III
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夢を見ている。情景は淡いパステルカラーで、現実よりも浮遊感を纏っている。
それでも、瓦礫の微粉末が舞い散って鼻腔に入り込む不快感と、有機物が燃える嫌なにおいは、たちまち夢独特の空気を台無しにした。
僕は、まだ
僕たちだった。
身体の上に乗っている、建材に逆戻りしてしまった豪邸だったものを押しのける。
足、首、いろいろなところが痛いが、致命傷ではない。何が起こったのかわからないが、死んでいないことだけは確かだった。
「なんで」
「こんなことに」
「……ユズリは?」
「ユズリがいない」
ユズリだけではない。町も、元の形をほとんど残っていなかった。
ユズリの父親と母親は仕事で街に出ている。その方角は――轟轟と赤く燃えていた。
先ほどまで、白い部屋の中で、ユズリのピアノと一緒に歌っていた。全部、壊れた。
「ユズリ!」
「ユズリ!」
力いっぱい叫ぶ。お互いが別別の方向を見て、右も左も上も下も前も後ろも、血眼になってユズリを探す。
家は粉粉になっていた。――この下に?
「ユズリ、どこ!?」
「返事をして!」
瓦礫を一つ一つどかしていく。重くて、汚くて、小さな僕たちにはあまりにも過酷な作業だった。
首が痛む。でも、まだ潰れた家の下から出られていないユズリの痛みに比べたら。
叫ぶのは喉を傷めるからやめなさいと、ユズリに注意されたのもとうの昔。今、それを破って、嗄れるまで叫び続けている。この声がなくなってしまっても構わない。ただ、ユズリを見つけだしたくて。
「あっ!」
「ユズリっ!」
瓦礫の下から、細い指が見えた。でも、それ以上は瓦礫をどかせなかった。
指が冷たい。もしこの瓦礫をどかしたら、耐え難い現実が待っていると直感する。
「……レフ」
「……デクス」
お互いの顔を見る。泣きそうだった。わかっている、結末はもう見えている。
「だけど」
「それでも」
泣きそうになるのを耐えて、瓦礫をゆっくりとどかした。
潰れた豪邸の前で、三日間佇んだ。一日目はひたすら火薬の灰燼のにおいに顔をしかめていた。二日目は、まだ燃え続ける町をずっと嘆いていた。三日目は雨が降った。篠突く雨は町を冷やし、潤わせた。
ユズリの両親は戻ってこなかった。
「そろそろ」
「行こうか」
あてもなく歩みだす。足は町の方角へ向かっていた。ふらふらとおぼつかない足取りは重い。黒い水たまりに映った空は、晴れ上がっていた。
町の中心部に近づくたびに、焦げついたにおいが鼻をつく。死んでしまった町に残っているポケモンや人間はほとんどなく、そこかしこに転がる死骸は日を経て地面と一体化しようとしていた。
「こんなのって」
「ひどすぎるよ」
「みんな壊れて」
「みんな燃えて」
「傷ついて」
「死んじゃった」
三日前まで確かに存在していた平和や希望は、跡形もなく消えていた。大砲の音が遠くで木霊している。
街中の道なき道を巡り歩いて、楽しく愉快だった日日を回想する。
まだ頭が一つだったころ。タマゴから孵って真っ暗な世界に生まれた僕の頬に、優しく手が添えられた。
「生まれてきてくれてありがとう。私の名前はユズリ。今日からよろしくね」
ユズリは僕に何一つ不自由させなかった。イオという素敵な名前をもらった。
ユズリは歌が好きだった。僕の隣に座っては、いろいろな歌を聴かせてくれた。
田園風景。海底都市。森閑とした宇宙。空色の恋模様。
僕も真似をして歌うようになった。
「すごい。上手よ、イオ。あなたは才能があるわ」
サイノウが何かよくわからなかったが、褒められたのは嬉しかった。もっと褒められたくて、四六時中歌った。夜、みんなが寝静まったときに歌って、叱られた。
外にも出歩くようになった。ユズリと一緒に出掛けるときもあれば、ひとりでそぞろ歩きすることもあった。
港までひとりで歩いていったとき、歌を歌うポケモンに出会った。
上手くはないけど、素敵な歌声だと思った。近づいて、一緒に歌うと、たちまち友達になった。
それから何度か一緒に歌を練習した。友達はゆっくりと上達した。僕もさらに上達した。
時が経ち、僕は僕たちになった。少しだけ光を得て、ユズリの顔が見えるようになった。
真横に居座るお互いを、舐めたり鼻先をくっつけたりして存在を確かめ合った。
「僕たちって」
「気が合うね」
同時期に、ユズリの両親から外出を控えるようにと言われた。外は危険だから、と。
ときどき大砲の音が聞こえるようになったせいだと思った。大砲の弾が飛んできませんようにと毎晩祈ったが、そんな気配は一向に訪れなかったので、すぐに気にしなくなった。
ユズリがピアノを買ってもらった。不思議な音がする楽器だった。とても高価で、壊したら怒られてしまう、と触らせてもらえることはなかった。でも、音だけで充分だった。
ユズリは歌うのをやめて、ピアノを弾き始めた。僕たちもピアノと一緒に歌った。
楽しかった。白い部屋の空気は、いつも煌めいていた。
けれども、すべて壊れて消えてしまった。
「……あ」
「ここって」
ユズリの両親が働いていた建物だった。楽器を作っていた場所らしい。
もう、崩れてばらばらになって、瓦礫の山と化していた。
「だめだろうね」
「間に合わないだろうね」
きっとこの下にはたくさんのポケモンや人がいて、そしてユズリの両親たちもいるのだろう。
三日間何も食べずに過ごして、体力もほとんどなかった僕たちが、瓦礫をどかして掘り起こそうなどと気持ちになることはなかった。
絶望ののちの諦観。
泥塗れになっていた足に、いつの間にか瓦礫の破片が刺さって血が出ていた。
もう、何もかもがどうでもよくなっていた。
「疲れたね」
「眠いね」
どんなときでもお互いの気持ちが
同調していたことだけが、唯一の救いだった。もし横に誰もいなかったら、自死を選んでいたかもしれない。
すすり泣く声と腐り始めた町のにおいを通り抜けて、港に出た。
はるか昔にクロロスというアシマリに出会った場所だった。彼ももう、死んでしまったのだろうか。灰色の港には誰もいない。
「ねえ、レフ」
「ねえ、デクス」
この世界で、どうやって生きていこう。
「僕、ずっと考えていたんだけど」
「僕も多分、同じことを考えてた」
――無理だ。生きるには、希望が少なすぎた。
「町がなくなって」
「家もなくなって」
「ユズリもいなくなって」
「ユズリの家族もいなくなって」
「友達もいなくなって」
「みんなみんな、いなくなった」
お互いの顔を見た。隠れている目から、ぽろぽろと涙が零れている。
ジヘッド――二つの頭は、最終進化を迎えるにあたって、どちらが本体として相応しいかをいつも争っている。
だが、僕たちは違った。名前以外は、何もかもが同じだったから、何も争うことはなかった。
「僕たちって考え方も話し方も行動も全部同じだから」
「どっちが真ん中の頭になっても恨みっこなしだったけど」
お互いに押し黙る。この先を言ってしまえば、もう取り返しはつかない。進化が差し迫っていることは、直感でわかっていた。
だが、これ以上の答えは出なかった。
「右腕と」
「左腕に」
「なってしまおう」
「脳みそもない」
「意思もない」
「ただの四肢に」
そうすれば、悲しみや苦しみから逃れられる。何も考えなくて済む世界が待っている。
「ごめんね、レフ」
「ごめんね、デクス」
「僕がもっと強かったら」
「君の悲しみを引き受けられたのに」
お互いの涙を拭い合って、泣きながら笑った。
「もう最後だから」
「歌を歌おうか」
灰色の町を背に、群青色の海と空に向かって歌を歌う。
レフは高い声で、デクスは低い声で。ユズリが初めて教えてくれた歌を、淀んだ空気に乗せる。
朗らかな辞世の歌だった。やがて、身体が蒼白く光り始めた。
「さよなら、みんな」
「ありがとう、みんな」
「レフ、いつも一緒にいてくれてありがとう」
「デクス、いつも楽しい日日をありがとう」
頭が変形し始めた。僕たちの間から、新しい頭となるものが生えてくる――。
「「さよなら」」
そして、ごめんなさい。
………………。
…………。
……。
僕は朦朧とした意識の中、昏い海の上を、ひたすらまっすぐに飛んでいる。
急き立てられるように、翼を全力ではばたかせ、まだ見ぬ安息の地を求めている。
月明かりは一層蒼白くなって、海の群青に銀色の光を差し入れた。
やがて、小さな島が見えた。僕の焦りは瞬く間に消えた。
僕はゆっくりと降り立つと、そこにどっしりと根を下ろした。