02
次の日。
太陽が昇る頃には雨は止み、空は一瞬晴れの様相を見せた。しかし、すぐに曇った。灰色の雲が、空全体に薄く延ばされていた。
僕は朝の食事を、昨日の雨の産物である水溜りの中にいる微生物だけで済ませた。そして、逆さまの青いバケツがお気に入りのチョロネコと他愛のない会話をしていた。
今日はまずまずの天気だね、とか、新しい餌場を見つけたんだ、とか。雨が降っていないときの暇潰しは、大体こんな風だ。
しかし、暇潰しだってすぐに飽きる。チョロネコも同じらしく、とうとうあくびをし始めた。彼女は昼寝をすると言って、廃ビルの開け放たれた戸口の中に消えた。僕は所在なさげにそのビルの中を覗いた後、散歩に出た。
路地を通り、裏通りへ。表通りに面したビルはみな高さがあり、圧迫感があったが、裏通りの方のビルは表通りのそれらよりも一段低いせいか、たとえビルが傾いていても倒れかかってくると錯覚することはなかった。
天衝く摩天楼によって狭められた表通りの空とは異なり、裏通りの空は雲が端から端までかかっていることを視認できるほど広い。普段見る景色とは異なる景色に少々感動する。
この時間帯の人影は疎らだ。表通りも少なかったが、ここは更に少ない。人間は、生きるために仕事というものが必要なのだそうだ。その仕事というものをすると、真昼間から通りをぶらぶら歩くことはできないらしい。
ふと人間を見かけたと思うと、その人間はきっちりとした服装をしていたり、忙しなく走り回っていたりする。人間は生きるのにポケモンよりも体力を使いそうだと、なんとなく思った。
野良ポケモンも決して楽に生きているわけではないが、人間のように規則に縛られた生活を送ってはいない。自由度が高いのだ。
しかし、今のように無為に過ごしているのを自由とのたまうのも、なんだか虚しい。
ふと、街と街の間をさすらっていたときに出会った野生のポケモンを思い出す。
向こうの世界でも、自由を謳歌できるものなんだろうか。きっとできるんだろう。だから彼奴はあんなに楽しそうな顔をしていた。しかし、街に棲む奴らとは顔つきが違う。野生は野生で、こちらとは違う苦労があるんだろう。
たとえば、弱肉強食であるとか。
もしかして、の話だ。実際はそうでないかもしれない。
でも、そうだとしても、やっぱりこっちでいいや――そう思った。
空を仰ぎ見る。雲は幾分か色を濃くしているようだが、雨が降る気配は微塵も感じられなかった。
今日は外れか。
雲の一部分が、ぼんやりと白く見えた。
「あ……」
違う、あれは雲じゃない。ビルよりも高い所を、何かが飛んでいる。見覚えがあったような気がする。
その色はあまりにも白く、薄い灰色の曇り空にすら映えた。僕はしばしの間その綺麗さに見惚れていた。しかし、そのポケモンは僕から遠ざかる方向へと飛んでいることに気づいた。
「……よし」
追いかけよう。そう決心した。
何故か。ただの気紛れかもしれない。だが、今日ではなく明日や明後日、明々後日にあのポケモンを見かけたとしても、やっぱり同じように決心しただろう。
気紛れで全て決定できることが、すなわち自由ということなのだろうと思う。規則に縛られている人間には、多分できないだろう。
僕は細い四本の足を素早く動かして、通りに沿って上空を飛ぶそのポケモンを追いかけた。
しかし、相手は速かった。こちらが地を這って行く速度と、あちらが飛行する速度は文字通り桁違いだった。
「このままじゃ……!」
見失ってしまわないよう、必死で食らいつく。茶色の景色が高速で流れてゆく。こんなに速く走るのは初めてかもしれない。慣れない足運びに転びそうになり、それでもなんとか体勢を立て直しながら、あのポケモンを追いかけてゆく。
辛うじてついていくことができたのは、あのポケモンが蛇行や逆進、更には宙返りなどを幾度となく繰り返していたからだ。
だが、縦横無尽に飛び回っているわけではない。道には沿っている。
翼を持ったポケモンは空を飛ぶ。そうでないポケモンは地を行く。当たり前のことだが、少しだけ歯痒かった。少しだけ、憧れてしまった。
「いいなあ」
息を切らしながら、思わず呟いた。僕は人間にはない自由を持っていて、あのポケモンは僕にはない自由を持っている。自由の意味も方向性もまるで違うけれど、だから憧れる。
空のポケモンは、一度滅茶苦茶な飛行軌道を改めて、緩やかに左に旋回した。表通りから遠ざかる方向だ。道にはやっぱり沿っている。
僕も十字路に差しかかり、あのポケモンと同じ方向に曲がった。そのとき、ビルの陰から人間が飛び出してきて、危うくぶつかりそうになった。避けようとして転んだ。呪いの言葉はかけなかった。
が、その瞬間に。
「あ……」
僕は追いかけていたポケモンを見失った。
一度立ち止まって、表通りよりも広い空を、隅から隅まで見渡した。しかし、あの灰色の雲に映える綺麗な白色は見当たらない。
「何で……」
あの一瞬で、遠くまで飛んで行ってしまったのか。それとも、ビル群の真上を突っ切って、そのビル群に囲われた空から逃れたのか。
僕の息を切らす音だけが、やけに街の雑音の中で目立っていた。
結局、全て無駄だったみたいだ。
「……くそ」
さっきの人間に向けて悪態をついた。しかし、うまく消化できない。できないから。
「雨が降ればいいのに」
そう呟いた。雨が降れば、嫌なことは全部雨に混じって流される。
それでも雨は降らない。雲は空に鎮座している。風の流れは滞り、動いているのは地の世界だけのようだった。
取り敢えず、歩いた。歩かなければ、何もできない。何も起こらない。表通りに戻ってもよかったが、それでは何だかここまでの行動が本当に無駄になってしまう気がして、できなかった。
「ま、暇だし……」
ぶらついたっていいだろう。
この町に居着いて、そこまで長い月日が経っているわけではない。大きな表通りと、それに並列する両(ふた)つの裏通り以外のことはよく知らなかった。
それに雨が降らなければ、街を闊歩することもない。
この道は、表通りと垂直に交わっている。ずっと歩き続ければ、そのうち街から飛び出してしまうだろう。
ずっと真っ直ぐに歩いてゆく。立ち並ぶビルの高さは、裏通りのそれらとはあまり変わっていなかった。ただ、住居ビルの割合が多くなっている。商業の拠点が街の中心部に集まっているから、当然だろう。
ビルの煤け方は、中心地に比べて浅くなっている気がした。ただ、歪み方は相変わらずだ。表通りのビル群の歪みと色の均整が普通だと思っていた僕には、この辺りの景色は幾分か奇妙に感じられた。
ビルとビルの隙間に入り込んでみる。表通りの、まるでビル同士が押し合っているような狭さとは違い、僕一匹なら何とか入り込める程度の広さだった。
ごみや得体の知れない何かが散乱している。人間の目がつきにくい場所だから、掃除がなされることもないのだろう。欠けた小さなバケツには水が溜まっていて、それが悪臭を発している。
僕は顔をしかめながら、径(こみち)を抜けた。その途中で、左の後ろ足が軟らかい何かを踏んでしまった。本来ならば、僕はそれを気にしなければいけないところだったが。
息を呑んだ。
この街では見慣れない――いや、それどころか、見たこともないものが眼前に広がっていた。
「緑地帯……?」
四方が同じ高さ、同じ形のビルに囲まれていて、この土地は正方形に切り取られている。空も同じように、真四角に切り取られている。
地面は苔が生し、ところどころに雑草も茂っている。正方形の中心と角を結ぶ四本の線上にきっちりと、低木が四本植わっている。どうやら人間が植えたらしいというのがわかる。
この街の色はてっきり茶色と黒と灰色だけで構成されているものだと思っていたが、違うらしい。
僕は低木の一本に歩み寄った。地面は水を大量に吸っていて、足を踏み込む度にひやりとした感触と潤いを感じた。
木の真下に行くと、その感触は下からだけでなく、上からも感じられた。朝まで降っていた雨で沢山の雫を抱えた木の葉が、僕に水滴を落としているのだ。
「気持ちいい……」
雨、ではないけれど。
同じようなものだ。
「ねえ」
僕は、どこからか発せられた声に気づくのに数秒の時間を要した。
というより、それは僕の意識の範囲から遠く外れていた。雫の感触に耽っていると、僕は周りが見えなくなるときがある。
「聞こえてる?」
振り返る。丁度、対角線上の木の方から聞こえてきた。
聞こえてるよ――そう返そうとして、僕は静止した。
木の枝に、あの白いポケモンがとまっていた。