白色緋裂の望逝体 一
生まれついての運命に最期まで従うのがザングースという種族だ。
とある種類の毒蛇と永遠に爪牙を交わし続け、安寧なき日々を送る。
死は常に隣り合わせで、一瞬一瞬に命を煌めかせては散らせてゆく。
そんな過激な運命の下に生まれたボクは、誕生からおおよそ六月で群れから放り出された。
ようやく群れのしきたりや決まりごとを覚えてきたというのに、酷い仕打ちだった。だが、致し方ないことだとも思う。
生まれつき目が弱いボクは、毒蛇との戦いの戦力になるどころか、守られてばかりいた。
同じ時期に生まれた仔たちは次次と前線に立って勇ましく爪を振るうのに、ボクは戦いを退いた爺婆のそのまた後ろに隠れていた。
やがて大人も仔供も等しくボクを疎み始め、虐められるようになった。
「俺たちと同じ飯が食えるなんて良い身分なこった。お前なんて間引かれればよかったのに」
罵詈雑言と、ついでの暴力。
反抗するだけの力はもっていないし、下手を打って袋叩きにされては敵わない。
ただ耐えるだけの日々だった。耐えた先に何が待っているのかもわからぬままに。
そして、朝目覚めると、まわりに誰もいなかった。しんとした森の中で、木の葉の擦れる音だけがボクに寄り添っていた。
役立たずを捨てるために、群れはボクを置き去りにしてどこか遠くへ行ってしまったのだと理解した。
居場所を失った絶望感と、解放された安堵感とがぐるぐると混ざり渦巻く。
「これから……どうしよう」
その日は木漏れ日にすら熱を感じるような暑さで、ボクはずっと動かずにいた。
何をしようか考えていたのかもしれないし、何も考えていなかったのかもしれない。
渦巻く感情は潰える気配を見せない。それどころか、どんどん肥大化しているようにも思える。
「痛い……!」
おかしいと気づいたのは、朧な月が天に昇った時刻だった。まるで心臓を圧迫されているかような痛み。
精神的な苦しみが、だんだん物理的なものへと変換されているようだった。
どうにもならなくなって、うずくまる。体を抱え込んで、ひたすら痛みに耐えようとした。
あまりの痛みに吐きたくなるが、空っぽの胃はそれを許してはくれない。
一睡もできずに迎えた次の日は、雨だった。土の上で暮らす生き物がみんな地面の下や洞穴の中に隠れてしまう、そんな土砂降りだった。
胸の奥の肥大化した何かは、重さを持ち始めて、いよいよ息すらできなくなりそうになる。
「誰か……助けて……」
誰もいないのはわかっているのに、口だけが無為に言葉を放つ。
雨で体が冷たくなっていく。心臓の近くで渦巻く何かだけは強く熱を発しているが、一向に体の芯は温まらない。
「死ぬのかな……このまま……」
目だけでなく、体も病気だったに違いない。捨てられた悲しみが、一気に病気を悪化させたのだ。
息が止まった。僕はぎゅっと目を瞑って、来たるべき死に備えた。
それから幾分かの時間が経って、僕は気を失ったらしい。
露が耳に当たった冷たさで、ボクは目が覚めた。
雨はとうに止んでいた。空は薄暗くて、夕暮れ時なのか朝方なのか、はたまた鉛色の雲が空を覆って、森全体に暗い影を落としているだけなのか、木の葉の隙間から見ただけではわからない。
心臓の押し潰すような痛みはすっかり消えていた。
それはおそらく沈静したのではなく、ボクの体の外に飛び出ていたのだと思う。ボクと同じ形をしながら。
「よっ、やっと会えたな!」
倒れているボクの顔をのぞき込んでいたそれが、ボクと同種のポケモンであることに気づくのにしばらく時間がかかった。
ボクは目が悪い。だから目の前のものを明瞭に正しく認識することが難しい。
にもかかわらず、彼のくっきりとした輪郭はきちんと景色を切り取っていたし、目も鼻も口もはっきりと認識できる。
ボクの目が突然治ったのだろうかと思ったが、樹木と土だけが織り成す森閑とした風景は相変わらず判然とせず、ぼやけている。
目の前のポケモンだけが、不思議と鮮明に見えるのだ。
「……誰?」
「誰って、ひでえこと言うなあ。お前の友達だよ!」
この仔は何を言っているんだろう。
ボクに友達なんていない。欲しかったけど、できなかった。
そもそも、群れにだってこんなカッコいい仔はいなかったと思う。
凛とした顔に、自信満満の不敵な笑み。口元から見える牙は、毒蛇くらい簡単に喰いちぎってしまいそうだ。
血を吸ったような色の爪は、雨に濡れて光っている。
そして何よりも、その蒼い稲妻模様と眼に、ボクは釘付けになった。
「……オレもお前と同じなんだぜ。似た者同士だ」
「……ボク、別に色違いじゃないよ?」
「そうじゃねえって、お前はいつまで経っても飲み込みわりいなあ」
口の悪い、蒼いザングースの振る舞いを見てボクの頭によぎったのは、これは幻覚なのではないかという考えだった。
ボクをずっと知っていたかのような口ぶりは明らかにおかしいし、ボクの知っているザングースはみんなひどく罵ってくるか殴ってくるかで、こんなに馴れ馴れしく話しかけてくるザングースはいない。
「しっかしまあ、お前は薄情な奴らに恵まれたんだなあ。オレが群れの長だったらお前を放り出すなんて莫迦なこと、死んでもしないぜ」
やっぱり、ボクの眼の前にいるこれは、明らかに幻覚だ。
心のどこかで友達が欲しいと願っていたボクが、無意識に創り出してしまったものなんだ。胸の痛みはその前兆だったのだろう。
けれども、いっそ幻覚でもいいと思った。向こうが友達だと言ってくれるなら、きっと友達なのだ。ボクの記念すべき友達第一号だ。
「なあ、お前二日間飯も食わずにいたんだろ? 木の実取りに行こうぜ」
なぜボクが飲み食いしていないことを知っているのだろうと頭に疑問符が浮かんだが、そもそもボクの幻覚が具現化したものなのだから、僕のことは何でも知っていて当たり前なのだと気づいた。
だから、彼がボクの何を知っていようと驚く必要も、疑問に思う必要もない。
しかしながら、ボクは彼の何も知らなかった。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
白色蒼裂のザングースは、少しだけ悲しそうな眼をしたけれど、すぐにニカッと笑って、
「オレの名前はギランだぜ!」
その姿に相応しい、素敵な名前を口にした。
ギランは木登りが上手かった。体格はボクより大きいのに、身軽に動く。
その身軽さといったらエイパム顔負けで、逆立ちしても敵いそうにない。
「ほい、これ食べろよ」
高いところに生っている木の実を爪に突き刺しては、次から次へとボクにくれた。
「ギランは食べないの?」
「オレは腹減ってねえから」
ギランがボクの手に投げた木の実は、幻覚ではなかった。きちんと受け取れたし、齧ったら紛うことなきオレンの実の味がした。
ギランはボクの幻覚ではなかったのかという思いが頭をもたげるが、ボクのことを友達だとのたまう色違いのザングースに出会った記憶は、どんなに頭の中を探っても出てこない。
ギランがどっさりと持ってきたオレンの実に囲まれながら、未だに木の実採集に飽きずに木に登り続けるギランを見やった。
「ねえ、ギラン」
「んー、なんだあ?」
ギランの声が森の中に木霊する。
「ボクたちっていつから友達だったの?」
木の実が、また一つ落ちてきた。
「ずっとだ、ずっと前から友達だった」
「ずっとって、どれくらい?」
「……五十年くらい前からかねえ」
やっぱりギランは幻覚なのだと思い直した。ボクの幻覚にしては随分と冗談が上手いけれど。
ザングースという種族の寿命なんてどれだけ長くても二十年かそこらが限界であり、五十年なんてもっと大型のポケモンでもないと無理だ。
大体、ボクはまだ生まれて半年しか経っていない。
「五十年、かあ……」
気の遠くなるような時間だ。この半年だって果てのない長さに感じたのに、五十年なんて永遠と同義だ。
本当に、そんなに長い間、友達と呼べる存在とこの世界にいられたのなら、それはこの上ない幸せなのだと思う。
「……って、ギラン、ボクこんなに食べられないよ」
気がついたら、ギランは余って腐らせてしまうほどの量の木の実をボクのまわりに落としていた。
「少食だなあ。腹減ってんだろ? 食えよ全部」
「ギランも食べるの手伝ってよ。君が持ってきた木の実なんだから」
「オレは腹減ってねえし」
「一つくらい食べられるでしょ?」
「やだ」
「……もう」
すでに満杯になっているお腹をさすりながら、はたと考える。
お腹が減ってないとギランは言うが、ボクの幻覚であるギランに、食べ物を食べるという行為は可能なのだろうか。
できないから、空腹ではないという理由をつけてボクに全て押しつけているのではないか。
そんな疑問をよそに、ギランはまたも意味不明なことを言い放つ。
「もう暗くなっちゃったなあ。帰るか」
「帰る……? 帰るってどこに?」
「どこにって、ねぐらがあるだろ」
ギランはさも当たり前のように言う。
「ねぐらなんてその日その日で違うよ。群れはずっと移動してたし、決まったねぐらなんてないよ」
「それはお前のいた群れがそういう風にしてたってだけだろ? お前とオレがそれに従う必要性がどこにある?」
呆れたような、それでいて困惑したような目をボクに向けるギランは、反論しようのない正論を言った。
ボクのいた群れは、他の群れよりも大所帯だった。ねぐらを一か所に固定してしまうと、それを知った毒蛇の群れが夜襲をかけてくる恐れがある。
敵に動向を知られないためには、ねぐらを一日ごとに変えなければならない。群れから疎まれていたボクが文句など口に出す由もないが、内心は辟易としていた。
「こっち来いよ」
早足で木々の間を縫うギランを、おぼつかない足取りで追うボクは、少しだけワクワクしていた。
ボクにしか見えていない蒼いザングースの幻が、ボクを知らない場所に連れていってくれる。
ボクと同じくらいの年のザングースたちが、転げまわって遊んでいたのを見たことがあった。
時折爪で引っかき合う、痛みを伴うような乱暴なじゃれ合いだったが、いかにも楽しそうだった。
楽しいという感情を生まれてから一度も感じたことのなかったボクは、それにどれだけの羨望と絶望を掻き立てられたことだろう。
一生『楽しい』に触れられない悲しみがまとわりついて、ボクの虐められ体質は余計に加速した。
「死にたい」
誰もいないところで、飽きるほど呟いた。
でも、ようやくボクにも『楽しい』という感情に爪が届く。
吐き捨てたくなるような運命にだって、少しくらい救いはあると信じたい。
それが、自分自身が創り出した幻覚が見せるまやかしなのだとしても、その感情だけは本物のはずだ。
「ここだ」
山なりの地形の一部を、むりやり垂直に削り取ってできたような場所。そこだけは緑が茂らず、土と岩が露出している。
崖というには大袈裟で、段差というにはいささか大きい。そして、先の見えないほど暗く深い洞穴が潜り込んでいた。
「何かいそうな気がするのは、ボクの気のせいかな」
取り立てて妙な気色を感じたわけではない。ただ、いかにも何か不気味な生き物が棲んでいそうな洞穴だったから、ちょっとギランを茶化そうと思った、それだけのことだった。
「馬鹿なこと言うなよ、オレはこっちに来るたびにここで……」
だから、ボクは言葉とは裏腹に何を警戒することもなく、洞穴に一歩踏み出したギランの肩越しに、その中をのぞきこもうとしたのだ。
本当に、その洞穴の中に敵が潜んでいるとも知らずに。
「逃げろ!」
唐突に振り返り、叫んだギランの勢いに、ボクは後ろによろけた。
そして、ギランの体をすり抜けて、二匹のハブネークがボクを目がけて飛んできた。
「アルモ!」
森にボクの名前がこだました。出会ってから一度も教えていないのに、やっぱりギランは知っていた。
「ギラ……」
緩徐とした世界でボクが見ていたのは、自分の首に食い込む二匹の赤く鋭い毒牙ではなく、その向こうで驚愕に見開かれゆくギランの蒼眼だった。