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夕陽に染まる森のなかを走っていた。
お母さんに怒られた。練習していた幻影をガルーラの親子に試したら、思ったよりもおどろいて、けがをさせてしまったから。そのつもりはなかったのだけれど。
お母さんの目はいつになく吊り上がっていて怖かった。それに加えて、いつまでもぼくの幻影を褒めようとしなかったから、反発心もあって、すみかから逃げだしたのだった。
家出なんてありふれている。友達に聞くと、やっぱりみんな一度は家出をして家族を困らせたことがあるという。なら、僕もお母さんを困らせてやろうと思った。
秋の森は、冬を目前にして、あざやかな赤色と黄色でいっぱいだった。
あてどなくさまよいながら、いよいよ日も暮れようというとき、やたらと色の鈍い場所に出た。
神様が、この場所だけ色を塗り忘れたかのようだった。
そのあおぐろいからっぽの真ん中に、神社があった。人間がそこかしこに建てるもので、今までも何度か見たことがある。でも、ぽっかりとした虚空のなかにあるそれは、今まで見たどんな神社よりもこぢんまりとしていた。
苔でうめつくされた石畳の道の両脇には、陽に焼けて色をうしなったかざぐるまが並べて立ててあった。風が立って、それらをいっせいにからからと回した。
僕はひたひたと、細い石畳の道を渡ってゆく。僕が通り過ぎるたびに、かざぐるまがぴたりと止まる。
そうして神社の前にたどりつく。人の気配はしない。とうの昔に使われなくなったのだろう。本殿を覗きこもうとするが、さびついた鍵が扉を閉ざしていた。無理に開けようとは思わなかった。
そういえば、この細い参道の入り口には鳥居があっただろうかと、はたと振り返った。
「珍しい客だな。黒い化け狐とは」
腰を抜かしてひっくり返った。僕の真後ろに、金色の九尾がいたのだ。
「だ、誰だ!?」
「誰も何も、ここの主よ」
じっと、紅い眼で見据えられる。九つの尻尾がゆらゆらと揺れた。
「ふぅん、家出か。まあお前のような年なら珍しくもない」
「な、なんでわかった」
「九百年も生きていれば色々なことが解るようになる。例えば、お前が何を望んでいるのかも」
たじろぎ後ずさると、本殿の戸に尻をぶつけた。
「大人になりたい。仔供扱いされたくない。そうであろう?」
ゆらり。ゆらり。九尾はまどわせるような足取りで、ぼくに迫ってくる。
「近寄るな!」
幻影を見せる。どこからともなく洪水が押し寄せる。ガルーラの親子は、これに驚いて小高い崖から滑り落ちてけがをした。
「ほう、年の割には立派な幻術だな。だが、所詮は仔供騙しよのう」
ゆらりと滑らかに九つの尻尾が揺れた瞬間、打ち出した幻影はまたたく間に消えさった。
「そんな」
九尾のするどい犬歯が見え隠れして、ぼくは泣き出しそうになる。
「まあそんなに怯えるでない。お前の願いを叶えてやろうというのだから」
とろり。ぼくの体は急に力が抜けたかと思うと、なんだか不思議と心地の良い気分になった。
九尾の言葉が頭のなかにするりと入ってくる。
「仔供が仔供たるゆえんは、やはり経験や知識が大人に劣るからであろう。力は仔供が勝ることも往々にしてあるがね」
揺れる九尾の後ろをついていく。参道を横に外れ、生い茂る草木を分け入る。
「大人に近づきたくば、己の見聞を深めるのが良い方法だ。ここには、ちょうどその用意がある」
あやしげな笑みを浮かべる九尾がひらりと体をひるがえすと、そこには石でできた井戸があった。
神社に負けず劣らず古びているそれは、水のにおいがまったくしなかった。乾ききった石と土のにおいだけがする。
「この井戸の底を覗き見るがいい」
お母さんが、悪い大人にはついていかないようにと、耳にたこができるくらいぼくに言い聞かせていたのを思いだす。
でも、いい大人、悪い大人、どうやって見分けろというのだろう。
「さあ」
前あしを井戸のへりに引っかけて、体を半分乗り出した。
底の見えない闇だった。このうろの中に飲みこまれてしまえば、永遠に戻ってこられない。
「あ」
不意に、背を押された。ぼくの体は支えを失い、真っ逆さまに涸れた井戸の底へと落ちていった。
「いってらっしゃい」
▼ ▼ ▼ ▼
何かをくぐった感触があった。そして、体の隅々が冷たい液体に覆われた。
(水!?)
井戸は涸れていたはずなのに、今、全身は水に浸かっている。
(おぼれる!)
上も下もわからない。空気がどこにもない。ややあって、息が止められなくなった。
だが、不思議なことに、水中で呼吸ができた。
目をゆっくりと開ける。痛くない。
(井戸の中じゃない?)
目の前に広がっていたのは景色に言葉をうしなう。遠くまで、ひたすら冷たい水で満たされていた。
いったいここはなんだというのか。見上げると、かすかな青い光が揺らめいていた。あの紅眼の狐の尾の揺れに似ている。
ふと、下からごうとうなりを上げながら何かが近づいてくるのに気づいた。
とてつもない勢いで迫ってくる。生き物だ。体がぼくの何十倍も大きい。白くて、青く暗い水の中でもまぶしかった。
広げた両腕に、ぼくはなすすべなく捕まった。
(食べられる!?)
目も口も大きい。ぼくなんか一口で飲みこんでしまえそうだ。
「またあやつは、このような小さき仔を」
低く、やさしい声だった。
「ここはどこ?」
「海の中だ」
「海?」
お母さんから聞いたことがある言葉だった。大きくて深い水たまりで、そこに暮らすポケモンもたくさんいる。
でも、一度も見たことがなかったので、おとぎ話だと思っていた。
「私はルギア。君の来訪を歓迎しよう」
ぼくはルギアの腕に抱かれたまま、広い広い海の中を散歩することになった。
「海は生物の根源だ。数多のポケモンや微小な生物が生息し、豊かな生態系を構築している」
言葉がむずかしい。
「海にはどれだけたくさんのポケモンがいるの?」
「君の想像する以上の数だ。君はどこまで数を数えられる?」
「九百九十九まで数えられるよ! お母さんが教えてくれたんだ」
景色が移り変わる。青く暗く冷たい海は、いつしか空色の暖かく明るい海になった。
「九百九十九まででは到底数え切れないだろうな」
ルギアが海のポケモンたちのそばを通り過ぎるたび、その名前を教えてくれた。
サニーゴ、ドククラゲ、ドヒドイデ、アシマリ、ネオラント、サメハダー。
もう一度海の深いところまで潜り込んで、ランターン、ジーランス、ハンテール、キングドラ。
「海がこんなに広くて大きいこと、知らなかった。こんなにたくさんのポケモンがいることも」
「君の知識の一部に、海で暮らす私たちのことが残ったのなら幸いだ」
ルギアは加速して、さらに深いところまで潜水する。
「さて、私の役割はここまでだ。君は次の世界へ行くのだ」
金色の輪っかがあった。井戸の底で一瞬だけ見たものと同じだった。
「もし九百九十九の次の数を数えたいのなら、千という単位を使いなさい」
大きな白い腕に押し出され、僕は海を抜け出した。
▼ ▼ ▼ ▼
今度は空気がある。だが地上というには明るさが欠けていた。
石と岩でできた壁。見上げるほど高い天井には穴がところどころに空いていて、光の筋が差し込んでいた。
「
闖入者発見! 直ちに捕らえよ!」
惑う間もなく、小さな岩石たちに囲まれる。
「待って、ぼくは何もしないよ!」
「言い訳無用!」
重い体に群がられては何もできない。幻影を打つにも、勝手のわからない場所では自分まで巻き込んでしまうかもしれない。
文字通り打つ手なく、ぼくは目隠しをされたままどこかへ連れていかれた。
「姫様、闖入者を捕らえました! いかがいたしましょう」
重たい岩たちがぼくの体から離れる。ぼくはぐったりとして、顔を上げるに留まっていた。
「あら、その方は」
声の主は、僕をさらった岩石たちに似てはいるが、明らかにその容貌は一線を画していた。頭部に輝かしいモモン色の鉱石を据えている。ぼくが伏せている地面から一段も二段も高いところに座していた彼女は、すっとその玉座を降りてぼくのもとに立った。
「この方は、わたくしの大切なお客様ですわ。あなたたちは下がってよろしい」
「し、しかし」
「仕事に戻りなさい。またいつ地震で国が崩れてしまうかもしれないのよ?」
岩石たちは彼女の命令に従い、きびすを返した。
「わたくしはディアンシー。あなたは?」
「僕はゾロア」
彼女は重そうな体をしているのに移動が驚くほど速かった。ぼくは遅れまいと必死についていく。
「ルギアさんは元気?」
「ルギアを知ってるの?」
「ええ。以前にもここに迷い込んだ仔が何匹かいて、決まってここに来る前にルギアさんと海中を散歩したと言うものだから、あなたも会ってきたのかと思って。わたくし自身は海に行ったこともなければ、ルギアさんに会ったこともないのだけれども」
あの九尾、ぼくだけじゃなく他の仔供も井戸の中に突き落としてるのか。
「ここはメレシーたちの国よ。地面の中に巨大な空間を作って、そこにみんな暮らしているの。私はこの国の長を務めているわ」
ディアンシーの案内で、巨大な洞窟の中を歩いて回った。
「少し前に大きな地震があったわ。みんな無事だったけど、洞窟の一部分が崩れてしまったの。今はその復興作業中よ」
ぼくは立ち止まり、メレシーたちが忙しなく動き回るのを見ていた。誰ひとりとして勝手に動く者はなく、それぞれが協力して仕事に励んでいる。
「君は、これだけたくさんのメレシーたちを率いているんだね。すごいなあ」
「傍から見れば、何千というメレシーを統べている立派な姫のように思えるのかもしれないわね。けれど、わたくしは実際にそこまで大それたことをしているわけじゃないわ」
からからと石を叩く音。運び込まれる巨石。穴を開けられる壁。
メレシーたちの作業を見守るディアンシーの顔は、誰かに似ていた。慈しみのある、誰かに。
「そろそろかしら」
国の端から端までを歩き、いよいよ最奥まで来ると、また金色の輪っかが現れた。
「わたくしはこの先に行くことはできないけど、あなたの旅がいいものになることをここで願っています」
「ありがとう、ディアンシー」
「もし次に会う機会があったら、この先の出来事のことを聞かせてね」
▼ ▼ ▼ ▼
真っ青な空に目が眩んだ。太陽が照りつけるが、暑さは感じない。
高い建物の上にいるようだった。意匠を凝らした柱が無残に倒れていて、ここが相当に古びた場所であることを窺わせた。
「珍しい客だ」
「まったくだ」
二種類の声音。空から、二匹の巨躯が降り立った。
「白いの、こいつはお前が相手をしろ」
「黒いの、お言葉だが私は長旅で非常に疲れている。私は寝るからお前が相手をしろ」
「疲れているのは俺も同じだ。何でもかんでも面倒ごとを俺に押しつけようとするな」
「お前の疲労など知ったことか。雷を落とすことしか能のないお前に役目を与えようとする私の慈悲を無下にする気か」
堂々巡りの押し問答。邪魔なようならさっさと退散しようと、僕は声を上げようとするが、
「なんだと! 最近の貴様の増長は目に余るな! クロスサンダーで目に物を見せてくれる!」
「ふんっ! 頭の悪いつがいを持つ私の身にもなってほしいものだな! 喰らえ、クロスフレイム!」
目の前で戦争が始まった。こうなっては僕の声は届かない。倒れた柱の陰に隠れて、炎と雷の応酬をやり過ごす。
しかし、海で出逢ったルギアも、洞窟で出逢ったディアンシーも、思慮深く頭の良いポケモンたちであったのに、この黒い阿呆と白い莫迦はどうしたものか。
「世の中にはいろいろなポケモンがいるものだなあ」
間違いなく、見識は広がっている。
「ババリバリッシュ!」
「モエルーワ!」
怒号はいよいよ迫力を増して、このぼろぼろの建物が崩れてしまうのではないかと僕は心配になった。
「どうやったらこの喧嘩を止められるんだろ」
などとごちても、結論は一つしかない。僕がいるせいで喧嘩になっているのだから、僕がこの場から去るしかない。
「あのお! 僕はもうお暇しますから、夫婦喧嘩はやめてくださあい!」
荒々しい空気が、ぴたりと停止した。
「夫婦だと?」
白いポケモンの鋭い視線が僕を射抜く。
「だって、つがいだって言ってたから」
白いポケモンは突然あたふたとしだした。
「あ、あれは! そういう意味で言ったわけではなく!」
「ほお? 一万年連れ添っておいてその言い草は悲しいな」
「なーっ!? ぜ、ぜくろむまでなにをいってるんだ!」
白いポケモンの尻尾が轟々と唸って灼熱する。黒いポケモンを挑発していた勇ましい姿はどこかへ消え去ってしまっていた。
「そこの狐! 変なことを言いやがって! お前なんか嫌いだ! どっかへ行け!」
そう言って白いポケモンは顔を翼で覆いながら、塔から飛び立った。
「どこかへ行けと言いながら自分が出ていくのか」
黒いポケモンは呆れたように溜め息をつき、僕に向き直った。どっかりとあぐらをかいて、頭を下げる。その理知的な目に僕は
見惚れる。白いポケモンがけしかけたせいで暴れていただけで、こちらの落ち着いた様が彼の本当の姿らしい。
「すまなかったな。今回の喧嘩は、この地方の戦争の歴史の再現だと思って、勘弁してくれないか」
「歴史?」
「うむ。俺たちはこの地の人々の主義主張の依り代となって争い続けてきたんだ。先ほどのような諍いなど、それらに比べれば些末なことだ」
一万年もの間争い続けるなど、途方もない話だ。数十年かそこらで命が尽きてしまう僕には、空想することすら
覚束ない。
「俺たちのことを夫婦と言っていたが、あいつとはそんな単純な関係じゃないんだ。夫婦でもあり、親友でもあり、敵でもあり、とてもではないが一言では言い表せない」
「でも一緒にいるのなら、仲はいいんだよね」
「悪くはない、とだけ言っておこう」
黒いポケモンは、意味深な笑みを浮かべて、僕の体を爪で優しく摘まんだ。
「さて、つまらぬ話はここまでにしよう。君を送り出す時間だ」
中空に出現した金色の輪っかに、僕は静かに押し込められた。
「あの! あなたのつがいに、僕がごめんねって謝ってたって伝えてくれる?」
「ああ、伝えておこう」
▼ ▼ ▼ ▼
いろいろな場所を旅して、いろいろなポケモンに出逢った。
火山、城、遺跡、砂漠、揺れる塔、海底、一番空に近い山、翡翠色の泉、広大な草原。
たくさんのことを知って、たくさんのことを経験した。
この旅でどれだけの時間を消費したのか、もう覚えてはいなかった。
▼ ▼ ▼ ▼
何度くぐったかわからない金色の輪っかを通り抜けると、そこは想像を絶する空間だった。
体は浮遊し、左右も前後も上下も、自らの感覚から脱離している。
海の底より暗く、森の奥より静謐だった。
呼吸はできるが、本来であれば生存することもままならない場所であると本能的に悟る。
「やあやあ! ようこそ俺の庭へ!」
背後から抱きつかれ、絡めとられる。今回の案内役は馴れ馴れしかった。
「俺はデオキシス! 君を手引きしてあげよう!」
「ここはどこなんだ? まるで知らない場所だ」
支えが一切ないことが、僕の不安を掻き立てる。デオキシスに後ろから羽交い絞めにされているから、ぎりぎりのところで平静を保っていられた。
「ここは空だよ。鳥ポケモンも飛んで来られないくらいに高い空だ」
「青くもない。雲もない。ここは夜空なのか?」
「本質的に、空は無色だよ。昼も夜もない。君は今までどこにいたと思う?」
緑と橙の軟体は、細い触手で僕の背中側の一点を指した。
振り返ると、巨大な球が広漠とした暗黒の空間に浮かんでいた。半分だけ翳っているそれは奇怪な紋様が描かれており、その奥には眩く光を放つ、黄金の球があった。
「あれが君たちの住んでいる星だよ。ちょうど太陽も見えるね。美しいと思わないかい?」
愕然とした。僕は幻影を見せられているのか。
「信じがたいよ。幾ら何でも」
僕は両手で顔を覆う。空恐ろしさすら感じた。
「そうだね。みんな自分の住んでいる場所が、宇宙に点在する何千億もの星の一つだということを知らずに生きて、自分の立っている地面が実は巨大な球体であることを知らずに死んでいく」
僕はデオキシスに促されるまま、顔を蒼い星から逸らした。
どこまでも続く深淵には、ぽつぽつと光が散りばめられていた。そしてそのどれもが、地上にいた頃に見上げていた夜空の暗幕に張りついていたものであると理解した。
「ああ」
頭痛がする。幻影を見せつけることには慣れていても、その逆は慣れていない。一見ありえないような現実のほうが、生半可な幻影よりも心を害するものなのかもしれない。
「気分が悪そうだね。月で一休みしよう」
蒼い星をぐるりと回ると、月があった。白く冷たい衛星は、無軌道な僕らの着陸を許した。真っ白な地平線と真っ黒な空。無機質で、味気なかった。
「母が、月にはミミロルがいて、飛び跳ねて遊んでいると教えてくれた。だが、どうやら間違いだったみたいだ」
「うーん。ミミロルはいないね。他のポケモンは、もしかしたらいるのかもしれないけれど」
弱い重力を感じながら、僕らはひたすら地平に向かって歩いた。円形の盆地を突っ切り、小さな山を突っ切り、ひたすら歩いた。飽きもせず、互いに何も話すことなく。
そうして、地平の向こうに蒼い星が見えた。
「蒼い星から見上げた月は小さいのに、月から見る蒼い星はこんなに大きいんだね」
ついぞ月の上でポケモンに出逢うことはなかった。月は、寂しい星だった。
「さて、最終章へと向かおう」
遠くに、あの輪っかが見えた。
「デオキシスは、この宇宙で独りなの?」
「独りじゃないさ。ときどきポケモンが遊びに来るからね。にょろにょろした緑色の竜とか、君みたいな狐とかが」
彼は口がないはずなのに笑っているように見えた。
「長かった旅も次で終わり! またどこかで会おう! チャオ!」
見慣れた輪っかに僕は押し込められ、見送るデオキシスに手を振ると、意識が閉じた。
▼ ▼ ▼ ▼
「ついに終わるのか」
伽藍堂。天空には、月に似た赤い天体が赫々としていた。地上には、彼岸花が一面に咲き乱れている。風はなく、紅い花弁は凍りついたように静止していた。
昏(くら)い天空よりも現実感の薄い、まるで僕らの種族が作りだしたかのような幻影にも思えた。
彼岸花の花畑を赤い爪で掻き分け、進んでいく。長い
鬣を揺らし、二本の足で土を蹴りながら。
歪んだ天体に近づいてその不気味な模様を視認できるようになった頃、風が強く吹いた。
「今宵はどうやら君のようだね」
頭上から重低音がした。ここに至るまで、海の神や空の神、雷や炎を司る神にも出逢ってきた。彼、もしくは彼女もまた同質の存在らしかった。
硝子のような紅色の花の絨毯の上に降り立った巨躯は、夜の黒と彼岸花の紅を翼と胸に携えていた。
「ここはいったい、どんな場所なんだ? 今まで、色々な場所を見てきた。海、森、火山、砂漠、挙句の果てには誰も到達しえないような天空まで見た。それでもなお、このような場所を知ることはなかった」
黒い翼がぬめるように広がる。闇に同化し侵食していくそれは、やがて宇宙の色になった。
「そうだろうね。ここは生者には無縁の場所。どれだけ立派な神々でも、生きている限り辿り着くことはない。だが、最後には誰しもが平等に辿り着く。君もまた同じように、ここに辿り着いた」
彼岸花の香りが鼻腔をついた。終局のにおい。
「やはり気づいていないようだね。自分の姿を見るといい」
黒い水鏡が、僕の足元に広がった。僕を囲んでいた真っ赤な彼岸花は、波紋に押し流されるように遠くへと行ってしまった。
「ああ!」
俯いて、久しく見た自分の顔は、かつての見知ったものからはかけ離れていた。
どろりと濁った眼。ぼさぼさの
鬣。斑な毛皮。嗄れた声。仔供はどこにもおらず、若々しい青年もいない。
いつの間にか進化していたことにすら気づかず、僕はこんなところまで来てしまっていた。
「なぜだ」
何故だ。何故だ。何故だ。僕は白痴のように、同じ言葉を繰り返していた。あるいは、すでに僕の脳はそうなっていたのかもしれなかった。
「君はいろいろなことを知った。大人になるために、無知から脱却しようとした。まったく
夥し(おびただ)い数の経験をして、年老いて、ここに至った」
僕は震える脚で立っていた。それは目の前の死神の語り口に恐怖したためなのか、筋力の衰えた足が限界を告げたためのものなのか、判然としなかった。
「君はずっと積み重ね続けた。一から九百九十九までしか数えられなかった君は、千を数えられるようになり、万、億、そしてそれ以上を求めた。だが、どんなに積み重ねようと、最後には還るのだ」
赤い天体が、目まぐるしく満ち欠けを繰り返していた。まるで僕の生きてきた速度を示すかのように。
「どれだけ大きな数を数えられるようになっても、この数だけは知らないようだから教えよう。零は、何もないことを表す数。万物は例外なく零に還る。ここは、そのような場所なのだ」
背を向ける。足元の
泥濘を、弱った脚で抜け出そうとする。
「仔供だった君は、大人になることを願った。その願いは達せられた。老いることもまた、その願いのうちに入ろう。老いた先には死がある。当然のことだ」
受け入れられない。
「君が拒もうと理から逃れる術はないよ」
咲き乱れている彼岸花が黒ずみ、散り始める。
「楽しかったかい? 大人になる旅は」
こんなはずではなかった。
「怖がる必要はない。君の母親だってもう還っている。見せたいのだろう? 大人になった姿を」
違う。違う。違うのだ。本当は――大人になどなりたいとは思わなかった。
ただ、背伸びしてみたかった。母親を、少しだけ見返したかったのだ。悪い大人の口車に乗せられたのも、本意ではなかった。
泥濘に足を取られ、ずぶりと沈んでいく。
「抗う必要はない。身を委ね、沈んでいけばいい。また逢えるのだ」
死神が嗤う。目も口も三日月を張り付けたような
顔だった。
「お還りなさい」
▲ ▲ ▲ ▲
懐かしい声が聞こえる。たてがみのゆりかごで、うつらうつらとしながら聞いた子守唄。
「ゾロア!」
はたと目を覚ました。そして、抱きしめられた。
「三日三晩も何してたの! 勝手にいなくなって!」
「……ごめんなさい」
体は自由に動かせた。自慢の毛並も元通りになっていた。
お母さんの肩越しに見えるのは、こぢんまりとした神社だった。九尾の姿は見えなかった。
「あっ」
ぼくはお母さんの腕から抜けだして、細道のはずれにある井戸へと一目散に走った。
色とりどりのかざぐるまが、夕陽に照らされながらからからと回る。
井戸は、変わらずそこにあった。でも、様子は少しだけ違っていた。
「閉じてる」
ぼくをいろいろな世界に連れていってくれた涸井戸は、石のふたがかぶせてあった。何年も動かしていないかのように、土まみれで、苔がむしていた。
「お母さん! ここを開けてよ!」
長いたてがみを揺らしながら、けわしい顔をしたお母さんが近づいてくる。
見覚えのある光景。どこかで見たような。でも、ぼくは思い違いだと首を振り、足を鳴らしてお母さんを急かした。
「井戸ね。もう随分と使われていないみたいだけど」
「一生のお願い! ふたを取ってよ!」
「また今度ね。もう遅いから帰りましょう」
「ちぇっ」
ぼくは知っている。お母さんの「また今度」の約束が果たされることはないということを。
でも、今回ばかりはそれが正しいと思った。
二つの影ぼうしが、夕暮れを並んで歩く。
「そういえばね、お母さん。ぼく、九百九十九のつぎの数を知ってるんだよ」
「ほんと? お母さんにも教えてほしいな」
「千、っていうんだよ。そのつぎが千一、千二、千三……」
ゾロアは物知りだねえと、お母さんはからからと笑った。
鳥居をくぐり、帰路につく。永い夢の果てに、ちょっぴり、大人に近づけた気がした。