二 飛翔体
「まだ息があるぞ。ハトーボー、オニスズメ、とどめを刺してやれ。ウォーグル、お前はトゲチックだ!」
激しい雨音に怒声は紛れ、羽ばたきと悲鳴が交錯する。心を奮い立たせ、なんとか立ち上がった僕に、鳥ポケモンたちが凄まじい勢いで迫ってくる。本来ならば、恐怖に再び心がしぼみ、足がすくんで動けなくなるところだ。
だが、もうさっきまでの僕とは違う。
「何!?」
濁った素っ頓狂なハンターの声は、やはり雨に掻き消された。多分、なぜ避けられたのだと問いたいのだろう。遥か後方で間抜けに目を瞬かせている鳥ポケモンも同様だ。
すいすい――雨の中では、僕の動きは見違えるほど速くなる。
「喰らえ!」
僕の得意技のバブルこうせん。雨で威力もかさも倍増したそれは、二匹に逃げるいとまを与えなかった。
「避けろ! ハトーボー、オニス……」
ハンターの指示は、惜しくも二匹に届かなかった。泡が次々と爆ぜ、強力な水のエネルギーが彼らに飛散する。うめき声を上げながらどしゃり、と鈍い音を立てて水溜まりに墜ちた彼らは、そのまま動かくなった。気を失ったようだ。
「あとは……あいつだ!」
雷鳴の轟く空に、大きな影と小さな影が激しく乱れている。優勢なのは大きな影であり、トゲチックは攻撃に当たらないようにするだけで精一杯のようだった。
「トゲチック、こっちに!」
空では、トゲチックと共闘することはできない。だからトゲチックをこっちに呼び寄せる必要があった。
トゲチックはウォーグルの一撃をするりとかわすと、再び攻撃される前に地面に降りてきた。そして、僕の背後に陣取る。
ウォーグルは一度態勢を整えるために、ハンターのそばに寄った。
「ちっ、二対一か。まあいい。ウォーグル、先に倒すのは邪魔者の方だ」
ハンターは狙いを僕に変更してきた。ウォーグルはハンターの腕に止まり、こちらをじっと見据えている。
「アメタマ、気を付けて!」
「大丈夫、地面での戦いなら……」
スピードは負けないはずだ。そう、思っていた。
「やれ」
ハンターの冷淡な声に、僕とトゲチックは震えた。まるで、今から本気を出すと警告しているようだった。雨音がいやに大きく聞こえる。
ウォーグルがハンターの腕を蹴り、飛び立った。そこまではしっかりと見えていたはずだった。
「アメタ……」
トゲチックの声が急激に遠ざかる。自分の身に何が起こったのかわからない。ウォーグルの爪が僕の体にぐいぐいと食い込んだ。まるで握りつぶされてしまうかのような痛みに、僕は声が出すこともできない。今にも失神してしまいそうだった。
「地面での戦い? お前馬鹿じゃねえの?」
乱暴な言葉は、爪同様に鋭かった。きっとこのポケモンは、ハンター同様、完膚なきまでに叩きのめすことになんら抵抗を感じないのだ。爪が食い込んだ部分から血が流れる。
また意識が飛びかける。既に地面は遠く、空が近い。上昇を続けるウォーグルが何をしようとしているのかがわかってしまい、恐怖が滲み上がってくる。
暗黒の空は――僕に素敵なものを沢山落としてくれる空は、こんなにも怖いものだったのか。
「てこずらせやがってよ。これで終わりだ。あばよ」
ウォーグルの爪に込められていた力が、緩んだ。僕の体は、自由落下していく。景色が高速で流れる。雨粒だけは止まっているように見えた。
きっとこのまま死ぬのだと直感した。
まだやり残したことはいっぱいあるのに。もっと泥遊びしたかった。もっと水溜まりを滑走したかった。もっと羽根も拾い集めたかった。
それにもっと――トゲチックと一緒にいたかった。
トゲチックはいつだって悲しい顔をしているけど、僕はトゲチックのそばにいるだけで幸せだった。
――トゲチックが「幸せだった」と嘘か本当かわからないようなことを言ったけど、もしかして特別なことをしなくたって、一緒に寄り添いあうだけで幸せを感じていられたのかもしれない。こんなことになるのなら、ちゃんと僕の気持ちを伝えておけばよかった。
地面に激突まで残り、数秒。せめて一瞬で逝けるようにと、目をぎゅっとつぶり、祈った。
しかし、何かに当たった感触は地面のそれではなかった。
「……トゲチック?」
墜落する直前に、トゲチックが背中で僕を受けとめていた。あの日僕らが果たした衝撃的な出会いと重なる光景だった。しかし、受けとめたのは僕ではなくトゲチックの方で、そのやり方も僕の数十倍上手かった。痛みはまったく感じず、まるで綿の上に着地したような感覚だ。
「大丈夫? 今降ろすからね」
「うん。ありがとう」
地面がこんなにも愛おしいものだとは思わなかった。ウォーグルに捕まっている間、生きた心地というものを感じられなかった。
しかし、それは今でもあまり変わらないのかもしれない。ウォーグルの爪が僕の体力をかなり奪っていたせいで瀕死寸前、トゲチックだって傷だらけだ。正直、あの強力なウォーグル相手にどう勝てばいいのかが皆目見当がつかなかった。
「ったく、仕留め損ねやがって」
上空から戻ってきて僕が死んでいないことに驚く顔をするウォーグルを、ハンターはねめつけた。ウォーグルは悔しそうに僕らを睨みつけている。
「もう生け捕りにできりゃ何でもいい! 奴らにいわなだれだ!」
「そんな……飛行タイプなのに岩タイプの技を使えるなんて……」
ここにきて真の危機が訪れる。僕もトゲチックも、岩タイプの技は弱点だ。疲労困憊、これ以上攻撃を受けたら一貫の終わりというときに、そんなものを喰らってしまったら、ただでは済まない。
「避けないと……!」
だが、ウォーグルは既に技を発動していた。何もない上方の空間からおびただしい数の岩が創り出され、僕たちに降りかかる。逃げる猶予などないに等しかった。
「げんしのちから!」
「えっ!?」
しかし、こっちも負けてはいなかった。なんとトゲチックも岩タイプの技を使えたらしい。地面からせり上がってきた、やはりおびただしい数の岩が次々と降りかかってくる岩に飛んでいき、ぶつかり合って相殺した。
「す、すごい……」
けれども、感心している余裕はなかった。相殺しきれなかった岩が僕ら目がけて降ってくる。避けきれない。
「トゲチック、逃げて!」
トゲチックは精一杯応戦したが、僕はもう助からない。せめてトゲチックだけには逃げ切ってほしい。体力的に辛いかもしれないが、飛んでいけば逃げられるだろう。そう思って叫んだときには、トゲチックはそばにはいなかった。
既に退避していたのか。良かった、これでトゲチックは助かる。僕にはもう避けきるだけの体力は残っていない。迫り来る岩石が死神そのものに見えた。
だが、想定外のことが起こった。真っ直ぐに落下してきたはずの岩石が、突如として軌道を変えた。僕には当たらず、とんでもない方向に飛んで行った。
「な、なんで……」
その方向には、なんとトゲチックがいた。
まさか――。
『このゆびとまれ』
「トゲチックうううっ!」
僕の叫びにならない叫びは、きっとトゲチックに届かなかった。
岩石が爆砕する音。墜落するトゲチック。僕だけを狙い、トゲチックには本気で当てることを考えていなかったであろうウォーグルは呆然とし、ハンターは慌てふためいた様子でトゲチックの元へと駆け寄った。
「トゲチック……そんな……そんな……」
あんなものが当たって無事であるはずがない。トゲチックは水溜まりの上でぐったりとしていて、動く気配はない。助かるようには見えなかったし、そもそも息をしていないようにも見えた。雨の音がうるさい。
「おい、しっかりしろ! おい! くそっ、何でこんなことに! ウォーグル、お前命令の意味わかってたのかっ!」
ハンターがトゲチックを持ち上げて、乱暴に揺さぶる。それでもトゲチックが目を開けることはなかった。
僕の心にふつふつと湧き上がるこの感情は、怒りか、悲しみか。ない交ぜになっていて、判別のしようがない。ただ一つ、間違いなくやらなければいけないことは、奴らの手からトゲチックを引き離さなければならないことだった。
「トゲチックに触るなあ!!」
「な、なんだっ!? あいつ、光って……!?」
体が眩い光に包まれ、姿形が変わる兆しを見せる。本来ならば、かつての自分と決別し、新しい自分に出会う大切な通過点のはずなのに、感慨はまったくなかった。ただ、奴らを許せない気持ちと、トゲチックを想う気持ちだけが湧きあがる。
四枚の白い側翅。大きな目玉模様のついた、頭部から生えた翅。トゲチックと同じ色の白い体。真新しい
貌を身にまとい、僕は攻撃を開始した。
「かぜおこし!」
怒りを翅に乗せて大きく羽ばたかせると、たちまち強風が巻き起こった。それは大きな雨粒を伴って、さながら嵐のようだった。
「た、ただのかぜおこしが……何でこんなに……!」
ウォーグルはなす術もなく吹き飛ばされ、ハンターは二本の足で踏ん張ることが精いっぱいだった。
「トゲチックを離せ!」
より強く羽ばたくと、ついに耐えきれなくなったハンターの手からトゲチックが解放され、その白い肢体は雨の中に舞い上がった。風に飛んでいくハンターを尻目に、僕は全速力でトゲチックの元へと向かい、地面に落ちてしまう前にその体を背中で拾った。
雨ですっかり冷えてしまったトゲチックの体を、ゆっくりと地面に降ろす。なんだってこんな悲しいことをしなければならないのだろう。こうなるはずだったのは僕の方で、君がこんな風になってしまう道理なんてなかったのに。
「ごめんね。僕のせいで」
本当に情けなかった。幸せにするどころか、もう生きている姿を見ることすら叶わないなんて。
涙が雨に、水溜まりに、溶けた。
「私、まだ……死んでないよ?」
「トゲチック……?」
トゲチックは生きていた。息をするのも苦しそうで、やはりそんな姿を見るのも苦しい。だが――、
「良かった。良かった。本当に……」
涙でトゲチックの顔が滲んだ。
「進化したんだね……。心配かけてごめんね。でも私、ずっとハンターから追われる生活してきたから、避けるのだけはひと一倍上手いんだよ? 直撃だけはなんとか……ね」
「それで攻撃を自分に向けるなんて、危なすぎるよ……」
「おい、ウォーグルう! 諦めてんじゃねえぞおお!」
醜悪な怒声が、凄みと執念深さを帯びてやって来る。
「あいつら……!」
「大丈夫、もうこれで終わりだから」
「え?」
「あんな無茶をしたのにはちゃんと訳があるの。聞いて、アメモース……」
僕はトゲチックの言葉に耳を傾けた。作戦というにはあまりにも単純だ。だが、この地獄を終わらせるにはもうこれしかない。この一撃にすべてを託そう。
「ウォーグルうう! つばさでうつだああ!」
ハンターは半狂乱で、ウォーグルもまた主人の魂が乗り移ったかのように突進してくる。トゲチックを生け捕りにすることはもう忘れているのだろう。
「アメモース!」
「うん! ぎんいろのかぜ!」
僕は飛翔し、しあわせのこなに似た銀色に光る鱗粉を暴風雨に乗せた。僕の最高の技であるぎんいろのかぜは、向かってきたウォーグルを直撃した。しかし、勢いを完全に殺すには至らない。ウォーグルの必死さがまだ勝っていたのだ。
こっちが勝つには、有らん限りの力を使い、トゲチックと一緒に迎撃するほかに方法はない。
「トゲチック! いっけええ!」
トゲチックが最後の力を振り絞って技を繰り出す。
金色の光を纏ったトゲチックは、銀色の暴風に乗り、ウォーグルへと向かっていった。
トゲチックが言うには、この技は、自分の持っているこの技以外の技を戦闘中にすべて使ったときにようやく繰り出せるようになる、いわば必殺技なのだそうだ。
僕とトゲチックの、光り輝く『とっておき』。確かにウォーグルはとんでもない強さだった。僕らにはもう一分の余裕さえ残されていない。しかし、僕らの合わせ技に対抗し得るだけの力は、もうウォーグルにはない。
衝撃波が湿原全体を揺らした。暗い空が、目の眩むような眩しさに染まった。煌煌と宙に留まり続けるトゲチックと、墜落していくウォーグル。もう、脅威はなくなった。
雨が冷たい。火照った体が、ゆっくりと冷えていく。