翅がひらひらと揺れる。淡い明け方を閉じ込めた秘宝の瞳。それはニンフィアとか言う獣であった。そのニンフィアが叫ぶに曰く。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」