06
体をトゲチックの背中に預け、四本の足を空中に投げ出す。今まで生きてきて、足を地面につけずに過ごしたことなんてなかった。そして、空を飛んだことも。
ただただ怖かった。不安でないことが全くなかった。
どこで間違ったんだろう。潜り込まれる前にどうにかして回避するべきだった。今更悔やんだところで仕方がないのだけれど、悔やまずにはいられない。
とにかく下を見ないようにしよう。一たび下を見てしまえば、トゲチックの背中から滑り落ちて、真っ逆さまに落ちていくイメージが恐ろしいほど鮮明に浮かび上がり、恐怖を増長させる。
だからといって上を見るのも気が引けた。下は、堕ちてもそこに留まることができるからまだいい。上は――その広大さがあまりにも圧倒的で、怖い。トゲチックが、それこそ地面が見えなくなるくらいに上昇を続けたら、二度と空から帰ってこられなくなるのではないかと思う。
「どう?」
トゲチックが唐突に話しかけてくる。
「どう、って?」
「晴れた空の下を飛ぶのも悪くないでしょ?」
今の僕に、空や飛行を楽しむという意識は皆無だった。恐怖で、それどころじゃない。どんどん上昇しているし、速度も上がっている。
「もっと……低く飛んで……あと、ゆっくり……」
風に負けて声がうまく出ない。
「何? 聞こえない!」
「もっと低くゆっくり飛んで!」
声がひっくり返る。
そして、僕の体もひっくり返って――落下した。
トゲチックが体を一度きりもみ回転させ、そのときに僕の体が離れたのだ。
状況が整理できないが、直感的に思った。
死ぬ。
「ひゃあああああああ!?」
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
間違いなく地面とぶつかって体がばらばらになってぐしゃぐしゃに潰れて死ぬ。
なんでこんなことに? 原因は? 僕が何か気に障ることを? 何か酷いことを?
わからない。とりあえず死ぬことだけは理解できた。積み重ねた思い出が無意味に頭の中でフラッシュする。
嫌だ、まだ死にたくない。お願い誰でもいいから助けて――。
「お待たせ」
どさりと、何かの上に落ちた。
「自由落下体験、刺激的だったでしょ」
「っ!?」
心臓が破裂しそうなくらいに怖かったのに、その物言いはあまりにも爽やかだった。
一度僕を落とし、急降下し、落ちてくる僕を乗せる。ふざけた荒業だ。
「もう! 降ろしてよ! 降ろせ!」
「ちょ、ちょっと暴れないで!」
もう嫌だ。空を飛ぶならまだしも、落ちるなんて話は聞いていない。
「降ろせってばあ!」
「痛い、痛い! わかったから! ごめん! 悪ふざけしすぎました、もう二度としないから!」
「本当に!?」
「本当に本当。ごめんなさい……」
信用ならない。でも、また落ちたくはないから、下手に暴れるのは止める。
「だって、つまらなそうにしてたから……楽しんでもらいたくて……」
彼女には彼女なりの考えがあったらしい。僕が彼女を怒らせる何かをしたわけではないようだ。それはそれで意味不明なのだけれど。
「つまんないなんて一言も言ってないよ。初めてで怖いんだから……手加減くらいしてよ」
「手加減すればいいのね」
「そうは言って……」
「見て、もう街を出たよ」
空高く飛んでいる時点でもう街を出てしまったようなものだろう、と思いながらも地上を一瞥すると、確かに真下に街は見えなかった。
振り返る勇気はないが、遥か後方に、僕たちを見送るように荒涼としたビル群がそびえ立っているのだろう。
もう一度、空を見る。広漠として、青い。
空はどこまで行っても変わる様相を見せないのに、地上の景色が流れる速度だけが速かった。
この何もない空間にひたすら居続けていると、地上も上空も、どちらも僕の居場所ではない気がしてくる。なんだか、気持ちが不安定だ。広い空も大地も視界に入らないよう視線を水平に固定しても、心はふらふらしていた。
「どこに行こうか」
「わからないよ、そんなの」
ふと、遠くに行ってしまった仄暗い街を思った。雑踏に蹴られ、雨がバケツをひっくり返したように降り注ぐ、最悪で最高だった街。セピア色紛いの無彩色は本当に流れ落ちてしまい、真っ白になってしまった。
いつも曇っていた空が、今は清々しいまでに青い。――なぜこんなにも哀しい。
「トゲチックの好きな所に行けばいいよ」
ぶっきらぼうにそう言った。
どこにも行きたくなかったし、どこでもよかった。
「私も行きたいところなんてあんまり……空を飛べればそれでいいの」
「ああ、そう」
速度が緩んだ。僕は目を瞑る。
不思議と、恐怖感が和らいだ。下も上も無視してしまえば、それほど悪い心地はしない――気がした。
僕は、この晴れた空に、何かを見つけてもいいのだろうか。それは、今までの自分に対しての裏切りになりはしないだろうか。
雨が好きじゃないアメタマなんて、アメタマでいる資格がないも同然だと思う。だからといって晴れ空を好きになっているかというと――そういうわけではないが、今後好きになる可能性は否定できない。
本当は、空にさらわれて、なぜかフリーフォールを体験させられて――トゲチックのせいにして理不尽に晴れた空を嫌うことだってできるのだ。だが、僕はそれをしない。
僕の性格はもうちょっと棘があったはずだ。さっきの比にならないくらいにじたばた暴れて、無理矢理降ろしてもらうことだってできるはずだ。でも、やっぱりしない。
「静かだね。どうしたの?」
しぼんだ心は、二度と膨らまないようだ。トゲチックの声もどこか遠い。
目を開けてみる。地上も遠い。街はきっと地平線の彼方で、今はどこにでもある、ありふれた小さな森の上にいる。恐怖感は完全になくなっていた。
――嫌う理由も完全に消失した。
黒くぼんやりとした何かがやたらとちらついているが、涙ではっきりと見えない。
黒い――何か?
「ごめん、ちゃんと掴まって!」
突如、トゲチックが急降下した。
「他所の縄張りに入っちゃったみたい!」
「ええ!?」
景色が目まぐるしく変わる。トゲチックが無茶な動きで飛び回っているせいだ。多分他所様の攻撃をかわしているんだろう。僕の頭の尖りにも何かが掠めた。
ヤミカラスだ。街にいるとき、僕の餌を横取りしてついばむ奴はほとんどこいつらだ。
こんなところにもいるなんて、つくづく迷惑な奴らだ。もちろん生きている者同士、利害で対立することなんて数えきれないほどあるのだが、こいつらには大抵勝つことができないので嫌いだ。
「あっ」
また掠った。トゲチックが必死に避ける。くるりと体を翻したり、旋回したり、急上昇したり。
――なんだか頭が痛い。顔の紅潮した人間が、変なにおいのする瓶に入った液体を僕の頭に浴びせかけてきたときに味わった気分と同じだ。
「よ……」
酔った。そりゃこんな無茶な動きに耐えられるわけがない。
トゲチックがきりもみ回転する。ちゃんと四本の脚を彼女の体に固定した――つもりだったのだが。
また落ちた。するりと、あっけなく。意識は混濁していて、実際に落ちたかどうか定かではないが。
「アメタマ!」
トゲチックの声が遠い。ああ、多分落ちてるんだな。
なんで二回も落とすんだ。トゲチックの莫迦。いや、莫迦なのは僕か。
このまま森に突っ込んで枝にでも刺さったら、さぞ気味の悪い死骸が出来上がるのだろうか。素直に地面に激突死するほうがまだましだ。だったらさっき死ねばよかった。いやいや、まだ死にたくはない。
酔った頭が余計に痛くなった。
こうなればもう、ただ祈ることしかできない。
死ぬときは、痛くありませんように。