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――ぼくは、ひとの言葉を喋ることができるプラスルである。
なにも、最初からひとの言葉が喋れたわけではない。
ホウエン地方の北方、火山灰が降りそそぐ小さな農村、ハジツゲタウン。有名なことといえば、隕石が多く、その研究所があることぐらいだろうか。火山灰に強い野菜も生産されているのだが、そちらはあまり知られていない事実である。
そのハジツゲタウンに、ぼくとカレンは住んでいた。
カレンの父親は隕石を専門とする研究者で、カレンは生まれたときからずっとこの農村に居た。
カレン以外の小さい子供はひとりもいない。ゆえに、カレンはいつもひとりで遊んでいた。親から与えられたいくつかの人形を向かいあわせて、よく会話させるのが好きなようだった。
「プラスル、わたしね、おともだちがほしいの」
ある日、ふと、人形を置いたカレンはそう言った。
「わたし、おかあさんや、おとうさんじゃなくて、おともだちと喋りたいの」
カレンは大きな瞳でじっと人形を見つめた。金髪でポニーテールの女の子の人形、黒髪で足に絆創膏が付いた男の子の人形、――そのどちらも決して喋ることはない。
「ぷらぷら、ぷらっ!」
ぼくは一生懸命カレンにはぼくがいることを伝えようとした。カレンに見つめられた人形の間に割り込み、丸みを帯びた細長い耳をぱたぱた動かし、手をぶんぶん振った。
カレンはぼくのその様子を見て、
「ええ、だいじょうぶよ。わたし、さびしいわけじゃないもの」
そう笑いかけたが、ぼくにそう言ったあとの瞬間、カレンは、おそらく無意識でもう一度人形を見返した。
ぼくは、カレンのことが好きだった。
カレンのふわふわとしたあたたかい笑いかたも、くるくるとした亜麻色の髪も、苦いチーゴのみが嫌いなところでさえも、全部好きだった。
だから、ぼくはカレンと喋りたかったのだ。カレンはさびしくないとぼくに言ってくれたが、ぼくはどうしてもカレンが本当にそう感じているとは思えなかったのだ。
ぼくはひとの言葉がわかる。ぼくだけじゃなく、ひとと共にすごすポケモンはひとの言葉がわかるだろう。
けれど、ぼくらはひとに言葉を伝えることができない。
だから、ひとはぼくらの仕草や態度でぼくらのことを理解してくれようとする。カレンだってそうだ。ぼくはそれがうれしかったし、それで満足だった。カレンがぼくの伝えたいことをなんとなくだって理解してくれるのならば、ぼくはひとの言葉が喋れる必要なんかなかった。
しかし、幼いカレンが“おともだち”を欲しがる理由も、ぼくは理解できた。彼女はぼくの伝えようとしていることの輪郭がわかったとしても、それに確信が持てるわけじゃないのだ。そこには、きっとある範囲の不安がつのる。それはきっと分厚いすりガラスのようなものなのかもしれない。
「…………」
だから、ぼくはひとの言葉を喋ろうと思った。ふと、そう思ったのだ。最初は、ものすごくかたい決意だったわけではない。
カレンはものわかりのいい子供だった。その一度以来、ぼくにも、もちろん両親にもともだちがほしいとは言わなかった。
けれど、ぼくは、ふと零れたあのときのカレンの一言を忘れることはなかった。それはいつしかカレンより、ぼくの願いになっていたのかもしれないと思うほどに。
ぼくがひとの言葉を喋れるようになるために、ずいぶんと時間がかかった。カレンのために両親が用意した言葉の本を、数えきれないくらいめくった。深夜や早朝、誰もいない時間帯に外に出て、何度練習しただろう。もう、お月さまや朝つゆとマブダチと言ってもいいくらいだ。
ある日、いつものような、カレンとぼくしかいない昼下がり。太陽がてっぺんまでのぼった、午後二時。
朝から、今日こそ喋ろう、と思って、ぼくはとても緊張していた。心臓がばくばくと高鳴った。こんなに心臓が跳ね回ったのは生まれて初めてだった。まるでそれはぼくの心を支配してしまうかのようで、すこし怖かったのを覚えている。
「どうしたの?」
ぼくの異変に気付いたのかカレンはしゃがみこんで不安げにぼくを見た。大きなふたつの黒い瞳が、じっとぼくをとらえている。
ぼくはひどく乾いて焼け付く喉から、無理やり音をしぼりだした。この機会を逃したくなかったのだ。
「……カレン」
ぼくが声に出すと、カレンはとても驚いた顔をしていた。
「ぼくは、ええと、……カレンとおともだちになりたいんだ。ぼくじゃだめ、かな?」
カレンは首をぶんぶん横に振って、
「ううん、ちがうの。とても、うれしいの」
目じりにたまった涙を少し拭い、ぼくのことをぎゅっと抱きしめた。カレンの腕の中は、とてもやさしい香りがした。
それからぼくは誰もいないとき、カレンとよく喋るようになった。カレンも最初の内は、今日はね、プラスルとお話ししたのよ、なんてはしゃいで親に言っていたが、親はそれを拒絶しないものの、けっして信じなかった。まあ、当然だろう。普通のポケモンは喋ることなんてないのだから。
大きくなるにつれ、カレンはぼくがカレンといるときにしか喋らないことを理解したようだった。
彼女にとって、それで十分だった。ぼくにとってももちろん、それで十分だったのだ。
――それから数年が経った。
両親の仕事の都合で、家族ともラルースシティに引っ越すことになった。ヒワマキシティとミナモシティを結ぶ中心にあるこの都市は、いかにもな近代都市である。なんでも、隕石の研究をこれから此処の最新研究所で行うらしい。
ラルースシティでは大きな道路はすべて動く歩道になっているし、ロボットが店の受け付けや交通整備までを行っている。畑が隣にあったような田舎から来たぼくとカレンは、その変容ぶりにちょっと戸惑い、でもとても楽しんだのだ。
そしてこの都市には、もちろん、ハジツゲタウンとは違いカレンと同じような年の子もいた。その子供たちはカレンが着ているような単色のワンピースとは違い、かかとの高いブーツ、もふもふとした今流行りらしいメリープの帽子など――とにかく、見た目が派手というか、カレンの雰囲気とは離れているのだ。ぼくと喋る前に、ともだちがほしいと口にしたカレンも、その子供たちに中々近づくことができず、たじたじとしていた。
カレンは引っ越してきてからも、ぼく以外にともだちを作ろうとしなかった。プラスルがいてくれるから、なんてカレンは笑ったが、外出したとき明らかにカレンがそのひとたちを気にしているのは容易に見てとれた。また、そのひとたちも新しい住民であるカレンのことを気にしているようだった。
ぼくがひとの言葉を覚えたのはそもそも、カレンが好きだったからだ。カレンがおともだちがほしいと言うのをきっかけに、ぼくはカレンともっと仲良くなりたかったのだ。カレンにさびしい顔をさせたくなかったのだ。カレンの小さなねがいごとを、叶えてあげたかったのだ。
カレンが、ほんとうはひとのともだちを作らなくちゃいけないなんて、そんなことはわかっていた。
でも、ぼくは、こわかった。
カレンにひとのともだちができたらいいと思う以上に、カレンがもうぼくを必要としてくれないんじゃないかと不安だった。
カレンが今までぼくと話してくれたのも、遊んでくれたのも、すべて、あの村ではぼくしかいなかったから、だからぼくと一緒に居てくれたんじゃないかって。あたらしいともだちを手に入れたら、ぼくはもうカレンにとって要らない存在なんじゃないかって。
ぼくにとってのカレンの存在は、それほどまでに大きかった。
解決法は、とても簡単である。ぼくがきっかけをつくればいい。そうすれば、カレンはすぐに新しいともだちができるだろう。
ほんとうは、そうしたほうがいいことを、ぼくはよくわかっているのに。
そのほうがカレンのためになることも、ぼくはちゃんと知っているのに。
ボールで遊ぶ子供たちを遠巻きに眺めながら、カレンと一緒にベンチに座り込む。サンドイッチを食べ終わったばかりのカレンは、少しだけ眠たそうに見えた。
「ねえカレン」
なあに? とカレンが笑う。とても、あたたかくてやさしい笑顔だった。
「ぼくは、カレンがだいすきだよ」
「わたしもプラスルがだいすきよ」
暖かい春の日差しにふわりとなびく髪の色も、おっとりしたその話し方も、ぼくのだいすきなカレンはあのときと何一つ変わっていなかった。
――そしてこの日も、太陽がてっぺんまで上った午後二時だった。
とたんに、ぼくは“おうえん”したくなったのだ。
カレンが新しく歩むその道を、ぼくは後押ししたかった。
急激に湧き上がる思いにつき動かされ、ぼくはカレンにむかってとびっきりに笑うと、カレンのひざの上から飛び降りた。
「プラスル!?」
子供たちに向かって駆け出したぼくを見て、カレンが声を張る。背後でサンドイッチを入れていたバスケットが落ちる音がした。
「ぷらっ!」
風をきり、ただ、ぼくは走った。
「うおっ」
そして、子供のうちのひとりに思い切りとびこんだ――。
「ぷらぷらっ! ぷら!」
「ちょ、お前、なんだよっ!?」
「えっ何? プラスル!? かわいいーっ」
「ぷらぁー」
ぼくは瞬く間に子供たちに囲まれた。それから、明らかにあわてふためいているカレンのほうを向く。
「プ、プラスル……?」
カレンがそう呟いて、ようやく子供たちはカレンに気付いたようだった。
「あ、あの子、ええと……最近見かけるようになった子じゃない?」
「お前、此処に引っ越してきたの?」
カレンはまっしろなほっぺたをマトマのみより真っ赤にして、頭をぶんぶん縦に振った。
「きみ、名前は?」
「か、カレンっ」
「よろしくな!」
「うん、よろしくねっ」
「へっ……あっ!? よ、よろしくっ」
てれくさそうだったが、カレンはとても嬉しそうに見えた。
そしてその日を境に、カレンはその子供たちとよく遊ぶようになった。
しかし、
「プラスル! あのね、今日はみんなと遊びにいくのよ、いっしょにいきましょう?」
彼女は、ぼくのこともこれまでと変わらずともだちとして扱ってくれた。
ぼくはそれが、なにより嬉しかった。
「ぷらっ!」
そして、ぼくはしゃべることをやめた――。
言葉はもういらなかった。カレンはもう人形には触れないし、寂しがることもない。
おそらく、ぼくの役目はおわった。
けれど、ぼくはカレンと共に歩み続ける。カレンがぼくを必要としてくれるかぎり、ぼくは喜んでカレンの隣に居ようと思う。一緒に笑っていたいと思う。
「――ねえ、プラスル、覚えてる?」
それから何年もたって、カレンのくるくるの亜麻色の髪が腰まで伸びたときだって、ぼくは変わらずカレンのひざの上に居た。
「あなた、昔はわたしとしゃべれたのよ」
「ぷら?」
「みんな、そんなの夢だっていうけれど、わたしはね、やっぱりあなたがしゃべっていたように思うの」
――ぼくは、ひとの言葉を喋ることができるプラスルだった。
でも、今は喋れないわけではない。喋らないのだ。
けれどもぼくは、カレンのともだちである。
ぼくが喋らなくなったって、それは、ずっと変わらない。