I
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白い部屋の中にいる。見上げると、天井は高かった。凝った意匠の照明がぶら下がっている。例えるなら、シャンデラに上品な透明性をもたせ、かつ不気味な青い炎を取っ払ったようなもの。
壁には、鮮やかな油絵が掛けられている。金色の額縁も仰仰しいくらいに複雑な意匠をしていた。
本棚もある。すべての段にぎっしりと本が詰まっている。分厚い本、大きい本、古めかしい本。いずれも開くには億劫な代物。
ほかにあるものは、机と椅子、それからはめ殺しの窓。
ここまでは、見慣れた部屋。だだっ広いがらんどうに、
いいものをいくつか集めただけの部屋。
進化して少しずつ見えるようになった目にはまだ、この部屋の眩しさは慣れない。
だからなのか、しばらく部屋の端に鎮座している真新しい何かに気がつかなかった。艶やかな漆黒。真っ白な部屋に凛として立つそれは、何に使うものなのかまったく見当がつかない。
「これはね、ピアノって言うの」
僕たちの後ろに立っていた人間の少女は言う。それにゆっくりと近づいていく少女に、僕たちもついていく。
「見て」
少女が椅子に座る。ちょうど、ピアノが正面になるように。
細長い蓋を開ける。僕たちはぎょっとして首を互いに伸ばした。
白い歯がぎっしりと並んでいる。小さな黒い歯もぽつぽつと並んでいる。
「これは鍵盤」
少女はほっそりとした右手の人差し指で、白い歯の一つを押した。
澄んだ音。天上から降ってきたような音。
少女はいろいろな鍵盤を押す。そうすると、高さの異なる、同じ種類の音がいくつも飛びだした。
白い部屋を跳ね回るような虹色の音は、瞬く間に僕たちの心を捉えた。
「お父様とお母様にねだったの。これでお歌の練習をしましょう」
僕たちは同時にうなずいた。
この日を境に少女は僕たちに歌で伴うのをやめた。
代わりに、少女の奏でるピアノの音が、僕たちの歌の友達になった。
◆◇◆◇◆
いつもどおり、静かな朝の空気に導かれて目が覚めた。入り江から澄み渡るせせらぎの音が聞こえる。
洞穴の冷たさのせいで、体はまったく動こうとしないのに、頭は冴えていた。
「――夢を見てた気がする」
独りごちる僕の言葉は、泡沫のように溶けていった。
夢を見たのは随分と久しぶりな気がする。この島の入り江で目覚め、一切の記憶を持たなかった頃、夢は何度も見ていた。
大概、凄惨な夢だった。ひたすら知らない誰かが死ぬ夢。知らない叫び声が木霊する夢。知らない町のいたるところに炎が立ち込めて、ポケモンも人間も逃げ惑うような夢。
だが、もはや細部までは覚えていない。夢とは概してそういうものだ。
今回は、それらとは異なった夢だったと思う。たぶん、哀しみとは縁のない楽しい夢だった。
すでに夢の内容は忘れてしまっているが、それでも呼吸していた生命が次次に消えていくような辛い夢ではなかったことは明らかだ。
あくびをして、目を拭う。
「……あれ?」
腕が濡れた。両目を擦ってみる。
――泣いていたのか。
楽しい夢だったのは思い違いで、本当は悲しい夢だったのかもしれない。
少しだけ盛り上がってた心は萎れ、いつもと変わり映えしない陰鬱な朝になった。ため息をつきながら、洞穴を出る。島の東側の海岸を目指すために、六枚の翼を広げた。
「やあ、来てくれたんだね!」
朝であろうと変わらず調子のいいクロロスは、上空から飛来する僕の姿を見るなり叫んだ。クロロスだけでなく、フロールやアスターもいる。穏やかな海岸に、彼らと僕以外の姿はない。
「昨日の今日だけど、もしかしていい返事をいただけるのかしら?」
言葉とは裏腹に、フロールは期待していないような目で僕を見つめる。
「クロロスさんが突然言い出したことではありますが、私はあなたと歌ってみたいと思っていますよ」
慇懃なアスターもまた、本音か建て前かわからないようなことを言う。
「もちろん承諾してくれるはずさ……そうだよね?」
クロロスが僕に手を伸ばす。確信めいた語調。やはり、気に食わない。僕はクロロスの手を払った。目を一瞬だけ見開いたクロロスに僕は告げる。
「あなたたちは僕の歌を盗み聞いたようだけど、僕はあなたたちの歌を聴いていない。話はそれからだ」
僕は毅然として答えた。クロロスの蒼い瞳に、険のある表情が映っていた。
「――そうだね。もっともなお言葉だ」
クロロスは僕の無礼にも笑顔を崩さない。どこまでも食えない雄だ。
「フロール、アスター、俺たちの歌を彼に聞かせてあげよう」
ふたりはこうなることがわかっていたかのようにうなずいて、僕のほうに向き直る。
並ぶ三匹。ぴりぴりと空気が緊張した。たぶん、彼らは相当なやり手だ。その佇まいだけで、結果は見えているようなものだった。
「アスター、『海の歌』」
クロロスの合図を皮切りに、アスターが美しい音色を奏で始める。
僕は目を瞑った。歌の世界に浸るために。全神経を彼らに預けた。
煮えたぎる海を彷徨い、冷たい海へと投げ出される。力強くの透明感のある歌声が、激動の歴史を歌う。
これは、世代を重ねて今の世に辿り着いた命たちへの賛歌だ。
フロールが奏でる過去への回想は、クロロスの歌声に巻きつくようにだんだんと共鳴し、やがて喜びへと昇華する。
眼裏には鮮やかな景色が残る。歌から思い起こされる情景は花火のように鮮明だ。
百五十秒足らずの永遠は、僕の心にしっかりと刻み込まれた。
それから彼らは曲名を告げずにいくつかの曲を歌った。
小宇宙、恋、孤独、空、雨、諍い。
頓挫した夢の彼方。荒らされた寝ぐら。人間の勝手。
一曲一曲に秘められたさまざまなテーマが、輝かしい音楽となって僕の眼前に弾ける。僕は眠るように微動だにせず、演奏が終わりを告げるまで聴き続けた。
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僕たちはいわゆる双頭で、お互いに異なる意識を持っていた。ジヘッドというのが僕たちの種族名なのだそうだ。
第一タイプがドラゴンで、第二タイプが悪。身長は一・三八メートル、体重は四八・二キログラムと標準的。
ジヘッドは、お互いの頭と絶えず喧嘩を繰り返すのだという。サザンドラに進化するときに、どっちが本体、すなわち中央の頭となるかを本能で争っているのだそうだ。
しかしながら僕たちにはまったく当てはまらない話で、それは人間が作り出した嘘っぱちだと思っていたが、他のジヘッドに会うと大概二つの頭は齧り合ったり罵り合ったりしているので、どうも僕たちのほうが異常らしいということがわかった。
「何から食べる?」
「モモン、パイル」
「次いでヒメリ、ナナシ」
「途中でナナの実を挟んで」
「最後はオボン」
「完璧」
いつも昼ご飯でユズリが出してくれる木の実の盛り合わせをどのような順番で食べるかという課題だが、いつも一発ですんなりと決まる。互いの思考は読まなくてもわかる。
ユズリは、僕たちのマスターであこの町の名家の一人娘だ。僕たちはとても一日では巡りきれないような大きなお屋敷で
、悠悠自適な生活を送っていた。
「デクス、レフ、食べ終わったら、私の部屋に来てね」
白いワンピースに身を包む少女は、広いリビングの向こう側から呼びかけるように僕たちに言うと、慌ただしく出ていった。
「なんだろうね」
「なんだろうね」
ユズリは僕たちの双頭にそれぞれ名前をつけている。右側がデクスで、左側がレフ。
思考も行動も揃っていて、どちらが優れているわけでも劣っているわけでもない僕たちを呼び分ける必要は本来はない。
けれども、僕たちにはそれぞれ名前がある。
木の実を食べ終えて、ユズリの部屋に向かう。前髪のせいでいつも前がよく見えていない。
「鬱陶しいからさ」
「ユズリに頼んで」
「前髪を」
「上げてもらおう」
「素敵な髪留めをもらって」
「お洒落な感じで」
暖かな昼下がり。いつものように、遠くで大砲の音がした。