◎◎◎
ポケモンの死――。
もちろん、ポケモンにも寿命が存在する。命あるもの、いずれは死ぬ。寿命でなくても、事故や、バトルでの損傷などによって死ぬことも多い。特にポケモンにおいてはポケモンバトルというものが世間を賑わせていることもあって、激しいバトルでの体力消耗からの早期の死、またバトル後、バトル中での死亡事故というのは後を絶たない。そんな中、警察の比較的大人数の部署の、大人数の係、しかしあまり評判のよくない、生活安全課安全対策係という僕の所属するところがそれらすべての捜査を行なっている。扱っているのはポケモンの死傷事件全てということもあり、死んでいようが生きていようが、事故であろうが虐殺であろうが全てうちの部署である。
この仕事を初めてもう七年ほど経つ。大学を卒業してから警察に就職し、希望してもいないこの部署に配属された。最初の内は多すぎるポケモンの死や、ポケモンをモノとして扱う現行法に憤慨し、毎日毎日、遅くまで駆けずり回った。案件が多すぎて一件々々に長い時間はかけられない。一分一秒が勝負で、すべてが本気だった。――それも、いつまでだったのだろうか。
いつの間にか僕はこの年にして係長まで上り詰めていて、捜査に当てる時間は基本平均三日程度になっていた。徹夜ももうしない。ある程度、原因だけ究明し、あとは民事に任せている。示談交渉などは僕のやる範囲ではない。手際はとてもよくなった。現場の見方もわかる。偶に発生する殺しにおいても、どうせ犯人を見つけることはできない。そこらへんの折り合いを被害者側とつけるのも随分上手くなった。それにそのポケモンが野生であることはもっと多い。野生であるならば対処は楽である。うまく書面をまとめれば誰と揉めることもなく終わる。上とぶつかることも一切なくなった。そのかわりに薄れていったのは、憤怒や悲しみといった、人間らしい感情だ。
部下からの評価は真っ二つらしい。僕を感情のないロボットだとか、権力の犬だとかいう輩もいる。逆に、捜査の手際などに惚れ込んでくる輩もいる。――どちらも、どうでもいい。
高校時代からずっと交際していた彼女もいた。もう結婚するのだろうと自分でも思っていた。それが、いつの間にか会う回数が減り、知らない内にいなくなっていた。彼女にもらったマグカップはもう使い古して薄汚れていて、特別気に入っているわけでもないが、なんとなく未だに使っている。
そのマグカップに、端の方にある給湯室で珈琲を入れた。汚れている所為か、元々真っ黒な珈琲の色もなんとなくくすんで見える。それを自分のデスクに持って行き、さっき班長たちが寄越してきた報告書を流し見る。僕の係では六つの班がある。班長までなる人はやはりある程度優秀で、信頼も置いている。深く読み返して突き返す事は殆ど無い。それに事例もかなり多い。そんな悠長に読んでいられる暇などない。
そうしていると、フロアに警報が鳴り響いた。また、新しい案件だ。今日は珍しくどの班も出払っておらず、適当に斎藤班を連れていくことに決めた。
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現場につくと、首がざっくりと裂けたブラッキーが横たわっていた。頸動脈を一撃といったところか。血液が溢れ切った傷口からは、柘榴のような深い紅をのぞかせている。
あぁ、アブソルにでもやられたのだろうか。それともヒトの仕業か。
「斎藤。発見者から話を」
顎で所轄署の警官の方をしゃくる。
制服を来た男が、泣いている女の子をあやしていた。
「はい」
斎藤は黙って頷き、すり足で部下を引き連れそちらへ向かう。
また、僕はブラッキーに目を落とす。スーツのポケットに入っている僕のブラッキーをちらりと見て、それから死骸を見る。こいつの方が大切にされていたのだろう。肉球があまり硬くなっていない。綺麗なピンク色をしている。家の中で大事にされていた証拠だ。丁寧に手入れされている体毛。血液以外の汚れが全く見当たらない。
僕なら――、泣けるのだろうか。
こいつが死んだら、泣き叫んで、怒り狂って――、そんな風になれるのだろうか。そこまでこいつに感情を持てるのだろうか。
少しだけそんな事が頭を過る。きっとあの女の子と死んだブラッキーより長く、僕は僕のブラッキーと一緒にいる。大切にしているつもりではある。けれど、わからない。
兎も角、この件は斎藤に任せてしまって大丈夫そうだ。彼は特に悩んでいるしぐさもなく、死骸の処理を所轄署の警官に指示しているのが見える。そんな彼に、初動捜査の引き継ぎから、すべてを任せることを伝え、現場から離れた――離れようとした。
野次馬の奥。まだ人が流れている部分に二人の女性が小さいこどもをつれて歩いているのが見える。その片方の女性と目があった。とても、見覚えのある人で、心臓を鷲掴みにされたような、そんな感覚が体を支配する。
彼女は子供を抱き上げ、もう一人の女性へ預け、何か一言言うと、おそらく僕の方へと歩き出した。
僕もつられて彼女の方へ行く。
あと、数メートル。そんなところまで近づいてから、僕らは足を止めた。
「久しぶり」
とても、綺麗な声――。ガラスみたいに透き通っていて、それでいて壊れてしまいそうな、そんな声。
聴くのは何年ぶりだろうか。
「あぁ」
それだけ答えるのが精一杯だった。どんな顔をしていいのかわからない。彼女は、僕と付き合っていた頃と何も変わらない。とても綺麗であの頃みたいな、人間らしい笑顔。先ほどの子供は自分の子なのだろうか。結婚しているのかもしれない。
けれど、僕はどうだろう?
彼女は肩にかかった長い栗色の毛をそっと手で払う。
「もし、お仕事抜けれるんだったら、少し話しましょうよ。せっかく会ったんだし」
迷う必要があったのかわからないが僕は少しだけ首をかしげて何かを考えるふりをした。彼女の足元にいるエーフィが不思議そうな顔で彼女を見上げている。
少しして、僕はうなづいた。
それから、ふたりとも黙って、一番近くにあった喫茶店に入る。もしかするとここは付き合っていた当時、来たことがあるところかもしれない。
窓際の席に座り、珈琲をふたつ、注文した。彼女はいつもブラックで飲むから、甘党の僕は彼女の分まで砂糖とミルクをもらっていたのを思い出す。
改めて見れば、彼女は細かいところまで完璧だった。所作のひとつひとつも美しい。果たして、僕はこのような人と何故付き合えていたのか、今となっては本当にわからない。
足元のエーフィも当時と変わらず、いや、当時よりも綺麗になっていた。よく手入れされた毛並みは絹のような光沢がある。首元にかかった透き通ったアクアマリンのペンダントが似合う。けれど、その宝石よりもエーフィの瞳は綺麗だ。深く吸い込まれそうな瞳。少し眠そうに細めているそれが、とてもいやらしい。
「今も、続けているんですね」
敬語の混ざった彼女の言葉遣いが、僕は好きだった。続けているというのは仕事のことだろう。
「係長になったんだ」
少し、彼女は驚いてみせる。
「係長? すごいじゃないですか。ちゃんとお休みとってるの?」
社交辞令ではない、彼女の優しさ。当時はそれが途中から重くなっていった。
「休んでもやることないから」
そっけない僕に微笑んでみせ、すこしエーフィに目配せする。
「あ、そういうえばクロくんは? 元気にしてますか?」
クロくんというのは、僕の連れているブラッキーのことだ。高校生の頃、彼女と一緒に見つけた、イーブイの兄妹。その兄の方が僕のブラッキーで、妹が彼女のエーフィだ。名前は彼女がつけた。別に、進化させる姿を決めていたわけではないのに、ブラッキーがクロ、エーフィがももと決め、随分とありきたりだが、最初からわかっていたかのような名前をつけた。
同じ子に進化させれたらいいのに、なんて彼女は言っていたけれど、僕が夜型だったせいで、僕のイーブイはブラッキーに進化して、規則正しい生活を送っていた彼女のイーブイはエーフィに進化した。けれど、彼女はとても喜んでいたし、喜んでくれた。彼女は野生からポケモンを育てるのが初めてだったというのに、とても育てるのがうまく、進化するのは彼女のイーブイのが先だった。それに、僕のイーブイはとても甘えたがりの子だったのに、今では感情がわからなくなってしまっている。甘えてくることはもうとっくになくなった。
ポケットのモンスターボールがカタカタ揺れている。ブラッキーは彼女たちに会いたくて仕方ないのだろうか。
「元気にしてるよ」
そう言いながら、ボールからブラッキーを出してやる。
ブラッキーは彼女のもとに飛びつき、エーフィの顔を舐めた。エーフィはそんな兄を甘んじて受け入れ、そっと僕の方もみる。とても冷たいように思えて、僕はどきりとした。
「クロくん久しぶり!」
彼女になでられてブラッキーは気持ちよさそうに目を細める。どれくらいぶりにみた表情だろう。
冷たいエーフィの視線と、ブラッキーの幸せそうな表情に僕の心は本当に、ほんとうに久しぶりに揺れていた。
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また、朝が来た。
昨日彼女と別れてから、また職場に戻り、いつものように仕事をこなして、深夜に帰宅。そしてまた朝九時から仕事を始めている。なにも、変わらない。
いつものマグカップに珈琲を注ぎ、いつのものように啜る。味も相変わらずだ。
今日一回目の警報が鳴り響く。僕はいつもどおり腰を上げた。
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少し離れた場所だったため、ピジョットに乗って現場に向かう。上空から見ると、辺り一面血に濡れていて、ひしゃげた車が転がっている。ポケモン本体はどこにいるのか見つけられなかったが、どうやら交通事故らしい。
交通事故というものは本当に厄介だ。あまり車など走らないため、車というものに対する危機意識が低い。そのため、ポケモンだけでなく、人もよく事故に会う。その上、責任問題がはっきりしない。原因をつかむのも面倒だ。更に一番厄介なのが、事故にあったその衝撃の先。何度か見たが、バトルでの死はもちろん、殺害されたものよりも死体の状態が酷い事が殆どだ。五体満足なものは殆どといっていいほどない。
それにこの血液の量だ。きっとひどい。
一気にやる気が削がれ、そのままのテンションでピジョットは指示もしていないのに急降下した。
「ありがと」
地面に足をつけ、ピジョットをひとなでしてやった。
辺りを見回す前に泣きじゃくっている女性をみつけ、多分“持ち主”なのだろうと近寄ろうとする。
「もも……」
その人物が誰なのか認識するより早く、目に飛び込んできた凄惨な死骸にすべてを奪われた。
あの、綺麗な毛並みが真っ赤に染められ、長く細かった四肢は一本欠けて、美しかった瞳は白濁し、首からかかるアクアマリンのみが光を集めてきらきらする。
彼女のエーフィ――ももだった。
昨日久しぶりに見ただけとはいえ、見間違えるはずがない。どう見ても、ももだ。
ふと我に帰った瞬間、急いで彼女の元へ駆け寄ろうとすると、いつの間にかもう、違う男の腕に抱かれてた。
突然、また違う喪失感が押し寄せる。
それを無理やり閉じ込めて、僕はゆっくりと彼女の方に向かう。――話をきかなくては。
声が、聞こえてくる。
彼女のすすり泣く声と、男の慰める声。
男の顔は整っていた。おそらく僕なんかよりはるかに整っている。
「大丈夫、俺がついてるから。エーフィの事は考えないで」
その言葉がはっきりと耳に入った瞬間、僕は走った。あと十メートルもない距離を走った。
彼女はその瞬間びくりとして、辺りを見たかと思うと、割れたフロントガラスの破片を手に刺さるのも気にせずつかんだ。男は慌てて彼女を抱く腕を解く。
咄嗟に僕は彼女の腕を掴んだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。いい子だから」ゆっくりと頭を撫でる。「それ、離せる? うん、いい子だから」
からん、とガラスが落ちる。
こんなに時間が経ったのに、彼女の扱い方は覚えていたみたいだ。
「お前は――」
男は僕に鬼のような形相を向けた。けれど、彼女が僕に抱きついた所為で、すぐに辞めて舌打ちをして背中を向ける。
「帰る」
声は怒りかなにかしらないけど、震えていた。
「あー、いえ、お話だけ伺いたいんでもうすこしこちらにいていただけますか? すぐ済みますんで」
あまりに事務的で、冷たい声。こんなにも心が静かなことに僕は自分自身が少し怖くなった。
こっちを振り返って、殴りかかってくるようなそんな勢いで、けれど思いとどまったのか小声で、わかった、と男は答える。
「すみません。僕の部下がもうつくので。それまで彼女をお願いしますね」
抱きついてきていた彼女を剥がし、その男に渡す。僕は自殺でもされたら困るから、それを止めただけ。こんなことしている暇はない。仕事はまだある。
ピジョットがくるる、と鳴く。悲しんでいるのだろうか。エーフィとは彼女も仲が良かった気がする。
部下たちはあと十分くらいでつくはずだ。それまでに鑑識から話を聞いてある程度の原因を探っておこう。
もう、僕が見ているのはももではなくなっている。毎日繰り返す同じ仕事。ただの死骸がどうして死んだのか、誰が悪いのか、それだけを調べていけばいい。死骸をじっと見つめても、やはり平常でいられた。
よかった、変わっていない。動揺も一瞬だったのだ。ただ驚いただけだろう。
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本当に単純な事故だった。
結局最後まで僕が担当したのだが、その日の昼くらいには全ての事務処理を終わらせてしまっていた。あとは関係者への報告でお終い。
まずは加害者側だが、無免許、しかもアルコールが入っていたこともあり、無免許及び酒帯運転による器物損害で書類送検された。どうも僕より年の若い男で、有名な企業の御曹司。それで車なんてものを欲しがって免許もないのに乗りまわしていたのだ。楽だったのは、その後逃げずにその場にいてくれたこと。探しにいく手間も省けた。きっとお金はかなり積んでくるだろう。民事の方でもさっさと解決しそうだ。
問題は被害者側。たまに法律に対する文句や、僕らに対する不満を爆発させる人がいる。それが面倒で仕方ない。しかし、今回に関してはそんなことどころではない。彼女が被害者側にいる。全く、仕事がやりにくくて仕方ない。事務的に行けばいい、いつも通りでいい、といくら思っても流石に知り合いはやりにくい。
随分と訪れていない内に彼女は依然と違ったマンションを引っ越していた。当時より、少しいいマンションの、少しいい間取り。頑張っているのかなぁと思うとなんだか少し嬉しくなった。
部屋の前まで行き、チャイムをならすと、彼女ではなく、あの男が出た。
「はい」
少しどきりとする。彼が誰なのかは捜査の途中で判っている。けれど何故か得体のしれない胸のざわめきのような息苦しさを感じるのだ。
「この前の事故の件で報告に伺いました。警察センター生活安全課安全対策係の山下と申します」
そう言って手帳を見せる。僕が唯一自分の名前を名乗る瞬間だ。
「どうぞ」
部屋に招き入れてくれたが、やはり無愛想である。寧ろ手厚くされる方がやりにくいからいいのだけれど。
リビングらしい部屋には彼女が椅子に座っていた。近くにはトゲキッスとバタフリーがいる。彼女のポケモンなのだろうか。
部屋の様子を覗き見ることはしない。“もも”と彼女が幸せそうに笑っている写真だけは視界の端っこにあったが、それは意図的に無視をした。
「では、捜査結果について説明させていただきます。よろしいでしょうか?」
もう何度言ったか覚えていないこの台詞。相手の目は見ない見るのは鼻のあたりだ。
「はい」
彼女が小さく頷く。隣に座っている男にも目線をやると、黙って首肯した。
「事故発生は五月二十三日の午前七時五十三分前後。成川姫香が所有するエーフィが死亡。加害者は全ての過失を認めており、警察側は器物損害として検察側に書類送検しました」
これだけ伝えて僕は黙る。警察側が与える情報は最低限のことだけ。もう完結した件について、秘密主義を通すつもりもないが、話す義理もない。
ふと、彼女の方に目線をやった。
彼女はゆっくりと伏せていた目をこちらにくれる。
「ご苦労様です。ありがとうございました」
か細い声。けれど、しっかりと意思を持った瞳。
――苦手だ。
愛していたはずの彼女のその澄んだ瞳はいつの間にか嫌悪の対象にすらなっていて、僕は唇を噛んで目線を逸らしてしまった。
「今後、民事の方で損害賠償等を求める際、一切警察側は関与致しませんのでご了承ください。それでは、失礼します」
そのまま目も合わさず立ち上がって、その時漸くテーブルに珈琲とスティックシュガーが二袋用意されていたのに気がついて、指先がぴくりと動く。
こんなときにも、ちゃんと僕の為に、僕が好きな飲み物を用意してくれていた。そんな出来過ぎている彼女への戦慄か、もしくは彼女を失った事を今更悔いているのか。額にじんわりと汗が滲むのを感じて、急いで背を向ける。
玄関まで黙って歩き、靴を履いて――、その間にまた仕事モードに切り替えて、最後涼しい顔で振り返った。
「また何かございましたら、連絡下さい」
事務的ないつもの声。これが僕だ。
「お疲れ様です」
今度はぶっきらぼうな男の声が飛んでくる。そっと、男の胸辺りから目もとまで目線を這わせる。動揺、焦り、緊張等等、警察を前にして、それら一切は感ぜられない瞳。
不愉快だ。
その瞳を少し睨めつけるようにして僕の呼吸が止まる。それは、本当にごく一瞬。すぐに目線を外すと、静かに会釈をした。
「それでは」
一言。それで僕はマンションを後にし、仕事場に戻った。
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全部終わって、また僕は珈琲を例のマグカップに注いだ。
このマグカップ――。彼女はまだ覚えているのだろうか。
「お疲れ様です」
斎藤が横に来て彼も同じように珈琲をマグカップに注ぐ。彼のマグカップは無愛想な濃い青の無地で、それでも僕のよりは小奇麗だ。
「お疲れ様。ブラッキーの件はもう終わった? 報告書まだみたいだけど」
部下と話すのはそんなに好きではない。けれどもあの男に比べたら随分と話しやすい。
「丁度事後説明に行かせているところです。傷は大きなかまのようなもので抉られていて、そこからアブソルの体毛が発見されました」
あぁ、やっぱりアブソルだったか。
最近こういうのが多い。野生のポケモンが住む場所を追われたからとかマスメディアは取り上げているが、恐らくそうではない。
ポケモンをデータ化し研究所に預けて、放置するケースが問題になり、二年前に法律が改正され、一年以上トレーナーとの交流がないポケモンは逃がす決まりになった。その、逃がされたポケモンたちの仕業だろうと警察内では考えられている。これは、ポケモン同士での激しい闘争が通報され、警察の人間が向かい一時的に保護したところ、その片方のポケモンはトレーナーに飼われているポケモンで、もう片方は足の中にナンバー入りのGPSが入っていた。これは逃がす際につける事が義務付けられたシリアルコードであり、元トレーナーのポケモンで無責任に捕らえられ逃がされたまがいもない証拠である。このようなポケモンたちが捕らえられるのはこのケースだけでない。時には人間を襲った事例も提出されている。
ふつ、と沸き上がってきた嫌悪感はほんとうにちいさなもので、けれどもしっかり僕の中心を零れたインクのように侵食している。それは、いつからか分からない。
「この件、世間に公表した方がいいと思うんですけどね。やっぱりそういうトレーナー側の組織は大きいですし、どうにもならないんですかね」
斎藤は少し溜息交じりに薄汚れた壁を見つめる。彼はそんな熱い男という訳ではないが、警察らしい正義感と冷静さを持っていて、とてもこの仕事に合った人物だと僕は思う。
「そうだね」
少しして、それだけ答える。口から溢れた珈琲の湯気が静かに空気に混ざった。
彼が珍しく不服そうに眉を顰めたのが視界に入る。あぁ、きっとこの件について、ちゃんとした捜査班を組んでほしいのだろう。けれど僕にはそんなものを立てる権限はない。
「もし、きちんとした組織が出来たとして、その時はうちがやる事になるんだろうね。お上は一番上に課長を指名するはずだから、きっとまた、忙しくなるだけさ」
また、斎藤は眉を顰める。けれど、ただでさえやる事が多いと言うのに、現在の仕事を続けながら、また別の仕事を増やすなど、今の僕には考えられない。だと言うのに。
「これだけ手際の良い係長の下なら、俺はついていけますよ。今だって残業も殆どない」
「くだらない」
思わず口をついて出た言葉に、斎藤ははっとする。それ以上に自分の口から出た、余りにも冷たい、けれども湿っぽい憎悪のような言葉に僕が自身が戦慄えた。
彼女に遭った所為なのか。こんなただ仕事を処理していくだけの作業がとても莫迦らしくてくだらなく思える。今まで、そんなこと考えた事すらなかったのに。
マグカップを持つ手が震えそうになり、息を吐き出し、頭を空にする。そのマグカップを滑り落としそうになり、急いで机に置いた。
「斎藤、お前はなんの為に仕事をしている」
思わず訊いて、少し後悔をした。
斎藤は少し怪訝そうな表情を浮かべ、それからうーんと首を捻った。
「俺は、やっぱり少しでも世の中を良くしたくて、少しでも混沌に秩序を与える仕事をしたくて、それで警察になったんですよね。実際やってる仕事はポケモンを酷い扱いしているようにも見えますけど、この仕事があるから、ポケモンの死亡事故について世間の知るところとなるわけですし。重要な立場だと思ってますよ。だから俺の大切なポケモン達のこれからの為に仕事をしているんです」
思ったより長い回答に、何故だかふっと口元が弛む。
なんです、と斎藤は不機嫌そうに口を尖らせた。
「この件、暫く俺が預かっとくから、お前は何もするなよ。今日だけでもう五件の案件がある。その内二つをお前のとこに寄越すから、明日中に」
マグカップを再び持ち上げ、中身を流し込んで僕はデスクに戻る。こんな事、話している時間より、早く今日の分の仕事を片付けてしまわないといけない。
机の上に置かれた無造作な紙たちは、彼女の事で忘れかけていた、この部署の忙しさを思い出させてくれた。慣れているはずなのに、どうも今日はやる気が出ない。
目を通して、捺印する。それだけの仕事。
淡々とこなして、それから漸く終えた時にはとっくに定時を回っていた。
久しぶりの残業。日は落ち切って、少しお腹も減った。イスにかかっているジャケットを羽織り、足元にころがしていた鞄を引っ手繰って建物を出る。ロッカールームも一応完備されているが、僕はあまり使っていない。
自炊も殆どしない。朝食にパンを焼く事すらいつの間にかしなくなっていて、今では炊飯器も捨ててしまった。帰り、よく行く牛丼屋がある。そこでいつも夕食を済ませてしまう。コンビニの弁当はまたゴミを捨てるのが面倒になるから極力買わない。
少し生温かくなってきた夜風を浴び、最寄駅からどうやって歩いたか覚えていないが、いつの間にか牛丼屋の前にいた。ひとつ溜息をついて、ポケットの小銭を見る。三百円もしない牛丼の並盛。今日はテイクアウトにしよう。
金券を買って、もう見なれた深夜バイトの男にそれを渡す。持ちかえります、と言うと少し驚いた顔をする。いつも食べいて帰っているのを知っているからだろう。
牛丼を指に引っ掛けて、駅から二十分、牛丼屋から十五分のアパートまで歩く。本当は少し稼ぎがよくなったら引っ越すつもりが、面倒になって七年間同じアパートに住んでいる。一階の角部屋。ここが僕の部屋だ。
殺風景な部屋。未だに残っている彼女の品。それに写真。家具も変わっていない。
年中出したままになっている炬燵に座りこんで、テレビも付けないまま牛丼を取り出す。そういえば、携帯を今日一度も見ていない。電源も私生活用のものは落としたままだった。やっと取り出して電源を入れて、立ち上がるまでの間に冷蔵庫から保存してあるポケモン用のご飯をいくつか取り出す。
「おいで」
モンスターボールを投げると僕の相棒たちが姿を表す。
ブラッキー、ピジョット、ライチュウ、それからジュゴン。ずっとこの四体を育ててきて、仕事でもこいつらだけを使っている。流石に、部屋が狭くなるが仕方ない。
同じものばかりでは飽きるだろうと、何種類かのものをローテーションで与えている。ポロックもあるが、缶詰になっている物の方がポケモン達にとって食べやすく、また木の実も定期的に与えた方が良いと言われていて、うちにはそういったものが大量にストックされている。木の実は保存がきかないから定期購入で家の宅配ボックスに月に一度送られてくるようにしている。
僕は、毎日牛丼を食べているというのに。
立ち上がった携帯の画面を見ると、新着メールが二件。一通は部下からの事務連絡メールで、もう一通は彼女だった。
震える指でメールを開くと、今度食事にいかないかという誘い。それに一緒にいた“彼”と揉めたことで余計に気分が落ちていた為、僕をきちんともてなせなかったという内容。それに対するお詫び。あと、この子たちも連れて行きますと、画像ファイルが添付されていた。開いてみるとあそこにいたバタフリーとトゲキッス、それにタブンネが写った写真だった。
ばたばたしていて休みが暫く取れないでいた。けれど、あまり休みを取らないと問題になるとの事で、有給消化も兼ねて三日後から五日間の休みが僕に与えられている。会う時間はあるが、自分自身の身の振り方も含め、決めなくてはいけない。
どうしようかと考えていたはずだったのに、僕の指は勝手に五日後の夕方、彼女と会う約束を取り付けていた。
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僕の正義心は恐らく幼い頃に苛められているポケモンを見たときに萌芽したのだと思う。あれが正確に幾つの時かは覚えていないが、当時の僕よりかなり上の年の子供たちが羽を怪我して飛べないポッポにパチンコを使って石を当てる遊びをしていた。野生のポケモンは危ないものだと教えられ続けていて、それでも興味本位で草むらを覗いた時の出来事だ。あっと思う前に僕は彼らとポッポの間に立っていた。子供たちは驚いてパチンコを打つのをやめ、ポッポも驚いて僕の足に噛みついてきた。僕はそのポッポを抱き上げると子供たちを無視して一気に駆け出す。変な奴が表れたと気付いた子供たちは、そこでやっとパチンコで小石を飛ばしてきて、僕の背中にいくつか当たったような気がした。
ずっと走って家に帰って、僕は??られた。勝手に草むらに入った事と、野生のポケモンに手を出した事。近くにポッポの仲間がいたら無事では済まなかった。そんな事、今なら当たり前のように分かる。けれどその時、全く後悔しなかったのを覚えている。叱られて、嫌な思いをした記憶がない。反論した記憶もない。叱られた後はポッポの怪我の手当てをして、暫く飛ぶ練習に付き合った後、野生に返した。
そのポッポが僕の元に帰って来たのはそれからどれだけ経ってからか分からないが、彼は随分と強くなっていた。助けても結局また同じ目に合うのではないかという思いはそこで粉砕された。
いつしかその正義心からか、正義の為にポケモンや人を救う仕事に魅力を感じ、警察官を目指すようになった。また、その頃彼女と出会った。彼女は両親がおらず、ポケモンセンターで育った。十五の時にナースの仕事を始め、一人立ちしたそのすぐ後の彼女だ。
彼女は僕の思う正義とは、もっと違う正義を持っていた。打ち砕いていく強さを求める僕にとって、彼女の守っていく優しさは最初とても脆いものに感じたが、それが僕の追うものよりずっと強いと気付くにはそう時間がかからなかったような気がする。
それから、ずっと彼女は僕の憧れで、信念を曲げない為の道しるべだった気がする。その彼女が心のどこかに隠れてしまって、僕の正義は見えなくなった。今も見えないままだ。けれど彼女が久々現れて、隠れてしまっていたものが表に飛び出して、心の中が捻じれた。
このままではいつ決壊するか分からない。
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約束の時間よりも一時間早く、カフェについた。彼女は昔と同じように十分前にやってきた。僕が先にいた事を申し訳なさそうにして、この前の無礼を“弟”の分まで詫び、いつも通りブラックコーヒーを飲んでいた。
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休暇明け。いつも通りの時間より少し早く職場に来た。いない間起こった事件の処理をするためだ。部下が殆ど終わらせてくれてあるはずだが、最終チェックは僕の仕事。たった五日いなかっただけだというのに山のように仕事が溜まっていて、かなりうんざりした。面倒そうな仕事はなく、いつも通りの死亡障害事件事故。依然と変わらない、ただある程度目を通して捺印するだけの作業。こんな量の哀しみを全部全部背負っていては仕事にならないし、身が持たない。
「おはようございます」
やっぱり一番早く職場に来るのは斎藤だった。僕が見ていない間に、事件を一々洗い直しているのは知っている。
「おはよう」
目線もくれず、それだけ返す。
「珈琲、淹れます?」
「ありがとう」
斎藤は珈琲を自分の分と、僕の分と淹れてデスクの端っこに寄越した。いつも通りのブラック。それにこの薄汚れたマグカップ。
「砂糖とミルク、二つずつくれるかな」
「二つですか?」
「うん」
備え付けのものはあまりおいしくもないが渡されたそれらをマグカップに入れる。
「いない間、なんか困った事とかなかった?」
「いつも通りでしたよ。ただ、仕事の能率は流石に頭がいないと落ちます。結構残ってますよ、昨日の分も」
一つ、溜息をつく。時間外労働は好きじゃない。
それから暫く黙って仕事を続けて、一通り終わった頃、また斎藤も作業を終えたらしく、給湯室へと姿を消した。
このマグカップ――。これが少しの正義心を繋ぎとめてくれたものだと思う。
その彼女は今、想う人がいるらしい事が昨日の話でわかった。
「斎藤」
給湯室近くまで歩いて行き、彼に声をかける。
「なんです?」
「昨日、彼女にフられたよ」斎藤は目を丸くした。構わず僕は続ける。「あなたにはもっと大事にすべきものがあるって。何だと思う?」
「知りません」
冷たいなぁと僕は笑う。ずっとモンスターボールから出てきたままだったブラッキーが、僕の足にすり寄って見上げてくる。
「ポケモンたちの未来だってさ。もっと上にのし上がって、世界を変えろって」
都合のいい、別れ文句にも聞こえる。きっと斎藤もそう思っているのだろう。けれど僕が追いかけるべき正義はちゃんと向き合っていた頃の彼女だ。昨日話して、変わっていない事も気付いた。
「仕事と結婚するしかなくなりましたね」
「そんな事したくなかったんだけどなぁ。斎藤」
「はい」
「アブソルの件、保留にしとけっていったのに調べてただろ」
「すみません」
流石に気まずそうに下を向く。
僕はやっと持っていたマグカップに珈琲を注いで、今度は砂糖もなにも入れずに流し込んだ。
「お前一人でなんとかなると思ってんのかよ」
「すみません」
怒られていると思っているようだ。彼を叱った事は、もしかすると今日が初めてかもしれない。
「今度からは一緒にやる」
手に持っていたファイルを彼の前に置く。これは僕が五日の間で調べた事だ。
「もしかしたら既に調べて、重複している部分もあるかもしれない。一応目を通しておいてくれ。今日仕事が終わったら打ち合わせをしよう。くれぐれも内密に」
暫く黙って、斎藤は大きく頷く。
「わかりました。よろしくお願いします」
久しぶりの休み。その間に考えて僕が決めた事はこれだ。仕事の効率も感情移入しない事も変えない。けれど、家庭も持たない、彼女もいない、そんな僕が定時で帰る必要なんてどこにもない。
仕事に生きる。
丁度、今まで空気を読んでいたかのように静かだった室内に、事件発生のブザーが鳴り響く。今日もまた忙しくなりそうだ。
「行きましょう」
急いで自分のデスクにかかっているジャケットを羽織り直して彼は言う。その肩を掴んで、彼がこっちを向く前に初めてこんな事を言った。
「ついてきてくれて、ありがとう」
斎藤は狐につままれたような顔をする。
今まで仕事を続けてきて、失ったものは多い。それでもついてきてくれた僕のポケモン達と、部下がいる。この事にやっと気付けたらしい。
昔のような正義感はもうなくなってしまっているが、それでも警官になった限り、やらなくてはいけない事がある。この仕事が世間からうとまれているのは知っている。それでいい。
ポケモンたちのため、嫌われ者として僕は生きる。