1
僕の闇が、いつになく蠢いている。
物心ついたときから心に巣食っていた二面性はいかんともし難かった。自分以外のすべてを蝕みたい欲望を持つ僕と、それを堰き止めている良心の僕。言うなれば、裏と表。僕は、二つの性質こそが僕を僕たらしめているのだと頑なに信じていた。
ある日、突如として僕は分離した。ぴったりと背中合わせだった裏と表が乖離したのだ。
表はどこかへ消え去った。僕の内に残ったのは裏の方だった。いや、残ったのではない。僕そのものが裏だったのだ。
僕を巣食っていたのは表であり、ようやくその束縛から解放されたのだ。僕は健全な状態になった。
一つ。それは赤い服を着て、髪を三つ編みにして二つ下げにしていた。今は土の中に埋まっている。
二つ。それは膝の見えるほどの短いズボンを履き、黄色い半袖を着ていた。顔と四肢が日焼けしたその体は、やはり土の中に埋まっている。
三つ。それは目の前に転がっている。青いシートに包まれ、枝のように細い指先と、腰まで伸びる長い髪の毛が隙間からのぞいていた。
そして、ゆっくりと大穴の底に据えられた少女は、やさしく土を被る。
次は、四つ目――か。
僕は翻って森を彷徨う。
嗚呼、もっと、もっと欲しい――。
*
きっかけは確か小学五年生の夏休み明けだった。夏休みという一時的な天国はすぐに僕を追い返した。いじめっ子たちによる暴力的な日常は再開された。
本人たちにしてみれば、それはささいな悪戯だったのかもしれないが、僕にとっては極めて苛烈だった。靴の紐を切られ、顔を引っ叩かれ、提出箱に入れた宿題を破かれ、彼らのポケモンに追い回される。凄絶な日常だった。
僕はぼんやりと考えて、ぼんやりと決意した。いじめっ子たちをどうにかして一泡吹かせてやろう、と。
特に仕返しの方法を決めていたわけではない。機会が巡ってくればいいなという、いじめられっ子とは思えないような楽観的思考での考えだった。
明くる日、朝会があった。児童が教室前の廊下に整列し、教師の指示を受けながら体育館に向かって歩いてゆく。
僕は遅刻し、教室に向かって走っている最中だった。ランドセルをロッカーに入れたときには、既に列は出発していた。
僕は急ぎ、なんとか列に追いついた。当然、位置したのは列の一番後ろだった。
それは、とあるいじめっ子の後ろだった。列は階段を下り始めていた。
素晴らしい時宜だった。
僕は、踏面に足を降ろそうとしていたいじめっ子の背中を、強く――押した。
とても自然で、滑らかな動作だった。
大惨事だった。怪我人は七人。無意味に広い階段の端を踊り場まで転げ落ちたいじめっ子は頭を強く打って、意識不明のまま病院へ搬送された。
騒ぎが収まらない中、僕は掌に残る感触に呆然としていた。
迷惑ないじめっ子を片付けたことによる満足感はなかった。
だが、僕の裏側にひそむ魔性が顔を出した瞬間が、幾度も、いつまでもフラッシュバックしていた。
*
醜悪な願望の発露。
それはとてつもなく嫌な形をしていて、僕を強く責め立てる。決してやってはいけないことだとはわかっていても、抑えきれなくなってしまう。
純粋で健全な裏側の闇は、表側と併せ持っていたからこそ僕を襲うことはしなかった。しかし、歯止めをかける存在が欠けている今、そんなことは起こりえない。
そうだ、獲物を探そう。
気がつけばいつもそんなことを考えていた。
しかし、僕の牙は凶暴でも、とりたてて自由に動かせるわけではなかった。欲望と行動がまったく一致しない。僕の心は不健全になった。
我慢に我慢を重ねた。もしかしたら、もうすっかりいなくなっていたはずの良心の僕がぎりぎりのところで留めていていてくれたのかもしれない。
だが、引き金はいとも容易く引かれる。きっかけなんてどこにでも転がっているもので、問題は自分の目に映るかどうかなのだ。
一人の女の子をおびき寄せる。実際やってみると、そう難しくはない。あどけない、無垢な表情で女の子は僕を見やる。
何やらにこやかに話しかけてくる。僕は心の内でほくそ笑む。記念すべき一つ目だ。
僕はその子にふらりと近づく。ゆっくりと、ゆっくりと。
やがてその子は、僕に短い手を伸ばし――。
事切れたように倒れた。
しかし、思っていたほど僕の闇は満たされない。何かが違う。何かが足りない。
土草に伏す子供を見下ろした。笑っている。
嗚呼、そうか。
し甲斐、が足りないのだ。
不用意に近づいてくる子は、終わりの瞬間まで恐怖の表情も見せてはくれないし、驚嘆の声も聴かせてはくれない。
こんなものはいらない。もっともっと、面白いことを。
二人目を探そう。それでも期待外れだったら、三人目。だめだったら、四人目。
還すのは、そのあとでいい。
*
コガネシティの北ゲートを通り抜けて、ずっと北上すると見えてくる自然公園。俯瞰するとモンスターボールを象った広大な公園だというのがわかるらしいのだが、実際に歩き回ってみると、ただ背丈の高い雑草が生い茂っているだけだ。
しかも、草を掻き分けながら進んでいくと突然虫ポケモンが飛び出してくるのだから、大人でここに来たがる人はほぼいない。まかり間違ってもデートスポットになることはなく、専ら子供の遊び場である。
「待ってえ」
一人の子供が、小さな虫取り網を振りかざしながら何かを追いかけている。十二も年が離れている僕の弟のヒロトだ。
体は青青とした草にほとんど埋もれてしまっていて、麦わら帽子と虫取り網だけが草叢から飛び出している。
普段は外で遊ぶことなどしないのに、どういう風の吹き回しだろう。将来は虫ポケモン博士になると言ってポケモン図鑑や本を読み漁っているのがいつもの姿だったはずだ。
だが、もしこれがフィールドワークの一種なのだとしたら、将来の夢を叶えるための一環だとも読み取れる。
公園の端に据えられたベンチにじっと座っていると、汗がじわりと滲み出す。家に帰ったらTシャツを替えた方がよさそうだ。
じりじりと、蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏はまだまだ終わりそうにない。
この暑さなら、地面に埋まっている子供たちもどんどん腐っていくのだろうか。いや、森の中は涼しいから、それほど腐敗は進行しないかもしれない。地面を見つめながら、ずっとそんなことを考えていた。
「兄ちゃん、帰ろう」
顔を上げると、汗だくだくの日焼けした顔が、こちらを見据えていた。
「まだ三十分も遊んでいないんじゃないのか」
「もういいよ。喉乾いたからジュース買いたい」
「はいはい」
結局捕まえられずに飽きたのだろうと呆れながら、ポケットから取り出した小銭を手渡した。ヒロトはもう用はないと言わんばかりに、どこかへ駆けていってしまった。
ヒロトのような子供が一番殺しがいがあるのではないか。今まで殺した子供の容姿や性格を思い返しながら、そんな訳のわからない理想を描く。
ワイドショーでは、『夏休みの真っ只中に起こった悲劇・消えた子供たちの安否は』などという安っぽい煽りで、最初の事件が発生してから五日経った今でも盛り上がっている。立て続けに行方不明になった児童たちを警察が懸命に探しています、些細なことでも構わないのでどうか情報提供をお願いします――芸のない、聞き飽きた文句が僕の中に流れ込みそうになる度、テレビの電源を切った。
子供をさらった場所は僕の家の近辺だったので、当然の如く警察が訊き込みにやって来たが、受け流すのはさほど難しくなかった。
『僕にはちょうど行方不明になった子と同じくらいの年の弟がいて……暗くなる前には家に入れるようにしています。あとは一人では遊びにいかないようにと……。両親はいないですし、僕がしっかりしなくちゃいけませんからね。……はい、お疲れ様です』
警察官は僕をまるで悲壮な決意を抱え込んだ英雄か何かと見ていた。だが、まったくの見当違いだ。
この時の警察に限らず、周りの人間は一様に僕のことを、物静かだが弟の面倒を一人で見ているしっかり者、と見なしている。僕が犯行を行った張本人だとは夢にも思わないのだろう。
役得とはまさにこのことだ。
面倒だったのは、僕が殺した子供以外の行方不明者についても尋ねられたことだ。どうせ家出か何かに決まっている、下らないことをいちいち僕に訊くな――もちろんそんな態度はもちろんおくびにも出さなかったが、気分のいいものではなかった。もし次も同じようなことを訊かれたら表情を崩さないでいられる自信がない。
「しっかし……誰もいないなあ」
今日は獲物が見つからない。昨日の時点ではまだ子供の姿がちらほらと見受けられたのだが――子供の失踪事件は完全に周知されたらしい。まったく世知辛い。
ふと、遠くを見やる。
ここから離れた公園の入り口に設置された自販機に、弟は小銭を入れていた。
*
僕は、はたと思い至った。獲物はちゃんと視線の先にいるではないか。
僕の毒牙にかかる者は、概して鈍麻していた。自らに悲劇が訪れるその瞬間まで笑い、迂闊に手を伸ばし近づいてくる。僕はさながら虫をひきつけるウツボットのようだった。
しかし、そのようなことを決してしないであろう、凛々しい顔立ちで平然としている少年が確かにいる。
どうして僕は今まで探せずにいたんだろう、こんな格好の獲物を。
「兄ちゃん、帰ろう」
「そうだな」
「人、いないね。俺以外に誰かいた?」
この公園には、人影は二人分しかない。
「ヒロト以外には見かけていないな」
ヒロト――。麦わら帽子の下にかすかにのぞくその顔つきは平然としていて、飲み物を味わうように飲んでいる。
おそらく、ヒロトは不安を隠していた。
それがたまらくそそられる。なんと素敵な仮面を被っているのだろう。
無理矢理剥がしてしまいたい。平然という名の仮面を容易く被ってしまえる子供が、恐れおののく姿をこの目で見たい。
だが同時に、尋常ではない、不吉な予感めいたものを感じた。いや、予感どころか、これは確信に近い。一刻の猶予も許されない。僕は早急に手を打つべく、考えを巡らせた。
「ヒロトは不安か?」
「何が?」
「ほら、最近物騒だろ」
「……ちょっぴりね」
「でも安心していいぞ。僕が守るから」
心にもないことを、と思う。
僕は、ひっそりと決心を固める。手に入れることと、守ること、それは同義だ。
*
ヒロトが再び公園に行きたいと言い出したのは、次の日の朝だった。
性懲りもなく虫ポケモンを追いかけ回すヒロトに半ば呆れながら、僕は弟を手にかけるタイミングを考えていた。
布団の中で目覚めた直後、ヒロトを殺すのは今日にしようは決めたのだが――やはり実行するのは夜中がいいだろうか。いや、叫び声を付近の住民に聞かれたら誤魔化せないかもしれない。
僕の部屋にある机の引き出しでは、包丁とスタンガンがその時を待ち侘びている。死体を埋めるためのスコップも、死体を包むためのブルーシートも車のトランクに入れてある。
少し、口元が歪んだ。
僕の所業は今朝のニュースでも変わらず取り上げられていた。僕は辟易し、アナウンサーの声が耳に入らないようにずっと弟を観察することに努めた。僕とは対照的にニュースを熱心に見ていた弟の瞳は、ややもすると涙を零してしまうのではないかと思うくらいに潤っていた。
平然の仮面が剥がれ落ちてしまうのは見たくなかったので、速やかにテレビの電源を切った。
ヒロトは不満そうな表情でこちらを見たが、再び公園にいく約束を僕に取りつけて機嫌を直した。幾ばくの命もないとはいえ、僕の弟だ。できるだけのことはしてやる。
しかし、ずっと座っているのは暇だ。ちょっと辺りを散策してみようかと、ぶらぶらと公園の入り口近くまで行ってみる。すると、随分と面白い看板が立っているのを見つけた。
『人さらい頻発中! 既に六人の子供がいなくなっています! 子供を絶対に一人にしてはいけません!』
こんなものがあったなんて気づかなかった。だが、いくら誇張表現が見る人にインパクトを与えるからとはいえ、六人はやりすぎだろう。僕が殺したのは三人だけだ。それとも、家出した少年少女は三人もいたのだろうか。いずれにせよ、僕の罪が勝手に二倍に増やされたようで気分が悪い。
「迷惑千万な看板だ」
誰が立てたのかは知らないが、間違いなくこの閑散さを助長している。今夜、この看板を壊しておこうと決め、再び歩き出した。自然公園はあまりにも寂れていて、僕の足音だけが響いていた。
ふと、あのいじめっ子の背中を押した手の感覚が懐かしくなった。
蝉がじりじりと鳴く。
とても静かだ。
静かすぎる。
――ヒロトの声が聞こえない。走り回る足音も、草を薙ぐ音も、すべてが聞こえない。
まさか。
「ヒロト!」
無理に声を張ってみるが、返事らしい声は聞こえなかった。
歩き回り、草叢に分け入り、弟の姿を探す。歩けば歩くほど、この円形の公園の広さを思い知る。公園を囲っている柵にそって一周するだけでも三十分はかかりそうだ。
時折名前を呼んでみるが、気配はしなかった。
「なんで勝手にいなくなるんだ……」
それは、聞き分けのない弟に対して憤慨する兄の気持ちだった。
しばらくしてヒロトの虫取り網を見つけた。柵が折れて、ちょうど外の森へと抜けられる場所がある。その柵に引っかかっていたのだ。
「まさか、ここから公園の外に出たのか」
大方、虫を夢中で追って飛び出していってしまったのだろう。さっさと飽きてくれればよかったものを。こちらから探しにいかないと、ヒロトが迷って帰ってこられなくなる可能性もある。
まったく、手に負えない。
僕は虫取り網を手に取り、逡巡して――折れた柵を飛び越えた。
*
森の中は鬱蒼としていて、まるで外界と隔絶されているかのようだ。暗く、じめじめした深い緑の淀んだ空気が甚だしく不快だった。
辺りを見渡しても、見渡せている実感がない。森自体は広いのに、樹木が混み入っているせいで狭いように感じるのだ。
ふらりと木木の間を通り抜け、感じた気配を追う。そう遠い場所にはいないはずだ。
感覚を研ぎ澄ませる。もしヒロトが声を出せば、僕に届くかもしれない。一挙手一投足が、この森に従順な空気の流れを変えるかもしれない。
さあ、その姿を晒してくれ、ヒロト――。
一陣の風が吹き抜けた。
そして。
光のほとんど差さない、深海のような世界で、ちらりと白い何かを視認した。
ようやく――見つけた。
白い半袖を着た小さな標的は、大樹の根元に腰を落とし、寄りかかっていた。遠目から見ても、あれはヒロトだと確信できた。
ゆっくりと、ゆっくりと、濁った空気の流れを乱さないように静かに近寄る。
見ている者はいない。やるなら、今ではないか。
焦燥、そして現れては消えることを繰り返す不安が、僕を急き立てる。だが、それではいけない。僕は欲しているのだ。安易に靡かない知性と、平然として微動だにしないその表情が崩れ去る瞬間を。
血に染めるにはいささかもったいなさすぎる。この生き物は、丁寧に扱わなければいけないのだ。
僕の真っ黒な影が、ヒロトのあどけない顔に投げかけられる。
ヒロトが僕を見上げた。その瞳は、この世ならざる者を畏怖するかのような感情を充溢させていた。そして、その表情は、小さなコラッタが怯えながら救済を待つようでもあった。
不思議な表情だ。こちらが怯みそうになる。
きっと僕の闇を満たす狂気を見透かしたに違いない。それでもよかった。
しかし。
邪魔者が――。
*
厭な予感は的中する。
「それは何だ、ヒロト」
僕は地面にへたり込んでいる弟を見下ろしながら、その両腕に抱き抱えている妙なものについて問うた。
「ポケモン」
ヒロトの小さな体には不釣り合いなほど大きい。ガラクタのようにも見えるし、魂を失った生き物の死骸のようにも見える。腐って錆びついた色は、まるで木の皮のようだ。
そして――何かに似ている。
「死骸か?」
「生きてる」
「生きてるのか」
「うん」
まったくそうは見えない。
「どこで拾ったんだ? それに、どうしてこんなところにいるんだ」
生きているようには見えないので、拾った、という表現が妥当な気がした。
「えっと……バタフリーを見つけたから追いかけたんだ。それで、公園の外に出ちゃって、森の中に入って……足を挫いちゃったんだ。で、ずっとここに座ってたら、近くに……」
ヒロトはその生き物にはまったく見えない物体をそっと撫でた。
「俺に懐いてくれてるみたい……」
「……そうか」
僕の焦燥は頂点に達しそうだった。早くこの森をヒロトと共に出たい。
ヒロトが座っている木の根元の下には、三人の子供が埋まっているのだ。怪我をしてその上に座り込んでいるだけなのだから、死体に気づかれる心配など毛ほどもないが、あまりにも気味が悪い。焦りと緊張が胃酸を逆流させ、むせ返りそうになる。
「帰ろう。危険な野生ポケモンがいるかもしれない。立てるか。ほら、虫取り網」
僕はもっともらしい理由をつけて、ヒロトに帰ることを促し、手を差し伸べた。
「そうだね」
しかし、ヒロトはその無機質な生き物を手放さなかった。
「ねえ、これ、連れて行っていい?」
「……家にか?」
「うん」
僕の思考は一瞬停止した。
――良く見れば、このポケモンはヒロトが好みそうな造形をしている。ヒロトが興味を抱くのも不思議ではなかった。
常日頃からポケモンが欲しいと言っていたが、ぼくはそれをことごとく却下してきた。ポケモンを飼うほどの経済的余裕はないと、その都度説明してきた。
だが、あと半日もない命がせがむ願いを敢えて聞き入れない道理はない。
「まあ、いいけど」
「本当に?」
まさか許可が出るとは思いもしなかったのであろうヒロトは素っ頓狂な声を上げた。
「行くぞ」
僕はヒロトを立ち上がらせ、歩けないヒロトを肩車した。
僕の上にはヒロト、そしてヒロトの腕の中には虫取り網と――蝉の抜け殻に似た生き物。
奇妙な光景だった。
*
怖い、と思った。あれだけはっきりと禍々しい狂気を携えているのに、どうしてヒロトは平気なのだろうか。慣れにしたって、限度というものがある。
それとも、あの目に何の疑問の抱いていないというのか。
家の中は外と大して変わらない暑さだった。それどころか熱気と湿気が充満していて、すぐにでも外に逃げ出したくなってしまう。
「昼飯は素麺でいいか」
「うん」
居間の座卓のそばに座って答えたヒロトは、ずっと一点を注視していた。
やかましい。延々と喋り続ける箱の中の男を見て思う。なぜこんなにもとめどなく言葉を紡ぎだせるのだろうか。さほど意味がある言葉を喋っているとは思えない。
そして今度は隣の女もつらつらと所見を述べ始めた。やはりやかましい。
しかし、ヒロトはそれをじっと食い入るように見つめている。まるで、あの無意味な応酬から情報を集め取ろうとしているかのようだ。
やはりとても聡明な子供なのだ。むやみやたらと感情を起伏させることはなく、あくまでも平然を貫いている。取り乱す様がまったく想像できない。仮に僕が今近づいて襲ったとしても、ヒロトは知恵を働かせて冷静に対処できるのではないかと思った。
年端もいかぬ子供だと侮ってはいけない。決して手強いわけではないが、慎重に慎重を期していこう。
そうしなければ、ここまで辿り着くためにしてきた努力がすべて水泡に帰してしまう。運もかなり手伝っているのだ。今更引き返すことはできない。
料理が出来上がる。
「美味しそう」
「お世辞はいいよ、ただの素麺だ」
座卓が味気ない食物で彩られる。すべての食べ物には摂食者の食欲を湧かす義務があるはずだが、ことこれに関してはその義務を放棄しているように見えた。
果たしてヒロトは本気でこれを美味そうだと思っているのだろうか。
「……でも、なんか変な気分だな。後ろにこれがいると、まるで観察されているみたいで……正直言って気味が悪い。浮いてるだけで何もしてないようだし。餌とかやらなくていいのか?」
何を心配しているのだ、と思う。
「何もしなくても生きられるポケモンだから……。食べないってことはないらしいけど」
ヒロトはそこそこの知識を持っているらしかった。ちらちらと見やっては素麺をすすっている。自ら家に持ち込んだ異物をどのように扱うのか考えている途中らしい。
「なあ、それってもしかして虫タイプのポケモンなのか?」
「そうだよ。抜け殻ポケモン。ツチニンっていうポケモンがテッカニンに進化するとき、突然現れるんだって。脱皮して残った抜け殻みたいに」
ヒロトは少しだけ興奮していて、饒舌だった。もっと平静でいるものだと思ったが、興味のある物体に対してはすくなからず情熱を帯びるようだ。
虫ポケモンを追いかけ回していたときも、草むらの中でははじけるような笑顔をしていたのだろうか。
――少々期待外れだ。いや、恐怖に引きつる顔くらいは見せてくれるだろう。でなければわざわざ危険を冒してまでやる意味はないのだ。それに、まるで不安を隠すためにしきりに言葉を発しているようにも思える。
「ね? ほら、抜け殻みたいに皮膚がからからに乾いてるでしょ?」
太ももの上に置き、両手で抱き込み、翅やら体やらを撫で始める。ヒロトは扱い方を熟知しているようだ。
「それ、皮膚っていうのか?」
「触ってみる? あ、でも頭の上の輪っかはあんまり触らない方がいいかも」
「いや、いい。触りたくない。そういうのはだめなんだ」
酷い言い様だ。
「あ、見て! 背中に穴がある」
「穴?」
おちょくっているかのようにわざとらしい調子でヒロトは続けた。わずかな声の震えを、ひた隠しにして。
「何の穴だろう」
ヒロトが片目を閉じ、もう片方の目で穴をのぞき込む。
それは一瞬の出来事だった。
*
たとえ太陽が西から昇り始めたとしても、それほど驚愕することはないだろう。それは夢の中であるか、もしくは何かの拍子に地球の自転が逆回りになっている並行世界にやってきてしまったのだと片付けることができる。
しかし、たった今目の前で起こったことは、どんなに破綻した論理でも理由付けはできない。
抜け殻の背中にある穴をのぞき込んだヒロトは、淡く光る何かを吸い出された。
胡坐をかいていたヒロトは、抜け殻を抱いたまま後ろに倒れ込んだ。どこまでもスローモーションで、映画から切り取られた一場面を引き延ばした映像を見ているようだった。
「おい、ヒロト……」
ヒロトの肩を揺する。うまく手に力が入らないせいで、緩慢な動きになった。
弟が起きることはなかった。瞼を指で開いてみても、虚空を見つめる眼球がはまっているだけだった。突然眠り始めたわけではなさそうだ。
鼻に手をかざす。――呼吸はできているようだ。
「お前……何をした」
ヒロトの腕を抜け出した錆色の生き物は、ゆらゆらとどこかへ行こうとする。
「待て」
僕は立ち上がり、薄茶色に錆びついた翅を強く掴む。
ぼろりと、嫌な音が。翅の先が粉々になって、床に零れ落ちた。
まるで毒蜘蛛を素手で握り潰したような感触が掌全体に広がった。ぞわり、と全身に寒気が走った。
抜け殻はくるりと翻り、僕に正対する。
「いったいヒロトをどうした。何を奪った」
一歩、宙に留まっている抜け殻へと踏み出す。
錆びた体。動かない翅。なまくらな爪。白い輪。そして、虚ろな目。
どの部分も死んでいる。
なのに、生きている。
あたかも抜け殻という容れ物に、魂が憑りついているかのように。
――僕は自分自身の考えにぞっとした。魂なんて冗談じゃない。確かに、この種の生き物に科学的アプローチがほとんど通用しないという事実は、高校で初めて受けたポケモン学で散散思い知らされた。しかし、魂を吸い出して人間を昏睡状態に陥れるなんて、にわかには信じ難い。そもそも魂なんて人間が勝手に作り出した幻想ではないのか。
いや、ならば、ヒロトから抜け出したあの形容できない何かはどう説明できるというのだろう。どんな言葉を並べ立てても、著しく整合性を欠くのは目に見えている。
言いようのない憤懣に駆られ、握りしめた拳が筋張った。
「だからポケモンは嫌いなんだ……」
とにかく、このポケモンがヒロトに何かをしたせいでヒロトは昏睡した。あの淡い光がヒロトの意識そのものであるのはおそらく事実だ。
これではヒロトが殺せない。ヒロトの苦痛に歪む表情、絶望の淵に立たされた時に見せてくれる反応を見ることができない。取られたものを取り返す必要がある。
僕は、自分の部屋に入り、乱暴に机の引き出しを開けた。
中に入っているスタンガン、そして時を待つべく眠っている、血がこびりつき変色した包丁が、窓から差し込む光を鈍く反射した。
*
得体の知れない化け物に対する恐怖と、ヒロトを明け渡すことを断固として拒む気持ちと、どちらが勝っていただろうか。
ヒロトに対する期待が多少失われたことは厳然とした事実だ。だが、たかがその程度のことでヒロトの恐怖に歪む表情を望むことができなくなるのは受け入れられない。機会をみすみす放棄することだけは絶対にしたくないのだ。
もう、後には引けない。
数瞬の対峙。
あの憑りつかれたような目が、僕の体を突き刺す。凍てついた視線は、ただそれだけで凶器だった。
僕はその視線を振り払うかのように、錆びついた刃を振るった。
一閃。しかし、相手は滑らかに後ずさりし、あっさりとかわす。意表をつけたと思ったのだが、かすり傷すら与えられなかった。
動揺する。これは、極めて分が悪い勝負なのではないかと。
初めて見たときから、その目の奥にひそむ魔性に気味悪さを感じずにはいられなかった。しっかりとした外面であるはずなのに、中から染み出る狂気と悪意が輪郭をおぼろにしている。
僕と同じだ。体の中に、きっと暗黒色の魔物を飼っている。
身震いした。
だめだ。怯むな。可能な限り攻撃しろ。錆びついたなまくらを、振るえ。
だが、届かない。その動きはまるで宙を彷徨うゴーストポケモンの如く。嗚呼、気味が悪い。化け物を飼う者は、こうも不気味な動きができるものなのか。
改めて前方の敵を見据える。ふと、僕の目は、相手にどう映っているのだろうかと考えた。もしかしたら、僕と同じような思いを、ぎらりと青光りする欲望の渦を、お互いに見ているのかもしれない。
「死ね!」
闇を飼うのに、ポケモンも人間も関係ない。きっかけ、素質、環境――要因は無数にある。それらが誰を選ぶのかは、誰も知ることはできない。
切っ先が、錆色の体を貫く。
*
子供の腹に刺した感触とは似ても似つかない。だが、なかなか癖になりそうな感触だった。
苦戦を強いられる可能性も、抵抗されることも織り込み済みだったが、終わってみればあっけないものだ。
刺し込まれた包丁を、横に強く振り抜く。腹を掻き切られた抜け殻は、ぼとりと落ちて、ヒロトのそばに転がった。出血もしなければ、臓腑が飛び出すこともない。傷は人間のそれのように惨たらしいものではなく、ただ一文字の鋭い線が腹部に走っているだけだった。
「死んだのか?」
まさしく抜け殻だ、と思った。踏み潰してしまえば、簡単にばらばらになってしまう、硬く脆い蝉の抜け殻。この姿の方がずっと自然だ。抜け殻が宙に浮いたり彷徨ったりするなど、幽霊よりもたちが悪い。もっとも霊という存在を信じてはいないのだが。
あとは、ヒロトの――意識のもとを取りだすだけだ。
膝をつき、動かない抜け殻を軽く押さえつけ、腹を縦に切る。傷は十文字になった。こんな方法でいいのだろうかと思うが、他にいい方法はないように思えた。
ゆっくりと、傷口を開く。長年壁に貼りついていたセロテープを剥がすかのように慎重に行った。
すると、何かが空気中に滲み出してきた。紛れもなく、抜け殻がヒロトから吸い出したそれだった。
「このやり方でよかったんだな」
思わず歓呼の声を上げる。これできちんとヒロトを殺すことができるのだ。口角が上がる。
滲み出した光る何かは、ヒロトのわずかに開いている口にゆっくりと吸い込まれていった。
非日常的な光景な光景。何度見ても慣れることはないだろう。
ヒロトが、静かに目を開けた。
「に、兄ちゃん? え、何で……?」
勢いよく起き、捻挫した足を庇いながらそっと立ち上がったヒロトは、非常に不可解な表情をしていた。まるで、僕が目覚めさせたことに疑問を感じているかのようだ。
「起きたか。良かった。心配したんだぞ」
目をしきりに瞬かせるヒロトは、ふいに視線を下に落とし、愕然とした表情をした。そして、僕の手に――僕の手に握られた包丁に視線を移し、後ずさった。
「どうしてこんなこと……」
「どうして? ヒロトがこいつに変なことをされて気を失ったから、やっつけたんだよ。そうしたらヒロトが目を覚ましたんだ」
ヒロトは黙ったまましゃがみ込み、壊れた抜け殻を赤ん坊を扱うかのように抱え込んだ。
「捨てておいで。それはヒロトが欲しがるようなポケモンじゃない。人から何かを吸い取って気を失わせるなんておかしなもの……うちには置いておけない」
さあ、とナイフを握っていない手をヒロトに伸ばすが、ヒロトは左脚を引きずりながら、さらに後方へと下がった。
「兄ちゃん、おかしいよ……」
「何がだ。何もおかしくない。おかしいのは」
「おかしいよ!」
――ぶつりと、何かが切れる。
「ねえ、その包丁……」
ゆっくりと近づく。
「ねえ」
言い訳を考えるのも莫迦らしい。今、殺そう。予定は何も変わっていない。もう少し慎重にことを運ぶべきだったが、血に染まった包丁を見られてはどうしようもない。
「来ないで、あ……」
ヒロトは後ずさることを止めた。壁にぶつかり、それ以上後ろへは進めない。もう逃げ道はないのだ。
完全に恐怖に囚われたヒロトは、声を出すことさえできないようだった。
「いや……」
ヒロトは、抜け殻を盾のように前方に掲げる。そんな脆いものが盾の役割を果たせると思っているのか。そもそも、それは大切なポケモンではなかったのか?
僕とヒロトの間には、わずかに歩幅二歩分の距離。大きく踏み出せば、ヒロトの腹を抉ることができる。
両手に包丁を握りしめる。しっかりと刃先をヒロトの腹部に定める。
「来ないで!」
弟の叫びと、僕が一歩前に踏み出すのは、同時だった。
包丁の鋭い切っ先が、ヒロトの腹に深深と突き刺さる――はずだった。
手に残る感触が緩い。
ヒロトは、僕の左目に、抜け殻の背中を押しつけていた。
切っ先が赤く染まった包丁が手から滑り落ちる。
穴の向こうに見える空ろには、底の知れぬ深淵と、
狂気に染まった、小さな、紅い瞳が
こちらをのぞき