II
◆◇◆◇◆
夜の海は、昼時や夕暮れの海とは正反対の表情を見せる。
黒黒としていて、この世の何もかもを飲み込んでしまいそうなほどに不気味で粘着質だ。冥界の入り口も案外このようなものなのかもしれない。
――などと無為でどうしようもない考えが巡るのもきっと夜の魔力のせいである。東側の喧騒すらも聞こえない、誰もが寝静まった夜。湛えているのは淋しさだけ。
こんな夜は何を想えばいいのか。馳せる想いも行く先がなければどうにもならない。
ずっと洞窟の中で歌っていても気が滅入るので、外に出てみたところまではよかった。
ワンフレーズだけ歌って、やめた。夜中に歌声を響かせていては迷惑だというのは流石の僕でも理解できる。
そもそも、この時間は僕だって寝ている時間である。
目が冴えて眠れないのは、今日歌った歌がどうにも僕を刺激して止まないからだ。ある時点からの記憶しかもっていない僕は、拠り所を持ちえない事実にときどき襲われては愕然とする日日を送っている。
この世に生まれ落ちたのならば、生まれ育った場所があり、親があり、友達があり、ポケモンならば幾度か進化も経験するだろう。
今の僕にはそのいずれもなかった。気がつけばこの島にいた。この姿が進化した末の姿なのかそうでないのかもわからない。
鬱鬱とした気分をこじらせて海に身を投げたくなるのは、確かな感触が欲しいからだろう。
どんな感触?
――生きているという、明瞭なようで曖昧な、言葉にし難い感覚。
今日の歌の中で、僕の脳裏をかすっていく記憶の断片は、ひたすら僕にもどかしさを募らせるばかりだった。それでも、決定的な気づきはあった。
僕は思うことがあるととにかく歌にしようとする癖がある。たぶん歌が好きで、記憶を失う以前もきっとそうだったはずだ。
ただの推量だが、過去の僕のことがわずかでも知れたことは、大きな前進だった。
この島で、満月は三度見た。さらに三度満月を見る頃には、僕はどれだけ僕のことを知ることができるだろう。
「結局僕には歌しか残ってないな」
どう足掻いても結論は一緒だ。もはや昼も夜も関係ない。
霧を払う手段はたった一つだけ。息を大きく吸い込む。右腕のテルロ、左腕のセレノは準備万端だ。
もう一度、僕のための歌を。
空に僕の声を投げ上げて。テルロとセレノの声は、四方に発散する。
茫漠とした群青色の幕に張りつけられた銀色の月が静かに僕を見下ろしている。煌めく星たちひとつひとつが僕の歌に耳を傾ける。
誰も僕の歌を聴き逃さないように、丁寧に旋律を奏でる。
この場所は僕と夜空だけの舞台で、どんなことでも成し遂げられそうな気がした。
夜空と同じ色の翼を広げ、首を天へと伸ばす。精一杯の声を張り、クライマックスでセレノは主旋律から三度上、テルロは三度下の音を奏でた。
哀歌。この曲は意図せず哀しみに溢れるものとなった。けれども、僕はこの哀しみの源泉はどこから湧き出てくるのかを知らない。
過去がわからないことも、未来に不安を抱いていることも、もちろん悲しいことなのだけれど。
それ以上に、このいかんともし難い物悲しさ、決して拭い去ってはいけないようなものとどうやって向き合えばいいか。解などどこにもない。
気がつけば涙を流していた。
「誰……?」
涙により歌への集中力を断たれたのと同時に、今までまったく気づいていなかった何者かの気配を察する。
あたりを見渡す。入り江には誰もいない。砂浜のほうは。
波打ち際に、小さくはない影があった。それも一匹ではない。
後ずさる。恐怖が背中をせり上がる。影は明らかにこちらを見据えている。
僕は逃げるように入り江の奥の洞窟へと隠れた。
「待って!」
追ってくる。どうしよう。しかし洞窟は大した深さもないただの穴に毛が生えたようなかわいいもので、身を隠しきるにはあまりにも簡素だ。
迎え撃ったほうが賢明かもしれないが、多数相手に何ができるというのだろう。自分自身の戦闘力だって未知数だ。
「あ、悪の波動!」
僕に撃てそうな技と言ったらこれくらいしか思い浮かばなかった。
「きゃっ!」
「うおっ!」
洞窟内に木霊する悲鳴。弾は逸れてしまった。きっと反撃が飛んでくると踏んで身構える。しかし返ってきたのは攻撃ではなかった。
「待って! 私たちは敵じゃないの!」
低くも穏やかなトーンの雌の声。
「素敵な歌声を偶然耳にして、島の反対側から来たんだ!」
明朗快活な雄の声。大袈裟に動くシルエットが
喧しい。
「驚きました。サザンドラ……ですか? 歌を歌うサザンドラなんて」
驚愕か、困惑か。雌ポケモンの背中に乗っている性別不明のポケモンは、丁寧な口調だった。
僕はといえば、ただ狼狽えるばかりだった。目の前にいるポケモンたちは、なぜここにいる? 僕の歌をうるさく思って、文句を言いに来たのだろうか。
洞窟に入り込むせせらぎの音だけが、静寂な空間を支配していた。
「俺はクロロス。お会いできて光栄だよ」
そう言って、雌と見紛う容貌のアシレーヌは僕に手を差し出す。気乗りしないが僕も一応腕を差し出した。
「私はフロール。いきなりお邪魔して本当にごめんなさい」
頭を下げたラプラスは、クロロスと名乗ったアシレーヌとは正反対だ。ぐいぐい来る彼とは違って礼儀正しく控えめで、ほんの少しだけ好感を持てた。
「ボクはアスターです。脅かしてしまって申し訳ありません。クロロスさんに代わってお詫び申し上げます」
フロール以上に慇懃だが、かえって白白しい。不気味な瞳は、こちらの心の内を見透かしているように思える。
「俺たちは合唱団を結成して、月に何回かコンサートをやってるんだ。今日も東の海岸でコンサートをやってたら、遠くから素晴らしい歌声が聞こえたから、いてもたってもいられなくなって、誰が歌ってるのか確かめに来たんだよ。君だよね? 歌ってたのは」
矢継ぎ早に浴びせかけられる言葉に耳を塞ぎたくなる。やかましいアシレーヌだ。
「――そうだけど」
憮然と、ぶっきらぼうに答えた。僕はあなたを受け入れていない、というささやかな意思表示だったが、どうもこのアシレーヌには伝わらないらしい。
「やっぱり! ねえ、もう一度歌ってくれないかな? 俺、君の歌が聴きたいんだ!」
「クロロス、いきなりは迷惑よ。こちらのサザンドラさん――も困ってるでしょ? ええと、お名前を伺ってもよろしいかしら?」
アシレーヌを窘めてくれたのはありがたいが、僕はラプラスの質問に窮する。
「名前――。ごめん、僕、自分の名前は知らないんだ。あったのかどうかもわからない」
「えっ」
「でもこの子たちにはあるよ。右腕がテルロで、左腕がセレノ。両方とも僕が名づけた」
気まずい沈黙が流れる。僕が妙なことを口走って、戸惑っているというところだろう。
煩わしいので手短に済ませよう。
「記憶がないんだ。この島に何でいるのかもわからないし、生まれ育ったところも覚えていない。今までどうやって生きてきたのかもまるで思い出せない」
僕は淡淡と、自分に関する乏しい情報を述べた。彼らに心を許したわけではないが、面倒な詮索を受ける前に話してしまったほうが楽だと思ったのだ。
「――いつからここにいるんですか?」
コロトックの当たり障りのない、もっともな質問。
「だいたい三か月くらい前からかな」
三匹が顔を見合わせる。何か思い当たる節があるのか、ラプラスは口を開きかけるが、アシレーヌが露骨に制止した。
「君が記憶喪失なのは確かかもしれないけど、もう一つだけ確かなことがあるよ」
こちらに眩しい笑顔で話しかけてくるアシレーヌに、僕は驚き呆れ果てる。暗い夜なのに、彼のまわりだけ朝陽が昇ってきたかのように明るい。眩暈を誘発させるような幻視だ。
「君は、歌うことが好きだ。俺たちと同じくらいか、それ以上にね」
このアシレーヌの、確信と自信に満ちた口元がどうにも気に入らない。だが、彼の言ったことは同意しない理由もない。
「歌うことは好きだよ。――僕には歌しかない」
「俺たちも同じ。いろいろあって、たくさんのものを失くしてきて――でも音楽だけは残ってる」
アシレーヌは過去を追憶するように、胸に手を当てた。
「よかったら、俺たちと一緒に歌ってみないか?」
気障な部分は本当に気に食わない。一言で拒否することは容易いはずだった。
だがどうしたことか、言葉は喉でつっかえて、考え込んでしまう自分がいた。
返事はいつでも待ってるから、と背を向けたアシレーヌに、ラプラスとコロトックも続いていく。
静寂を取り戻した洞穴の奥で、僕は独りため息をついた。
クロロスと名乗ったアシレーヌの背中にあった、斜めに切り裂かれたような傷痕。それは何を物語ろうとしていたのだろうか。
僕は大切な何かを忘却している。自分の名前や、親の顔や、生まれ育った場所ではない、もっと大切な何かを。