廻り道は雨
人間、時には落ち込むことだってあるさ。以前、父さんが電話口で言っていた言葉だ。たぶん、会社の部下あたりにでも電話していたんだろう。父さんの座右の銘
擬きであるその言葉は、僕に対しても頻繁に使われた。例えば、友達と喧嘩したときに。例えば、学校のテストで失敗したときに。入試で結果が出なかったときに言われた時は、その無神経さにティッシュ箱を投げつけて反抗したが。
父さんの言葉は特別に僕を救ってくれたわけではないが、一人暮らしを始めて半年経った今でも、
確りと耳にこびりついている。
『人間、時には落ち込むことだってあるさ』
カーテンを閉め切った部屋の中、朝起きたあとに片付け忘れた布団の上で、仰向けになりながらその言葉を思い出す。
「落ち込む……ねぇ」
友達と喧嘩した、テストでいい点数が取れなかった、それはそれで、落ち込んでも前に進める。仲直りしたり、勉強に励んだりすれば解決できるものだからだ。
今現在、学校は順調で、友達もそれなりに作れ、所謂「普通」の生活を送っている。にも拘わらず、休みの日の真っ昼間から部屋を暗くしている理由は、解決とはほど遠い場所にあった。
餉台に乗っていたノートパソコンを布団に引き込んで、電源をつける。僕はうつ伏せになり、ノートパソコンを枕を退けてセットした。
音量が控えめに設定された起動音とともに、デスクトップの明かりが僕の顔を照らす。
「はぁ……」
そこに映った父さんと母さん、そしてもう一匹の家族であるニューラのチヅル(雌である)を見て、僕は嘆息する。茶色のソファに仲良く並んで座っていた。数日前に電子メールで送られてきた写真だが、それをデスクトップに配置するほどに、僕の心は沈んでいた。
俗にいうホームシックだが、気がついたのはつい最近だった。
ここに引っ越してくる前、チヅルを連れていかないかと父さんに言われた。父さんは、僕が家族を寂しがる様子が見えていたようだった。僕もチヅルを連れていくことを考えたが、彼女の世話をしていたのは僕よりも父さんや母さんの方だったから、チヅルの気持ちを考えて連れていかなかった。断りを入れておくが、僕とチヅルは仲が悪いというわけではない。
今の僕の気持ちを考えれば、チヅルを連れて来なかったのは失敗だったのかもしれない。でも父さんの腕に抱かれながら、ご自慢の白く磨かれた鉤爪でピースサインを作っている彼女を見ると、やっぱり連れて来なくて正解だった、とも思える。いや、思いたい。
僕は静かにノートパソコンを閉じて、外出用の服に着替える。暗い気分を一新するために公園にでも行こうと思い立った。
◆◇◆◇◆
公園までは歩いていった。自転車を使った方がもちろん早いのだが、歩きも含めて気分を一新する旅だ。時間なんて有り余っているのだから、何も急ぐ必要はない。
空は曇っていた。といっても、薄曇りが空全体を覆っている程度だ。ラジオで聞いた天気予報通りの雨が降るのは、もう少し先のことらしい。
町中から離れていくほど、歩くスピードは遅くなった。元来、変わりゆく景色を眺めて楽しむなんて粋なことはしない性分だ。だが、灰色の機械的な色がどんどん消えて、記憶の彼方へと追いやっていた緑が顔を出してくることに、不思議と心が躍る。
今住んでいる場所は、地方都市としてそれなりに発展している場所だ。駅の近くにはビルが立ち並んでいるし、人もポケモンも沢山行き交っている。僕の生まれ育った辺鄙な村とは大違いだ。
此処の暮らしにも多少慣れたとはいえ、十数年暮らしてきた村にはなかった息苦しさが、僕の生活に影を落としていた。
郊外に延びる道路を進む。僕の両側は、ごちゃごちゃした住宅街から、黄金色の猫じゃらしの生える草叢に変化していた。電信柱と街灯はいつまで経ってもなくならない。白い自動車がすれ違って、僕は体を草叢へ寄せた。
そうしてしばらく歩くと、右側に草叢を拓いた
小径を見つける。一見すると小さなポケモンが作った獣道のようだが、一応人が作った通路である。ただ、道の両脇に生える秋草は伸び放題で、管理は行き届いていないようだった。とてもじゃないが公園の入り口とは思えない。
例えるなら、まるで秘密基地。僕の背丈の倍ほどもある
薄が公園全体を囲っているから、『一見さん』にはまず見つけられない。故郷で友達と作った秘密基地もなかなか大人たちには見つけにくい場所に作ったが、目立ちにくさに於いては此処も其れに匹敵する。
手で邪魔な草を掻き分けながら小径を進む。薄の
縁で腕や手を切らないように注意した。その途中、何かのポケモンの尻尾が、右手の深い草叢からひょっこりと顔を出しているのを見つけたが、すぐにどこかへ行ってしまった。クリーム色と茶色の縞模様が印象的だった。
公園に辿り着くと、以前見た時と変わり映えのしない景色に、心なしか安堵を覚える。広さはそこそこの円形の公園。公園の真ん中には直径三十メートルほどの丸い池がある。つまり、この公園はドーナツ型だ。池の水底からは綿毛を飛ばさんとする
蒲が自生していた。池の周りには何本か
灌木が植わっており、また小さなベンチが三つほど適当な位置に設置されている。ベンチはそれぞれ、小さな
四阿の下にあった。長い年月を経たのか、四阿の柱は削れ、色は剥げ落ち、屋根は見る影もない。ただの木の塊にしか見えないが、雨を防ぐには事足りるようだった。
人はいなかった。子供を集めるような遊具もなければ、池があるせいでボール遊びもできないのだから仕方ない。時期が時期なら、ヘイガニ釣りに勤しむ子供も見られるのだが、季節が秋ではどうしようもない。此処は公園とは名ばかりの、広い休憩所のようなものだった。
一つのベンチにゆっくり腰掛ける。ぎし、と腐った木が軋む音がしたが、壊れるようなことはなかった。改めて公園全体を見渡す。薄などの背丈の高い秋草に囲まれて、公園の周りは何も見えない。ふと、公園の入り口からは蒲の群生で見えなかった沢山の蓮の葉が、水面に浮いているのを発見した。まだ晩秋には差し掛かっていないが、いくつかはもう萎れ掛けていて、全てが
敗蓮となってしまうのは時間の問題だった。
あの中に、もしかするとハスボーが紛れ込んでいるのかもしれないと思った。そのうちに、一枚の蓮の葉がすっと水面を滑って移動すると、蒲の群生に入り込んだ。
僕は、ベンチに仰向けになった。四阿の腐りかけた屋根は、所々穴が開いていた。木目に沿って細く割れている隙間からは、ペールブルーの空が見えた。白い雲が流れてきて、青色が隠れたり、現れたりした。
目を瞑る。思い出すのは家族のこと。デスクトップに飾った写真の中で笑う、父さんと母さん、そしてチヅルの顔が焼きつく。なんだか、涙が出てくる。
しばらくぼんやりとして、目を開け、屋根の隙間の空を眺めた。それから目を閉じて、深呼吸して落ち着くと、そのまま眠りに落ちてしまった。
◆◇◆◇◆
額に冷たさを感じて、僕は目を覚ました。屋根に開いた穴から、水滴が落ちてきたようだった。……水滴?
僕は飛び起きた。土砂降りだった。天気予報が雨だということを忘れて眠ってしまった。
とりあえず、屋根の穴の下から避難した。が、依然四阿の下からは出られない。
「参ったな……」
どうしたものかと暫し思案する。空の色は見事なまでに濃い灰色に染まっている。雨が止むのを待っていたら、帰るのはかなり遅くなってしまいそうだった。
池の水面は大粒の雨に打たれて激しく揺れていた。蒲の穂先の綿毛は濡れて、その白さは萎れていた。
気紛れで傘も持たずに遠出するのも考え物だ。そう思った矢先のことである。
きゅう、と、僕の後ろで何かが鳴いた。振り向くと、実家の周りでも何度か見たことのあるポケモンが、後ろ足で器用に立っていた。
「……オオタチ?」
また、きゅう、と鳴く。短い手足に、長い胴、茶色とクリーム色の縞模様が体から太い尻尾の先に掛かっている。そして特徴的な頬の二本線の模様と、円らな瞳がとても印象的だった。雨に濡れて、艶のありそうな毛は寝てしまっていた。
多分、さっき公園に入ってくるときに見えた尻尾は、このポケモンのものだろうと思った。
オオタチは一度ベンチに飛び乗ると、そのまま池の方へ駆けていった。その動きは
忙しく、泥を撥ねて体を汚すことも厭わないようだった。
「……何する気なんだろう」
池の
辺に立ち止まったオオタチを、注意深く観察する。オオタチの目の前にあるのは、水辺に生える
蕗。大きな葉が特徴の植物だが、オオタチはそれを根元からもいでしまった。それも二本である。
突飛なことをするもんだなあと、僕はその様子を面白可笑しく眺めていた。しかしそれよりも驚いたのは、オオタチがその蕗の葉を携えて僕の元にやって来たことである。
オオタチは、きゅう、と鳴くと、蕗の葉の一つを僕に渡してきた。茎も長く、葉もかなり大きい。立派な蕗だった。
「くれるの?」
オオタチは無言だったが、僕はそれを受け取った。しかし、これを何に使えと言うのだろうか。
オオタチは、僕から離れ、四阿の外に出た。そして、持っていた蕗の茎の部分を持って頭の上に翳した。
「ああ、成程」
つまり、傘として使えということだろう。オオタチは雨宿りしている僕を見かねて、傘をプレゼントしてくれたのだ。土砂降りにはちょっと頼りないかもしれないが。
僕も同じように蕗の葉を頭の上に翳して、四阿から出た。オオタチの作った傘は、もちろん人工のそれよりも防雨機能はない。でも、雨に曝されながら寂しく帰るよりは幾分かましな気がした。
「ありがとな、じゃ」
僕はオオタチに俺の言葉を述べて、その場を立ち去ろうとした。しかし、オオタチは僕のあとをついてくる。僕は立ち止まって、後ろにぴったりとついているオオタチに話しかけた。
「どうした?」
オオタチはただ、きゅう、と鳴くだけだった。物言わぬ野生のポケモンに僕は何をしているのだろうと思った。
「見送ってくれるのか?」
今度は、嬉しそうに鳴いた。変わったポケモンもいるものだ。
「そっか。じゃあ、一緒に行こうか」
そう言うと、オオタチは僕の横にぴったりとくっついた。僕はオオタチに泥を撥ね飛ばさないように、ゆっくりと歩いた。
小径を塞ぐ草を、傘を持っていない右手で掻き分ける。道は細いので、この時のオオタチは僕の後ろを歩いていた。
道路に出る。辺りは暗くなり、街灯が点き始める時間だった。自動車は通らず、雨がアスファルトを打ち付ける音だけが響く。僕とオオタチは、水溜りに足を入れないように並んで歩いた。
傘が受け止めきれなかった雨水が、僕の肩にかかる。オオタチの傘に収まりきらない尻尾は、すっかり濡れてしまっていた。
「君はずっと野生のまま生活しているの?」
野生のポケモンにしては人に慣れているオオタチを、僕は不思議に思った。人間の元で暮らしたことのあるポケモンなのかもしれないと、何となく感じた。オオタチは僕の顔をじっと見つめると、再び前に向き直る。
暫く、無言のまま歩いた。街灯に照らされながら、蕗の葉を叩く雨の音を聴く。心地よかった。
オオタチは、傘の柄を回して遊んでいた。葉の上に溜まった水が弾き出され、僕の足にかかる。オオタチは楽しそうな顔をしていた。僕と一緒に歩くのがそんなに楽しいことなのだろうか。
ふと、後ろから何かが迫ってくる気配。自動車が僕たちのそばを通りかかろうとした。そのとき、僕たちの隣に大きな水溜りがあることに気づいた。
咄嗟にオオタチを抱き上げる。意外な重さに戸惑っているうちに、自動車の車輪が水溜りを撥ね上げた。僕のズボンはびしょ濡れ、冷たさが両足に滲みる。オオタチは尻尾が少し濡れただけだった。
傘は落としてしまった。おかげで、頭からシャワーを浴びたような格好になる。オオタチが、僕の頭の上に、持っていた傘を被せる。
「……ありがとう」
僕は屈んで、落とした傘を拾う、その傘の汚れを軽く払うと、それをオオタチに被せた。僕はオオタチを抱きかかえながら歩いた。でも、その重さに耐えきれなくなって、大した距離も歩かないうちにオオタチを降ろしてしまった。もう少し体力をつけなければ、と身に染みた出来事だった。
◆◇◆◇◆
随分と長い距離を歩いた。街の灯りが見えてくる。民家も
疎らに現れて、オオタチの棲む自然溢れる世界は遠くなってゆく。
「そろそろ僕の家に着いちゃうけど……来るの?」
オオタチがまた、きゅう、と鳴いた。一応家までは見送ってくれるらしい。変に律儀な所があって、ちょっと可笑しかった。
幸いにも、雨の勢いは弱まってきていた。東の空に、雲から透けた、朧な月明かりが見えた。
「家に着いたら、体拭いてやるよ」
僕を見送ってくれたのだから、それくらいの恩返しはしなければ。オオタチがそれを望んでいるかどうかはわからないけど。
泥水だらけの僕たちは、ようやく町の中に入る。さっきまで雨が強かったこともあり、出歩いている人もポケモンも殆どいなかった。
細く曲がりくねった道を突き進み、見えてきたのは僕の棲むボロアパート。客を招待するのはかなり抵抗があるが、多分オオタチはそんなこと気にしないだろう。
ポケットから鍵を取り出し、一○二号室のドアの鍵穴を回す。オオタチはそれを不思議だとでも言いたいような目で見つめていた。雨はすっかり止んでいた。
僕は濡れた靴と靴下を脱ぎ捨て、部屋の中に入った。照明からぶら下がっている紐を引っ張って、灯りを点ける。オオタチは玄関先に留まって、家の中に入ってこなかった。僕が何かを言ったわけではないが、躊躇いがあるようだった。
箪笥の中を乱暴に探ると、バスタオルが一枚出てきた。オオタチの大きな体を拭ききるのはこれが最適だろう。
オオタチの元に向かうと、オオタチは鳴きながらぴょんぴょんと飛び跳ねていた。体を拭いて貰えるのがそんなに嬉しいのだろうかと思って、笑みが零れる。
頭から順番に優しく拭いてやる。体毛が吸った水分を吸い返すように、ゆっくりと拭いてゆく。拭き終わった部分はまだ若干水分が残り、一瞬
天鵞絨のような艶やかな光沢が見えた。
足の裏の肉球まで拭き終わると、気持ち良さそうに太い尻尾を振りながら、きゅう、と鳴いた。最早、この鳴き声も僕にとっては気持ちの良いものとなっていた。オオタチが嬉しいことは、僕も嬉しいのだ。
何だか、このまま別れてしまうのが名残惜しい。でも、もう夜だし、オオタチは棲み家に帰らなければいけない。オオタチもそれをわかっているようで、僕に抱きついて甘えてきた。
「ははっ、重いよ……」
何もない、平凡な一日の至福の時は、静かに幕を下ろそうとしていた。
◆◇◆◇◆
オオタチの棲み家まで見送ることはできない。だから、オオタチの姿が見えなくなるまで、僕はずっと手を振っていた。途中、オオタチは何度か僕の方へ振り返って、その度に鳴いた。また遊びに来てね、絶対だよ。そう言っているような気がした。
「また遊びに行くよ」
近所迷惑も顧みずに、僕は大きな声でオオタチに向かって言った。
見送りが終わり、玄関のドアを開ける。そこには散らかった靴と共に、土で汚れた大きな蕗の葉と、それよりも一回り小さい蕗の葉が、逆さに置かれていた。