幼冥王、発つ
「……ビシャーンッ!」
「だから泣かないでくださいと何度も申しているでしょう!? そんな体たらくでお父上に顔向けできるとお思いでも!?」
「だって……言ってることが難しくてわかんない!」
目覚めてから眠りにつくまでに叱られなかったことはない。一日の平均だと、叱られた数は翼についた赤い爪の本数よりも多いと思う。
まだ、爪の本数は四本しかないのだけれど。
きっちりと六本生え揃うには、気の遠くなるほどの時間が必要らしい。
「理解されるまで何度でも申し上げますよ! まずは――」
父が役目を終えて旅立ってからどれくらい経つだろう。まだ一日も経っていないように思えたし、しかし何百年も経ったようにも思えた。
現実として、僕の体は依然小さいままで、父のような風格などないに等しいから、一月の経過という予想が妥当だろう。
だが、時間と空間を司るらしいどこかの神々が、凝り固まった秩序に沿って流す時の刻みを、冥界にも適用できるとは言えない。
こちらの世界に時間という概念を当てはめるには、色々と面倒な工夫が必要だし、その工夫も決まりきった方法があるわけではない。
だから、あくまでも体感として。向こうの世界に生きる者だったとして。そんな無意味な仮定をした上での予想だ。
「というわけで、数多いるポケモンの寿命が異なるように、冥界に留まっている魂が向こうの世界に還る時分もまったく異なっています。それは向こうの世界の命が生から死へと状態が移り変わる勢いに左右されることが第一の原因として――」
重ねた時間は、あまりにも短かったと思う。僕がこちらで生まれるということは、父が向こうの世界で、何かのポケモンに生まれ変わるということだ。
いわゆる『輪廻』というやつだ。
「であるからして、輪廻は」
「ねえ、イグザ」
「はい、なんでしょう」
先ほどから延延と僕に世の理を講釈するヨノワールのイグザは、大きな一つ目を見開いた。
「なんで命は輪廻を繰り返すの?」
「……前にも言った通り、私にもわかりません」
イグザは首を垂れる。やかましく、僕を叱ることが本分のイグザが、この質問を前にしたときだけ静かになる。
イグザは物知りだ。父が僕にこの世界は何たるかを教える前に還ってしまったから、冥界に長く居座り、父の良き助手として働いていたイグザが、僕にものを教えてくれる。
そのイグザがわからないのだから、仕方がない。
「申し訳ありません。ですが、もし輪廻の道理を理解できることがあるとすれば、それは間違いなくラヴィアロウ様でしょう。冥界の王、ギラティナである、あなたが」
「イグザがわからないものを、どうして僕がわかるの?」
「それは今申し上げた通り、ラヴィアロウ様がギラティナだからです」
首をかしげる僕に、イグザはすっと目を閉じた。
「私が知り得るのは、所詮、この世の理の表層的な部分のみです。一介のポケモンには、深淵をのぞき見ることすら叶わないのですよ」
「……そうなの?」
「そうです」
イグザが知らないことを、僕が知る日など来るのだろうか。
結局何もわからないまま新たな輪廻に曝されて、イグザの言うような『一介のポケモン』に生まれ変わって、冥界の存在さえ忘れてしまう気がした。
「私には、どうして私がここに実体をもって存在できるかということさえ説明できません。ここに来る者は、みな一律に魂という淡い光を発する玉になって存在するのに、私だけは向こうの世界にいた頃と同じ体をもって、こちらとあちらとの行き来すらできる。不可思議でたまりません」
イグザは、まるであちらで生きていた頃に思いを馳せるように
滾滾と語った。
「……今日はこれでお終いにしましょうか。では、おさらいに参りましょう。いつものあれです。……乱れは?」
「整えるべし」
「調和は?」
「乱すべからず」
幾度となく暗誦した。イグザの講釈がさっぱり綺麗に頭から抜け出ても、これだけは忘れない。
「よろしいでしょう。調和が乱れれば、きっとあちらの世界から呼ばれます。そのときには、冥王としてしっかりと役割を果たせるよう……」
イグザは翻り、空間の捻れに紛れてどこかへ消えた。
いつものイグザが、去り際のときのように穏やかだったらいいのにと思う。
でも、イグザが僕に怒鳴ることが多いのは、僕がだらしないからでもある。だから、イグザを唸らせるくらいには、色々なことを学んで、覚えて、成長しなければ――。
『……死にたい』
「えっ?」
『……還りたい』
「な、何!?」
唐突に響いた、声音の異なる二つの声。
そして、遠くに小さく発生した、黒い水鏡。
「あれは……」
イグザの言った直後に、現実となった。ついに呼ばれたのだ。
「調和が乱れてる……のかな」
輪廻が歪んだのか、こちらとあちらを繋ぐ通り道が詰まったのか。もしくは別の原因かもしれない。
いずれにせよ、僕が向こうの世界に触れるきっかけとなった初めての呼び声は、ひどく痛切で――。
施し難いものだった。
「今行くよ。待ってて」
ゆっくりと水鏡に近づき、独特な感触をくぐった僕は、黒黒とした冥界とは真逆の、真っ青な空をもつ世界に飛び出した。