01
隷属、およびその脱却可能性
僕には悩みがあった。
一から数えればきりがない。目が回ってしまうほどにおびただしい量なのだ。だが、どれもこれも根本は明白だ。その根本さえ正してしまえば、僕の悩みは一挙に解決する。
しかし、それは到底不可能なことだった。少なくとも、この生を全うする限りは。
サザンドラとして生まれてきたことがすべての始まりで、それはあたかも僕の体を蝕む巨大な腫瘍のように、心の奥底に深く根を下ろしていた。
首は三つ。しかしドードリオのように胴体から首が三つ生えているわけではない。
ものを考える大きな頭と、両の腕の先に小さな頭がついているという、化け物じみた体のつくりだ。
同族を見かけると、思わず目を覆いたくなる。そのおぞましい姿が網膜に一秒でも長く焼きつくことを、僕は許したくない。
けれども、僕の痛切な思いとは裏腹に、まじまじと同族たちを見つめてしまうのは、それが僕自身の姿を映す鏡であることにほかならないからだろう。
彼らと同じ姿形をしているという事実は、自殺衝動を駆り立てるには十分すぎた。
いっそ自殺して他のポケモンに生まれ変わってしまえば、悩みはもっと単純なものになっていただろう。
例えば、今日の食糧が見つからないとか、棲みかが荒らされて困ったとか。
サザンドラはどちらも悩まない。この地に君臨する王たちは、小さなポケモンを強大な力で侍らせる。
お腹が空いたら、他のポケモンたちに命令して食料を取ってこさせればいい。
それがだめだったら、そのポケモンを食べてしまえばいい。僕はもちろん、死んでもポケモンを食べたりはしないが、同族たちはきっと一口で食べてしまうのだろう。
棲みかが荒らされたことは一度もない。サザンドラの棲みかに立ち入れば問答無用で八つ裂きにされるのは、弱いポケモンの常識だからだ。だが、僕は違う。
もし何も知らない仔供が僕の棲みかに来たら、奥に蓄えてある木の実をプレゼントして丁重にもてなすだろう。
一度、それが実現しかけたことがあった。僕のねぐらは山の斜面を深くえぐったような洞穴の奥で、朝が来ると入り口から陽が射し込む。その陽射しで目が覚めたら、逆光でシルエットとなったドードーの仔供がいたのだ。
しかし、僕が近づくや否や、
円らな瞳が可愛らしい二つの顔は
蒼褪めて、一目散に逃げていった。失神して倒れてしまわないだけ幾分かマシだと考えていた自分に、ひどく悲しくなったことを覚えている。
なぜ僕のような小心者が、サザンドラとして生まれてしまったのだろう。
同族たちに、僕のような軟弱な性格を持っているものは誰ひとりとしていない。みんな揃いも揃って凶暴で、暴君の名をほしいままにしている。
そんな風に振る舞うことに砂一粒ほどの罪悪感も感じないなんて、サザンドラという種族はなんと重大な欠陥をもった生き物なのだろう。
そして、それを心の内で嘆くことしかできない僕も、彼らと同じように愚かだった。口に出してしまったら最後、まだ辛うじて仲間として扱ってくれる同族たちは、迷わず僕に牙を向けるだろう。
苦し過ぎて、痛み続ける胸は破裂しそうで、呆れるほど涙を流した。
「心なんて……もって生まれてこなければよかったんだ」
自死を選ぶには、残酷に立ちはだかる恐怖を克服しなければならない。生きるには、他者を傷つけることを厭わない同族たちに紛れる辛苦を味わわなければならない。
僕を産み落とした母を恨むにも、やはり心は弱かった。母だって僕がこんなにも軟弱だと知ったら、産んだ後に僕の首を絞めて殺めたはずだ。
「僕は……どうすればいいんだろう」
ねぐらから見上げる夜空には、ぽっかりと大潮の月が浮かんでいた。
明くる日、ねぐらを出て、いつものように同族たちのもとへ向かった。
嫌悪する同族をわざわざ訪ねる、とても情けない理由は。食料を分けてもらうためである。暴君たちがほかのポケモンに命じて持ってこさせた食料は、一応僕にも食べる権利はある。
本当ならば、食糧ぐらい自分で取ってきて、同族たちから離れた生活を送りたい。しかし、ただでさえサザンドラとしての行動に消極的な僕は、一日に一回は仲間たちのところに顔を出さないと、やたらと訝しがられるのだ。
僕は木の実しか食べられないと事前に言ってあるため、分け与えられるのは小さな木の実だけだが、暴君に献上された食料の不味さたるや、筆舌に尽くし難い。
わざわざ同族たちに捧げるためだけに日夜食料を採りに出かけるポケモンたちの苦労と思うと、空っぽの胃から酸が逆流してくる。
一度自殺の方法に餓死を選んだことがあったが、空腹に耐えきれなくなる前に、同族たちが僕のねぐらへ大量の食糧を運んできた。
病気でねぐらから出られなかったと嘘をつき、「食べ物を持ってきてくれてありがとう。助かったよ」と見せかけの感謝の言葉を述べているときほど、ありがた迷惑という言葉を実感したことはない。
僕はようやく悟ったのだ。自殺なんて絶対にできない。
低木と剥き出しの地面、そしてわずかばかりの雑草が弱々しく生える領域が円形に広がっている。この景色は、身のまわりのものを何でも食べ尽くす同族が創りだしたものだ。
直径にしておおよそサザンドラ五十匹分。中央には、同族たちが城としている角ばった巨岩が積み上げられて、不安定ながらもどっしりと構えている。
それはさながら同族たちがこの地の王として君臨している様を如実に表しているようだった。
だが、今日はいつになく騒がしかった。サザンドラの口が三つあること差し引いても、こんなにやかましいことはない。
岩場のふもとに、十五匹程度のサザンドラが群れなしている。何かを囲っているようだった。
「ねえ……どうしたの?」
僕はそのうちの一匹に恐る恐る近づいた。
「ん? ……なんだ、ヨルガか。驚かせるんじゃねえよ」
向けられた顔にぎょっとしたのはむしろ僕のほうだった。顔を背けたい。名を呼ばれるのも、心臓に響く。
「やられたんだ。十匹」
「十……?」
その言葉は明瞭で簡潔で、すっと頭の中に吸収された。
そして、咀嚼された言葉は『なぜ』、『だれが』、『どうやって』、と疑問を噴き出してくる。
群れる同族たちの隙間から、地面に伏しているもの、仰向けに泡を噴いているもの、岩に背を投げ出しているものの姿が見えた。
皆、一様に気を失っていた。一朝一夕に回復できるような容体にも見えない。
「ありえねえぜ、マジで。誰がこんなこと……俺がぶっ潰してやる」
僕はそっと殺気立つ彼から離れた。
朝食にはありつけなかったが、栄養が足りなくても脳は高速で回転した。
「いったい誰が……」
同族たちがこの地を支配しているのは、強いからだ。
弱肉強食という言葉通り、サザンドラは強者として君臨している。
したがって、サザンドラを倒せるものはこの辺りには存在しないはずなのだ。ましてや、一度に十匹なんて。
日頃から同族たちの圧政に不満を抱いているポケモンたちが一斉に夜襲でも仕掛けたのだろうか。
いや、そんなことをして倒せるほどの同族たちではない。それすらものともしないから王者なのだ。
「でも……ふふっ」
願ったり叶ったり――などと言ったら、同族たちの鋭い爪と牙で全身を食い破られる。
けれども、自然と笑みがこぼれてしまった。
これはきっと報いなのだ。自らの過ちを認識せず、苛烈な支配でこの地を蹂躙し続けてきた罰だ。
そして、おそらく僕も報いの標的であること――それが何よりも嬉しかった。
生まれてからずっと、この姿にまとわりついてきた咎に、鉄槌を下す存在が現れたのだ。
願わくば、その存在を目にしたい。サザンドラの群れを薙ぎ払った嵐のような正義に。
夕方、ねぐらで休んでいた僕は、その入り口までやってきた同族に起こされた。
「俺だ、ルグルスだ。ちょっと来い」
たとえ逆光で見えにくいものだとしても、険しい彼の顔を見つめるのはなかなかに体力が要る。
サザンドラという種族は、なぜこんなにも恐ろしい姿をしているのだろう。
僕は緩慢な動作で彼に近寄った。
「な……何?」
「岩場に来い。今日の件で色々と話し合わなければならねえ」
未知の脅威への対策。サザンドラの王国を揺らがせる気配がすれば、すぐさま召集がかけられる。今回は特に緊急を要するものだ。
「ごめん……具合が悪くて動けそうにないんだ」
だが、そんな集会に出るなんてご免こうむる。僕はわざとらしく元気をなくし、なんとか集会を免れようと努力した。
「ちっ、病弱め。使えねえな。なんなら今ここで知恵を出せ」
「……そんなこと言われても」
「なあ、お前は仲間をあんな目にあわせたのはいったいどんな奴だと思う?」
僕の都合など構う様子もないルグルスは、返答に困る質問をしてきた。
それでも、必死に同族たちのために考えていますというアピールをして、ご機嫌どりをしなければならない。
サザンドラの中でも、ルグルスは怒らせると非常に厄介な奴なのだ。その代わり情には篤いが、所詮はサザンドラだ。
「やっぱり氷タイプのポケモン?」
「この辺にそんなポケモンはいねえだろ」
ルグルスは呆れたようにため息をつく。考えてみれば当たり前で、もし氷タイプのポケモンがいたらこの地でサザンドラが天下を取るはずがない。
「格闘タイプは……?」
「それもねえな。俺たちがここに来たときに、邪魔になりそうなやつはあらかた駆除しただろ」
駆除、という単語を聞いて、本当に具合が悪くなりそうになった。
さらに僕たちの弱点である虫タイプも考えてみたが、同族たちが一斉に火炎放射で返り討ちにする図しか想像できない。
ドラゴンタイプも同様だ。そんなポケモンがいたら昨日まで同族たちにとっての平和が維持されていたわけがないのだ。
ルグルスをはじめ、同族たちはまさに降って湧いたような災禍だと思っているに違いない。
「くそっ、マジでわかんねえ……ヨルガ、お前今日ここで一匹で過ごす気か?」
「え……うん、いつもそうしてるし……」
ルグルスの険しい顔が、ふっと
解かれた。
「やられるぞ……今日くらいは岩場で身を寄せ合った方がいいんじゃねえか」
それは純粋な心配だった。また、ルグルス自身を侵していた恐怖を和らげるための提言でもあっただろう。
腐っても同族だ。ルグルスは僕のような軟弱者を本当の仲間だとは思っていないだろうし、僕だってルグルスたちを仲間だとは微塵も思っていない。
しかし、それでも同じ種族であるという、たったそれだけの事実が、心配する理由になるのだ。
生き物としての悲しき性だ。一匹でいるときは、報いを受けるのは当然だ、みんなやられてしまえばいいなんて考えていたのに、少なくとも目の前にいるルグルスに対しては、そう思うことができなかった。
――僕が軟弱だからに他ならない。
「僕は……ここにいるよ」
「……そうか」
陽が暮れなずむ。夜の
帳はすでに用意されていた。
「やられるなよ」
ルグルスは、紫色の空を縫って、岩場の方へと飛んでいった。
普段ならばとるに足らないヤミカラスの鳴き声は妙に低く、これから行く末を暗示しているように思えた。
僕たちを脅かすものの正体とはいったい何なのだろうか。
ルグルスが去ったあとも、僕はそのことについて夜まで考え続けていた。
洞穴の入り口に座り、ほんの少しだけ貯めてあった木の実を齧りながら、東の空に昇り始めた大きな満月を眺める。
同族たちは、岩場に集まって夜を過ごすのだろうか。
何匹かが眠り、何匹かが起きて見張りをする。僕が呑気に月を眺めている間、同族たちは張りつめた空気の中で神経をすり減らしながら夜を過ごすのだ。
さらに木の実を頬張る。
「……美味しい」
朝も昼もまったく食事をしておらず、空腹が極まっていた。そしてこの木の実は同族が他のポケモンたちからまき上げたものではなく、自分で採ってきたものである。
不味いわけがない。
「美味しそうな木の実ね」
「わっ!?」
思いもよらぬ声が響いて、僕は飛び上がった。
洞穴の入り口は山の斜面から少しだけ飛び出している。だから、入り口の上にはわずかながら立てるだけの空間がある。
ただし、そこにポケモンがいて、しかも声をかけてくるなんて考えるわけがない。
「一つ私にくれない?」
ひらりと僕の頭を飛び越え、眼前に優雅に着地したそのポケモンは、粗暴な同族たちとは真逆の言葉遣いで僕に迫る。
「い、いいけど……」
「本当? 聞き分けがいいのね。……サザンドラなのに」
こんな夜に、しかもサザンドラである僕に話しかけるポケモンなんて、希少中の希少だ。
しかし、妙に高飛車で見下したような喋り方は強烈で、純粋な感動を攻撃的に打ち消した。
「君、誰? 君みたいなポケモン初めて見たよ……」
「それは種族的な意味で? それとも、あなたのような凶悪な見た目を意にも介さずに接してくる、という意味かしら?」
饒舌で、自分に絶対の自信がある喋り方。
それに比例する実力があるのなら、僕らの上位に立つのはこういうポケモンだと思う。
「どっちもかな……」
同族たちの言葉を借りれば、間違いなく駆除対象になるポケモンだった。
王者であるサザンドラに対してこんな言葉遣いは許されないのだ。相手が僕でなかったら、この白い四足のポケモンはずたずたに引き裂かれて、その瑠璃色の瞳は真っ赤に染まってしまうだろう。
「あ、あのさ……僕はいいけど、他のサザンドラには、その……あんまり強く出ないほうがいいというか……」
鮮血で染まった、優美だったはずの桃色と水色と白色。勝手に描かれた心象に、思わず吐き気を催した。
「心配してくれるなんて優しいのね」
そう言って、不思議な色合いのポケモンは、首元から生える謎のひらひらで、僕の手から食べかけの木の実を取り上げた。
「食べるなら僕の食べかけじゃなくて、こっちを食べなよ」
僕の噛み跡が残る木の実より、新しい木の実のほうがいいだろう。
「それもそうね」
言うや否や、彼女は僕の食べかけと新品を素早く交換した。
彼女がおいしそうにそれを頬張るかたわら、僕はぼうっと月を眺める。
「ねえ、あなたってよくサザンドラらしくないって言われない?」
「……そうだね。仲間からはよくそう言われるよ。僕自身もそう思ってる。でもサザンドラ以外のポケモンに言われたのは初めてだなあ。みんな怖がって話しかけてくれないから」
「見た目が凶悪だからしかたないんじゃない?」
「……うん」
反論する余地もない。今まで切々と感じてきたことをはっきりと口に出されても、何かしらの感情が湧き上がるわけでもなく、心に染み込んでいく。
「……ねえ、これを見てどんな風に思う?」
「うっ……」
目が眩む。彼女は真っ白な光をまとって、上方に蒼白い球体を緩く打ちだした。
「……何これ」
それは、大きな月だった。遥か彼方に浮かぶ月を、彼女はここに連れてきてしまったらしい。
寒気すら感じるその冷たい光は、まるで無数の棘を突き刺してくるような痛みを感じさせた。
それでも。
「綺麗だね。月をこんなに近くで見たのは初めてだよ」
「綺麗……?」
彼女の顔が少しだけ歪む。
「綺麗だよ。とっても」
感じたことを素直に言ったつもりだった。しかし、彼女は僕の口にした一つ一つの言葉に、あからさまな不快感を表したのだ。
「あなたってつまらないポケモン」
彼女はそう吐き捨てて、月を消し、自らも消光した。
僕はというと、突然の罵倒に面食らって、口を馬鹿みたいに半開きにしていた。
「つまらない……」
ひらひらをまとわせた謎のポケモンはいつの間にか消え、僕はただ無意識に言われた言葉を反芻していた。
凶悪だとか怖いだとか、サザンドラであることに由来する悪口には半ば諦観の念を抱いていた。
サザンドラであることは咎で、そのことは誰からも責められるべきであることだと、僕自身が一番理解している。
だが、僕自身の内面に言及されたことは、同族を除いて、ただの一度もなかった。
生まれてこの方、抱いてきた感情は、たった一言で言い表せるような至極単純なものだった。
しかし、この悲しみすら虚無の彼方に吸い込まれるような心の巨大な空洞を、いくつの言葉を組み合わせて形容すればいいのか、まるでわからなかった。
目覚めはいつも憂鬱だが、今日は殊更に憂鬱な目覚めだった。史上最悪と言っても過言ではない。
「つまらない……か」
まだ引きずっていた。行きずりのポケモンに言われたたった一言が、なぜか心にへばりついて離れない。
サザンドラ以外のポケモンは、僕をみてほぼ確実に怯えるし、逃げることもある。
だから、そんな風に僕を扱わないポケモンと話すことができて、嬉しかった。
棘のある言葉がいつまでも突き刺さって抜けないのは、ずっと得難かった感動がそれによって潰えてしまったからだろう。
結局、嫌われ者はどこでも、誰からでも嫌われるのだ。
「岩場、行かないと……」
日はすでに高かった。完全に寝坊である。
同族たちは岩の城に固まって一夜を過ごしたようだが、無事なのだろうか。
流石に二度目に夜襲などのふいうちを喰らうわけがないし、腐ってもサザンドラ、簡単にやられるわけがない。
サザンドラがすべて僕みたいなポケモンだったら、事情は変わるだろうけども。
しかし、僕でなくても、事情はまったく変わっていなかった。
地獄絵図とはまさにこのことだろうか。
言葉を失い、次いで全身が硬直した。
「あ、また会ったね。どう、素敵でしょう? 私の作った幸せの城は」
高らかに舞う透き通った声。それは、妖精のように可憐な声だった。
岩の城の頂きに、凛と
佇つ昨日のポケモン。ひらひら――のちにそれは触手だと知る――は風になびき、水色と桃色と紺色が煌びやかに躍った。
その華やかさと比例し、僕の体を巡る血は流速も温度も低下していく。
岩の城には、同族たちが
飾りつけられていた&ruby。
倒れる者、苦痛に顔をゆがめる者、はりつけにされている者――いずれも青黒い体にそぐわないリボンがぐるぐると巻きつけられいる。
そして、今まで同族たちに侍らされていたポケモンたちは、岩の城を取り囲んで歓呼の声を上げていた。
「解放万歳!!」
大合唱に打ち震える空気が、耳孔をつんざく。
「酷い……」
罰は、受けるべきだと思う。サザンドラとして生まれ、たとえ自分の意思とは異なるものだったとしても、暴虐の限りを尽くす同族たちに
与していたことは紛れもなく事実だ。
しかし、かつてこれほどの恐怖を感じたことがあっただろうか。
生温かった。罰されると願ったのは、本当の意味で自分を虐げるポケモンの存在を意識していなかったからだ。
結局のところ、僕は傲慢なサザンドラでしかなかったのだ。
怖い。逃げたい。鋭利な形をした刃は、幾重にも重なって僕を待ち受ける。
それを回避することは、きっと叶わないだろう。
アゲハントが舞うように、竜の形をした飾りを踏みつけながら華麗に岩の城から降りてきた彼女は、僕の前にするりとやって来た。
「あ……」
その間、逃げる猶予はいくらでもあるようで、しかし認識できた時間の流れはわずか一秒もなかったように思えた。ケーシィのテレポートを実際に見たことがあるわけではないが、たぶんこんな風に突然目の前に現れるものなのだろう。
「あなた、名前をヨルガというのね」
息絶え絶えの同族から聞き出したらしい僕の名前を、彼女は楽しそうに口ずさむ。
僕の六枚の翼は焦燥と戦慄でがちがちに固まり、宙に留まれなくなった。
地面に落ちた僕を、彼女は空色の瞳で楽しそうに眺める。その笑みは、今まで見た同族たちの下卑た笑みよりもおぞましく見えた。
「私はシフォン。シフォン=ニンフィア。今日からこの地を総べる者よ。そして、サザンドラであるあなたとその仲間たちは」
シフォンの後ろに、見たことのないポケモンたちが並ぶ。僕とは対照的な、パステルカラーの体色。シフォンたちが連れてきた仲間なのだろう。
そして、そのさらに後ろに、抑圧を甘んじて受け入れていたポケモンたちが怒りと喜びの入り混じった表情で立っていた。
「私たちの奴隷よ」
わっと歓声が上がった刹那、同族たちを深い昏睡へと陥れたリボンのような触手が、僕の首に巻きつき――。
「お目覚め?」
夜の帳が完全に下りていることだけは、ぼんやりとした歪んだ景色でも理解できた。
おおよそ半日前、史上最悪の目覚めを迎えた僕は、たった今それよりもさらに酷い目覚めを経験した。
「うぅ……」
頭痛が酷い。体をゆっくりと起こして、辺りを見渡す。視界を縦に切り分けている何かがいくつもあって、それは悪意のある棘を無数に生やしていた。
「奴隷が逃げ出すなんてことはあってはならないことだから、特製の檻に閉じ込めたの。どう、気に入った?」
「そんな……」
檻だなんて。同族たちでも侍らせていたポケモンたちを檻に入れることはなかった。
「気に入った? と私は訊いているの」
有無を言わさぬ威圧感。
「……気に入りました」
「……ふふっ、ヨルガって偉いね。ちゃんと敬語を使い方がわかってるサザンドラはあなた以外にはいなかったよ。強いて言えば、気に入らないです、ってささやかに反抗してくれればなおよかったのだけど」
そんなことで褒められてもちっとも嬉しくなかった。
自分の体を見やる。触手――ではないが、あの忌まわしい飾りリボンは僕の体に巻きついたままだった。
「そのリボン、素敵でしょ? あなたたちサザンドラの力を封じ込められるように、&ruby(フェアリー){妖精};のエネルギーを織り込んで作ったものなの」
「フェアリー……」
初めて耳にする言葉だった。
「竜とか悪みたいな粗暴な力を上位から制することができるのがフェアリーなの。私と、私が連れてきた仲間たちはみんなフェアリータイプよ。だからあなたもその仲間たちも、私たちに逆らうことはできない。理解した?」
「……はい」
返事は上の空だった。竜を制する力は、氷以外にも存在したのだ。あまつさえ悪にも効くという。たった二日で同族たちが王者から陥落するのも無理はなかった。
まるで、僕らを罰するために生まれてきたような力だ。
「いい仔ね。本当にあなたはサザンドラなの?」
サザンドラらしからぬサザンドラ。重々自覚していることを何度も詰問されるのは、まるで爪で引き裂かれるような痛みを伴った。
「ああ、こんなことで落ち込まないでね? 鬱陶しいし、もっと苦しいこともあるだろうから。でもヨルガ、あなたはとても幸運だと思うの。もうそりが合わない仲間と顔を合わせることは二度とないと思うし、その点は気楽に考えていいよ」
「それって……」
嫌な予感しかしない。脂汗が額に滲む。冷たい血がどくどくと高速で巡り始める。
確かに、同族たちは懲らしめられるべきだとは思っていた。今でも、多少は薄らいだにせよ、変わりなくそう思っている。
けれども、だからと言って、命まで取るようなことは――。
「……私がそんなことするわけないでしょ? 隔離してるだけ。別の檻に、二十四余りのサザンドラを全員まとめて放り込んであるの。そして、これはあなた専用の檻。あなたにはそのほうが安心できるはず。違う?」
僕は押し黙った。答えに窮したということでもあるし、素直に返事をしたくないということでもあった。
「しかもこの檻は、私が、わざわざ、直接、あなたのために作ったの。感謝してね」
シフォンが言葉を区切るたびに、檻の棘が鋭さを増した気がした。
「……ありがとうございます」
「本当に従順なのね。サザンドラなのに。面白いわ」
見下されたり馬鹿にされるのはきっとこれから日常茶飯事になるのだろう。それに関してはもうどうでもよかった。
しかし、最後の面白いという言葉はが昨日とはまるで真逆だったことに、少しばかりの戸惑いを覚えた。
唐突にやって来た、奴隷としての日常。
一番最初の仕事は、予想通りだった。同族たちが王者として振る舞っていたときに、まわりのポケモンたちにやらせていたことと同じだ。
すなわち、食糧の収集だ。
「おはよう。早速だけど外に出て」
朝一番にシフォンが檻の前に立ち、檻の棒を一つだけ取り除いた。僕を頑強に閉じ込めていた檻には、僕の巨体が辛うじて通れるほどの空隙が生まれた。
檻から飛び出る棘は明らかに僕の体を傷つけようとしていたが、それを構っていられるわけがない。
出入りに痛みを伴う檻なんて、即刻作り変えてほしかったが、それを聞き入れてくれるほどシフォンが優しいポケモンであるわけがない。奴隷である僕の要求を聞く義理なんてどこにもないのだ。
「眠れなかったみたいね。でもあくびしている暇なんてないわよ? 私とその仲間と、あなたたちが虐げていたポケモンたちの分の食糧を採りに行ってもらわなきゃならないから。もちろん私も同行するわ」
死んだような目をしている僕を見て、シフォンは僕が寝ていないことを看破した。
実際、半永久的に僕の棲みかとなりそうなこの檻は、寝る環境としては元いたねぐらとは比べ物にならないほどに酷いものだった。不安と緊張のせいかもれないが、結局一睡もできなかったのだ。
むき出しの地面に枯草を敷いたり、小石を取り除いたりぐらいは許してくれるだろうか。
「東の方角を目指すわ。私を乗せて」
「……わかりました」
いつもより低い声で命令したシフォンは、低くした僕の背中に軽やかに飛び乗った。
そして、間髪を入れずに触手を僕の体の至るところに巻きつけた。特に、首を重点的に。
「あなたに限って私に逆らうことはないだろうけど、もし振り落とそうとしたらあなたを絞め落とすからね?」
言わずとも、すでに締めつけが強い触手は、僕を完全に従わせるための武器であることを主張していた。
「あの、他のサザンドラたちは……?」
「私の仲間が西にある森へ連れていったわ。ほとんど動けないだろうけど、どんどんみんなのために働いてもらわないとね。ともかく、あなたが気にすることじゃないわ」
「そうですか……」
昨日の話からわかりきっていたことだが、檻だけでなく行動まで同族たちと切り離されていた。いくら僕が同族たちとかけ離れた存在であるとしても、ここまで徹底する必要があるだろうか。
シフォンたちには、僕の事情を勘案する理由がまるでないように思える。
「早く飛びなさい。お腹が空いているの」
「は、はいっ」
触手の締めつけが厳しくなる前に、翼をはばたかせた。その翼も、触手が根元に絡まっているせいでうまく動かすことができない。
しかし、そんなことを物申してシフォンにへそを曲げられたら、問答無用で絞め落とされてしまう。
穏便に、大人しく、刃向かうことなく、ただ命令されたことをしよう。
背中に新たな王者を乗せるなんて恐怖以外の何者でもないが、これは罰なのだ。サザンドラであるという咎は、これから永久的に浄化され続けるはずなのだ。
「まずはオボンの実ね。百個は欲しいわ。他はまあ、他のサザンドラたちが採ってきてくれるでしょ」
「百個!? 一度にそんなに持てな……ぐえぇ」
物凄い力で気道が塞がれた。
「なら二度でも三度でも、分けて運べばいいでしょ? 頭が三つもあるのにそんなことも考えられないの? しょうがないサザンドラね」
酷い言いようだった。頭が三つあるとは言っても、真ん中の頭以外は脳をもたない。
だが、僕はたった一つの脳でただ低頭平身に謝ることだけを考える。
「げほっ……も、申し訳ありません……」
昨日までは、ずっと価値のない生を送ってきた。しかし、今日からは奴隷という価値をぶらさげて、より無様な生を送ろうとしている。
なぜ僕はサザンドラとして生まれてきてしまったのだろう。生まれながら咎を背負うなんて、こんな不条理な世界は絶対に間違っている。
「ふらふらしないで。私が落ちちゃうじゃない」
「はい……すみません……」
「……謝ってばかりね。本当に出来の悪い奴隷」
今なら、わずかな勇気を振り絞って、勢いに任せたまま自殺できる気がする。
しかし、実際にそこまで至ることなどありえず、僕はただ機械的に翼をはばたかせることしかできなかった。
「ま、今日はこれくらいでいいかな。もう休んでていいわよ。檻の中でね」
疲労で完全に擦り切れた体を、僕はシフォンの命令を待つことなく檻の中に放りこんだ。
毎日こんな働き方をしたら、間違いなく早死にする。朝から日が暮れるまでの時間を、ほぼ飛行のみに費やした。
予想した仕事量の五倍は働いた。三度の飛行で、しっかりと百個分の木の実を運んで、それで終わりだったはずだった。
なのに、シフォンはこんなことを言ったのだ。
「リリバの実とビアーの実を探しにいきましょ」
一度も聞いたことのない、当然口にしたこともない木の実だった。
となれば、この辺りに生えているわけがなく、必然的に遠くへと探しにいくことになる。
手綱と化したシフォンの触手に体を痛めつけられながら、ただただ命令に従っていた。
「ここに降りて」と言われればその通りにして、シフォンを降ろす。シフォンはざっとまわりを見渡して、「ないわね」と呟き、また僕の背に飛び乗る。
そして、「飛びなさい」という命令が飛んできたら、また目ぼしい場所を探して飛び回る。
いい加減疲れてきて、翼の動きが鈍り始めてきた頃、ようやくシフォンは諦めた。「今日は見つからなかったね」と。
明日も探すのか、と思わず呆れてしまった。そして、それを見透かされたのか、目的の木の実を見つけられなかった苛立ちか、触手が僕を締める力はいつになく強かった。
「明日も早いからね。おやすみ」
シフォンのわがままに体力は削られ、まだ西の空はわずかに明るさを保っているにもかかわらず、僕は泥のように眠った。
疲れきった状態では寝心地など取るに足らない問題だということは、このときに学んだ。
翌日も同じように早い時間に起こされ、手綱代わりの触手を巻きつけられた。
「みんなの食事の分は採りすぎちゃったから、今日はリリバとビアーの木を見つかるまで探すことにするわ」
まだ飛んですらいないのに、収穫なしのまま日没を迎える様がありありと想像できた。
「わかりました」
それでも拒否は許されない。僕は奴隷なのだから、シフォンの命令を唯々諾々と受け入れ続けるしかない。
一日中の快晴を約束したような真っ青な空に、僕はシフォンを乗せて飛び立った。
それからしばらくは無言だった。特に指示を受けたわけではないが、目星をつけずに飛ぶわけにはいかなかったので、昨日足を伸ばさなかった方向へと飛んだ。
風切りの音と、シフォンのペイルカラーの触手がはためく音だけを聞いている。
フェアリータイプに隷属しているという状況を顧みなければ、かつてないほどに穏やかな時間である。
「気持ちのいい風ね」
ふと呟かれた言葉に、感情の波がわずかにさざめく。おそらくそれは、サザンドラに虐げられていたポケモンが持っていた感情と限りなく同質であるに違いなかった。
従える者はいくらでも呑気に振る舞うし、
服う者はそれを羨ましがり、妬み、恨む。
もし僕が、西の森に連れていかれているという同族たちと違わぬ心を持っていたのなら、シフォンの言葉に苛立って、すぐに彼女を振り落とそうとしただろう。
たとえそれが高確率で返り討ちにあう危険性を孕んでいるものだとしても、彼らの矜持がそうさせるはずなのだ。
罰を甘んじて受け入れるほど、同族たちは大人しくない。
むしろ今でも、彼らは何らかの方法でフェアリーたちに立ち向かい、ぼろぼろになりながらも退け、一昨日まであった覇権を取り戻すのではないかと信じている。
あれだけの力の差を見せつけられたが、萎れるにはまだ早い。
決して願っているわけではない。そうなったところで僕はまた隅っこで自身を責め続けながら無為に生き長らえることを強いられるだけだ。
ルグルスが僕にそうしたように、形だけでも同族たちの心配はする。下手に逆らって、結果死に追いやられることがあれば、いくら同族たちを嫌悪する僕であれどそれなりに悲しむだろうし、また逆も然りである。
そういうわけで、僕は同族たちの動向が非常に気になっていた。
「この下にあるかもしれない。降りて」
ようやく木の実のある場所に見当をつけたシフォンに従い、僕は真下にゆっくりと降下した。
鬱蒼とした森だった。こんな暗がりに染められたような不気味なところは、怖いもの知らずの同族たちでさえ入りたがらないだろう。
足がついて、上を見上げると、青く綺麗だった空はほとんど重なる木の葉に隠れてしまっていた。
シフォンは僕から降りると、「ここで待ってて」と絡めた触手をほどき、僕を置いて木々の向こうへ消えた。
前後左右上下、あらゆる方向を見渡す。まるで実のなる木なんて生えていなさそうな森だ。木の葉の擦れる音だけがこだまし、その音に紛れてポケモンが近づいてきてもきっと気づかないだろう。
「こんなところ、早く出たいよ……」
口に出しから、しばらくして気づいた。
今の僕は、触手に繋ぎ留められていない。シフォンは森の奥だ。逃げることができる。
「でも……」
気づかれたら半殺しでは済まないかもしれない。罰としてもっと重い労役が課せられるかもしれない。
いくら僕が罪を背負っていると言っても、これ以上苦しみを自らの意思で重ねる気にはなれなかった。
口を開けて待っているだけで辛苦は矢継ぎ早にやってくる。いつの間にか染みついた被虐的根性も、限界まで極まってはいなかった。
そして、やはり気づいてしまうのだ。ここで逃げても、決してよい方向に転ばないことに。
隷属から脱却しても、待ち受けるのは元の暮らしだ。同族たちと暮らすことによるしがらみからは解放されるが、僕自身がサザンドラであり、またまわりが僕をサザンドラとして扱うことには変わりがない。
袋小路なのだ。すべては詰みで、行く先などない。
「やっぱり変なの。泣くサザンドラなんて聞いたことがないわ」
俯いた顔を上げると、触手にたくさんの木の実を携えたシフォンがいた。
「目当ての木の実は見つからなかったけど、珍しいのはいくらかあったから、あげるわ」
眼前に差し出された木の実は、まったく味の想像がつかない奇怪な形をしていた。
「私もこの木の実の名前は知らないから、どんな味がするかわからないけど、毒ではないと思うの。だから食べて」
「……いいんですか?」
「ヨルガ、あなた朝から何も食べていないでしょ? 倒れられたら困るのは私なの」
シフォンは憮然とした表情で、ぐいと僕の頬に木の実を押し付ける。
「じゃあ……いただきます」
今にして思えば、このときシフォンは木の実を押し付けつつ、密かに触手で僕の頬に流れた涙を拭き取っていた。
しかし、鬱々とした感情に加えて、シフォンの機嫌が良いわけではないことを察してしまった僕は、ただ与えられたものを口に入れることしか頭になかった。
「美味しい?」
「……酸っぱいです」
「そう。なら私は食べないわ。酸っぱいのは好みじゃないの。これは全部食べていいわ」
僕はさらに木の実を押し付けられ、十二分に酸味を味わった。
仮に運命の悪戯というものがあるとするならば、僕が酸っぱい味を好むという事実が、この状況にぴったりとはまってしまったことだろう。
僕は、同族たちが他のポケモンたちから巻き上げた木の実以外のものをもらったことがない。
それがどれだけ悲しいことか、シフォンから好物の木の実をもらうまで気づかなかったのだ。
「シフォンさんって優しいんですね……」
思わず口が滑って、自分は心底馬鹿だと思った。シフォンにそのつもりは毛頭ないとわかっている。
ただの奴隷に対する憐れみを、なぜ僕はありがたがっているのか。恥ずかしさで空の彼方へと飛んで行ってしまいそうだった。
だが、シフォンは存外にも不敵な笑みを浮かべて、しかしいつも以上に透き通った空色の瞳で言うのだ。
「何を言っているの? 私はいつだってあなたに優しくしてるし、これからもそのつもりよ。檻はあなた専用のを作ってあげたし、他のサザンドラのように陽が沈んでも働かせてはいないじゃない。虐げていたポケモンが復讐してこないように、みんなの棲みかから離れた場所で寝起きさせているし、感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないと思っているわ」
悪魔的な笑みは堂々としていた。僕より小さな体なのに、垣間見える自信は圧倒的だ。
本当は、なぜ奴隷である僕を、何にも繋がず放置して、逃げられる状況を作ったのかと訊いてみるつもりだった。
しかし、すでに自明だった。シフォンの中で、僕が彼女に盾突くという事実は、未来永劫存在し得ない。
「それに……」
「……それに?」
シフォンは何かを言いかけた。
「なんでもないわ。次の場所に行くわよ」
「はい」
返事は滑らかだった。
僕はとんでもなく安いサザンドラなのだという、清々しい自覚が生まれた。
昨日に引き続き、目当ての木の実は今日も見つからなかった。
その夜、シフォンが食べきれない大量の木の実と一緒に、僕は狭い檻の中に収まった。
安寧にふさわしくない、やたらと刺激的な果実の香りが滞留して、気分が悪くなる。
このまま木の実を腐らせないためにも、しかたなく木の実を齧る。
檻さえなければ、こんなに大量の食糧に囲まれている理由を錯覚していたことだろう。普通は奴隷の身分で、十分な食事を得られるわけがないのだ。
「美味しい……」
すべてシフォンが採ってきたものだが、わざととしか思えないほど、酸味を主張してくる木の実だけしかなかった。
シフォンは目当ての木の実以外の知識がないのか、採っていた木の実はことごとく彼女の嫌いな味で、僕は癇癪の一つでも起こされるのではないだろうかと怯えていた。
だが予想に反して、彼女は機嫌を悪くするわけでもなく、ひたすら僕に木の実を持たせ続けた。
とはいえシフォンが上機嫌かといえばまったくそんなことはなく、僕はうっかり地雷を踏み抜かないように言葉を慎重に選びながら会話をする。
昨日は散々こき使われて、行く末は真っ暗だと悲嘆したが、それは思い違いなのではないかと思う。
「でも、まだ二日しか経ってないしなあ……」
たった二日の奴隷生活で、いったい何が計れるというのかと冷静になる。少し舞い上がりすぎだ。
そういえば、シフォンは同族たちが夜遅くまで働かされていると言っていた。流石にこの時間にはもう檻に入っているのだろうが、どんな生活を送っているのか気になってしまう。
また、何を思って奴隷として過ごしているのかも気になる。もしかすると、強大なフェアリーの力に怯えて隷属を受け入れている同族もいるかもしれない。
そして、かつて奴隷として使っていたポケモンたちから、ありったけの罵詈雑言と攻撃を浴びせられている光景も想像した。
身震いした。僕を同族たちから隔離してくれたシフォンが昼間にくれた優しさは、本物だったのだ。
けれども、同族たちが虐げていたポケモンたちが、一様に同じような恨みの感情を抱いていたかと言えば、それは簡単に否定できる。
当然、九割九分は不平不満が腹の底に溜まっていて、しかし爆発させるだけの余裕も勇気もないポケモンたちだった。
しかし、残りの一分、もしくはそれ以下の割合で、進んで同族たちに木の実を献上するポケモンがいた。
いっそ隷属するのならば、サザンドラに気に入られて少しでも平穏な暮らしをしたいという、戦略的な取り入りを選んだ結果である。
とても賢いことだと思った。事実、同族たちはそのような連中を気に入って、足蹴にすることはなかった。
だが、そんな損得勘定なしに、同様のことをしているポケモンがいた。雌のニャースだった。間違いなく彼女は、同族たちに取り入ろうとは微塵も考えていなかったように思う。
「最近ニャースに付き纏われて困ってるんだ」
これはルグルスの言葉だ。悩みというにはあまりにも小さく、僕は心の中で苦笑いしかできなかった。
それに比べて僕の悩みの大きさはいかほどのものかというお決まりの思案が堂々巡りして、僕は上の空でルグルスの話を聞いていた。
ルグルスがそのポケモンに付き纏われる理由を彼なりに導き出したらしいが、それにさほどの興味も抱かなかった。
つまるところ、どうでもよかったのだ。
一応、理解不能で不思議な仔だね、とはルグルスに伝えた気がする。
理解不能。
そのときは間違いなくそう思っていた。
ただ、今ならそのニャースの行動原理が手に取るようにわかるのだ。
ルグルスの失敗は、れっきとしたサザンドラであるくせに、奴隷同然に扱われていたニャースが食料収集の際、誤って川に落ちて溺れていたところを助けてしまったことである。
ルグルスにしてみれば一時の気紛れに過ぎないものを、ニャースは大袈裟に受け取った。
普段彼女を含むその他大勢のポケモンが、サザンドラたちに酷く貶められていることを忘却の彼方に置き去りにして、ありえない感情を育ててしまったのだ。
もしかしたら、それはある種必然的なものであるのかもしれない。
右腕の頭に咥えた酸味のある木の実を見つめながら、すこし肌寒い夜更けに、僕はそう思うのだ。
「いい加減見つかってもよさそうなんだけど、全然見つからないわね。これ以上遠くに行くわけにはいかないし、もう諦めた方がいいのかしら」
十日経っても、シフォンが探している木の実は見つからなかった。
僕を檻に入れながら、シフォンはため息をついた。夕陽がシフォンの顔を照らして、彼女の瞳には夕焼け空が描かれていた。
「今日見つけた木の実は全部食べていいわ」
これも、ここ十日でお決まりの台詞になっている。シフォンは一日に一つの木の実しか口にしないので、余った分はすべて僕が消化しなければならない。
そのせいか、僕は奴隷であるのにもかかわらず肥え始めていた。
日が出ている間はほとんど空を飛んでいるはずなのに、なぜか体重は重くなっていく。
運動量が足りていないのだ。飛ぶといっても、シフォンがいつも背中に乗っているから、速度を出すことができない。
「でもやっぱり諦めちゃ駄目ね。きっとどこかにあると思うわ。だから明日もよろしくね」
シフォンは、明日も同じく探索に出かけることを告げた。
バトルは生きてきて数えるほどしかしたことがない。従って、覚えている技を使うこともほとんどなかった。
火炎放射によって、煌々と燃えて消滅していく檻を見ながら、この明るさは夜にどれだけ目立っているのだろうかと考えた。
この檻が見た目とは裏腹に簡単に壊せるのではないかということは、十日前の出来事から推測した。
檻を頑強に作らずとも、僕なら檻を壊して逃げるという選択肢を選ばない。僕専用の檻とは、つまりそういう意味だったのだ。
シフォンの思惑は多分に正しかった。僕は逃げ出すためではなく、シフォンがずっと探している木の実をひとりで探すために檻を壊した。
背中にシフォンが乗っていると、行ける距離は制限される。ひとりなら、もっと遠くへと探しにいけるのだ。
夜間飛行はあまりしたことがない。暗いというだけで、日が出ているときよりもずっと危険だ。
しかも、見たこともない木の実を探すとなれば、余計に難儀することだろう。
「怒られないかな……」
今更後悔しても遅いが、それでも自分がしたことの恐ろしさを実感せずにはいられなかった。
逆三日月がかすかな光を与える黒々とした空の下を、疾風のように飛んだ。
背中の軽さと、手綱をつけられていないことに違和感を覚える。十数日で、随分と奴隷慣れしてしまった。
ひとまず、シフォンを連れていけないようなところまで飛ぼうと思った。
東に真っ直ぐ進んで、下界をどこまでも後ろに流していく。
「僕ってこんなに速く飛べたんだ」
体のかさは増えたはずなのに、まるで翼は疲れを訴えない。触手で締めつけられているうちに、多少なりとも体力が増強されたらしい。
さて、どの辺りに降りよう。木の実のある場所はまるで見当もつかないので、しらみ潰しに探索していく。
どのみち、一度も目にしたことのない木の実はすべて回収するつもりだった。リリバの実もビアーの実も、どんな形をしているかさえシフォンは教えてくれなかったから致し方ない。
「まずはここの原っぱにしよう」
背の低い草木が茂っている草原を見つけたので、そこを中心に実のなる木を探すことにした。
ぽつぽつと生えている低木を、一本一本調べていく。
「これは……ナナシの実か」
暗くてよく見えないが、右腕の頭が知覚した、もぎった木の実の味は、間違いなくナナシの実のそれだった。
シフォンに大量の木の実を与えられているうちに、三つの舌は鋭敏になっていた。
別の木を探す。今度はとげとげしい木の実を実らせていた。
「……!? 辛い!」
マトマの実だった。左腕の口が悲鳴を上げる。
たまにこのような極端な味がする木の実があるが、こんなものいったい誰が好んで食べるのだろうか。
こんな作業を延々と繰り返していては、舌が馬鹿になってしまう。もっと慎重にいこう。
今度こそ目当ての木の実が見つかりますようにと祈りながら、少しだけ背の高い木のもとへと移動した。
折り重なる枝と葉を掻き分けて、大きな塊に触れた。
「これは木の実かな?」
腕で齧りつくと、さっぱりとした甘さを感じた。間違いなく木の実だ。しかも、僕の記憶にはない味だ。
これがリリバかビアーか、それとも他の知らない木の実なのかはわからないが、新たな収穫として三つほど頂くことにした。
目ぼしい木を他にもいくつか当たったが、この草原での収穫はこれだけだった。
「まだまだ、いっぱい見つけないと……」
思いのほか少ない収穫に焦って、さらに遠くへと飛んだ。
収穫したものがすべて外れだったら、シフォンは絶対に怒るだろう。檻を壊してまで要らない木の実を集めてきた奴隷に与える慈悲などないはずだ。
「そういえば……」
次に着陸する場所を探しながら、なぜシフォンは二つの木の実に執着しているのかを考えた。
いわく、シフォンはその木の実が特別に好きではないのだという。
事実、シフォンは甘いモモンの実を好んで食した。
そのモモンの実も、ありふれた木の実で、手に入れられず困るなんていうことはない。
もしや、モモンの実など目ではないほどの好物なのではないか。そんな素振りは露ほども見せないが、実はシフォンの舌は僕よりも肥えているのかもしれない。
「今度はここだ」
先ほどの場所とは打って変わって、高い木が乱雑に絡み合う森の中に入った。
不気味だが、こういうところにこそ目当ての木の実があるのかもしれない。シフォンも、よく探しているのは気味の悪い木ばかりが生えている場所だった。
そうして、また同じ作業を飽きるほど繰り返した。
頭痛がするほど苦い木の実や、酸味が好きな僕でさえ呆れるほど酸っぱい木の実を引き当てて、確実に舌は麻痺していく。
収穫を一定量得る頃には、舌は完全に味覚を失っていた。これ以上の続行は不可能と判断して、腫れ上がった舌を一刻も早く休ませようと、僕は帰る準備をした。
ところが、僕は気づいていなかった。僕がいの一番に避けるべき失敗に、どっぷりと浸かっていたことに。
ふらっと飛び上がって、逆三日月の下を飛翔するイメージが体に重なる前に、僕は尻尾を何者かに掴まれ、下に引きずり込まれた。
「うわ、わ!?」
「てめえ、何者だ!? ここで何してやがる!?」
強い力によって、僕は木の枝をいくつも折りながら地面に墜落させられた。
その衝撃で木の実が何個か潰れてしまったが、もっとも僕が忌避するポケモンにのしかかられてそれどころではなかった。
サザンドラ。
黒々とした眼球に赤い瞳、花のように開いたとさか、見た者に恐怖心を植えつける三つ首。更に特筆すべきは、並のサザンドラの一倍半はあろうかという巨体だった。
真夜中に出会っていいポケモンではない。
「って……お前もサザンドラじゃねえか! でもここの縄張りのやつじゃねえな」
「ご、ごめんなさい! でも決して荒らしていたわけじゃなくて……誰かの縄張りだとは思っていなくて……」
頭が真っ白になっていても、口は勝手にしどろもどろの弁明をする。
「……まあいい。間違いは誰にでもあることだ。あまり騒ぐと仲間たちが起き出してきて面倒なことになる。散らばった荷物は片付けて、さっさと帰ってくれ」
誰のせいで騒がしくなる羽目になったんだとは口が裂けても言えない。けれども、幾分か他者の都合を理解する能力があるという点で、このサザンドラは僕が思い描いたサザンドラよりもまともに見えた。
僕の体から退いたサザンドラは、僕を監視するがごとく鋭い眼光でねめつける。
そんなに睨まなくてもすぐに立ち去るよ、と巨大なサザンドラに背を向けながら、潰れかけた木の実を回収する。だが、
「いや、やっぱり帰るな。少しだけ話がしてえ」
巨大なサザンドラはそうのたまった。
恐怖で体が引きつる。僕の所作が図らずも彼の気に障ったのかもしれない。
「お前、もしかして奴隷にされているんじゃねえか?」
僕は目を見開く。いったい何をもって僕の現状を見破ったのか。
巨体のサザンドラは、予期せざる赤黒い
炯眼を持っていたのだ。
「俺はグレアだ。お前は?」
「ぼ、僕はヨルガだよ」
互いに向き合い、仕切り直しの自己紹介を行う。
グレアと名乗ったサザンドラは、僕の前腕に、腕の頭で噛みついてきてぶんぶんと振り回した。
サザンドラの場合は普通の握手をしようとすると、お互いの手が舌を絡ませ合うという大変いかがわしいものになってしまうために、友好を認める場合にはどちらかが多少の痛みを強いられる。
「これで俺とお前は仲間だ」
グレアの言葉に、心の奥底が拒絶反応を示す。しかしおくびにも出さずにやり過ごすのは僕の十八番だった。
それに、グレアにはすでに僕がサザンドラとして欠陥品であることを見抜いているだろう。
にもかかわらず、僕を仲間だと憚らずに表現したことに、感動していることは事実だった。
逃げ帰るなどという失礼なことは到底できない。逃げたら逃げたで、一瞬で捕まってしまいそうだが。
「で、本題だが、お前はシフォンというニンフィアを知っているな?」
眉間にしわを寄せたグレアに思わずたじろぐ。僕はただ「うん」と答えた。
「そうか……。お前からそのにおいがしたからな。フェアリー特有の、甘ったるい、鼻につくにおいが」
普段シフォンを背中に乗せているからだろうか。それにしたって、敏感に嗅覚が反応するほどのにおいではないように思う。
驚くべきは、グレアの並外れた嗅覚だ。
「グレアもシフォンを知っているの?」
「……知っているなんてもんじゃねえ。憎悪の対象だ。いつかその肉を喰らって殺してやりてえと思ってる」
物騒な言葉に身がすくむ。僕の知っているサザンドラよりも多少は友好的とはいえ、そこらのサザンドラよりもずっとサザンドラ然としていた。
「察するに、お前の仲間たちもシフォンとその仲間にいたぶられているんだろう」
「……うん」
いたぶられているかどうかはさておき、奴隷になっているのは事実だ。僕は隔離されているから、詳しい実情はまるで知らないが、グレアはそのことを知る以上に、自らの境遇を語りたがった。
「俺と……その仲間たちは、ずっと愉快な日々を送っていた。弱いポケモンたちを使って、楽園を築いていた。だが、ある日突然、あの畜生どもが俺たちの楽園を荒らしに来やがった。サザンドラ狩りのシフォンなんて通り名を噂で聞いたことがあったが、ただの噂に過ぎないと、そのときまではずっと思っていた」
グレアの顔はいよいろ深刻さと凶悪さを増してきた。
「あの憎きシフォン軍団の玩具にされ、どれだけ辛酸を舐めたか。朝から晩までこき使われて、ぼろぼろにされて、終いには飽きたと理由で俺たちを完膚なきまでに叩きのめしたあと、どこかへ行ってしまった。……もはや俺たちの手元には何も残っていなかった。使っていたポケモンたちもみんな解放されちまった。あの雌ガキ、荒らすだけ荒らして、俺たちをゴミのように……! ありゃあ悪魔だ! フェアリーなんて、耳触りのいい雰囲気をまとっているだけの悪魔なんだ!」
僕らと寸分違わぬ構図だった。王者が奴隷に貶められる、最大にして最悪の屈辱。
「今も、俺の仲間たちの傷は癒えていない。こんな森の奥に引き籠って、ひっそりと暮らしている。本当にかわいそうだ」
グレアは後ろの、洞穴のようなうつろがぽっかりと口を開けている、森の奥に続く道を見やった。
「そして今、お前の仲間が脅かされている。シフォン軍団の行方をずっと探していたが、また同じように同族をいたぶっている……!」
青筋を立てて興奮するグレアから、赤い湯気が立ち上る。
「同族の危機に立ち上がらずして、いつ立ち上がる? 今こそ、復讐の時だ!」
グレアが咆哮する。森に獰猛な唸り声と地響きがこだました。
なんという迫力だろう。世界で一番嫌いなポケモンのはずなのに、このときだけは王者としての風格に敬服するほかなかった。
「グレア……やるのか?」
咆哮に呼応するように、一匹のサザンドラが森の奥から飛んできた。
それを皮切りに、たくさんのサザンドラたちがぞろぞろとやって来る。
「ずっと機会をうかがっていた。来たる日のために、どうしたらシフォン軍団を倒せるかを研究した。妖精は何に弱いのかを、な」
グレアの背に、たくさんのサザンドラが並んだ。暗くて数は把握しきれないが、相当な数だ。
「ヨルガ、お前は知っているか? あいつらの弱点を」
「弱点……?」
グレアが僕に尋ねてきて、はっとした。
当然の話だが、弱点を持たないポケモンはいない。悪や竜を制するフェアリーにも、何らかの弱点はあって然るべきなのだ。
「そう、弱点だ。竜の息吹も逆鱗も無効化され、悪の波動もほとんど効かない。別のタイプの技じゃないと、フェアリーどもにダメージは与えられねえ」
グレアはにやりと笑った。
「ヨルガ、お前も見るか? フェアリーどもを破滅に導く、この輝く光を!」
天に向けられたグレアの右腕の先に、集約される光。
「これは……」
一条の光線が空を切り裂く。眩さに細めた目で僕が見たものは、冷たい鋼のエネルギーだった。
とんでもないことになってしまった。
尋問を受け、グレアから解放される頃には、夜は明けようとしていた。
次の夜に、グレアたちはシフォンたちを倒す必殺の武器を携えてやって来るという。
「そういやヨルガ、そんなに大量の木の実をもってどうするんだ?」
帰り際に、グレアは余計なことを訊いてきた。
「お腹を空かせている仲間たちのために、木の実を食べさせてあげたいんだ。檻を抜け出せるのは僕しかいないから」
「……仲間のためとはいえ、戻るのは怖いだろう。お前の殊勝な気持ちは受け取った。必ずお前たちは助け出してやる。どうか今日だけは耐えてくれ」
シフォンのために自主的に木の実採集に励んでいたという本当のことはもちろん言えなかった。気でも狂ったかと、跡形もなくなるまで粉々にされてしまうのが落ちだ。
雁字搦めとはまさにこのことだ。
僕はただ木の実集めをしていただけなのに。これはきっと、檻を壊して抜け出すという身のほど知らずが招いた罰だ。
「どうしよう……」
涙が零れてくる。怒りとか悲しみとか、そんな手頃に扱える感情ではない。強大なものに板挟みにされて、ただ自分の無力さを思い知らされたときの、情けない涙だ。
『やっぱり変なの。泣くサザンドラなんて聞いたことがないわ』
そうだ。僕は変なサザンドラだ。普通のサザンドラは、グレアの話を聞いて意気揚々とした気持ちになるのに、僕は違う。
いっそ死にたいという思いが、久しぶりに芽吹いた。
壊れた檻は、元通りに修復されていた。シフォンは触手をうねらせながら、ただはにかんだままそこに立っていた。
「お帰り。直しておいたわ」
怒っている様子もなく、そして僕を咎めるわけでもなかった。
それどころか、僕が抱えた大量の木の実をみて、喜んでくれた。
「ヨルガのことだから逃げるなんて思っていなかったけど……驚きね。ありがとう。あなたは最高の奴隷だわ」
しかし、シフォンの笑顔とは裏腹に、僕の心は嵐のような雨が吹き荒んでいた。
「ビアーの実はないけれど、リリバの実はあるわね。これ、ずっと欲しかったの」
シフォンの空色の瞳に、朝焼けが映り込む。夕焼けが映り込んだ昨日の夕方よりも、もっと幻想的で美しかった。
この美しさが、グレアたちに破壊されるのか。
「ねえヨルガ、疲れてる?」
「……いいえ」
夜通し出かけていたのだから、疲れているに決まっていた。
だが、目は冴えている。眠ろうとしたところで、休まらないのは明白だった。
「なら、ちょっと連れていってほしい場所があるんだけど」
口からのぞく小さな歯は、グレアの巨大なそれとは違って可愛らしい。
僕もこんなきらきらしたポケモンに生まれたのなら、もっと楽しく生きることができたのだろうか。
シフォンを乗せて南の方角を目指すが、いつまで経っても陰鬱な気分は抜けなかった。
「ねえ、綺麗だと思わない?」
「……はい」
一面の花畑。赤、紫、黄、橙、桃――花たちは、それぞれが自由に咲き誇っていた。
そして、色彩の絢爛を支える、どこまでも静寂な空間。
花畑の中に一歩入り、紫色の花を一輪摘んだ。名前はわからないが、花びらの先がとがっている、印象的な花だった。
「これ、あなたの頭みたいね」
馬鹿にしているのか、それとも純粋に花と僕に共通性を見出しただけなのか。意地悪な顔はしていなかったから、たぶん後者だろう。
それどころか、シフォンはかすかに笑っていた。いつか僕に見せた悪魔的な笑みの面影は一切なく、屈託のない笑顔だった。
まさにフェアリーだった。
「シフォンさん……」
「何?」
今日の夜、復讐の牙を研いだサザンドラたちが、あなたたちを襲ってきます。
たった、それだけのことを、全力で伝えたかった。大声で、この花畑の花が吹き飛んで更地になってしまうくらい、大声で伝えたかった。
けれども、言い出せない。シフォンたちの危機なのに、臆病風が僕をさらう。
もはや何が間違っていて、何が正しいのかもわからなくなっていた。
背負ってきた重い咎を罰する存在が現れれば、少しは楽になると思っていた。
だが、同族たちを真の意味で裏切れるほどに、僕の心は強くない。
グレアたちの復讐も、間違ってはいないのだと思う。シフォンたちがしていることは、その前にサザンドラがやっていることとさほど変わらないのだから。
「ねえ、ヨルガ。私はあなたからずっと探していた木の実をプレゼントされてとっても嬉しかったから、そのお礼……じゃなくてご褒美にここに招待したんだけど、やっぱり気に入らなかった?」
「……まさか。すごく気に入っています。ここで一日中ぼうっとできたらいいなって……そうしたら、色々と辛い思いをせずに済みそうだから」
僕は、こんな美しい場所にいても、後ろ向きな考え方しかできない。
「シフォンさんは、なぜサザンドラ狩りをするんですか?」
この場所にまるでそぐわない問いだった。楽しい場所なのに、僕の心はその楽しさを潰したがっているようだった。
「あなたからそんな言葉を聞くなんてね。……だって、許せないじゃない。小さい、弱いポケモンたちを奴隷のように扱っているくせに、自分たちは悪いことをしていると思っていない。なら、自分たちがその立場になれば、少しは自分たちがどれほど酷いことをしてきたのかを反省できるでしょ?」
正論、なのだろうか。判別するには、精神的な体力が足りていなかった。
「あなたは違うみたいだけれど」
四方に広がる花畑を見渡して、シフォンはリボンのような触手をなびかせる。
「あなたに会った初めての夜、本当はあなたを倒そうとして近づいたの」
シフォンが、
訥々と独白する。柔らかなペイルカラーの触手で、僕の頬を撫でながら。
「でもやめちゃった。私が憎んでいるのはサザンドラで、あなたはサザンドラじゃなかったから」
「……僕はサザンドラですよ」
この姿だからこそ、何度も辛い思いをしてきた。幾重にも折り重なった思い出が、心の底に澱となって溜まっている。
「見た目はね。でも中身はサザンドラじゃない。そうでしょ?」
シフォンがそう言うなら、きっとそうに違いない。
「最初に木の実をくれたとき、だまし討ちを仕掛けてくるのかと思ったの。でも、そんなことをしてくるわけでもないし、思い切ってムーンフォースを見せても、綺麗なんて言い出す始末。訳がわからなくなって思わず悪態をついてしまって……」
僕が一時的に悩んでいだシフォンの言葉は、動揺から口をついて出たものだった。完全に悩み損だった。
「あなたを奴隷として扱うのは間違ってると思ってる。でもあなたを特別扱いしてしまったら、秩序が乱れてしまう。実際、専用の檻を作ることさえ反対意見が出たわ。私の権限で無理矢理押し通したけれど」
あれほど僕を奴隷呼ばわりしていたのに、急にしおらしくなったシフォンは、まったくシフォンらしくなかった。
「ここは……すごくいい場所よ。誰にも傷つけられることなく、穏やかに暮らせるわ。特に、ヨルガみたいなポケモンにはぴったりだと思う」
なぜ、シフォンはそんなことを言うのだろう。
「戻りましょ。お腹が空いちゃった。それと」
シフォンは一拍置いて、続けた。
「作り直した檻は、いつでも壊せるわ」
僕は途端に悲しい気持ちになった。それをシフォンは悟られまいとこらえるのも、かつてないほどの痛みを伴った。
シフォンにそんなつもりは露ほどもないだろう。しかし、飛んで帰るときに交わした他愛のない会話は、すべてが離別の言葉にしか聞こえなかった。
月日は流れて、季節は一回りした。
結局のところ、僕とシフォンはそれぞれがまったく交わらない次元の上で生きていた。
凶竜と妖精。互いに
敵愾心を抱くことはあっても、恋心が育まれることはない。
僕の中身は凶竜ではないから、その限りではなかったが、いつしかそれも忘れてしまうだろう。所詮は隷属という事実が覆い被せた幻想だ。
臆病を極めた僕が、最後に選んだ選択肢は、逃げることだった。
嫌いな同族たちから。隷属から。争いから。僕を苦しめる檻をすべて燃やし尽くし、逃げた。
時折、僕の選んだ道は果たして正解だったのかと自問する。シフォンの提示した道をなぞることが、僕の幸せに繋がったのだろうか、と。
ただ一つ確かなことは、この花畑が、シフォンが僕にくれた唯一の宝物だということだ。天命を迎えるそのときまで大切にしようと思う。
「どうしているかな……シフォンは」
花畑の真ん中に植えた、檻から持ち出した木の実は、もう立派に成長していた。
その中には、シフォンが欲しがっていたリリバの実の木もある。いくつかあったうちの一つを、思い出として頂戴してきたのだ。
グレアが引き連れた軍団と、シフォンたちの戦いの結果は、もう知る由もない。
噂が風に運ばれてくることもない。僕は、綺麗な花だけが息づくこの場所で、たったひとりで生きている。
シフォンはもう死んでしまったのではないかと思う。生きているなら、ここにいる僕を訪ねることぐらいはできるはずだからだ。
グレアとその仲間たちがもつ凶悪な鋼の力に対抗する術を、シフォンたちは持っていなかったはずだ。
「……シフォン」
シフォンが出会ったときに見せてくれた、銀色の満月のような幻想は、きっと永遠に解かれない。
悲しむくらいなら、シフォンと一緒にいることぐらいはできたはずだ。逃げた僕に、悲嘆する権利などない。
だから。だからこそ。
僕を締めつけ続けたペイルカラーのリボンが、後ろから首に巻きついてきたとき。
「なんで泣いているの? サザンドラなのに」
僕は死ぬほど嬉しかったのだ。