II
◆◇◆◇◆
穏やかな潮騒だけが支配する砂浜に、僕は座っていた。
「おはよう。随分と早いのね」
水平線から、眩い朝陽が顔を出し始めた。爽やかな空気、青とオレンジ色のグラデーション。
「目が早く覚めたものだから」
寝不足は否めないが、惰眠を貪っていてもしかたなしと、東の海岸にやってきたのだ。フロールが今しがた来たが、やがてクロロスもアスターも眠い顔を擦りながら来るはずだ。
「目のまわりが腫れているけど、大丈夫?」
「あ……いや、これは……大丈夫だよ」
二度寝ができなかったのは、目覚めたときにまた涙を流していて、とても再び眠りにつけるような心情ではなかったというのもある。
夢を見たのだ。だが、内容は例によって覚えていない。どうせ悲しい夢なのだから、忘れてしまっても構わない。
そう思えば思おうとするほど、胸に棘が刺さったような、締めつけられるような、痛痛しい気持ちになる。
「本当?」
フロールが首を僕の顔に向けて伸ばしてくる。首長の海竜の深い青色の瞳は、僕の嘘を見破ろうとする。
「無理しないでね」
ささやかな追及が終わる。クロロスが同じことをしてきたら突き飛ばしていたが、フロール相手にそれはできなかった。
「クロロスのこと、嫌い?」
「……藪から棒だね」
フロールは、海を眺めていた。遥か昔から無限に波を送り続けてきた海の始まりを臨むように。
「嫌いだよ。図図しいし、押しつけがましいし、自信に満ち溢れているのも気に食わない。雄なのにあんななりをしているのも癪に障る」
「クロロスが聞いたら悲しむわ。……それでも、一緒に私たちと歌ってくれるのね」
「……まあ」
本当は、彼らと一緒に歌う気などさらさらなかった。歌はひとりで歌えていたし、セレノとテルロもいる。僕の歌は誰の手を加えずとも完成していた。
クロロスたちの歌は、そんな思いを嘲笑うかのように上から塗り潰した。正直なところ、お世辞にも上手いとは言えなかった。
クロロスの歌唱は目を見張るものがあるが、まだまだ甘さは残っている。フロールは高音に課題があって、アスターはいろいろな楽器の音色を出せるのは面白いが、いかんせん演奏技術が追いついていない。
だが、三匹は楽しそうに歌っていた。それどころか、歌うことを至上の喜びとして生きているということを、僕にまざまざと見せつけてきた。
歌い初めの時点で、僕は呑まれていたのだ。
「でも、僕を誘ったなら誘ったなりに上手くなってもらわないと困るな。みんな下手くそだよ」
「下手なほうが、伸びしろがあって楽しいでしょう?」
「そういう前向きな捉え方は嫌いじゃない」
強がりもあるが、彼らに呑まれたことを悟られたくはなかった。
「私はね、下手くそなのは自覚してるから。クロロスもアスターも私から見れば雲の上の子たちなんだけれどね」
フロールはため息をついた。太陽は水平線を離れて、天頂を目指し始める。
「でもね、歌が好きな気持ちだけはあなたと同じかそれ以上に持っているつもりだから。クロロスもアスターも」
覆しようのない真実だ。彼らの歌を聴けばそんなことは自明なのだ。
「おはよう! なんて気持ちの良い朝だろう」
後ろからの朗らかな声に振り返ると、張り切っているクロロスと眠そうなアスターがいた。
「俺よりも早いなんて随分とやる気に満ち溢れているじゃないか。すごく嬉しいよ」
弾けるような笑顔を無視して、クロロスの後ろに隠れているアスターに声をかける。
「虫タイプなのに朝は弱いのか」
「偏見ですよ……一定数朝が弱いポケモンはいます……ボクもそれに該当しているだけで……」
クロロスに生気でも吸い取られたかのように弱弱しい。
「俺を無視するのはやめ――」
「いつものことなの。あと一時間もすれば元に戻るわ」
フロールに遮られたクロロスはわざとらしく
悄気るが、僕は一切気にかけない。
「みんな集まったんだ。さっさと仕切ってくれないか」
白けた顔をクロロスに向けると、彼は背をぴんと張った。
「そうだね。でもその前に、一つだけやっておきたいことがあるんだ。君の名前についてなんだけど」
「名前……」
この島で誰にも認識されることもなく、ずっと独りで過ごしていた。ゆえに名前がなくても差し支えはなかった。
「やっぱり、名前はあったほうがいいと思うんだ。君に似合うような素敵な名前が」
ややあって、僕は黙ってうなずく。こればかりはクロロスの言葉だろうと同意せざるをえない。
「だから君の名前、考えてきたんだけど」
「は?」
名前の必要性はわかる。彼らだっていつまでも僕を君とかあなたとかで呼んだり、僕を話題にしたりするときに不便だろう。
それでも、よりによってクロロスに名づけられるのは納得がいかない。
「要らない。自分で考える」
「自分に名前つけるの、恥ずかしくない? 誰かにつけてもらったほうが絶対にいいよ」
正論に言い返す言葉もない。しかし、断固として譲るつもりはない
「クロロスにつけられるのだけは絶対に嫌だ」
「じゃあ発表するね」
こいつには耳がないのか。
まあいい。気に入らなかったら拒否して、フロールやクロロスに頼むだけだ。
「イオ」
――イオ。
「っていうのはどうかな」
まるでサザンドラには似つかわしくない名前だ。凶暴ポケモンがそんな名をしていたら冷笑されるに決まっている。
「……イオ。いお。イオ――」
なのに、なぜ何度も口に出してしまうのだろう。認めたくはないが、存外に気に入ってしまった自分がいた。
「素敵な名前じゃない? 私はいいと思うわ」
「ボクも賛成です。とても似合ってますよ」
満場一致だった。あとは僕が了承するか否かにかかっている。
「……俺の友達の名前なんだ。歌がすごく上手で、いつも俺に歌を教えてくれた。ただ、それもずっと昔の話で、今はどこで何をしているのかわからないし、向こうも俺のことは覚えてないかもしれないけど」
クロロスはどこか寂しそうな顔をしたが、それも一瞬のことで、すぐにいつも通りの笑顔に戻った。
「この名前を受け取ってもらえたら俺は嬉しい。ダメだったらまた別のを考えてあげるよ」
「結局クロロスが考えるのか」
笑いそうになって、口元を抑えた。わずかでも隙を見せそうになった自分を戒めるために咳払いをする。
「……ありがたく受け取っておこう。感謝するよ、クロロス」
森がざわめき始める。もう、この島のポケモンたちが起きだす時間だった。
◆◇◆◇◆
洞穴の奥で、銀色の月光がさざ波に乱反射するのを、ただじっと見つめている。
今日の出来事を思い浮かべては、入り江に流入する潮に溶かしていく。
声が嗄れるまで練習した。四匹とも歌い疲れて、陽が沈み始めるころにはまともな合唱などできやしなかった。
「楽しかったなあ」
嘘偽りのない本心。だが、まだ心を完全に許しているつもりでいないのは、彼らを信用していないからではない。
たった一日やそこらで打ち解けてしまうのは、彼らの思い描くシナリオを馬鹿正直になぞっているようで、悔しいからだ。
クロロスに対しては特につっけんどんな態度を貫いてはいるが、いつまでももちそうになかった。
今日は数え切れないほど歌ったが、いずれの曲にもテーマがあり、捧げるべき対象があった。海や空、山などの自然。人やポケモンの繋がり。愛、惜別。怒り、喜び、哀しみなどの感情。
みな、真摯な表現者となって、歌っている。僕も彼らに倣って、誰かのためや何かのために歌いたいと思った。それはきっと、至極楽しく、素晴らしいことのはずだ。
身近な題材を思い浮かべる。ずっと独りだった僕には、そう簡単に題材は思い浮かばない。自然や、友情や愛情といったものはクロロスたちがあらかた歌を作ってしまっている。
僕だからこそ作れるものはないだろうか。
「……そうだ」
一つだけ思いつく。クロロスの古い友達に宛てた歌を作って歌ってみようか。
クロロスが名づけたとはいえ、名前を勝手にもらってしまったのだから、たとえ届かずとも僕の意は伝えなければならない。大それたものではないけれど。
早速メロディを考える。姿も声も知らない相手に、どんな曲を作ればいいか、脳みそを絞って考える。
「らーららーらー――」
即興のメロディをとりあえず口ずさんでみる。
「……違うな。らんらららん、らーららー、らららん、らら」
曲調を変えてみる。だがどうもしっくりこない。
――そもそも、どんなメロディなら納得できる? 何を目指そうとしている?
雲一つなかったはずの空は、いつのまにか曇天になり、月は
朧な薄明を注ぎだした。
どれだけ時間がたっても、一向にフレーズは思い浮かばない。
「そうか」
僕はただの一度たりとも、特定の誰かや何かのために歌ったことはなかった。曲にテーマを掲げても、歌うのはいつも自分のためだった。
海の荘厳。西の静穏。東の喧騒。陽の眩しさ。月の淋しさ。
紫色の灯火。灰の乱舞。幾重の金切り声。モノクロームを踊る指。
何かに、誰かに捧げるように歌っているつもりで、情景の中心にはいつも自分のくっきりとした輪郭が居座っている。
歌には絶対の自信があるけれど、歌は僕の及ばない領域を追憶するための手段でしかなかった。
「クロロスたちのように、誰かのために歌えるようになろう」
洞穴を這い出て、朧月に誓う。この島でずっと独りで、ようやく友達ができたばかりだけれど、きっと記憶を失くす前は誰かに支えられたり、何かを支えたりしながら生きてきたはずだ。
いつかそんなポケモンや人のために歌えるようになりたい。
月がうなずくように光を増した気がした。
■□■□■
人間の力はポケモンよりも遥かに弱い。けれど、それを補って余りある頭脳が、僕たちポケモンの想像を容易く凌駕していく。
この大きすぎる家も、無意味なくらいに細かい意匠も、人間でなければなしえない。もしかしたらポケモンの手も借りたのかもしれないが、些末な問題だ。
僕たちポケモンにとって、それが無害ならば何も問題はない。そうでないことがしばしばあるのは、優秀な頭脳をもつ者たちの傲慢か。
「いつもより大砲の音が多いね」
ユズリは僕たちの頭を交互に撫でながら、開かない窓の外を見やる。
この国は――ユズリやその両親と一緒に住んでいるこの穏やかな町は――戦争をしているのだという。
戦争というのは、国と国が互いに主張をぶつけ合わなければいけないとき、互いに利益を取り合うような状況になったとき、国の偉い人が国内の不満の矛先を反らしたいときに起こるのだそうだ。
難しいことなので、以前ユズリから噛み砕いて説明してもらった。ただ、理屈はわかっても理解はできなかった。
誰かを、何かを傷つけるのはいけないことだ。誰から教わらなくとも、みな自然とわかっていくことだ。
一部の人間は、それでもなおたくさんの人間やポケモンを傷つけるのをやめないのだという。
「どうして?」
「どうして?」
ユズリに鳴いて尋ねても、彼女は首を横に振るばかりだった。きっと彼女にも理解できないのだろう。
それでいいと思った。僕たちの主人が、人間やポケモンを傷つける意味を理解できる人だったら、僕たちは悲しみに打ちひしがれることしかできなくなる。
「新しい曲をずっと練習してたの。一緒に歌いましょう」
ユズリがピアノを弾く。ゆっくりとたどたどしく、丁寧に。ぽろろん、ぽろろん、とやがて滑らかになる音は、白い指先と楽しく踊り始めた。
次いでユズリの声が連なる。ヤヤコマのさえずりのような歌を、ピアノの音に重ねてゆく。僕たちも歌う。ユズリの声と一体となるように。
右の頭のデクスは、曲全体を支えるような低音を伸びやかに歌う。平面的だった曲に、立体的な深みを与える歌声。
左の頭のレフは、ユズリの声に連れ添うハーモニーを軽やかに歌う。楽しげな音楽が一気に華やいだ。
一人と二頭とピアノが、白い部屋に色をつけてゆく。灰色に染まっていく街とは裏腹に、ユズリたちのまわりは玉虫色の淡い虹が架けられる。
少女と、最終進化にも至っていないポケモンは、この世界の広さを知らない。大砲の音がどこから鳴り響いてくるのかも知る由もない。
狭い世界にしか生きられないから、何でも信じられた。
何の変哲もない日常は、永遠に変わらないと思っていた。
僕たちもろとも家が吹き飛んで崩れたのは、空の明滅に目が倉真、爆鳴に耳孔を
劈かれた直後だった。