モイストロトム
◎◎◎
……風邪、ひいたぁ。


☆=   モイストロトム   =☆


 冷蔵庫にはあまーいモモンゼリーの差し入れ。立体マスクの下に隠れて、私はにんまり得した気分で笑った。アユって自分勝手なタイプだけど、ヒトが困っているときはけっこう親身になってくれるのよね。普段とちがう一面、いわゆるギャップってやつ? そういう友だちはキライじゃない。
「モトミは予防がなってないからそうなるのよ。加湿器でも買えば?」
 怒りっぽい口調でアユが言う。これも私の体調を心配してくれているからこそ。
「ヒロアキにカゼうつしたら怒るわよ」
 なにそれ。前言撤回だ。
「あんたが心配してたのは自分の彼氏かコラ。だいたいね、加湿器買う余裕なんてない」
 しゃべると喉がひりひり焼きついた。どうせ、自宅生のお嬢さまにカツカツの下宿生活を理解されるわけない。病院に行かないのも節約のウチなのよ。指折り数えて仕送りとバイトのダブル月末振り込みを待つ身になってみろっての。
 風船ポケモンプリンみたいにふくれると、アユがジト目で私を見た。
「まさかバカでかいポットみたいなの想像してる? ちがうちがう。今どき加湿器なんていくらでも種類あるのよ。コンパクトでカワイイのとか、電気を使わないのとか」
「え、そうなの」
 初耳だ。私の頭の中からバカでかいポットが煙と消えて、キュートな空想が羽をつけて飛び回りはじめた。必要最低限の家具をならべただけの、必要以上に味気ないわが家が加湿器の力でとつぜん花やいだ。気がする。でも。
「でも高いんでしょ」
 通販番組お約束のフレーズでつっぱねる。経済的にポケモン一匹持てないようなビンボー学生の身には、きっと余るだろうから。
「そんなの物色してみなきゃわかんないよ」
 私の投げやりにアユの強気が食ってかかる。いいよねその勢い。百分の一でいいから分けて欲しいくらい。そうしたら私も少しは……ってアユ、なぜ立ち上がって私の手首をつかむの。ちょっと、やめなさい。
「ほら! 今から探しに行くよ!」
「こっちは病人だぞ、オイ」
 せめてもの抵抗に、マスクを引っぱり下げて思いきり咳を吐きかけてやった。


 ちょっと待って。ものすっごいボロ、いや年季の入ったフレンドリィショップなんだけど。看板はペンキがハゲてるし、窓ガラスにはいくつかガムテープが貼ってあるし、立地も人通りの少ない裏道で最低、いや集客には不利。たとえ穴場でもあの見てくれは擁護できないわ。アユのリサーチによると、マニアックな品揃えがウケて一部の学生の間で重宝されているとかなんとか。それ、ただの裏付け捜査に付き合わされている気がしないでもないんだけど。
「あのさ、そもそもフレンドリィショップって、旅のポケモントレーナー向けじゃなかったっけ?」
 自働ドアのセンサーが反応しない距離で立ち止まり、ふり返ってアユに訊く。そしてその頭に乗っているフワンテに和む。ゴーストポケモンフリークのアユとちがって、私はどっちかっていうと不定形グループは苦手。アイツらつかみどころないんだもん。でもアユのフワンテは別。癒しの効果は抜群なのだ。
「女トレーナーは物入りなのよ。さ、入った入った!」
 痛い、背中をひっぱたかれた。アユのフワンテからも「ぷわぷわ」と催促される。うーん、そんなにつぶらなお目々でせかされちゃうとね。これも誰かさんが私をその気にさせる作戦だとわかっていても、乗るしかないじゃないか。オーケー、どーせダメもとだし。フワンテの無垢に免じて、出足を重たくしている厄介な先入観を捨てる覚悟を決めた。
 くもった自働ドアは割とスムーズに開いた。途中で引っかかってグギュグバァとかガギャギャァとかもっと奇怪な音を立てるかと思ったのに。
向かって右手の赤いエプロンが目を引いた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターのオッサンがお辞儀する。頭の高さがまっすぐ元に戻ると、丸眼鏡をかけた顔がにっこりしていた。客の入りと同じくらい頭のてっぺんが寂しい。そのぶん、あごのもっさりヒゲで威厳をカバーしてるんだろう。着ているエプロンはフレンドリィショップ店員のユニフォームだけど、かなりくすんでいる。もうずいぶん長くこの仕事に就いているらしい。年齢的にこの人が店長かもしれない。
「何をお探しでしょう」
「えっと……」
「激安の加湿器ありますか?」
 直球すぎるぞ、アユ。にしても、アユの言葉を「ぷわぷわ」と後追いするフワンテが可愛い。
「でしたら当店イチオシのウルトラ激安スーパー特価品などいかがでしょう」
「すごーい何それ! 見せて見せて!」
「かしこまりました。少々お待ちを」
 あのー。
 ていうかあるんだ加湿器。そこにまず驚くべきだったわ、ウカツ。いや待てその前に私、完璧イラナイ子じゃん。アユとオッサンの二人だけで会話が成立してるし。一言くらい口をはさむスキをくれや。すねちゃうぞ。その頭のフワンテをむしり取ってやろうか。
「お待たせしました。どうぞ、こちらの品です」
 店の奥から引き返してきたオッサンが、ことんと品を置く。
 なんだろこれ。ジト目。厚い唇。モンスターボールみたいな模様のかさ。マイナーキャラクターにありそうなデザインって言ったら、コアなファンに怒られそうだからやめておこう。
「このキノコですか?」
「乾電池式でございまして、特別価格の税込み百円でございます」


 えっ?

「百円!?」

 聞き間違いじゃないかな、いやいや落ち着け私。簡単に飛びついちゃダメよ。こんなウマイ話、絶対裏があるに決まってるわ。
「やったーお買い得ね」
 アヤはちょっと黙ってなさい。
「どうしてこんなに安いんですか?」
「実はこちらの商品少し訳アリでして……性能に問題はないのですが扱いが難しいと申しますか。この加湿器はお客様を選ぶのです」
 なるほど、わからん。
「ご安心ください。お気に召さなければいつでも返品していただいて結構です」
 う……うーん。
 うーん。
 ……
 ……

「……わかりました、買います」
 



 あははー買っちゃいました。まあいいよね。乾燥対策できるならなんでもいいわっ。アパートに着いてすぐ、加湿器に乾電池をはめ込んでテーブルに置く。そばでよく見えるように、自分はカーペットの上に体育座りして。
 さて。準備が整ったところでさっそくポチっとな。

 ガー。
 ピッ。ピッ、ピビリビリビリビリビリビリ・バチン!

『プーッ!』
「ぎょあぁっ!」

 ななな、なんじゃこりゃっ。
 新品の癖に早くも壊れちゃったのか。プー、なんてガスの抜けるような変な音までして。やっぱりあの店長に欠陥商品を掴まされたんじゃん。っていうか、
「浮いた!?」
ふわふわ漂う加湿器は真っ白に放電しながらその形を変えていく。眩しい。まともに見たら目が焼き潰れるわ。ていうか音! うるさい。赤く変食して、機体からにょっきり一本角が生えて、もこっもこっ、むくくと目っぽいのと口っぽいのが盛り上がった。
『プッププー!』
 白い歯をむき出してにっかーと笑う……
 あんた、誰。
「ポケモン……なの? あっ、ちょ、ダメ!」
 パソコンにちょっかい出そうとするなんてまったく何考えてんのよ。データが吹っ飛んだらどうしてくれるの。
「いいからそこで大人しくしててっ」
『プゥ?』
 危ない、危ない。正体不明の電撃お化けはビリビリでプヨプヨ。携帯獣浮遊学全書に何か載っていたらいいけど。まさか、講義以外のまして自宅でこれを開く日が来ようとは。
 お化けに「じっとしてて」と念押ししたあと、猛スピードで目次をチェックする。それらしいページをめくって、電気タイプの章を開いた。
「あった!」 
 きっとこのポケモンよ。特徴が一致してる。それにこの解説。電化製品に潜り込み悪さをすることで知られている、だって。絶対間違いないわ。
「あんた、プラズマポケモンの“ロトム”ね?」
『プププ?』
 ロトム? って聞き返してるみたい。へえーけっこう愛嬌あるじゃない。でも変。フォルムチェンジが確認されてるのは電子レンジ、洗濯機、扇風機、芝刈り機、冷蔵庫の五種類。加湿器に取り憑いて姿を変えるとは一文字も書いてない。もしかしてコイツ、相当変わり者なのかも。
「つまり、あんたが取り憑いてるから激安だったのね」
『プ?』
「あのね、悪いけどこのアパートはポケモン禁止なの。出てってくれる?」
 シュコーッ!
 わああああ! 
 ちょっ、ああびっくりした。いきなり蒸気を噴くのは反則だって。ロトムが私の驚いた顔を見てキキキッと声を上げて笑う。失礼な奴ね。驚かせようとしたのか、ロトムがブシューと吐いた白い煙をまともに顔面に喰らい、熱い空気をいやというほど吸い込んだ。
「ゴホッ、ゲホゲホゴホッ」
 咳に戸惑ったのかしら。ぴたっと蒸気が止んだ。ロトムがカーペットの上にすいーと静かに着地して、ぱちくり瞬きしながら私を見上げている。ひょっとしてこれ、気を遣ってくれてるんじゃないの。なーんて好意的に考えすぎか。でも悪い気はしない。
「朝までだからね。それと他の電化製品には手を出さないこと。いい?」
『プープー!』
 あーあー喜んじゃって。あたしの言ったこと、ちゃんと理解できてるのかしら。
 気が済んだらしく、ロトムは何の変哲もないただの加湿器に戻ってしまった。さっきの騒ぎがウソみたい。まるで夢でも見ていた気分。もし本当に夢だったとしても、こんな寒い夜に返品しに行くのは正直、だるい。私は明日からの日々を思い、行き先の不明具合にため息が出たけど、今日はもういいわ。早く寝て体を休めよう。


 布団の中でぐずぐずしていた私は不意に昨夜のことを思い出して飛び起きた。
「ロトム? いるの?」
 声の枯れっぷりは良くなるどころかさらに悪化してるような。電源の切れた加湿器はうんともすんとも言わない。おかしいな。朝を迎えて素直に出て行ったのかな。私はドアとカーテンのかかった窓を見た。誰かが出入りした様子はない。それもそうか。相手はゴーストポケモンなんだもの。痕跡があったら逆に恐い。
 でも正直、聞き分けのいい奴だったとは思ってもみなかったから。こんなことならもう少し、優しく説得してあげれば良かった。
 ドンドン、ドンドンと人がしんみりしてるのにさっきからうるさいわね。誰よ朝っぱらからこんなにドアをノックするのは。一人くらいしか思い付かないけど。
「おっはー。ねえ昨日の加湿器どうだった?」
 ほーらアユのおでましだ。
『プーッ』

 えっ……このガスの抜けるような音は、もしや。
「あんた! いつの間に加湿器からテレビに移ってたの!?」
『プップープ』
 あっちゃー。
 スピーカーからダダ漏れする陽気な鳴き声。出て行く約束を破った反省の色はまったくもって全然ないわね。冷たくしたことをほんの少しでも後悔した私がバカだった。
「なに今の音? なんで勝手にテレビがついたの?」
「いやその……実はね、アユ……」


「何それ面白い!」
 思った通りだ。アヤは百万ドルの夜景と言っちゃえるくらいガンガンに光りまくった瞳で昨夜の話に食いついてきた。私の知る中で一番ゴーストポケモンに愛を注いでいる人物なだけあるわ。このテンションはマネできない。今日のフワンテは細い腕をアユの首にゆるく巻き付けて、そのまま頭に乗っているから帽子みたいに見えた。
「全然面白くないわよ」
「いやあーだ、かっわうぃー! ねえロトムちゃん、加湿器に潜ってみせて!」
『ぷっ、ぷわんっ』
 フワンテったらロトムに妬いてるのかな。それとも飛行タイプだから電気タイプは苦手とか。パリパリッと黄色い電気の姿で飛び出したロトムが加湿器へ突撃する。意外とサービス精神旺盛なんだ。アユはきゃあきゃあ叫びながら、間近で見るロトムのフォルムチェンジに大興奮。
「すっごーい! これは世紀の大発見よ! ずばり“モイストロトム”ね!」
 電化製品によって炎のヒート、水のウォッシュ、飛行のスピン、草のカット、氷のフロストに変わるんだっけ。加湿器の場合はウォッシュロトムの変種といったとこかしら。まあ、そのネーミングは的を射てると思うわよ。それはそうとフワンテの態度がころりと変わったのが気になった。ロトムに向かってニコニコ笑顔を見せるなんてどういう風の吹き回しだろう。
「ふふ、フワンテは湿気が大好きだから」
 なるほどさすがゴーストマニア。お察しがよろしいことで。
「それより写メ写メ! モーちんに送るから撮ってよカヨコ!」
 そう言ってポケギアを押しつけてくるアユ。へいへい。すぐそうやってなんでもかんでも彼氏に報告したがるんだから。

「はい、チーズ」
 ぷわわー!

 シャッター音はフワンテのボイス。前は「ぷわわん?」だったのに、いつ変えたんだか。鳴き声を採取された本人はアユの頭の上で無反応なのがちょっと笑えた。
「ロトムちゃん、カヨコの部屋なんかやめてあたしの家に来ない?」
『プーッ』
 パリパリッ。細い稲妻となって飛び出したロトムが私のポケギアに飛び込んだ。つまりこれはアユの勧誘を蹴ったってことでいいのかな。そんなに懐かれても困るのに。
 こうして私の土曜日は落ち着く間もなく過ぎていった。


 結局、部屋から出て行ってもらいたい気持ちに変わりはないけどあくせく追い出そうとするのはやめることにした。だって相手はゴーストポケモン。アユ曰く、下手に扱えば祟られるかもしれない。放っておけばそのうち飽きて、成仏すると信じよう。
「寝るからうるさくしないでね。おやすみ」
 おやすみ、か。よく考えれば誰かに向かって声に出して言うのは結構久しぶりかも。ふふっ、加湿器から「ププ」と優しい声が返ってきた。私は部屋の明かりを消すと上布団を鼻の下まで引き上げて目を瞑った。


 うーん。こんな朝早く誰なのよ。今日は日曜よ。昨日の分ものんびりしようと思ってたのに。ロトムの悪戯だったら承知しないわよ。枕の周りをまさぐって、掴んだポケギアを見ると同じゼミの子からの着信だった。
「おはよう、どうしたの?」
「カヨコちゃん……アユちゃんのこと、聞いた?」
「アユ? アユがどうかしたの?」
「……アユちゃんが……アユちゃんが」

 歩道橋から落ちて。搬送先の病院で亡くなったって。
 

 お葬式から丸3日経っても。
 心配した友達が部屋を尋ねて来てくれても。
 終わらない回廊のように私の心は無彩色の景色をぐるぐる巡り続けている。
 アユがいなくなった。
 嘘だ。
 本当よ。
 もういない。
 見ていなさい。アユは今にあのドアを開けて飛び込んでくるんだから。
 違う。そんなはずない。

 何十と響く私の声が、万華鏡のような人格が自分を傷つける。

『プー?』
 ロトムの声。
 はた迷惑なヤツだと思っていたのに。今そばにいても平気なのは、こいつだけになっていた。放って置いて欲しいのに、なぜか無視できなくて、何も見まいと枕にうずめていた顔を上げた。
 ロトムの隣に、フワンテがいた。
「……あんた、もしかして、アユの?」
『ふー』
 空洞を風が吹き抜けるような声。こんな鳴き方、聞いたことがない。この子、哀しいのかな。アユを失って、今どんな気持ちなんだろう。アユがいなくなってから、どんな風に過ごしてきたんだろう。ゴーストポケモンは生死の境界が曖昧だから、生き物が死んでも特に哀しむことはないと、アユが以前言っていた気がする。
「なんでここに来たの?」
 フワンテは答えない。ロトムの周りを楽しそうにくるくる回っている。そっか。ロトムに会いに来たんだね。湿気を気に入ってたもんね。アユの推論だけど、あれはきっと正しいと思う。今のロトムはモイストロトムじゃないから、早くフォルムチェンジしろと促しているのかも。
 アユ。ねえ、アユ。
 フワンテが、ロトムのそばにいたいと望むなら。もしここにいてもいいと言うのなら。このまま私が、この子を預かっても平気かな。返事がないのはわかってるよ。だってアユは――

 泣いた。

 それから、足を引きずるようにして徐々に大学に通えるようになった。
 フワンテとロトムと私の共同生活はなかなかうまくいっている。そう思っているのは自分だけかもしれないけど、まあそこはいいじゃない。大家さんとご近所さんにも二匹の存在を無事隠し通せているし。それにしても、ポケモンは飼い主に似るっていうマユツバは本当だったんだね。フワンテなんか、仕草とかちょっとした反応がアユそっくり。ということはロトムもだんだん私に似てきたりして。自分の嫌なクセを目の当たりにするのは、ちょっと気が引けるなあ。
 アユの一件から一ヶ月が過ぎた頃、空きコマで友達数人と雑談をしていると急に一人が深刻な表情になって「あのさ」と切り出した。
「モトミ、アキヒロ君のことなんだけど……」
 ああ。アユの彼氏だったアキヒロ君が、最近何かと私に絡んでくるようになったことね。馴れ馴れしく一緒に帰ろうと誘ってきたり、私が一人になるとまるでそれを待っていたかのように現れたり、ポケギアにしょっちゅうメールや電話がかかってくるし、とにかくしつこい。影で知り合いを回って、私の情報をあれこれ聞き出そうとしているみたいだし。行動が少しおかしい。アキヒロ君はアユの彼氏だったけど、繋がりと言えばそれくらいで別に個人的に親しかったわけじゃないし。私が死んだ親友の男に色目を使ってるとかいうとんでもない誤解をしてる人もいるらしいし、冗談じゃないわ。迷惑してるのはこっちよ。アキヒロ君が何を考えているのか興味ないけれど、このままだとなんか、こわい。
「付きまとわれて迷惑だって言ってやれば?」
「私もしつこくモトミのこと聞かれてさ。ちょっと異常だったよ」
「アキヒロ、アユが死んでから様子変よね」
『ふふふ』
 もう、みんなして不気味なこと言わないでよ。フワンテも何笑ってるのよ。
 
 赤くて大きな月が笑う夜。ゼミで遅くなった私がアパートに着くと、部屋のドアの前に座り込んでいる人影を見つけた。予想が外れればいいと思ったのに、案の定アキヒロ君だった。
「え、なんでこんなとこにいるの?」
 そりゃね。真っ向からの接触を避けてきた私も、これはさすがに聞きたくもなる。だってこんな時間だし、背筋も寒くなるわよ。何か間を持たせないとやってられないって。アキヒロ君がゆらりと立ち上がった。今夜みたいな赤い月も苦手だけど、それよりもっと不気味な微笑みが笑えない。一歩といわず、百歩くらい引きたかった。
「なあ……全部知ってるんだろ? だから俺を避けるんだろぉ」
 あのさ。もっと普通に喋ってよ、お願いだから。足が震えてくるじゃないのさ。
「フワンテ……あの時いたんだ。全部見てたんだ……」
 あーもー、ぜんぜん訳が分からない。一体なんのことよ。どういう意味よそれ。話す相手を間違えてるんじゃないの。フワンテが何を見たって? あんたがここにいるのとそれが関係あるの? アキヒロ君、あんた絶対に様子がおかしいわ。早く帰ったほうがいいわよ。いや、だから、だんだん近づいてこないで。
「悪いのはアユだ。俺は何も悪くない。あいつが俺を怒らせたんだ」
 怒らせたから、どうしたのよ。言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ。大人しく聞いてやるわよ。だってほら、こっちは声が出ないし足も動かないし。あんた、自分の気持ち悪さに誇りを持っていいと思うわ。女の子一人くらい、ビビらせて簡単に足止めできちゃうんだもんね。
「でもフワンテは全部見てた。俺が何をしたか全部……おしまいだ……おしまいだ……」
 おしまいなのは、こっちよ。
「なあ。全部、そのフワンテから聞いてるんだろ……? フワンテはお前に伝えにきたんだろ……? 俺が……」
 いやだ。どうしよう。もう自分を騙せない。この人こわい、アキヒロがこわいよ。
 こわいコワイ怖い恐い、呪文みたいに唱えれば唱えるほど頭がおかしくなってくる。もうぐちゃぐちゃ。体は電源の切れた加湿器みたいに動かない。どうしてよ。どうしてこんな日に限ってロトムもフワンテも、私の言うことを聞いて部屋で大人しく留守番してるのよ……!
「お前――!」
 アキヒロ君が絶叫しながら突進してきた。私はまっすぐ突き出された二本の腕の凶暴性をケンタロスの角と幻視した。喉を掴まれてはいけないと直感が私の体を突き動かした。伏せた。かわせた。アキヒロ君は階段をまっさかさまに転げ落ちた。アキヒロの頭が打ちっ放しのコンクリートにぶつかったらしく、ゴッと鈍い音がした。
 それきり何も聞こえなくなって、生ぬるい風が頬を撫でた。
『ふふふ』
 隣で、フワンテが笑っていた。無邪気すぎて、こっちが戦慄するくらいに。フワンテが大の字に倒れたアキヒロ君に近づいていく。近づいたらきっと危ない。あの子を止めようとしたけれど、声帯に力が入らない。どうしよう。どうしよう! 
 フワンテの細い腕がアキヒロの腕に絡みついた。
「なんだ、お前、何をするっ、やめろ、離せ! 離せ−っ!」
 フワンテが昇っていく。笑いながら昇っていく。アキヒロを連れて。一人と一匹は高い空に見えなくなってしまった。私はただ、呆然とその場に残された。
 

 その後、警察は行方不明になったアキヒロの捜索を続けている。私はアユの実家に行ってすべてを伝えたけれど、家族の方には怪訝な顔をされてしまった。というのも、アユの家にフワンテがいた。天地がひっくり返るくらい驚いた私にアユのお母さんが言うには、アユが亡くなってからずっとこのフワンテは家の中に留まり続け、ろくに外に出ていないのだという。アキヒロを連れ去った日時にはポケモンセンターにいたというアリバイもあった。
 じゃあ、私がずっと一緒にいたあのフワンテは一体なんなのよ。深入りしないほうが幸せだと頭の合理的な部分がささやくのに、それを無視して図書館でフワンテに関する論文を調べ上げた。ロトムの時とは比べ物にならない活字量にめまいがした。読み切れずコピーして自宅に持ち帰った分は、ロトムの横でむさぼるように読み漁った。この時自分は真実を知りたいんじゃなくて、真実を回避したかったのかもしれない。
 ふうせんと まちがえて フワンテを もっていた ちいさなこどもが きえてしまうことがあるという。

 あてもなく うかぶ ようすから
 あのよに つれていこうとして こどもの てをひっぱろうとするが はんたいに ふりまわされてしまう。
 ひとや

 手の平がじっとり濡れて、体も震えはじめたのは、風邪のせいでも、隣でニコニコと蒸気を噴かしているモイストロトムのせいでもない。


トビ ( 2013/06/03(月) 03:36 )