05
雨が強く石畳を叩く。激しく飛び散る飛沫と音は、街をいつも通りに彩らない。しかし僕はさしてそれを気にすることもなく、ひたすらにトゲチックの行方を追っていた。
通りの端に沿って設けられた排水溝からはついに水が溢れだし、裏通りから葉脈のように細く走っている路地は、水路と見紛うほどにその様相を変貌させていた。
水浸しの通り道を、水脈を引きながら滑ってゆく。昨日人間とぶつかりかけた十字路を曲がり、更に街の中心部から遠ざかる。
水がいやに重い。表通りよりは明るい色合いだったはずのこの通りは、光をほとんど遮断してしまっている鈍重な雨雲のせいか、やたらと翳っている。
「なんて……」
暗い景色なのだろう。
改めて思う。僕はなぜ今までこのような景色に胸を躍らせていたのか。
わからない。どういう心情の変化だろう。さっきまで見ていた、この風景と限りなく似ている表通りを、僕は確かに素敵だと思った。ただ、気分が良くない。それだけだと思っていた。
チョロネコに会って、僕なりに彼女の言葉を捏ね繰り回して呑み込んだら、僕の根幹が揺らいだ。
雨の中を滑空するトゲチックを見かけたら、今度は――瓦解した。
本当に、一瞬のことだった。あまりにも刹那的で、僕はただただ惑うことしかできない。
雨が好きで、水溜まりが好きで、濡れた景色が好きだった僕は――この雨と共に、どこか遠くへ押し流されてしまった。
しかし、絶望的な気分に浸るわけでも、焦燥を感じるでもなく、僕はただただ緑地帯への入り口を探していた。失った感覚は戻ってこない。
昨日の記憶を手繰り切って、ビルとビルの間にあるごみだらけの
径を発見した。通路は通るのが憚られるくらい
泥濘んでいて、ごみが激しく揺れる水溜まりに浮いていた。
自分が地に這って生きていることを心底呪った。トゲチックはこんな汚い道を通らなくても緑地帯に辿り着けるというのに。
ぐちゃぐちゃと不快な音を立てながら臭う
径を抜けると、眼前に有機的な緑色が広がる。改めて見渡すと、ここはは硬く冷えた灰色の街に紛れ込むにはいささか不自然だと思う。
別世界だ。外部と繋がる
径こそあるが、完全に切り離されているといっていい。
外の灰色の世界とここの関係は、さながら僕とトゲチックのようだった。
僕は緑と雨の中にトゲチックを探した。
「おうい」
彼女の白い体はどこにいても目立つ。繁った木の葉の中に隠れようと、木の幹の陰に身を潜めようと、見つけるのは容易いはずなのだ。
しかし、辺りをぐるぐる見回しても、それらしい姿は見えなかった。
いないのか。
――いなくても不思議ではない。昨日彼女とここで出会えたのは、僕がこの場所を探し当てた奇跡と、彼女がこの場所で偶然休憩していたという奇跡が重なった結果だ。
ここへ来たのだって、勢いと勘だけだ。根拠なんてどこにもない。そもそも、まだこの雨の中を飛んでいるのかもしれない。
空を見上げる。降るだけ降ったようで、雨脚はかなり弱まっていた。重たい雲の限りなく黒に近い灰色はほとんど消え去ってしまっていて、穴ぼこだらけになっていた。青色の点々がそこかしこに散らばり、陽の光を辛うじて通している。
そして、その中に。
「あ……」
ふわふわと飛翔する、純白のポケモンがいた。
差し込んだ陽の光でトゲチックの体は反射して、うっすらと輝いて見えた。
それがなぜかとても眩く見え、思わず目を背けようとしたが、できなかった。ずっとその光景を見ていたいという気持ちが勝っていた。
トゲチックは、まるでワタッコのように不安定な飛行をしながら高度を下げ、僕の方へと近づいてきた。
そして、この期に及んで逃げ出そうとしている自分に気づいた。
遠目から見てもはっきりと分かるくらい、トゲチックはずぶ濡れになっていた。僕の挑発を宣言通り受け入れたのだ。それでいて、笑っている。
トゲチックが土砂降りの中をどういう風に飛んでいたかは明白だった。
トゲチックの飛び方と同様に、僕の心もふらふらとして覚束ない。逡巡しているわけではないが、ただ黙って待っていることに抵抗したかった。
だが、そうこうしているうちにトゲチックは僕の目の前にふわりと降り立った。
「面白かったよ」
開口一番、トゲチックは微笑みながら言った。
水を吸って重たくなったであろう全身の羽毛から雫が垂れている。
「それは……よかったよ」
言いたいことは色々ある筈なのに、いざ言葉を発すると全部吹き飛んでしまっていることに気づく。いったい僕は何をしにここへ来たのだろう。
「晴れた空の下もいいけれど……雨の中を飛ぶのも悪くなかった。あなたの言う通り、ね」
素直に喜べない。あれだけトゲチックをけしかけておきながら、何も言うことができない。
思うことは色々とあるが、それを口に出すだけの勇気がない。
「雨、止んだね」
雲はいよいよ霧散し、抜けるような青空が広がる。
その空を、彼女は首をぐっと持ち上げて見上げた。そして、空から降り注ぐ強すぎる光が、この緑地帯を照らした。
どきりとした。
彼女の肢体に纏わりつく沢山の雫が、きらきらと乱反射して、彼女の輪郭を際立たせた。綺麗で、煽情的でさえあった。思わず見惚れてしまって、
「あ……」
変な声が出た。
「どうしたの?」
「いや……」
本当に何も言えなくなってしまった。頭が真っ白になる。脈動が異常に速くなっている。
落ち着いて深呼吸しようとしても、うまく息が吸えない。
「大丈夫? なんだか様子が変だよ?」
「べ、別にそんなことないよ」
意味もなく強がるが、そんな僕は彼女の目にどう映っているのか、それだけがやけに気になった。
「本当? ならいいけど。それはそうとして、私はちゃんと雨空の下を飛んだんだから、今度はあなたの番だよ」
不意に目を見開く。決して予想していなかったわけではないが、この時分で言われると驚いてしまう。
「私をあれだけ煽ったんだから、今更逃げちゃ駄目だからね」
そんなつもりは毛頭ない、と言いたいところだが、はっきり言って逃げたかった。
目の前にいるトゲチックに比べて、自分がひどく惨めであるような気がして。けれども、彼女に見惚れていたい気持ちも確かにあって、始末に負えない。
「僕の番って言われても、空なんて飛べないし」
ふざけた言い訳で取り繕おうとしている自分が心底情けない。トゲチックがそんなことを言いたいのではないのは重々承知している。ただ、晴れた空の下に出ろと言っているのだ。
「別にあなたが飛ばなくたっていいでしょ?」
トゲチックが僕の顔を下から覗き込むようにしたので、思わず後ずさった。
「私が乗せてあげる」
「え」
一瞬の出来事だった。僕の体はふわりと持ち上がり――飛んだ。
「うわ、わ、ちょっと!」
僕が狼狽えている間に、地上はどんどん遠ざかっていく。
トゲチックは神業的な速度で僕の腹に素早く潜り込んで、そのまま僕を背中に乗せて飛んでしまったのだが、あまりにも軽々と行われた所業に、混乱を禁じ得なかった。
「じたばたしてると落ちちゃうよ? 死んじゃうかもよ?」
「降ろしてよ!」
「落ち着いてよ、もう。私の背中がそんなに嫌?」
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあ、どういうこと?」
文句を言っても適当にあしらわれてしまうので、僕はとうとう押し黙った。足をつける地面がないこのだだっぴろい空間の中では、何をしたって無駄なのだ。
「いいよ、もう……」
「そう? それじゃ、青空に向けて出発!」
「もう出発してるよ……」
トゲチックの濡れそぼった体からは妙に甘い匂いに混じって、雨の匂いがした。