白色緋裂の望逝体 二
粘り気のある黒い水鏡をくぐったときに、ふと思うことがあった。
この先の世界のどこかに、生まれ変わった姿で生活している父がいるのだ、と。
冥界にいたときの記憶など当然消えているだろうから、僕が探すことも、ましてや父が僕を探すことも不可能だが、それでも妙な感慨があった。
一体どんな姿に生まれ変わっているのだろう。ゴローン? ケンホロウ? はたまたルカリオかもしれない。
確か、僕がもっと小さいときに、父に生まれ変わりについての話をされた。そのとき僕は「父さんは生まれ変わったら何になりたいの?」と尋ねたはずだ。
父は何と答えただろう。話の流れの中で何の気なしに訊いたものだから、記憶の片隅にすら留まっていない。
でも、生まれ変わるのなら、キャタピーやケムッソのような小さな虫ポケモンにはなって欲しくないと願う。
気の遠くなるような時間を過ごした冥界をやっと抜け出たのに、生態系の最下層にいるような短い命に生まれ変わるのはなんだかもったいない気がするのだ。
罷り間違っても、鳥ポケモンに啄まれて食べられるなんてことはあってはならない。そんな姿は想像もしたくない。
どうせなら大型の長い寿命をもつポケモンとなって、向こうの世界を充分に生きてほしいのだ。
「よいしょっと」
尻尾の先まで、鏡を通り抜ける。
水鏡越しでしか見たことのなかった世界は、予期しない引力を有していた。
「う、うわ!」
急速に落下していく体を、翼を不器用に動かして制御し、なんとか宙空に留まった。
「これが、重力……」
冥界には、漂う巨大な浮遊物がそれ自身の重さから生じる引力をもち、その気になればそこに立つこともできるが、こちらの世界の場合は違うとイグザはいつか言っていた。
なにしろ、星そのものが強大な引力をもって、空に浮かぶものをすべて地上に落としてしまうらしい。
だから冥界にいるときのようにずっと飛んでいることはできず、地上で翼を休めることも必要だと。
正直なところ、水鏡をくぐるまでそのことをすっかり忘れてしまっていた。
そして――僕の姿が変化することも。
「なんか……変な感じ」
足が生えた。しかも、六本。四本で充分だと思うのは、この体の重さを自覚していないせいかもしれない。
翼も、わざわざ動かさないと飛べないのは実に不都合だ。
冷たい雲の中を突き抜け、空の中を下降する。
「こっちの世界はなんでこんなに明るいんだろ。みんな眩しくないのかな?」
無機質な冥界に比べて、こちらの世界は彩色も派手だし明度は極端に高い。青い空、緑の木。そして、人間の作った街というものは刺激的な色が昼夜問わず明滅する。
父が水鏡をくぐる際に生じる歪みから密かにのぞいたあの景色は、今確かに僕の体を取り巻いていた。
黒い水鏡が僕を呼ぶ声と同時に発生したからには、当然その声の主たちがいる場所へと誘導されているはずだと考えるべきだが、果たして一向に声の主たちが見つかる気配はない。
行くあても定めないまま空を彷徨うのは不必要に目立つだけなので、とりあえず人間がいないであろう森の中に降り立った。
けれども、声の痕跡が一切残されていない状況で、何をどうすればいいのかはまるでわかっていない。
輪廻の歪みや乱れを整えるという大層なことをしようとしているのは理解しているが、それをどうやればいいかなんて、イグザはおろか父にでさえきちんと教わった記憶はない。
イグザは種族柄仕方がなかった。輪廻の仕組みは、頭がまともならどんなポケモンにだって理解できるとイグザは言っていた。遠回しに僕を貶していた気がしないでもないが、ともかくそういうものなのだと。
しかし、理論と実践は別物で、いくらイグザがこの世とあの世を繋ぐ理を理解していようと、輪廻を弄れるわけではない。
それはギラティナである僕と、かつてギラティナであった父のみができることであり、ヨノワールであるイグザには不可能なのだ。
問題は父のほうで、僕が輪廻の乱れはどうやって直すのかと問うても「そのうち教える」としか言わなかった。
そしてそのまま輪廻転生に飲み込まれてしまったのだから世話がない。
父はイグザと同様に頭は良かったと思うが、自分の転生時期だけは把握しきれていなかったのかもしれない。
「輪廻する魂の通り道にはよくゴミが浮いているのだ。たまに、魂がそのゴミに引っかかってしまって動けないでいることがある。還りたがっている魂がいたら押し出してやり、こっちの世界に飛び込みたがっている魂がいたら引っ張ってやればいい」
一度だけちゃんと答えてくれたことはあるが、抽象的に過ぎる。
父はこの説明が充分に具体的だと感じるらしいが、僕にしてみれば具体的な方法など何一つ示されていないように思う。
「私たちギラティナがすべきことに正解などないのだ。まずはやってみるしかない。失敗したっていいのだから……」
失敗なんて、そう軽軽しくしていいものだとは到底思えなかった。それで輪廻が余計に乱れてしまったら、手の付けようがなくなってしまう。
父は一体何を思いそんなことを言ったのか、今となっては知る由もない。
「疲れたなあ……」
歩き回っていたら、太陽が沈み始めた。目を眩ます光源が消えてくれるのはありがたいが、声の主が見つからないまま時間だけが流れていくので焦ってしまう。
それに、地面に足をつけて歩くのがこんなにも疲れるものだとは思っていなかった。冥界でどれだけ自分が楽をしていたかを痛感する。
「この森にはいないのかなあ」
空の真ん中で繋がった水鏡の真下に広大な森があったから降りてみたものの、声の主たちはもっと別の場所にいるのかもしれない。
もし僕がギラティナでなかったら、ちらほら見かけるポケモンたちに尋ねて回ることができただろう。「このあたりで死にたがってたり死にかけてるポケモンはいませんか?」と。
というのも、僕がそこらのポケモンよりも少少体躯が大きくて、翼の形やお腹の模様が仰仰しいせいなのか、僕を見かけたポケモンは逃げてしまうのだ。
木や岩の影に息を潜めているポケモンもいるが、多分近づいたら同じように逃げられるだろう。
「そんなに僕って怖いのかな……?」
体が大きいといっても、まだ父の四分の一くらいの大きさしかないし――。
あとは――。
あれ?
「ないかもなあ」
冷静に考えれば、それくらいしか怖がられない理由を示せない。
威厳とか風格とか、そんなものは自分に無縁だと無意識に思っていたが、冥府の王が如何にしてそれらから逃れられよう。
ちょっとだけ泣きたくなった。
空が群青色に染まってゆき、森が漆黒を湛え始める。冥界で慣れ親しんだような暗さも、こちらの世界では得体の知れない不気味さを孕んでいた。
これなら明るさに目の眩んだ昼の方が安心できたように思う。
いい加減手掛かりが欲しい。そう思い始めた矢先だった。
「誰だっ!」
「えっ、何!?」
前脚に一閃。痛みはそれほどないが、それ以上に突然何者かに戦いを挑まれた恐怖で、足がすくんだ。
「お、俺の爪が! こいつ硬いぞ、気をつけろ!」
「あ、あの、止めてください! 僕は何も」
「うるさい!」
懇願するも、聞き入れられる様子はない。
四、五匹いるであろうポケモンが、僕に向かってくる。
もしかして、彼らの縄張りに足を踏み入れてしまったのかもしれない。
「痛っ、ごめんなさい! あなたたちの縄張りだとは知らなくて、っつ! 見逃してください!」
戦いなんて生まれてから一度もしたことはない。だから痛がったり、攻撃を甘んじて受け入れたりして、敵意がないことを証明する以外に、この場を切り抜けられる方法が思い浮かばなかった。
けれども、予想外のことが起きる。
「ぶえっ!」
「おいっ! しっかりしろ!」
思わず羽ばたかせた翼の爪が、運悪くそのポケモンに当たってしまった。
地面に落ちたポケモンは、ザングースだった。生まれたときから死ぬときまで、ハブネークと戦い続ける運命にあるポケモン。結構乱暴な種族だ。
「てめええええ!」
「た、ただの事故です! わざとじゃなっ、い、痛い痛い!」
これではきりがない。
血の気の多いポケモンに何を言ったって通じるわけがない。
もはや、することは一つだ。逃げよう。
「こらあああ待ちやがれええ!」
振り返らずに全力で走る。木木を
躱しながら、六本の脚を必死で動かす。すると、思いのほか速かった。飛ぶよりは遅いけれど、ザングースたちをまくには充分な速度が出た。
自覚はしていなかったけれど、僕の運動能力は自分の考えていたものよりは高いらしい。
石や枝に引っかかりながら、ひたすら走る。咳き込んで足を止めたときには、追ってくるポケモンはいなかった。
「もう……大丈夫かな……」
その代償として、息は完全に切れた。走るってこんなに疲れるものなのだと、新しい発見に感動を覚える余裕すらない。
しばらく休もうと頭が考えるよりも先に、脚がくずおれる。
しかし、こういうときに限って物語は動き始めることも、きっと約束されていたことなのだろう。
『死にたい』
冥界で聞いた、靄のかかったような
幽かな声ではない。
瞭然として残響し、確かな意思が宿っていたそれは、今にも逝こうとしていた。
何かが起こるのだ。僕の助けを必要とする何かが。
方向は右手。距離はそう遠くない。
「……行かないと」
疲れて重くなった体を奮い立たせて、再び歩み始める。
森がざわつく。木の葉は僕の訪れを歓迎しないかのように、擦れて不協和音を奏で、太い幹をもつ樹木は倒れかけ、僕を押し潰そうとしている。
だから、不自然に木木のなくなっている開けた場所に出たときは、わずかだが不安を拭い去れた。
「この近くのはずなんだけど」
あたりを見渡す。暗くてよく見えないが、何かの気配はするが――。
「アルモ! しっかりしてくれ」
思わず後ずさりして、木の陰に隠れた。声の持ち主を確認して、息を潜める。
「死ぬな! お前はまだ生きなきゃいけないんだ! オレがそっちに行くまで!」
あれは、ザングースだ。色違いだから、さっき僕を襲ったのとは違うようだけれど、つい顔が引きつってしまう。
「何言ってるの……君がこんなとこに連れてきたせいで……ボクの幻覚の癖に……」
倒れているのもザングースで、こっちは一般的な緋と白の体色だ。喉に大きな傷があって、声はかすれている。
あまりにも退っ引きならない状況のようで、巨体を揺らしながら出ていく勇気は湧かない。
それに、落ち着いて見てみると、明らかにおかしいことに気づいた。
あの蒼いザングース、どう見たってあっちの世界にいるべきポケモンだ。つまるところ、死んでいる。
体の真ん中で光る球がゆらゆらと揺れているから間違いない。
「どうしてこんなところに」
この世に未練があって、逝き損なったのか。僕が呼ばれた理由は、たぶん蒼いザングースのためだ。
けれども、おかしいのはそれだけではなかった。
緋いザングースは、なぜ蒼いザングースを認識しているのか。この世とあの世は決して交じり合わないはずなのに、どうして彼らは話が通じ合っているのか。
「違う……オレは幻覚なんかじゃ……」
緋いザングースが、震える腕で蒼いザングースに触れようとする。
もちろん、触れられるはずがない。緋い腕は、蒼いザングースの腕をすらりと通り抜けた。
「ほら、幻覚だ……」
「違う! 違う! オレは幻覚じゃない! れっきとしたお前の友達なんだ!」
「はは……幻覚じゃなければ君は……死神だよ……。こんな思いをするくらいなら……群れの仔たちに……虐められて殺されたほうが……ましだったよ……」
耳孔を塞ぎたいほどに悲痛だった。そして確信する。
死にたいと願った声は、この緋色のザングースなのだと。
それから幾秒も経たずに、彼は事切れた。
「アルモ! アルモ!? ……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! こんなのあってたまるか! まだ一日も経っちゃいねえのに!」
膝をつき、亡骸の前で慟哭する蒼いザングースに、僕は
気圧された。
その姿を見ていられなかったからではない。明らかに、彼の体に異変が生じていたのだ。
「許さねえ! 絶対に許さねえ! 殺してやる! あの毒蛇も、こいつを放り出した群れの奴らも!」
紫炎が、蒼いザングースの体を蝕んでいく。みるみるうちにその紫炎は燃え広がり、僕のいる場所をも飲み込み始めた。
「これって……!」
ひどいことが起こる前兆だというのは本能で理解した。逃げないと大変なことになりそうだというのもわかっている。だが、間に合わない。
「アルモォォォォォォォ!!」
緋色の想いを背負った蒼いザングースの絶叫とともに、紫炎は爆散し、僕の視界がフラッシュした。
「うう……」
ようやく眩んだ目が暗転した世界を捉えたときには、すでに蒼いザングースの姿はなかった。
あまりにも壮絶な光景に、僕はなぜこの場にいたかということさえ忘れていた。
「あ、緋いザングースは……」
亡骸へと歩み寄って、状態を確認する。
「ちゃんと死んでるみたいだ」
喉笛に深い傷を作っている遺骸は、変わらずにそこにあった。魂も僕が手助けすることなく輪廻の軌道に乗って、滞りなく冥界に届けられた。
しかし、蒼いザングースの魂だけはどうしても見つけられない。
「一体何が起こったんだろう」
衝撃的で不可思議な光景は、イグザから教えてもらったことだけでは何も説明できない。
今の僕にできることは何もなく、しばらくの間そこに立ちすくむしかなかった。
そして、蒼いザングースは強い意志により
自力で還ったのだという有り得ない結論を導き出したのは、冥界に帰ってしばらくのことだった。