I
僕は夢を見ている。昏い海の上を、ひたすらまっすぐに飛んでいる。
急き立てられるように、翼を全力ではばたかせ、まだ見ぬ安息の地を求めている。
月明かりは一層蒼白くなって、海の群青に銀色の光を差し入れた。
やがて、小さな島が見えた。僕の焦りは瞬く間に消えた。
僕はゆっくりと降り立つと、そこにどっしりと根を下ろした。
親愛なる僕への鎮魂歌
◆◇◆◇◆
人間の立ち入らない島があった。
周辺の海は穏やかで、人間の栄えている大陸からそう遠く離れているわけでもない。
島に棲んでいるポケモンが凶暴だとか、魅力的な資源がないから開発する意味がないとか、鬱蒼としていて普通の人間なら気味悪がって近づかないとか、おそらく一方的な理由で、島は人間たちの意識下から外れていた。
もしかすると、ときどき島に興味を持った奇特な人間がやって来たことはあるもかしれない。しかし、そのような事実があったとして、この島に棲まう誰が来訪者を気にするだろうか。
藍色の水が絶えず流れ込んでは引いていく入り江の奥に洞窟が密やかにあった。紺ねず色の仄暗い壁天井は剥きだしの鋭さで、来る者を拒む冷たさを湛えていた。
もっとも、入り江のある島の西側に好きこのんで来る者は滅多にいない。木の実が豊富で肥沃な島の東側と比べて、西側はほとんどが無機質な岩肌で覆われている。
だから、島の西側はとても静かで、入り江の洞窟はなおのこと静謐を保持していた。
透き通るような冷えた空気。通りすがりの西陽は、洞窟の入り口に乱雑に配置された岩に遮られていた。
今日は何を歌おう。
海の荘厳。
西の静穏。
東の喧騒。
陽の眩しさ。
月の淋しさ。
「――決めた」
久しぶりに、僕について歌おう。本体に加えて両腕にも頭のある、奇怪な三つ首をもつ僕が、なぜこの島にいるのか。同じ種族どころか、同じタマゴグループと思しきポケモンすら見かけないこの島で、僕が脈絡なく存在している理由を探すための歌。
記録などなく、記憶すらもない。この姿が進化前なのか、それとも最終進化を迎えた末の姿なのかもわからない。
わかっていることは、確かに僕はここで存在して生きているということと、歌を歌うことがとても好きだということ。
両腕の頭も同じだ。返事もしなければ呼吸もしない、唯一食事の時だけ勝手に動くような彼らだが、歌がとても上手だ。単なる四肢である以上、本来は
本体に従属しているだけの存在であるはずだが、僕が歌を歌うといつも僕に合わせて綺麗なハーモニーを奏でてくれる。
「いくよ、テルロ、セレノ」
テルロは安定感のある低音で歌全体を支える右腕の頭。
セレノは伸びやかな高音で僕の声に寄りそう左腕の頭。
肺の空気を全部吐き出して、目いっぱいの静寂を吸い込んだ。
「――!!」
洞窟を乱反射する三つの声。重なり、織り合った音は、洞窟を這い出て、入り江に反響した。
紫色の灯火。灰の乱舞。幾重の金切り声。モノクロームを踊る指。
あまりにも一瞬の、切り取られたフラッシュ。掴みかけたスクリーンは、粉々に砕け散った。
「嗚呼!」
知らない過去と見えない未来を不安の中に一緒くたに押し込めた歌は、陽の降りた水色の空に溶解した。
――僕は誰に歌っているのだろう。
▼▽▼▽▼
「ほら、もうみんな待ってるわよ。あなたが何時間も髪の手入れに時間をかけるから」
「容姿にも気を遣ってこその唄い手。自分の歌声に身なりが負けるような唄い手にはなりたくない。フロールは髪がないからわからないかもしれないけど」
私のことをフロールと呼んだ彼の名前はクロロスというアシレーヌだ。
種族柄、容貌は美しい雌のそれだが、れっきとした雄である。
だがクロロスは同族の雌よりもずっと雌らしい。常に海色の長い頭髪のはりや艶を気にするところはもちろん、その髪を束ねる真珠は常にぴかぴかに磨き上げられており、頭の星形の飾りも常に位置がずれていないかを気にしている。
自分の容貌を気にかけすぎて他のことががさつになっているのはいただけないが、誰よりも美しいと自負している彼自身の歌声には絶対に容姿も釣り合わせなければならない、という彼なりの信念――いや、むしろ執念ともいうべきものだが――に基づいた行動原理はそう簡単に変えられないだろう。
時間に遅れるのも今日が初めてではない。
「フロールも俺を見習って背中の甲羅磨いたら? お世辞にも綺麗とは言い難いし」
「自分で洗えたら苦労しないわよ」
ラプラスである私に、自分の甲羅を洗うなんて器用な芸当ができるはずもない。自分の欠けた甲羅を見てみると――確かにうっすらと色がくすんでいるような気もする。
「じゃあ今度俺が洗ってあげるよ。やっぱり相方には綺麗でいてほしいし」
「……っ」
この雄、天然でないのかそうでないのか、いまいち掴みにくい。たぶん屈託のない笑顔で言うあたり、とんでもないことをのたまっている自覚はないのだろう。私が気にしすぎているだけなのかもしれないが。
うねるような海岸沿いを渡った先。月明かりに青白く照らされた砂浜には、十数匹のポケモンが集まっているのが見えた。
穏やかな潮騒と、がやがやとした小さな喧騒。私が大好きな、静かなこの島の情景の一つ。
「アスターはもう来てるのかな?」
砂浜に着くと、雑然としたポケモンの影の中に、クロロスがアスターと呼んだポケモンが見えた。
アスターは波打ち際まで走り寄って、やあ、と挨拶した。
どこにでもいるような、ありふれた容姿のコロトック。もっとも、一つだけ尋常ならざる点をこのコロトックはもっているが、見た目にはわからない。
「やあ。七日ぶりですね、おふたりとも」
「珍しく顔を見せなかったわね。いったいどうしてたの?」
「風邪で倒れてたんですよ。昨日ようやく完治させたところです」
おずおずと申し訳なさそうするアスターは、刀のような両腕をしきりにこすり合わせていた。
「音は出せそう?」
「心配ご無用です。風邪ぐらいでなまくらにはならないですから」
クロロスとは対照的にいつも自信なさげにしているアスターが、唯一生き生きとするのが今日である。
クロロスはというと、少し離れたところで目を閉じて瞑想をし始めた。本番まで一切の雑音を遮断するつもりなのだろう。
「今日は何を歌うんですか?」
「そうね、クロロスと話したけど、三曲やろうかなって。海の歌、月と星の
協奏曲、それから、一曲新しいのがあるの。ちょっと恥ずかしいけど……」
「ああ、クロロスさんとフロールさんが一緒に作ったっていう。けど珍しいですよね。彼、前に出たがりなのに、フロールさんのソロパートが半分以上を占めるような曲を作るなんて」
アスターのわずかに困惑を含んだ、それでいて嬉しそうな表情。
そういえば、ずっと前にアスターも言っていた気がする。私の歌を聴きたいと。
つまるところ、クロロス、アスター、私からなる小さな合唱団は、クロロスがリーダーであり顔である。
もっとも、彼が私とアスターに丸め込んで結成した合唱団であるし、実力も華やかさもやはり彼が一番であるところは誰しもが認めることだった。
そんなクロロスが、わざわざ自らをバックコーラスに下げてまで曲を作った意味。
「ボクもたくさん練習してきましたよ。フロールさんが気持ちよく歌えるにはどう演奏したらいいのか、四六時中考えてました」
コロトックの鳴き声はまるで弦楽器のようで、同族間のコミュニケーションもその特異な鳴き声で行うらしいが、アスターのそれは普通のコロトックとは一味違う。
少なくとも私の知る限りでは、三種類のまったく音質の異なる鳴き声を自在に
演奏できる。
まだ別の鳴き声も隠し持っているようだが、いまだに披露しないつもりらしい。彼の実力もまたクロロスと同様に計り知れない。
「そろそろ、準備しましょうか。クロロスもいいみたいだし」
クロロスはいつのまにかそばに立っていた。孔雀石とオパールを混ぜたような深い色の瞳は、私とアスターを鋭く見据えている。
「いこうか」
まるで別のポケモンのようにがらりと雰囲気が変わる。聴衆に正対するクロロスの後ろで、私はアスターに耳打ちする。
「どっちが本当のクロロスなんだろうね」
「僕はたぶん、こっちのクロロスさんが本当なんだと思ってます」
静まり返る喧騒。潮騒も心なしか穏やかになった。
アスターが静かに音を奏で始める。それは、
竪琴の音色に似ていた。
深海からぽつぽつと浮かんでくる微細な泡沫。生命の誕生の示唆。
クロロスが透き通った声をハープの音色に乗せる。
ソリストポケモンたるゆえんを、この声を聴くたびに思い知らされる。
渦巻く海。轟く雷鳴。原始の、熱を帯びた昏い海は、いつしか明度を上げ、冷却する。
そして私もクロロスに伴奏する。
成長した海は、さまざまな命を生み出す。そしてこの島の命に繋がった尊い潮流への歓呼。
二つの声とハープの音が、一つになって発散する。
花火のような弾ける音色は、クライマックスとして海に飛び込んでいった。
たった百五十秒で歴史を振り返る音楽は、大喝采の中で終了し、続く二曲目へと移る。
今度はアスターの
洋琴で始まった。星の淡い煌めきをイメージした、か細く高い音の連続。
そこにクロロスの包み込むような声が加わる。濃紺の空が、今にも消えてしまいそうな星星を溶けてしまわないように支えている。
この曲はアスターがメインパートを担っているのだが、やはりクロロスの存在感が際立つ。
アスターは難しい演奏になると力が入ってしまい、ともすれば意思に反して音色に重厚さを滲ませてしまうことがあるが、クロロスがその力強さを完全に吸い取って、アスターの演奏に軽やかさだけを残す。
この曲ではときどき合いの手を入れるように歌うだけの私だが、もしクロロスのパートを私が担当したとしても、絶対にこんなことはできないだろう。
クロロスの感覚は恐ろしいほどに繊細だ。天才という言葉は彼のためにあるのだと思う。
次の曲のことを思うと胃が痛くなってくる。クロロスの歌を聴き慣れた聴衆が私の歌で満足できるのだろうか。
「大丈夫だよ。最初とは比べものにならないくらい、フロールの実力は伸びているから」
二曲目が終わって拍手が鳴りやまぬうちに、クロロスは言った。
お辞儀をして私に振り向いたその瞬間だった。心の内側は完全に見透かされているようだ。
「曲だって、フロールが気持ちよく歌えるように一緒に考え抜いて作ったじゃないか」
アスターに似たようなことを言う。気持ちを落ち着けつつ、なんとか期待に応えなければと深呼吸する。
二曲目の余韻に浸っている聴衆たちにクロロスが眼光で合図を送ると、一瞬で砂浜は静謐を取り戻した。ヴァイオリンのような音を弾いて、調子を確かめるアスターも、私にうなずく。
「最後の曲――群青色の追憶」
そういえば、曲名は初めて聞いた。タイトルは確かにしっくりきている。クロロスと私のイメージは寸分違わぬようで、少しだけ嬉しくなった。
大切なのは、クロロスと一緒に作った曲の世界に没入すること。アスターの伴奏に身体を委ね、波の上を揺蕩うようにリラックスして声を出すこと。
やがてふわりとした音を導き出したアスター。直線的に過去を辿ってゆく。
目指すは、クロロスやアスターと初めて出会ったあの日。瑞瑞しく、痛痛しい記憶でもある。
伸びやかに、厳かに。暗い出来事を連想させる低音。逃げ惑う途中で出会ったクロロスもアスターもひどく傷ついていた。
わずかな希望だけをたよりに、逃れるように海へ出る。
赫赫と焦げた輝きを放つ街を背に泳ぐ藍色の冷たい海は、三匹を平穏へといざなう。
私の背中に乗っているアスターが、音を奏でた。悲しげな音色。ヴァイオリンの音を模したそれは、散りゆく街を想うノスタルジックな哀歌。
まだ生き延びられるとも限らないときに、音楽など奏でている場合ではなかったのかもしれない。それでも、寄る辺なき三匹にはたとえでたらめでも
羅針盤が必要だったのだ。
いつしか街は灰塵に帰し、勝手に仮初めの平和を取り戻すだろうが、私たちは、自分の手で望む平和を手に入れなければいけない。
願いを歌に乗せて、空へと解き放つ。
三匹の音色に呼応するがごとく――どこからか不思議な音が島中に反響した。
余韻を楽しみ終わった聴衆もようやく散り散りになって、やがて砂浜だけに三匹が取り残された頃、クロロスが口を開いた。
「最後のは……何だったんだ?」
無論、今日のコンサート自体は大成功に終わった。私も最後まで歌いきれた。出来は申し分ない。
「まるで四匹目がいたような」
アスターも怪訝そうな表情で黒い髭を撫ぜる。
「たぶん、向こうから聞こえた……気がする」
私が顎で指すのは、鬱蒼とした森を越えてさらに向こう、西の海岸。
幻聴というには、あまりにもはっきりとしていて麗しい音だった。
「でも、いったい誰が向こうにいるっていうんだ?」
この島は、東側は大地も肥沃で木の実が豊富に取れるが、西側はまるで異なり、無機質な岩石とときどき思い出したように生えている樹木だけで成り立っている。
だから島の少ないポケモンたちはよほどのことがなければ西側には近づかないのだ。
「行ってみるか」
「こんな時間に?」
海へ出ようとするクロロスを制止する。迂回して海から西側に回るつもりなのだ。
「気になるよ。朝まで待っていられない」
「夜更けに動き回るのがよくないのはわかるでしょう? どうしてもっていうならひとりで行って」
「フロール、君なら……」
クロロスは私の眼前に身を乗り出し、キラキラした宝石のような目で見つめてくる。
「君ならわかるだろう? 俺がどれだけ興奮しているか。あれは……歌だよ。誰かが歌ってるんだ。そして俺たちの歌と重なった。美しかった……」
蕩けたような表情でコンサートの最後に響いた音色に思いを馳せるクロロスを、もう私が止めることはできない。
「アスターも! 気にならないかい?」
「えっ……ま、まあ……」
傍観を決め込んでいた――というより、夜中に出歩くのをおそらく怖がっているのだろうアスターは、歯切れの悪い返事をした。ただ、明らかに気になっている様子ではある。
「一緒に行こうよ!」
まったく、このアシレーヌはどこまで自分本位なのだ。などと心の中で毒づくが、本当は気づいている。真に自分本位だったら、私が主旋律を務める曲など作らないだろう。
ひたすら音楽に対して愚直で真摯なだけなのだ。
結局、いつものように私とアスターが折れ、クロロスに同伴することになった。流石にクロロスひとりで行かせて、何かあっては怖い。
「ふたりともありがとう!」
キラキラを振り撒きながら、クロロスは屈託ない笑顔を見せる。雄なのが残念でならない。