Elegy
I




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 クロロスがイオと名づけたサザンドラに出会ってから、一週間が経った。
 イオは毎朝誰よりも早く東の海岸で独り佇んでいて、私たちを待っていた。
 いつも、物憂げな表情で水平線の向こうを見ている。イオは記憶を失っている身の上で、何に思いを馳せているのだろう。
 日が経つにつれて、イオの眉間にしわを寄せているような表情は見なくなり、代わりにサザンドラらしからぬ柔和な表情をよく見るようになった。
 嫌いだと断言していたクロロスに対しても、少なくとも無視することはなくなっていた。心を少しずつ開いているのは誰の目に見ても明らかだった。
 私も時折、イオと同じ方向を眺めて物思いに耽る。
 水平線の向こうには、大陸がある。ずっと泳いで蜃気楼を越えていけば、私やアスター、そしてクロロスの故郷である町に辿り着く。もう灰燼に帰してしまったけれど。
 たった数か月前のことなのに、百年以上も昔のことに思える。
 赤赤と燃える町から命からがら逃げだして、初めて出会ったクロロスやアスターと一緒に三日三晩かけて海を渡った。
 この島に行き着いたのは偶然だった。ポケモンしか棲んでいない無人島。人間の憎しみやエゴに巻き込まれない天国。
 大陸に戻りたいとは思わない。そもそも再び棲むことだってかなわないだろう。だが、すべてが炎の中に失われた町がどうなっているのかが気になる気持ちはあった。
 クロロスはどう思っているだろう。アスターに至っては、町を駆け回っている最中によほど凄惨な光景を見たのか、島についてもしばらく飲まず食わずの生活をして死にかけている。今は元気にしているが、彼が先の戦争のことを自ら口にだしたことは一度もない。
「フロール、おはよう」
「おはようございます、フロールさん」
 クロロスとアスターが来る。もうそんな時間なのかと思ったが、確かに陽は水平線から完全に顔を出していた。
 まだイオは来ない。
「珍しいね、イオがまだ来ていないなんて。寝坊かな?」
 驚きの裏にある不安感。クロロスの高いトーンには、奇妙な上ずりがあった。
「ただの寝坊だといいんですが、もしかしたら風邪をひいたり、病気をしているのかも……」
「考えすぎよ、アスター。イオは昨日も元気にしていたじゃない。でも遅刻は遅刻だから、呼びにいかないとね」
 私は努めて明るく言ったが、一週間歌の練習を続けていた疲労で倒れている可能性も否めなかった。
 私たちと出会う前は、ずっと洞穴の中で引きこもっているような不健康な生活を続けていたようだし、生活リズムががらりと変わったことで体調を崩したということは十二分に考えられるだろう。
 背中にアスターを乗せ、クロロスの先導で島のまわりを右回りに泳いでいく。イオは東の海岸とは真逆の位置に棲んでいるが、そろそろあの寂れた入り江から棲み処を移すつもりはないのだろうかと疑問に思う。
「そういえばイオさんって――きっとこの島の外からやってきたんでしょうね」
 アスターが私にぼそぼそと話しかける。
「ボクたちの種をこの島で一切見かけていないように、サザンドラ種もこの島では見かけないですし」
 実際、アスターの考えは間違っていないように思える。この島には限られた種族のポケモンしか棲んでおらず、ラプラスもアシレーヌもコロトックも私たちだけしかいない。サザンドラも同様だ。
「イオさんは記憶喪失みたいですけど、願わくば戻してあげたいですね、記憶を」
 イオがどのような経緯で記憶を失ったのかは知らない。ただ、アスターの言うように、記憶が戻るように働きかけたいと願うのは、友達として当たり前のことだった。
「ただ、その記憶が戻すに値するものだった場合にのみ、ですけど」
 アスターが言外に意味深なことを含ませるが、それは私たち三匹の共通認識だった。もっとも、記憶を戻すとして方法はどうするのかという問題に突き当たってしまうが、おいおい良い考えが浮かんでくるのを待つしかない。
「外には出てきてないみたいだな」
 入り江に到着しても、イオの姿は見えなかった。洞穴の中で寝ているのだろうか。
 そう思った矢先に、地鳴りのような音と、次いで何かが崩れ落ちる音が聞こえてきた。
「フロール! アスター!」
 クロロスが私たちを促しながら一目散に洞穴へと向かっていく。音がした方向は明らかにイオの棲み処からだった。
 浅い洞穴の中で、イオの姿はすぐに見つけられた。
 異様な光景だった。
「イオッ!!」
 イオが洞穴の中で暴れている。太い尻尾を岩壁に叩きつけたり、自分の腕を咬んだりしている。悪の波動も放っているようで、迂闊に近づくことはできそうにない。
 しかしクロロスは危険を顧みずに洞穴の中へと突っ込んでいく。
「クロロスさん! 危ないですよ!」
 考えなしに突っ込むなんで。こうなったらしかたない。
「行くわよアスター!」
「フロールさんまで!」
 クロロスがイオに飛び込んで押さえつけようとするが、体躯が二倍以上も違うイオを一匹で止めるのは無謀にも等しい。
「がああぅ!」
 暴れるイオの上にのしかかる。技を出せないように口も塞いだ。
 そしてアスターもイオの尻尾に馬乗りになった。
「ぐっ、ぐがあっ!」
「イオ、落ち着いて! フロールよ、わかる!?」
「イオ、暴れるのは止すんだ!」
「イオさん、う、うわあっ」
 アスターを尻尾で吹き飛ばしたのと同時に、イオの動きは何事もなかったかのように沈静化した。怯えるような表情で喘ぐイオの上からクロロスと一緒に降りて、事態を見守る。
「僕、僕……ッ」
 イオがわっと泣きだした。まるで幼児退行したかのように、わんわんと泣いている。
「どこか痛いの? 苦しいの?」
 アスターが危惧したとおり、病気に苦しめられているのかとイオに問う。だが、イオの放つ言葉はまったく私たちが考えていたものとは見当違いのものだった。
「僕は誰なの? どうやって生まれたの? 友達はどこ? 僕は――僕は――」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返すイオに、私とクロロスはいたたまれない表情を向かい合わせるしかなかった。
「絶対に忘れちゃいけないものを忘れてる気がするんだ。なのに何も思い出せない。僕の本当の名前も、生まれ育った場所も――友達だっていたかもしれない。でも、全部――」
 涙声で主張するイオに私たちができることは、彼を孤独にさせないことだけだった。
「イオさん……夢を見たんですか?」
 洞穴の入り口まで弾き飛ばされていたアスターがのろのろと立ち上がって、ぽつりと呟いた。
「夢って……」
 先ほどまで暴れていたのは、悪夢にうなされていたからとでもいうのか。
 しんとする洞穴。潮の満ち引きだけが残響する。
「イオさんは、もしかしたら失った記憶を取り戻したいと思っているのかもしれないですけど、それは本当に取り戻していいものだと思いますか?」
「どういう……意味だよ……」
 鼻をすすりながらも一応は落ち着いたのか、イオはアスターへと問いかける。そこには、微妙な苛立ちも垣間見えた。
「もし昔の思い出が辛いものばかりで、記憶を失っている今のほうがずっと平穏なのだとしたら……思い出さないほうがかえってイオさんにとってよいのかもしれませんよ」
 つい先ほどまで危惧していたとおりだった。アスターの言わんとしていることを、私もクロロスも理解する。が、その言葉は迂闊だった。
 イオの逆鱗に触れたと思ったときにはもう遅かった。イオが尻尾を激しく地面に叩きつけて唸る。
「お前らは! お前らは僕がどれだけ失くした記憶を欲しているかを知らないだろう! 自分が何者かわからない! 生まれ育った場所も! 親や友達の名前も顔も! なぜこの島にいるのかも! 全部わからないこの不安が! お前らに……お前らに……!」
 壁を殴っては唸って威嚇するイオは、目を真っ赤に充血させていた。凶暴ポケモンたるゆえんを間近で垣間見た私は、思わず後ずさる。しかし、クロロスはいつもの笑顔をイオに向けて近づいた。
「イオ、そんなことをしたら、セレノとテルロが痛がってしまうよ」
 魔法の言葉だった。イオははっとして、腕を岩壁にぶつけるのをやめた。
「……ごめん」
 おそらく自らの両腕に向けて言った言葉だろう。両腕の目が瞬きをした。
「イオ、今日は具合が悪いようだし、ゆっくり休みなよ。俺はまた夜お邪魔するよ。ちょっと話したいことがあるんだ」
 それだけ言って、クロロスは洞穴を後にした。
「……無神経なことを言って、本当に申し訳ありません」
 目に見えて気落ちしていたアスターは、逃げるように洞穴を立ち去った。
「彼に悪気はなかったの。許してあげて」
 アスターの言葉に心で同調していた私に、イオにそんな言葉をかける資格なんてない。それでも何かを言わないと、この最悪な雰囲気から逃れられそうになかった。
 イオは一切喋らず、魂の抜けてしまった表情で虚空を見つめ続けている。私もアスターを追うように、洞穴から這い出た。




  ▲△▲△▲




 悪夢を見ることは、この島に来てからままある。むしろ、ありふれた夢らしい夢を見ることのほうが少ない。
 脳裏に無理やり刻み込まれた辛い記憶は、およそ現実とは程遠い奇妙で楽しい夢すらも蝕んでくる。
 ボクは、生まれた場所はよく覚えていないが、ヴァゼルストッフという町で育った。
 どこにでもいるような野良のコロボーシで、物心ついた時にはコロトックに進化していた。
 ヴァゼルストッフのいいところは、音楽がどこからでも流れてくるところだった。音楽の町を標榜しているだけあって、教会でも学校でも民家でも、何かしらの楽器を設えては窓からさまざまな音色を垂れ流していた。
 ボクの生きがいは、無限に生まれてくる楽器の音色をコピーして自分のものにすることだった。
 当然一朝一夕にはできない。パイプオルガンの音を手に入れるために毎週日曜日、人が集まって賛美歌が歌われる教会の裏に潜んで、伴奏のパイプオルガンの音を真似た。
 また、金持ちらしい身なりの子供が不定期に学校の前でヴァイオリンを演奏していたので、聴衆に紛れて聴いていた。
 町外れには大豪邸があって、そこからはいつも歌声が聞こえてきた。流石に声を真似ることはできないと思っていたが、いつの日からか儚げなピアノの音が聞こえてくるようになった。ならば、とコピーするために日夜聴きに通った。
 どこにでもいるコロトックは、いろいろな音を奏でられる唯一無二のコロトックになった。
 あらかたヴァゼルストッフの音はコピーして、いつでも再現できるようになった。
「しかし、音をコピーするのはもう飽きてしまいましたね……」
 楽器の音を真似られるのは一種の才能だろう。与えられた能力に任せてただただコピーを続けてきたが、その先にある音の生かし方はほとんど考えていなかった。
 そんな矢先、とある人間の男から声をかけられる。
「俺の相棒にならないか?」
 その男は、茶色のロングブーツに黒いズボン、赤いジャケットを羽織っている妙ないでたちをしていた。そして、アコーディオンを携えている。
 男はアコーディオンを弾きながら歌い始めた。歌の名前は知らないし、歌そのものも聴いたことがなかった。
 しかし、音楽は言葉以上に雄弁である。この男がボクに気に入ってもらうために、ボクへの歌を歌っているのだと理解した。
 人間と組んで音楽をする。なかなか面白そうだ。演奏が終わると、ボクはナイフのような手を差し出す。男も手を差し出そうとした。



 夕空が光った。



 爆風と轟音。何もかもが吹き飛んだ。
 ボクも吹き飛ばされ、気も失ってしまった。どれだけ時間が経ったか、目を覚ましたときには周辺の光景はまったく様変わりしていた。すでに空は暗いのに、町は不自然に明るい。次いで嗅覚を刺激してくる煤のようなにおいに顔をしかめる。
 この国は戦争をしていた。どんな戦争かは詳しく知らない。戦局が長引いていることだけは風の噂で聞いていた。
 ただ、この町は呑気だった。誰も彼もが、戦争が何たるかを知らないふうな顔をしていた。それはボクも同じだった。
 そして理解する。戦争とは、美しい煉瓦の建物と緑の木木が、焦土へと変貌する――そんな形をしているのだと。
 ボクを相棒にしようとしていた男のことを思い出す。しかし、目に入ってくるのは破壊された建物や、怪我を負った人やポケモンたち、そして死骸。彼の姿はどこにもなかった。
 もう彼とは出会えないのだと悟った。自分の体を見る。不思議なくらい、深手となるような怪我はしていなかった。
 足元には、壊れたアコーディオンが転がっていた。
 ボクは彼の形見から鍵盤を一つ切り取った。そして走る。あてはない。けれど、海へ出るのがいいだろう。
 何しろ暑い。形が残っている建物も、みな燃え盛っている。少しでも涼しいところへ。
 途中で出会った怪我人や手負いのポケモンたちには目もくれなかった。非常時にはどこまでも利己的になれるが、そもそもボクには助ける力はないと(かぶり)を振る。
 いつもヴァゼルストッフの町を歩き回っていたから、地図は表通りから路地裏まで頭に入っている。
 本屋だった場所。パン屋だった場所。靴屋だった場所。全部変わってしまっていた。
 学校、教会、町外れの豪邸――潰れ、燃え、壊れたそれらは、もはやいかなる役目も果たさない奇怪なオブジェへと成り下がってしまっていた。
 それでも、触れてわかるような形がわずかでも残っているだけ、幸せだと思った。
 ボクが愛した音たちは無形で、もう二度とこの町で奏でられることはない。存在は完全に抹消された。
 初めて涙を流した。生まれてからずっと飄飄と生きてきて、深い悲しみを感じいるようなことは何一つなかった。
 がむしゃらに走って、港へと出た。小さな倉庫は全部燃えていて、止めてあったであろう船も炎上して海へと投げ出されていた。
 海の風が涼しい。場違いな気持ちを抱いたボクは、その場にへたり込んだ。
 この先はどうすればいいのだろう。何も思いつかない。煙のにおいに咳き込み、目も煙にやられたのかうまく開かない。
「君! こっちに来て!」
 波止場に二匹のポケモンがいた。何という種類のポケモンなのか、ボクの乏しい知識ではわからない。ただ、どちらもボクと異なって海を渡れそうな姿をしていた。
「逃げるぞ!」
 誘われるがままに、片方のポケモンの甲羅に乗る。
 のちに甲羅があるポケモンがラプラス、ボクを呼んだポケモンがアシレーヌという種族であることを知った。
 ほぼ無傷のボクに対して、二匹は怪我をしていた。ラプラスは甲羅が欠け、首に傷があった。アシレーヌは明らかに致命傷にしか見えない大きな傷を背中に背負っていた。
 ボクですら目の前でたくさんのポケモンや人間が死んでいる町を駆け抜けてきて絶望しているというのに、深手を負っている彼らの悲しみはどれほどのものだろうと案じる。
 ポケモンも人も、痛みや悲しみを乗り越えて強くなると言うけれど、この悲しみを乗り越えたところで何を得られるのだろう。元の平穏はもう戻らない。
(さよなら、ヴァゼルストッフと音色たち)
 もし神様がいるのなら、この赤黒く染まった悲痛な記憶をすべて消してほしいと願う。
 群青色の海の上に、きらきらと星が光っていた。真っ赤に燃え盛る町に振り返ることは、三匹ともしなかった。


朱烏 ( 2017/07/19(水) 21:40 )