03
「何をしているの?」
その白いポケモンは、首を傾げながら僕にそう訊く。多少低いが、雌の声色だ。
僕は逡巡し、目を泳がせる。
「ただの散歩。それで……たまたまここに来たんだ」
いかにも嘘っぽい。目の前にいるポケモンを見失って以降、実際にただ街をうろついていて、本当に偶然ここに辿り着いたのだから、散歩と言っても差し支えはないはずなのだが。
意外な形で目的が達せられて、街をあてもなく歩き回っていたというのはどうにも嘘臭く感じてしまうのだ。
突然、彼女は木の枝から飛び――背中の羽をはばたかせ、僕の目の前にふわりと着地した。
「散歩でこんなところに? 変わった趣味ね」
彼女はそのいささか長い首で僕の顔を覗き込み、そう言った。
確かに、汚れたビルの隙間を這って行ったのだから、彼女の言う通り変わった趣味かもしれない。だが、それはそっちも同じだろう――と、言おうとしてやめた。
彼女はおそらく、空から華麗にここへ――この、秘密めいた場所に舞い降りたのだ。僕のように、体が汚れるような方法はきっと死んでもとらないだろうと、その真っ白な体を見て思った。
卵型の胴体と頭。飾りの様な腕と脚。円らな瞳と、小さな翼。何より特徴的なのは、胴体に散らばっている赤や青の楽しげな三角輪っか模様と、頭の三つのとんがりだ。
とんがりの数は僕と違うけれど、ほんの少しだけ親近感を覚えた。
「君はここで何を?」
今度は僕が問う。
「私は休憩。散歩の合間のね。でも空を飛ぶのは散歩って言わないのかな」
彼女は独りで考え込んだ。腕組みをしようとしているようだが、腕が短くて全くできていない。それがちょっと可笑しかった。
「あ」
彼女が目を見開いたので、僕はどきりとした。
「な、何?」
「ここ、水が垂れてくるね」
彼女は深緑色の天井を見上げた。
「……そうだね」
彼女の額に、水滴がぽたりと当たる。彼女はそれを振り払うように、一歩その場から退いた。
「なんだか嫌だなあ。雨みたいで」
雨が、嫌?
彼女は、まるでチーゴの実を噛み潰したかのような顔をしている。昔、チーゴの実を一度だけ食べたことがあるが、この世のものとは思えない味だった。
「いい加減、晴れてくれないかなあ」
彼女は、この街に棲むものとしてあるまじき発言をした。その黒々とした小さな瞳は、重なり合った木の葉を通り越し、遥か上空を見つめていた。
「晴れるなんてとんでもない」
彼女が空に放った願いを打ち消すように、僕は言った。彼女は反駁した僕を、驚いたような顔で見つめた。何をそこまで驚く必要があるのか。
「雨が降らなくなっちゃうじゃないか」
僕は語気を強めた。
しかし、彼女は少々興奮気味の僕を、まるで宥めるかのように見つめている。その小さな手で僕の頭を撫でようとするのではないかと思うくらい、優しい瞳だった。
「そっか……あなた、アメタマだもんね。きっと誰よりも雨が好きなんだろうね」
彼女はひとりで納得したように、右手と左手を合わせた。
「そうだよ。僕は雨が大好きだ。だからこの街に棲んでいるんだ。僕だけじゃなくて、この街の人間も野良ポケモンも同じだ」
「でも、そうじゃないポケモンが、君の目の前にいるよ」
だから色々と混乱しているのだ。
一度、深呼吸をした。なんだか、やりづらい。
「あなたは好きでこの街で暮らしているのかもしれないけれど、私はそうじゃないの。一緒に暮らしていた人間が突然この町に引っ越すなんて言い出して、しょうがないからついてきただけ」
彼女は微笑みを保ったまま、しかし僅かに顔に諦観の念を滲ませながら言った。
「本当は私ひとりでも暮らしていけるんだけどね。腐れ縁みたいなものがね……。その人間を一人にするのもどうかとおもったから、まあこうしてこの街にいるわけ」
彼女が有する事情が僕やその辺の野良ポケモンたちと違うということは理解できた。たが、理解できたのはそれだけだった。
「それでも、雨が嫌いなのはおかしい」
「誰だって好き嫌いはあるよ? 雨なんてただ鬱陶しくて冷たくて、気持ちをげんなりさせるだけ。雨っていうのは多少降るくらいが丁度いいのに、ここには雨が降らない日はないんじゃないかっていうくらい矢鱈と雨が降って、本当に気が滅入っちゃう。浴びたいのは雨じゃなくて陽の光なんだけど」
「そんなことない! 雨ほど浴びていて気持ちいいものはないだろ」
押し問答だったが、彼女と話していると、まるで彼女の方が論理性のある弁を展開しているような気がしてしまう。しかし、ここで引くわけにはいかなかった。今まで自分が受け入れていたことや、理由などほとんどなしに好きになっていたものが理屈を付けて否定されるのを見過ごせるわけがないのだ。
「あなたって強情なんだねえ」
彼女は呆れた風に僕を見て、それから木の下を出て、空を見上げた。
「見てよ、あの厚い灰色の雲。あんなのがなければ、真っ青な空が広がっていて、その下を自由に飛べるのに。この街だとそんな簡単なこともかなわないの」
彼女は空を憎々しげに見つめて、大きくため息をついた。
僕はそのため息の行方を目で追って、ふと思った。
――なぜ雨に対する考え方が、僕と彼女ではこんなにも違うのだろうか。
「雲がない空なんて、なんにもないただのだだっ広い空間じゃないか」
この街で、全く異なる了見を持つポケモンと遭うなんてありえないと思っていたけれど、ただの思い込みだったのか。
「何もない? 違うよ。温かい陽の光、綺麗な青色、澄んだ空気、気持ちのいい風……いっぱいあるよ」
ちょっとだけ悲しくなった。
「あなたは……あなたは、青空を自由に飛べる素晴らしさを知らないから、そんなことが言えるんだよ。それに引きかえ、雨なんて空のいいところを全部消してしまうだけ。雨自体にいいところなんて一つもないのに」
僕はしばらく口をつぐんでいたが、腹の底に溜まったもやもやは消えない。ついに僕はそれを吐き出すように、声を絞り出した。
「じゃあ君は雨の中を飛んだことがあるの?」
僕の訊いたことがよほど意外だったのか、トゲチックは目を丸くした。
「あるわけないよ、そんなの。わざわざ暗い雲の下を雨に濡れながら飛ぶなんて、よほどの物好きか、頭のおかしいポケモンがすることでしょ」
彼女の言葉を聞いた僕は、体内の血という血の全てが沸騰するような感覚に襲われた。
「じゃあ、試してみればいいじゃないか!」
彼女は飛び立とうと曲げた脚と屈曲した翼を元の状態に戻して、怒鳴った僕に向き直った。
「一度も雨の中を飛んだことがないのに、雨の中を飛ぶのが嫌いだっておかしいじゃないか。もしかしたら、好きになるかもしれないのに」
「そんなのありえないよ」
彼女は首を横に振る。何を莫迦なことを、とでも言いたげで、それが余計に僕の神経を刺激した。
「やってみなきゃわからないよ。とにかく、試してよ。それとも、僕にまともに反論できなかったからって逃げるのか?」
反射的に返した僕の物言いは、聞き分けのない子供そのものだった。非論理的で支離滅裂、ただ単に喧嘩をふっかけているだけ。ほんの一瞬だけ、僕は何をいきり立っているんだという思いが頭をもたげたが、どうにもならなかった。
彼女は僕をしばらく見つめたあと、視線を空に移し、同じように見つめる。まるで鈍重な雲の壁を細かく観察しているかのようだった。そして彼女はため息とも深呼吸ともつかないような所作をして、僕に言った。
「いいよ、そんなに言うなら」
彼女は小さな白い翼を広げ、僕に背を向けた。
「試してあげてもいいよ!」
厚い雲の壁のわずかな綻びから差し込んだ太陽の光が、彼女を照らした――ような気がした。
そして、今度こそ彼女は飛び立っていった。白く四角い空に点となった彼女は、煤けた枠の外へと消えた。
綻びは瞬く間に消え、地表は再び影に覆われた。