Elegy
II




  ●○●○●




「あの子には期待するだけ酷というものよ」
「一流とは言わないまでも、なんとか並に歌えるようになってくれればいいんだが。それも厳しいか……」
 群れの長とその妻が話しているのを偶然にも耳にしてしまったことがすべての始まりだったのかもしれない。
 アシマリもオシャマリも、その先にあるアシレーヌという姿に、みな一様に焦がれる。
 どんなポケモンだってそうだろう。一部の進化しないポケモンを除けば、みな最終進化を夢見て、今の自分にはできないことを軽軽やってのける自分を夢想する。
 だからみんな、一流のソリストととして群れを率いるアシレーヌになるために、踊りや芸の練習をするだけでなく、歌の練習もするのだ。
 俺にはその意識が希薄だった。踊りをするのも芸をするのも歌を歌うのも、楽しくやるのが何よりも大切で、上手い下手は二の次、三の次――もっと優先順位は低かった。
 だからか、一生懸命に練習する仲間たちには疎まれていたのかもしれない。鈍感を押し通したわけではなかったが、気に留めないようにしていた。
 しかし、群れの長の言葉となると簡単に聞き流すわけにはいかなかった。
 あまりに出来が酷いと群れを追い出されるかもしれない――。
 もちろんそんな仕打ちを受けるはずもないが、幼心に危機感を募らせていたのは確かだった。
 誰も寄りつかない寂れた波止場で、歌の練習をした。誰にも聞かれないようにと選んだその場所は、日を経るにつれて愛着の湧く秘密基地のようなもので、なくてはならない場所となっていた。
 だが、一向に上達する気配はなかった。何百回、何千回と歌ってもまったく上手くならず、歌の練習は自分の下手さをひたすら確認するだけの作業だった。
 それでも歌を嫌いにはならなかった。どれだけ下手でも、歌っているときの楽しい気持ちを否定することはできなかった。でなければ秘密の練習など続くはずもない。
 そんな折り、彼は突如現れた。
「僕も歌っていい?」
 夢中で歌っている最中に、背後から忍び寄る影に気づけるはずもない。
 モノズ。粗暴ポケモン。俺の二倍ほどの体躯がある上に、凶暴と名高いポケモン。
 悲鳴を上げて逃げようにも、ひれは震えて動かないし、声もかすれてしまっている。
 けれど、彼が一向に攻撃を仕掛けてこないために、少しだけ冷静になる。――歌ってもいい?
「い、いいよ」
 辛うじて声を絞り出した。そういえば、彼の声は粗暴ポケモンのそれとは思えないくらいに澄んでいる。
 いったいどんな歌を歌うのだろう。

「――!!!」

 三十秒。たった三十秒の衝撃は、俺の脳をガンガンと揺らして、底知れぬ不幸と至高の幸福が()い交ぜになったような奇天烈な感覚をもたらした。
「君が歌っていた歌を同じように歌ってみたんだけど……どうかな?」
 同じ? これが? 嘘だ。すごい。なんでこんなに。
「俺に歌の歌い方を教えて!」
 彼の首元に飛びついた。俺の受けた衝撃を表現するには、そうすることしか思い浮かばなかったのだ。
「わわっ」
 驚いた彼に振り落とされた俺は、そのまま海へと落ちた。
 あとから知ったことだが、モノズは目が見えていないらしい。僕が飛びついたのに驚いて振り落としてしまうのも無理はなかった。その日を境に、俺には友達が一匹増えることになった。
「名前教えて?」
 海から上がった俺は真っ先に尋ねた。
「僕はイオだよ。君は?」
「俺はクロロス! よろしくお願いします、師匠!」
「……師匠はやめてほしいかな」
 友達兼師匠。イオは最後まで師匠であることを認めなかったが、歌を俺に教えるその振る舞いは師匠の名に違わぬものだった。




  ◆◇◆◇◆




「これが俺の幼い頃の物語。どう? 感動した?」
 クロロスは朝言い放ったとおりに、陽が沈んだ頃に洞穴へとやってきた。
 僕は飲まず食わずで何もせずにじっと佇んでいた。そして、アスターの言葉を反芻していた。

『もし昔の思い出が辛いものばかりで、記憶を失っている今のほうがずっと平穏なのだとしたら……思い出さないほうがかえってイオさんにとってよいのかもしれませんよ』

 夢の内容はやはりほとんど覚えていない。しかし、目が覚める直前の、あの恐ろしい轟音と白んだ視界だけはいつまでも現実感溢れる映像として脳裏に流れ続けている。
 そう、夢というにはあまりにも生生しく現実的だった。もし僕の脳が、失った記憶の断片を夢として見せているとしたら。
 記憶喪失の悲しみを顕著に感じるのは、いつも眠りから目が覚めた直後だったのにも合点がいく。
 そんなことを考えていたときに、クロロスはやってくるなり突然昔話をしだした。
 うなずきもせず、ぼうっと彼の話を聞いていた。クロロスが言っていた昔の友達とは物語に登場したポケモンで、僕はそのポケモンの名前をもらったのだと理解した。
 そしてクロロスは感想を求めてきた。
「君にもいろいろあったんだなあって思った」
「……それだけ?」
「うん」
 クロロスはわざとらしくため息をついた。僕の感想がよほど意にそぐわなかったようだが、これ以上どんな感想を抱けというのだろうか。
「生きてれば大なり小なり劇的な出会いはあるだろう? そのイオとの出会いは驚くべきことなのか?」
「じゃあ、もっと劇的なら驚いてくれる?」
 クロロスのサファイアのような瞳が白い睫毛で一瞬翳ったあとに、月の光を受けて輝きを増した。
「――君がそのイオだよ」
「……え」
「君が僕に歌を教えてくれたんだ」
 冗談だろ、などと言おうものなら怒りだしそうなくらいには、クロロスは真剣な目つきをしていた。
 クロロスの旧友とは僕のことだったというのか?
「証拠はないよ。もう長い間会っていなかったし、俺もイオも随分と姿が変わってしまったし。でもね、歌を歌える種族って限られているんだ。アシレーヌ、ラプラス、プリン、僕が知っているのはそれくらい。例外もあるかもしれないけど、滅多にいない。だから、目の前に現れたモノズがとんでもなく上手な歌を披露したときは本当にびっくりしたんだ」
 クロロスは黒い海を眺める。月明かりが煌煌と海面を照らして、白い炎のように揺らめいていた。
「あれから月日は経ったけど、&ruby(﹅﹅){普通};のポケモンが歌を歌っているところはつい一週間前まで出会わなかった。モノズの最終進化系である君を見るまでは」
 僕は何も言えずに押し黙る。
「イオ、もちろん君は覚えてないだろうけど、俺は確かに覚えているよ。君の記憶がなくなってしまっても、俺は絶対に忘れない」
 実感が伴わない。記憶がないのだから当然だ。
 だが、クロロスの独白を否定するすべを僕がはもっていない。歌という特殊な形状のピースがかっちりと僕らの間に埋まっている。
「ヴァゼルストッフという港町があったんだ」
 クロロスはなおも独白を続ける。
「俺たちのいつもの場所……東の海岸から見える水平線を越えた先には大陸があって、その港町で俺は生まれ育った。きっとイオもそこで育ったんだと思うよ」
 ヴァゼルストッフという町の名前に覚えはない。ただ、町の情景をぼんやりとイメージすることはなぜかできた。すっかり忘れてしまったと思っていた夢の中で見たものを、思いがけず想起したのかもしれない。
「俺はときどきイオに歌を教えてもらっていた。オシャマリに進化してからは君は姿を現さなくなってしまったけれど、俺は変わらずに歌の稽古を続けて、なんとか群れの長に認められるくらいには成長した」
 クロロスが歌に費やしてきた時間に思いを馳せる。せめて同族たちと同じくらいには歌えるようになりたいと願ったクロロスに、僕はちゃんと手を貸せたのだろうか。彼と同じように、彼の成長を願えたのだろうか。
「アシレーヌに進化して、少しずつ自分の歌に納得できるようになってきて、そしていつかまたイオに出会うことができたら、昔のように一緒に歌いたいなんて思ってた。でも」
 クロロスの声が翳る。潮騒が一層大きくなった。
「ヴァゼルストッフに爆弾が落ちた」
 爆弾という言葉に、視覚が過敏に反応した。白い光。轟音。夢の終わりの光景が鮮明に幻影となって映しだされた。
 僕は過呼吸を引き起こしそうになるのを必死で耐える。今朝のような醜態は二度と晒したくない。
「戦争をしていたんだ、ヴァゼルストッフがあった国は。本当に戦争が行われてるのかって疑問に思うくらいには、平和な町だったけど、やっぱり見えないところで戦局はぐるぐる変わっていたみたいで。一瞬で町は壊れて燃え上がった」
 やはり――夢は僕の記憶だった。覚醒している白昼に思い出せなくても、夜の長い夢はずっと僕を撃ち続けていたのだ。
「命からがら町を抜け出して、海に出ようと港に向かった。水路を下る途中でフロールに出会って、海へ出る直前でアスターにも出会った。三匹で、陽の沈む方角へ海を泳ぎ続けた」
 しかし、夢の違和感は拭えない。町が破壊されたこともたくさんの人やポケモンが傷ついたことも、大いに悲しむべきことだ。絶対に風化させてはならない記憶のはずだ。
 だが、僕が本当に忘れてはいけなかったものは、そんなことではないような気がするのだ。もっと身近で、僕自身の根幹にかかわるような――。
「この島に辿り着いたのは、三日三晩泳いで疲労困憊、いよいよ体力も底をつきそうなときだった。最悪な出立だったけど、俺たちは本当に幸運だった。それで――って、イオ、大丈夫?」
「……あ、うん」
 吐き気がする。クロロスの言葉に心を乱されて、平静を装うには無理があった。まるで脳みそがぐちゃぐちゃに掻き回されているようだった。何かがおかしい。この幻視を僕の記憶とするには、何かが違う気がする。でも、確かに僕のもので――。
 ああ、頭が痛い。いったいこの違和感は何なのだろう。僕はどうしてしまったのだ。
「ごめんね。こんな夜に押しかけて。今日一日調子が悪かったのに、一方的に昔話なんか聞かせるのは迷惑だったよね」
 僕を何度怒らせても朗らかさを押しつけてきたクロロスが、初めて見せる申し訳なさそうな表情。
 違うよ、別に迷惑だなんて思ってない。ただ、遡行する胃酸のような辛い記憶を無理にでも掘り出さなければいけない苦しみに身体がついていけていないだけなのだ。
 僕に過去を与えてくれたクロロスを、どうして迷惑だなんて思える。
「俺は帰るよ。ゆっくり休んで――」
「待って。帰らないで」
 洞穴に残響する声。海鳴りを轟かせる黒い海。月を隠した曇天。
 すべてが不安だった。こんな夜をひとりで過ごすには、僕はあまりにも頼りなかった。
「一緒にいて」
 どれだけ僕は弱弱しい声を発していたのだろう。クロロスは僕を安堵させようと精一杯の笑みを僕へと向けてきた。
「じゃあ、歌おうよ、一緒に。君とふたりで歌うこと、俺の夢だったから」
 クロロスが僕の手を取る。クロロスの手はたおやかな見た目とは裏腹に硬さのある弾力を有していた。
「これはイオが初めて俺に教えてくれた歌だよ」
 クロロスは静かに歌い始める。氷のような透明度をもった声は、洞穴をまっすぐに突き抜けた。
 歌った記憶はない。けれども、知っている気がする。
 かつてあったのどかな町の風景が、泡沫のように浮かんでは消える。
 クロロスにコーラスする。そっと包み込むように、優しい声で。
 右腕(テルロ)左腕(テルロ)も歌い始める。ささやかに祈るような音で。
 小さな洞穴は僕とクロロスのコンサートホールで、潮騒と月が聴衆だった。

「クロロスは……僕とこの島で出会ったとき、僕がイオだってことにはすぐに気づいた?」

「気づいたよ。イオの歌声を一度たりとも忘れたことはなかったから。でも、お互いに姿形が変わって、イオは明らかに俺のことを覚えていなかったみたいだし、様子見してたら記憶喪失を打ち明けられた。言うタイミングを見失っちゃってね」

「……そっか」

 ときどき、歌の合間に映像が映る。ああ、これは夢の断片だ。
 白い部屋。はめ殺しの丸窓。ピアノに細い指が躍動する。
 双頭が、揺れる。

 嗚呼。

「おやすみ、イオ」

 せせらぎの中に、クロロスの声は溶暗した。


朱烏 ( 2017/07/19(水) 21:40 )