01
夕暮れの雑踏。人々の冴えない足音。
何ともいえない不快感だった。僕は、まるで偏頭痛を我慢するかのように顔をしかめる。
人間たちの履く硬質な靴と、それよりも更に硬質な石畳とがこすれる音は、そこらじゅうで鳴り響いていた。
「あー、……うるさい」
ただでさえ群れを成す人間たちの隙間を通り抜けるのは疲れる。だから、せめてそんな余計な雑音だけは遮断したかった。
視界を縦横に巡り巡る人の姿が、僕の平衡感覚を狂わす。この場にくずおれたい。歩くのが苦痛だ。
それでもやっぱり歩かずにはいられない。単なる散歩なら、この表通りは絶対に避けるのだが。
不愉快な靴音の反響を受け流しながら、僕は四本の足を器用に動かし、人間たち自身が成す潮流の中を巧みに泳いでゆく。足を踏まれたり、頭を蹴られたりしないよう、とにかく敏捷に動いた。
しかしどんなに気を付けていても、人間にぶつかったり蹴られたりした。どこ見て歩いてんだ! と呪いの言葉をかけようとする頃には、その人間たちは激流に呑み込まれていて、結局は呪いを心の内に留めておくしかなかった。
夕方のこの人混みは、今の僕が最も嫌いなものだ。踏ん付けられ、蹴飛ばされ、ぼろぼろにされて、しかも気にかけられることもない。この最悪な現象を回避するには、裏路地にでも引っ込んでおくしかない。
だが、現実問題としてそれはなかなか難しいのだ。とある飲食店の外壁に設置されたごみ箱――野良ポケモンの餌の供給源――の中身は、丁度人間が通りにごった返す時間帯にやって来る。そして、人間が消える頃にはそれは他のポケモンたちに食い散らかされてしまっている。
更に酷いことに、ごみに群がっている目当ての小さな虫も餌食にされてしまうので、僕が食することができなくなる。
かと言って、事前にごみを持ってくる人間を待ち伏せるわけにもいかない。警戒されてごみを移動されては困る。だから、こうやってわざわざ人波を掻い潜りながら、餌場を目指しているのだ。全く、世知辛い。
疲れたので、一度表通りの潮流から抜け出して路地裏に入る。そこは薄暗くて、まるで靄がかかってるかのように見えた。三方を高いビルが蓋っているせいだろう。この先は行き止まりで、裏通りに続く小路などではない。野良ポケモンの溜まり場だ。
くすんだ色の歪んだビルは、今にもこちらに倒れ込んできそうだった。人間の潮流の中に溺れているときとは異なる閉塞感。しかし、心地が悪いわけではない。人間と違って、静かで、物を言わない。ただそこにあるだけだ。
この路地裏だけでなく、街全体がそんな感じだった。あるビルは直立しておらず、あるビルは窓枠の対辺が同じ長さでなく、またあるビルは廃墟だ。人の動きが活発なのが信じられないくらい、この街は歪み、霞み、黒ずんでいる。その不思議な対照性が、僕をここに留まらせる。
今まで訪れた街は、どこもかしこも整然としていて小奇麗だった。人間たちが、彼ら自身、そして一緒に住まうポケモンが暮らしやすいようにと造った街は、空気が澄んでいて、楽園を模したもののように見えた。ただ、餌場が全くと言っていいほどないので、野生ポケモンは自然に排除される。まさに人間たちにとっては理想形だ。
人間の街が発する空気に押し流されるように、僕は色々な街を彷徨い歩いては弾き出された。山や川や池なんかに棲もうかと考えたが、やめた。もともとは街の片隅で生まれ、不便ながらも街の中で生活してきた。今さら本格的な野生生活を歩むなんて、先が今以上に見えなくなりそうだし、何よりも慣れた生活を手放すのが怖かった。
もしかして、新しい世界へ踏み出す勇気がなかっただけかもしれない。途中で出会ったポケモンにもそんなことを言われた。
こっちの世界に来い――。僕はそれをほっとけよと一蹴したが、決して間違いではなかったと思う。お蔭で、退廃さを漂わせる、だが決して鬱屈した気分にさせないこの街に出会えた。
路地に屯する、くたびれた街の姿を投影したような小さなポケモンたちも、僕と同じように好きで居着いているのだろう。逆さまになった青いバケツの上で、チョロネコが空を見上げている。靄に潜む他のポケモンも、同じように空を仰いでいる。
僕も、空を見上げた。投げ上げられた街灯りが、空を覆う雲を陰のある丹色に染め上げていた。
これは、予兆だ。
僕は、再び大通りの激流に飛び出した。
雷鳴が轟き、天が一瞬光る。
雫。僕のまわりを蠢く人垣の隙間から垂れ落ちてきたそれに、僕は心を躍らせた。
雨だった。惑うように揺れる人波の中を、僕は縫うように歩いた。
ビルの隙間に見えていた、雲の向こうの朱い太陽は、既にどこかに消えてしまっていた。それでも空はまだ、微かに明るさを保っている。完璧な天気だ。
人々が撥ね飛ばす泥水を被りながら、いつもの餌場を目指す。視界が水飛沫と大粒の雨に掠れて、急に世界が彩りを見せるようになった。これが、僕が好きなこの街の本当の姿だ。
急な強い雨にも、ここの人間たちは傘を差そうとしない。濡れることを憚らないのは、この街に住む人種の特徴だった。妙に取り澄ました他の街の人間よりも遥かに自然的で、そこに多少の好感を持てる。まるで、僕と彼らは全く同じ生き物であると錯覚させる。
正直に言って、どうしたって人間は好きになれない。助けられたこともあるけれど、苦労を掛けられたことの方がその何倍もある。ただ、徹底的に嫌いになるわけでもなかった。冷たくて野性味を感じさせない他所の人間は、まるで彼らが作り上げた『機械』そのものにも見えて不愉快でしかなかったが、ここの人間はそれがない。だから、嫌いになるのが申し訳ない気がしたのだ。
だから取り敢えず、人間たちが織り成す人混みが嫌いなのだ、ということにしておいた。事実、何度も蹴り飛ばされている。それが悪意のないものだったとしても。
溜まり始めた水の上を軽快に滑る。気怠い足音も、茶けた街も、全て雨が彩色する。
最高だ。
餌場に辿り着く。一階に飲食店が入っている煤けたビルと、住居用か商業用か今一つ判別のつかないビルの間。僕三四匹分程度の幅の、細い隙間だ。
チョロネコが座っていたバケツを何倍も大きくしたような、形状はドラム缶に似た青いごみ箱が、飲食店が入っているビルの壁に沿って五つ、一列に並べられている。そのうち手前の三つは、食糧の宝庫だ。羽虫もちらちらと飛び回っている。雨の中、ご苦労様だ。
幸いにも、まだ餌を求める飢えたポケモンは見当たらない。羽虫を主食とする他のポケモンたちと取り合いにならないうちに、さっさと食事を終わらせてしまおう。
僕は、頭の先の尖がりから甘い匂いのする分泌物を出した。そして、それでおびき寄せられた羽虫たちを食べる。
美味しい。水溜りにいる微生物だけでは胃を満たすことができない。羽虫の味を知ってしまうと、なおさら他のものは食べる気がしなくなる。
一通り羽虫を食べ終わって、僕は一息つく。ここから窺がえる通りの人の往来を眺める。次いで、空を仰ぐ。
雫が僕の顔を打った。
気持ちがいい。ずっとこうして居たい。
――幾らか時間が過ぎ。僕は視線をゆっくりと落とした。真上の空から、下へ、下へ。そして、通りを挟んだ向かい側のビルへ。
「……あれは」
そのビルは、いくつかの部屋の灯りが点っている、住居用のビルだった。十階建て――平均的な高さだ。
その五階、一番右端の窓の向こうに、真っ白なポケモンが見えた。ビルの色は勿論、各部屋の窓ガラスもみんな煤けていたので、その白さはより際立っていた。
なぜ目についたのか。考えるまでもなかった。
ここの人間たちは、野良ポケモンと多少関わることはあっても、飼ったり一緒に暮らしたりというようなことはしなかった。そんな人間は、もっと綺麗な街に暮らす。例えば、僕が生まれた街とか。
だから、ビルの中にいるポケモンを見ると、それは人間と一緒に暮らしているという意味になり、違和感を覚えるのだ。
そして。
「何か……」
変だ。空を見上げているその表情が。その口の動きが。
白いポケモンは体を翻し、窓の奥に消えた。
なんだか、まだ口に残っている羽虫の味が、急に不味く感じられた。
もうあのポケモンは見えないというのに、その表情だけは僕の網膜にしっかりと焼きついてしまっている。絶対にありえないが、まるでこの天気を嫌悪しているかのような表情だった。
「……そんなわけない」
ただの見間違いか。茶色く曇っている窓ガラスを隔てていたから、表情が歪んで見えたのか。だとしたら納得がいく。むしろ、そうとしか考えられない。
けれども。
「……くそっ」
些細なことだったが、一気に気分が悪くなった。
僕は雨を浴びながら、人が掃けてきた通りを徘徊した。そして、適当に路地に入り込んで、そこで夜を明かした。
大好きな雨は、微塵も心に沁み入ってこなかった。あのポケモンの口の動きが、頭から離れない。
『晴れ渡れ、空』
雨は、空が明るくなるまで降り続いた。