晴れ渡れ、空
04
「ふうん、不思議な子ね」
 次の日、トゲチックとの一連のやり取りを路地裏にいたチョロネコに話すと、こんな反応が返ってきた。
「雨ぐらいしかとりえのない街なのに、それも嫌っちゃったら何を期待してこの街に居続けるのかしら」
 僕から見れば、妙に気取った風に首を傾げる彼女も十分不思議な子だが、それが彼女の自然な所作のうちに入ることは知っていた。
「あなた、今……」
「な、何……?」
 一瞬、頭のとんがりが突っ張った。
「私のこと変な子だと思ったでしょ」
 見透かされた。いや、流石に変というほどのことは思っていないけれども。
「言っておくけど、貴方だって相当変よ」
「ど、どこが?」
 僕はチョロネコの言葉に面食らった。僕のどこが変なのだろう。
「確かにこの街に雨を嫌う人間もポケモンもほとんどいないけれど、貴方ほど雨が好きなポケモンもいないってことよ。だから、あんまり他のポケモンの好みにケチつけちゃ駄目よ。あなたがある程度チュウヨウな考え方をしているのならまだしも、相当偏ってるからねえ」
 ああ、なるほど、と納得できるほど、僕は大人の心を持っていなかった。
「僕がチュウヨウじゃないってこと? でも、僕が好きな雨のことを片っ端から貶したトゲチックだってチュウヨウな考えなんか持っていないよ」
「どっちもどっち。というか、貴方が最初に雨が嫌いなのはおかしいなんて言わなかったら、その子も下らない言い合いなんてしなかったでしょうに」
「下らなくなんかない!」
「あーはいはい、わかったから。とにかく、あなたは……まあそのトゲチックもだけど、もうちょっと視野を広く持った方がいいわよ。お互いが好きなものを否定し合ったって何も生まれないんだから」
「……うん」
 彼女の諫言は、僕とトゲチックのちょうど真ん中に、真っ直ぐに深々と突き刺さった。ものすごく中庸だ。
「分かればよろしい……って言っても、やっぱりまた会うようなことがあれば同じような喧嘩するんだろうけれどね」
 チョロネコは僕を諌めているのか馬鹿にしているのかよく分からないようなことを呟いた。
「それと、彼女の方は結局折れたんだから、貴方も意地張ってないで、ちょっとぐらい彼女のことを理解する努力をした方がいいわよ。そうしたら……」
 チョロネコはそこで言葉を切った。
「そうしたら?」
「もっと楽しいことが見つけられるかもね」
「楽しいこと?」
「あ、そろそろお暇するわね。用事があるの」
 僕が返事をするかしないかのうちに、チョロネコはまだ人通りの少ない表通りに出ていった。
「うーん……」
 僕は唸りながら、彼女が去り際に残した言葉を反芻した。しかし、よく理解できなかった。彼女は彼女なりに示唆的な言葉を僕に送ったつもりなのだろうけど、もっとはっきりと言ってくれないとただ混乱するだけだ。彼女はいつもそうだった。
 とにかく、まずはトゲチックのことを理解しようとしなければいけない。だが、できる気が全くしなかった。
 考え方が完全に逆なのだ。
 彼女は、暖かい陽の光が好きだという。僕は、ひやりと冷たい雨の方がいい。暮れかかっている陽ならともかく、真昼間の日光なんて浴びたらそれこそ干乾びてしまう。しかも、日光は水溜まりを蒸発させて消してしまうという非常に不愉快な力を持っている。好きになんてなれない。
 綺麗な青色はどうだろう。雨模様のない、真っ青な空。――やっぱりだめだ。空は一面暗い灰色の雲に覆われているべきだ。そして、その雲が大量の雨粒を抱えているのだと想像すると、僕は心臓の高鳴りを抑えきれなくなる。青い空は空っぽだから、雨雲のような期待できるものは何もない。
 澄んだ空気。いいような気もするけれど、僕は体の中を潤いで満たしてくれるような湿った空気の方が好みだ。
 気持ちのいい風。――風を気持ちいいと思ったことはほとんどない。気持ちのいい風とはどんな風だろう。地表で吹く風と中空で吹く風は違うのだろうか。こればっかりは体験したことがないので好きも嫌いもない。
 トゲチックが列挙した『晴れ』のいいところを一通り熟考してみたが、考えを巡らせれば巡らせるほど、彼女のことを理解するのは不可能なのではないのかと思ってしまう。
 そもそも、これらのことを良しとしてしまったら、僕の好きなものを僕自身が否定しなければいけなくなるのではないか。
 本末転倒にも程がある。
 莫迦莫迦しい。
 チョロネコにちょっと唆されてその気になったって、駄目なものは駄目なんだ。
 世の中には、自らの意思にかかわらず絶対に受け入れられないものの一つや二つ、あって当たり前だ。それがたまたまあのトゲチックだった、というだけだ。
 絶対に相容れない人やポケモンの何を理解する必要があるのだろう。そんなことしなくたって楽しいことは見つけられる。チョロネコは――恐らく、もっと視野を広げろと言いたかったのだろうが、言われずともこの世界の広さは十二分に認識している。少なくとも、人間の作り出した忌わしい高機能の街で暮らすポケモンよりは、ずっと、ずっと――。
 だから、このままでいいのではないか。トゲチックと出会ったことだって、なかったことにしてしまえば。


 いや、駄目だ。
 僕はトゲチックに言った。一度も雨の中を飛んだことがないなら、試してみればいいじゃないか、と。そして彼女はそれを了承した。
 トゲチックは僕のことを理解する術を曲がりなりにも得た。そのくせ、僕は何もしていない。
 これじゃあただの逃げじゃないか――。
 
 ぽたり、と頭のとんがりに水滴が触れた。
 雨だ。僕の大好きな雨。
 そして、トゲチックの大嫌いな雨。
 雨脚はみるみるうちに強くなっていく。鉛色の鈍重な雲と、茶色やら黒やらが雑多に混じりあった街が、雨をきっかけに互いに溶け合って、独特な雰囲気を醸成している。
 素敵な景色――だと思えたはずだった。
 なぜか気分が高揚しない。雨も、少しだけ鬱陶しい。トゲチックやチョロネコに言われたことが、僕の感覚神経に絡みついて五感を鈍くしているような気がする。
 
 なんだか楽しくない。
 そう思うと、見慣れているはずの雨による街の翳りが、途端に僕の心をそのまま投影しているものであるかのような気がして、切なくなった。
 未だかつて感じたことのない不安が波のように押し寄せる。苦しみや辛さ、つまらない気分を一気に払拭してくれるものが雨であったはずなのに、今は全く逆だ。
 足元が覚束ない。石畳がぐらぐらと揺れている。しかしそれは、辺り一面にできた水溜まりを激しい雨が打ちつけて成す夥しい数の小波が、光を淡泊に乱反射していることによる錯覚だった。
 それに気づくと、僕の心は余計に不安定になった。水に染まった景色から逃れるように、空を見上げる。
 すると――白いものが、摩天楼に狭められた小さな空を横切った。
 トゲチックだ――。
 この雨の中を。まさか、昨日の今日で?
 急いで袋小路になっている路地裏を抜け出す。既にトゲチックは見えなくなっていたが、行くあては想像できる。僕は裏通りへの道を滑って、僕とトゲチックが邂逅を果たしたあの場所へと向かった。

朱烏 ( 2012/08/06(月) 01:10 )