白色緋裂の望逝体 三
死にたいと思ったことは数あれど、死んだあとはどうなるかなんて考えたこともなかった。
肉体は土の上で朽ち果てるか、毒蛇が喰らって骨だけになるか、いずれにせよ自然の法則に則って、何らの不思議もなく消える。
精神は、たぶんその過程で霧消していくのだろうと思っていた。もしくは、意識が途絶えた瞬間に、ぷつりと消滅するのかもしれない。
つまるところ、死というのは肉体が致命的な損傷を受けるか、生きるのに耐えうるだけの力をもたなくなったとき、自我が完全に消失して己が生きていた世界を認識できなくなることだと、ボクは考える。
――こんなごちゃごちゃとした定義づけなんて、本来する予定などなかった。なぜならボクは死んでるし、肉体もない。物を考える脳みそだって持っていない。
一度死を自らの力で定義しないと、ボクが今置かれている世界を理解する土台が作れないのだ。
「本当に死んでるんだよね、ボク」
言葉にして、即座に矛盾に気がつく。死んでいたら口もきけないし、そもそも思考もできない。
死んだらそれで終わり。腹立たしい現実も、悲しい感情も、首の痛みも、――一瞬だけ味わった『楽しい』も、すべて終わり。
そう思っていたのはすべて間違いだったということになる。
今、ボクは
冥いところをふらふらとしている。森に訪れた霧の深い夜に、月明かりの欠片をごく微量混ぜ合わせたような闇に、ボクは溶けていた。
ときどき、ボクを取り巻く空間に、波紋が生じては消えてゆく。幾度となく生成と消滅を繰り返すそれらは、まるでボクを呼んでいるようだった。
しかし触ろうとすると、ボクの手を一瞬吸い込みかけ、小さく破裂して、何事もなかったかのように消えた。手にはびりびりとした感覚だけが残った。
「今のは……」
確かに感じたかすかな温もりは、つい最近触れていたような気さえするが、二度と触れたいとは思えない、奇妙なものだった。
それは、波紋の向こうには絶望が待っているという、無意識の直感にほかならない。
無数の不気味な波紋たちから逃げたくて、ボクは腕と脚で空間を掻いた。虐められて川に突き落とされたとき、岸へ辿り着こうと必死に泳いだ記憶が鮮烈に蘇る。
上も下も右も左もすべてが冥く、慣れ親しんだ重力さえないこの場所では、あのときと違い、自らが前に進めているのかを確かめるすべはない。
ボクは死んだはずなのに、なぜこんなことをしているのだろう。
生きていたときほどではないにしろ、死んだ今もたとえ難い苦しみに溺れている。
切望していた死は、期待していたものとはまったく異なり、ボクをひどく落胆させた。
しかしながら――群れからの干渉に気を使わなくていいだけ、やはり楽に感じているのも確かだ。
逝く直前まで共にしていた訳のわからない幻影に一喜一憂することもなく、余計なものは何一つとして背負ってはいない。
ともかく、疲れるまで泳ぎ切ることだ。考えるのはそれからでいい。
そう思考を整理した矢先だった。
無音の冥い世界に、風が吹き抜ける。ごう、とボクの耳を揺らしたのは、目の前をとんでもない速度で横切った何かだ。
息を止める。あの、死ぬ間際のスロウモーションが脳裏に蘇った。
なぜそれを思い出したのか、再びその何かがボクのそばを横切ったときに理解した。
忌まわしき毒蛇に似た細長い体型は、その光景をフラッシュバックさせるには充分な因子だった。
「逃げないと……!」
逃げてどうする。もう死んでいるのに何を恐れているのか。
自問するも、この場から立ち去らないと破滅へとまっしぐらに突き進むんでしまうような気がしてならない。
だが、一瞬の躊躇いの間に、何かは音もなく、ボクの眼前で停止した。
宙空に浮かぶそれは、まさしくこの世の――いや、あちらの世界の者ではなかった。
「あ……」
声が出かかって、立ち消えた。
毒蛇の牙が喉に突き刺さったとき、ボクの中には驚きと、次いで恐怖が湧き出していた。
だが、その衝撃を受け入れようとしている自分も確かにいた。ボクは今殺されている途中であり、死にへ向かっているのだと。
しかし、目の前にいる何かに対する感情は、驚きとか恐怖とか、いくつかの単純な言葉で表現できるほど簡単なものではなかった。
真っ黒な空間に、ボクと向かい合って鎮座しているそれについての感想も同様だ。異次元的、非現実的、超常的――まだ、足りていない。
形容するに相応しい言葉を探し出すのは、まず不可能に思えた。多数の形容詞を幾重にも重ねるほど実態から遠ざかる気がしたし、ボクのいた世界にそれを形容する適切な言葉など端から存在していないだろう。
それでも、このような諦めを前提とした上で、あえて一言で表現しようとするなら――禍禍しい、だ。
背中と思しき部分から生えている、赤い棘をもつ翅やら、胸から腹にかけての赤と黒の縞模様やら、体の側面に並んでいるいくつもの大きな棘やら、もはや相手を威圧し蹂躙する凶悪さのみを纏っているとしか思えない。
何よりも顔と首の周辺を覆う黄金の外骨格(とでも言うべきか?)の仰仰しさたるや、さしずめこの冥い世界に君臨する王であることを誇示しているといったところか。
赤い双眸が動く。ボクは、それでようやく禍禍しい何かが生き物らしいということを完全に理解した。
彼は――彼女かもしれないが――ボクをどうしようというのだろう。
高鳴る鼓動だけがボクの体を支配する。
「やあ」
黄金の外骨格がおもむろに開き、彼は挨拶と思われる言葉を口にした。
予想外にトーンの高い声だった。外見との不一致が甚だしい。
「生前の形を保ったままこっちに来るなんて、珍しいこともあるんだね」
彼が何を言ってるのか、いまいち理解しきれないが、『生前』と口にしたということはやはり――。
「あ、あの」
「僕はラヴィアロウ。ラヴィアロウ=ギラティナ。この冥界を統べる王……に最近なったばかりで、威厳とか荘厳さとか全然ないつもりだけど、よろしく」
ラヴィアロウは、なぜか胸を張っておかしな自己紹介をした。
拍子抜け、とはまさにこのことだ。ボクの抱いていた心象は何から何までひっくり返された。
ラヴィアロウの自己分析能力の低さには、ある種の感動さえ覚える。
声のトーンさえ抑えれば、世界を破壊して回るのが趣味ですと言われても驚かないほど凶悪な外見をしているというのに、本人にその自覚はないらしい。
「ぼ、ボクはアルモ。見ての通り、ザングース……です」
「そんなに萎縮しないで。僕はあっちの世界のポケモンと何も変わらないから。君と同じで、ね。仲良くしよう」
そう言ってラヴィアロウは、六つに分かれた黒い翅のうちの一本を、僕の手の方に差し出してきた。
「僕は手がないからね、握手の代わりに」
翅の先の赤い棘を握る。温度のないこの世界に似合わない、生きる者の温もりを感じた。
「よ、よろしく、ラヴィアロウ」
「ラヴィでいいよ。僕の名前、長いからね」
緊張の対面が嘘のように、ボクとラヴィアロウは長長と話し込み、色色なことを聞き、そして訊かれた。
冥界と呼ばれるこの世界のこと。
ボクの生きていたあちらの世界との関係のこと。
ラヴィアロウ自身は何をしているのかということ。
輪廻のこと。
ボクが生きていたときのこと。
死んだ瞬間のこと。
話せば話すほど、ラヴィアロウが俗世のポケモンとほとんど変わらないと思った。
ラヴィアロウ自身、この世界のことにはまだ明るくないらしく、イグザというヨノワールから日日この世界の理を学んでいるのだという。
いったい、どれほど雑話に明け暮れたかわからない。この世界には時間というものがあちらの世界とは異なるらしく、いくら話しても十秒とも経っていない気がしたし、十年以上経った気もした。
ラヴィアロウは、ボクと同じで仔供であるらしかった。少し前に先代の王であったラヴィアロウの父が亡くなり(こちらの言葉では『還る』というのが正しい)、幼くしてラヴィアロウが王となった。
そして、王としての初仕事は、ボクについてなのだという。
「声が聞こえたんだ。死にたい、っていうのと、還りたい、っていうのが」
訥訥と語り始めたラヴィアロウの大きな眼は、少しだけ困惑しているようだった。
「アルモ、君は死にたいと願ったことはある?」
「……まあ、何度か」
「なら、死にたいっていうのは君の声だったっていうことになる。君に目星はつけていたけど、おそらく間違ってないと思う」
言葉とは裏腹に、ラヴィアロウの瞳はますます困惑の色を深めた。
「……何か変なところ、ある? ボクはこっちの世界に来れて清清しているんだけれどね。自分が死んでよかったって心から思ってる」
ラヴィアロウの顔を見上げるが、どこか釈然としない様子だった。
「僕が呼ばれた理由がわからないんだ。さっきも話したけど、僕の仕事は輪廻の流れが滞ったり、逆流したり、早く流れ過ぎたりしないように調整することなんだ。でも、アルモは死にたいと願い、望み通り死に、特に問題を起こすこともなくこちらの世界に来た。剥き出しの魂じゃなくて、生きていたときと同じ、ザングースの形をしているのは気になるところだけどね」
なるほど、確かに奇妙だと思った。しかしながらボクとしてはそれ以前に、ボクの心の声らしきものがラヴィアロウに届いたということ自体がなかなか不思議な話であると感じた。
この世界とラヴィアロウにはボクの中の常識は通用しないのだろう。それはこの世界の理不尽なまでの冥さからもうかがえる。
そして、ボクがラヴィアロウの仕事を邪魔する結果とならなかったか、いささかの不安に駆られた。
逝くのに何らの支障もなかったのにもかかわらず、ラヴィアロウの手を煩わせてしまった。手はないけれど。
「それに、還りたいという願いの方も気になるんだ。君のそばにいた蒼いザングースのことなんだけどね……」
急に寒気が背筋を走り抜けた。
「いないよ、そんな奴」
「え? でも、君が死ぬ直前まで……」
「いないってば! あんなのただの幻影なんだから!」
ボクはふわりと浮かび上がって、ラヴィアロウから離れた。
ラヴィアロウは追ってこない。ただ、離れるボクをじっと見つめていた。
「なんでラヴィがギランのこと……」
気づけば、涙が溢れていた。この世界には重力はないのに、涙だけは頬を伝って下に流れ落ちた。
ボクは突然どうしてしまったのだろう。眩暈がして、動悸が激しくなる。
ギランの存在を示されただけで、言いようのない不安が押し寄せてくるのだ。
たぶん、ラヴィアロウは驚いただろう。ボク自身も自分の出した声に驚いているくらいだ。
だが、親身に接してくれたラヴィのことは何も考えられなかった。
その代わりと言わんばかりに、
眼裏にはギランとのわずかな思い出が次次と浮かび、そして消える。
目覚めとともに声をかけてくれたときのこと。木の実を飽きるほど食べさせてくれたときのこと。手を引かれてねぐらへ向かっていたときのこと。
ボクはギランのせいで呆気ない最期を迎えたというのに、どうしてこんなにも楽しい思い出ばかりとめどなく溢れてくるのか。
所詮、幻影なのだ。寂しいボクの創りだした、ちっぽけな幻影。
どれだけそう思い込もうと、愛しさだけが零れ落ちて、ギランに酷い言葉を投げつけた終わりの時への罪悪感は、掻き消すことができなかった。
「ギラン……」
また、君に会うことができるだろうか。死してなお、君に会うすべはあるだろうか。
『アルモ……!』
あの、自信に満ち溢れた、頼もしい声が、ボクの体の隅から隅へと響き渡る。
次いで、大きな波紋が温もりを伴って出現する。
それは、まるでボクを待ち焦がれていたようであったし、待ちくたびれていたようでもあった。
「いるんだね……! この先に!」
薄薄感づいてはいたが、この波紋の先には、生けるものすべてがひしめき合うあの世界がある。
戻れるわけはないと思っていたし、再び戻りたいとは露とも思わない。
ただ、ギランのために。
思い込みかもしれない。確証などないに等しい。信じるのは己の確信だけだ。
「ギラン!」
黒い粘り気のある波紋をくぐると、ボクは真っ逆さまに重力へと引かれていった。