零
序
かつて、一匹のドラゴンがいた。
かつて、双子の人間がいた。
ドラゴンと双子は共に歩むことを誓い、この地にイッシュを建国した。そして多くの人とポケモンを率いていき、共存していった。
しかしある頃から、双子の間には亀裂が生じるようになった。
同じ道を歩いてきたはずなのに、生まれた思いのすれ違い。未来に対する考え、価値観の違い。人としてそれは双子であっても仕方の無いことであったけれど、人々の頂点に立ってきた者同士、プライドも熱い思いもあってぶつかることは増えていった。そしていつの間にか、修復ができないのではないかと思う程に彼等は仲違いをしていた。
彼等はドラゴンに問うた。
どちらに味方をするのかと。どちらが正しいのか、と。
ドラゴンは選ばなかった。代わりに、自分が二匹に分裂することを選んだ。
白きドラゴン、レシラムは真実を掲げた英雄である兄の元に。
黒きドラゴン、ゼクロムは理想を掲げた英雄である弟の元に。
世界を破壊しうる程の力を持ったドラゴンが二匹世界に誕生し、間もなく国中を巻き込む戦争へと発展した。
多くの人、ポケモンが死んでいった。
そこで双子は気付いた。
無関係な人をも巻き込み、自分たちが原因で多くの命が失われていっていることに。築き上げてきた国が瞬く間に荒んでしまったことに。
だから彼等は互いに手を取り合った。戦争は終わったのだ。
納得のいかない者も居た。けれど双子が必死に信頼を取り戻そうと、国を建て直そうとする姿を見て、だんだんと批判をする者は消えていった。
二つに分かれてしまったドラゴンは、そんな彼等を見守り続けていた。
時は経ち、双子の血も受け継がれていき。
イッシュに平穏の時が訪れ何百年も経った。これはそんな時代に生まれた、ある一人の青年の物語。
一
今日の天気は曇りだ。誰が見ても曇りですねというくらいなんの変哲もない曇り空だ。少し灰色がかかった雲が青空を完全に覆っていて、いつもより少しだけ暗みを増した陽の光が町を照らしている。正午を過ぎて昼食を終えた僕はそんな町の様子を石造りの高い城から見下ろしていた。のどかな風景だ。ある種つまらないともとれる。いや、平和なのはいいことなんだと思う。昔から婆や達から教えられてきた歴史録にある戦争の話を思えば、そりゃあ気が楽で生きやすい世の中だ。戦うのは怖い。痛いのは嫌い。でも多分、僕はこの平和を持て余しているのだと思う。要は、暇なんだ。
「暇だなあ」
窓枠に肘を付きながら呟くと、傍にいたウォーグル――アキレアが顔を上げる。
「十回目だ」
「何が」
「今日、暇って言った回数」
「そんなの数えてるなんて、君こそ暇だね」
呆れた声で僕が言うとアキレアは鼻を鳴らす。僕はまた外に広がる景色に視線を戻した。
僕の耳には生まれた頃から、ポケモンの声が聞こえていた。
昔はそれを当然のことだと思っていたし人間誰もがポケモンと会話をできるものだと本気で信じ込んでいた。けれど物心がついて、言葉を理解し話し読み書きできるようになってきた頃に、ようやくそれは異端であると母様に教えられた。ポケモンと話していたら従者の人達や兄様達から不審な目で見られたりふと「お前、聞こえるのか」なんて聞かれたりしてたからなんとなく察してはいたけれど。
僕は、この国の王族の家系に生まれた四男。
しかし、ポケモンの声を聞くことができる人間は同じ血が流れる人全員というわけではないらしい。
母様は聞こえない。そして、二人の兄様も聞こえない。聞こえるのは、現国王である父様のみだ。本当は昔はもう一人居た。一番年上の子だが、生まれつきの病に倒れ命を落としてしまった兄様だ。亡くなられたのは二年程前の話。僕は四男で王の位を継ぐには遠く、またポケモンと話せるということもあってなんとなく気味悪がられて、王子といえど他の兄様に比べれば少々投げやりに扱われていた。そんな幼き僕の良き話し相手になってくれていたのが、母様と長男の兄様、そしてアキレアだ。
「その力は、あなたのお父様と同じ、そしてお兄様と同じの、とても素敵な力なの」
母様は幼い僕に繰り返しそう唱えていた。優しく甘い声で頭を撫でながら。
「ポケモンと話すの、楽しいだろう。それでいいんだ」
兄様はまっしろな顔で優しく微笑みながらそう言った。
僕は励ましの言葉に対して喜びを覚えながら、頷いていた。煙たがれて涙が出そうになってしまうこともあったけれど、母様や兄様の言葉に支えられていた。何より、アキレアや他の野生のポケモンと会話をするのは、新鮮で楽しかった。彼等は僕の知らないことや考えつかないことを平然とした顔で教えてくれる。その話を聞くのが好きで、僕はよく部屋に閉じこもってアキレアや窓にくるポケモンと話したり、こっそり城を出てみたりすることが多くなった。病気でベッドに臥せている兄様ならまだしも、もう二人の兄様方は次期王候補として優秀に勉学と鍛錬などに取り組んでいたから、僕は一層批判の目で見られるようになった。けれどそんなのかまわなかった。僕は周囲の目を気にして動けなくなるくらいなら、全て無視して放棄することで自分を保つことを選んだ。
そんなわけで、僕はそれなりの年月を経てこの能力とうまく付き合っている。
僕は割とほっとかれながらも王子であるためか、それとも男兄弟の中では一番年下であるためか、甘やかされ不自由なく退屈で怠惰な日々を過ごしていた。正直、ポケモンと会話することができなかったらどうなっていたかわからない。今以上に暇な世界が想像できない。もしもそうだったら、兄様方のように学問に打ち込んでいたのかもしれない。僕は勉強が苦手だ。机に向かうのが苦手だ。じっとしてるのが嫌いだ。活発的な性格でもないけど、そわそわして落ち着かなくなる。けど誤解を生まないように一つ言っておくと、僕は決して頭が悪いわけじゃない。家庭教師の先生が来られた時にさっさと終わらせようと提示された課題をさっさとこなす程度には何故かできる。大体言われたことはすぐに頭に入るみたい。余計なことが頭に入ってないせいかもしれない。僕は空っぽだから。スポンジみたいにどんどん吸収して応用できる。先生もいつも苦笑して舌を巻くから、多分一般的に見ても決して勉強ができないわけじゃないしむしろできる方であると思う。根本を言えば早く勉強の時間を終わらせてしまいたいだけなんだけども。それを知っているから、先生も呆れ顔で僕を見るし素直に褒められないのだ。
我ながら、扱い辛い人間だと思う。けど、しょうがない。
毎日大した刺激も無く、同じような日々が過ぎていく。
起きて、ご飯を食べて、何かをして、ご飯を食べて、ポケモンと話して、時々外にも行って、ご飯を食べて、寝て。
繰り返し、繰り返し、繰り返しの日常。つまらない。つまらない。つまらない。
僕は曇り空の下にある町をぼんやりと眺めていた。
「なら、今日も外に行くか。乗るか」
アキレアは尋ねた。僕はそっと首を振る。
「君に乗っていくと目立って嫌なんだ」
「たまに乗せて飛ばないと、いざという時飛べなくなるかもしれない」
「冗談。いざ、ってなんだい」
「いざは、いざだ」
「ふうん」
彼のいざという言葉は意味深いものがある。王族の人間はそもそもアキレアのような鳥ポケモンを必ず持つようにと昔から掟として定まっている。一体いつからそれが始まったのか、分からない。最初からかもしれないし、途中からかもしれない。
僕はちらとアキレアの瞳を見る。大きな黒い瞳だ。僕を映している。華やかさに塗れた王族らしさに欠けた、装飾の少ないベージュ色の絹地の服。実にシンプルだと思う。飾りっ気のあるものは苦手だ。なるべく軽くいたいと思っていたら大体毎日こんな感じの格好に収まっている。そんな僕に与えられたポケモン。僕の相棒。僕の話し相手。僕のトモダチ。そんなアキレア。彼はいざというとき、つまり僕が危険にさらされた時僕を乗せて空を翔け逃げるためのポケモンだ。でも危険なんて想像できない。あまりに現実はかけ離れているから。そんなの杞憂に過ぎないでしょう、なんて思ってしまう。そんな状態、心のどこかで否定しながら、でも、少しだけ期待してみたりもして。暇なこの日々を突き破るそんな出来事が、非日常が訪れないかなんて時々考える。少しだけ考える。そんなこと、不謹慎だなんて解ってる。
「なら、今日は何をするんだ」
アキレアは尋ねた。
「そうだねえ」
起きて、ご飯を食べて、何かをして、ご飯を食べて、ポケモンと話して、時々外にも行って、ご飯を食べて、寝て。
繰り返すだけだよ、アキレア。
何をしたって繰り返すだけなんだ。
「時折、空を飛ぶのも楽しいぞ」
「なんでそんなに推すのさ」
「どうせ、暇、なんだろう」
「わかったわかった」
大して断る理由も無い僕は簡単に折れる。勝ち誇ったような笑みを浮かべてアキレアは窓の傍まで行く。窓はウォーグルである彼には少々狭い幅であるけれども、無理矢理に体を締め付けられながらも押し込めば彼は出ることができる。一度先に出て羽ばたき、傍で安定させる。そうはいっても大きく揺れている最中に、僕は窓の枠に足をかける。風をまともに全身に受けながら、手を伸ばしてアキレアの首のあたりに手をかける。そこから一気に身を投げ出す。体がアキレアに乗って瞬時に互いにバランスを取り、アキレアは滑空を始めた。
思えば、こうして空を飛ぶのは久しぶりなような気がする。
天気は何となく鬱蒼としていて気持ちが晴れ晴れとするようなものじゃないけれど、アキレアに全てを任せ空気を切り裂いていくこの感覚、眼下に広がる人々の営みや自然の動きを一身に受けるこの感覚は嫌いじゃない。
今日も民は笑っている。子供は走っている。時折僕に気が付いて驚いたように指を向ける人もいる。目が合った時だけ、僕は時々手を振った。そうするだけでわっと歓声があがる。顔を赤くして、驚きと喜びの混ざった表情の興奮は一瞬で周囲に駆け巡る。ああほら目立っちゃうじゃないか。心の中でアキレアに愚痴を零す。恥ずかしいわけでも嫌だというわけでもないけれど、複雑なんだ。毎日を逞しく生きている民の上を翔けていくこの僕は、ただ手を振るだけでなんらかの影響をもたらす。たまたま王族という家系に生まれたからだ。
時々思う。どうして僕は王族に生まれたのだろう。
たとえば平民に生まれていたら、今のような裕福な暮らしはできないけれど、もっと刺激的な毎日を送ることができたかもしれない。
たとえばポケモンに生まれていたら、しがらみも気にせず伸び伸びと地を駆け巡ることができたかもしれない。
そんなこと、考えたって仕方が無いのだけれど。
平和な世の中だな。僕はどこか満たされぬ、やりきれぬ心持で駆け抜けていく。要は、暇だということなんだ。
二
「まったくもう、貴方という方はどうしてこう、サボり癖がついてしまっているのでしょう」
正面に立つ婆やは呆れ果てたという風に愚痴を垂らす。僕とアキレアはへらりと反省の色無く笑う。もう何度も似たようなことを言われてきて、最早本気で怒ろうという気にはさせていない。
「いいですか、王子」
咳払いを一つしてから婆やは僅かに曲がってきた背筋をぴんと伸ばす。
「貴方は列記とした王族の血を受け継いだ者であり、多くの民の先頭に自ら立ち先導し、また安寧の暮らしを与え、堂々と――」
「堂々と血に恥じぬ振る舞いをしなければならない……分かっているよ」
もう耳が蛸になるほど聞いてきた。苛立ちが募り婆やの言葉を遮ると、彼女は息を詰め、すぐに重たい溜息を吐きだす。あからさまに声までつけて、呆れた感情を全面に押し出した。
「分かっているのなら行動にもその意志を見せてください……あまりにも自覚が無さ過ぎますよ」
「はいはい、今日はもう大人しくしているよ」
「頼みますよ、王子」
同じような説教を何度も繰り返していれば、さすがにすぐに嫌になるのだろう。勿論、婆やに対して負い目が全く無いというわけではないけれど、婆やが最初告げた通りサボり癖が体に染み付いてしまっているのだろう。無気力と怠惰が纏わりついて、打破しようとすると自然と体は外に行く。
「そんなことでは、お父様である王に顔向けなどできませんよ」
またかと溜息を吐きそうになった瞬間、僕の脳裏に何か針のようなものがちらつき、思わず表情を歪める。大したものではないけれど、妙な違和感だ。なんだろう、これ。気持ちが悪い。
「……そうやって最終手段に父様の名を出すの、やめなよ。今日はもう一人にさせて。少し頭が痛いんだ」
婆やはまた溜息を吐き、失礼しますと一言添えると部屋を後にする。
ようやく僕とアキレアだけになり、元々椅子に座っていたものの今度こそきちんと腰を据えた気分になる。息苦しさが無くなって、ほっと息をつく。
「頭が痛い、か。よく言えた仮病だな」
皮肉を込めてアキレアが口を挟むと、苦笑を浮かべる。
「半分ほんとで、半分嘘みたいなもの。実際、なんか変なんだ。目の後ろのあたりかな、変に痛む」
「おおっと本気か。まあ、ストレスのようなものじゃないか」
「かなあ」
ストレスか。そうかもいれない。うん、きっとそう。暇を持て余しているときも説教をしているときも勉強をしているときも、いつも息が苦しい。少し気持ちが下降しているせいかな。断定してすがっておけば、少し楽になれるような気がした。
そうだ、とアキレアが明るい調子の声を上げる。
「久々に母親のところに遊びに行ったらどうだ」
「母様のところに? うーん」
アキレアの提案を受けて考えてみるけれど、ぴんと来ない。小さな頃はよく母様のところへ行っていたし心の支えであったものの、最近はその数もめっきり減った。アキレアが常に傍にいてくれるせいか寂しさも感じなくなったし、母様も王の妃として公務に追われる生活を送っている。言えば話す時間を作ってくれることは知っているけれどあまり邪魔をしたくないし、なんだか大きくなった今にわざわざ母様のところへ顔を出しにいくというのも子供っぽくて気恥ずかしい。
「いいや」
首を振って断ると、滑らかに削られた石造りの机にゆっくりと突っ伏せる。今できる楽な格好だけれど、目の裏側に鈍く痛みが鳴っているのは変わらない。嫌になって目を閉じてみると、暗闇の中で一瞬だけ、ひび割れたかのような閃光がちらついたような気がした。
三
謎の頭痛は一日の内に顔を出したりひっこめたりを繰り返す。そんな生活が数日間も続く。
最初のうちは大して気にしていなかったけれど、日が経つ度に気味が悪くなっていく。痛みに目を閉じるたびに瞼の裏で閃光が弾ける。何度も経験して冷静に自己分析をすると、なんらかの形で父様の話題が出てくる度にそれは現れる。思えば、一番最初の頭痛も婆やが父様を話に出した直後に出てきた。王は国の中心だ。余程塞ぎこんでいない限り、嫌でも耳につく。だから何度も僕は暗闇で閃光に出くわした。とりわけ、直接父様と出会った時は最悪だ。目の後ろ側が殴られる感覚に襲われる。その時考えていたことも話していたことも何もかも吹っ飛ぶ。そこで僕はこの痛みが父様に関係すると直感したのだ。何故かは解らない。けれど、なんだか危険信号のような暗示に思えた。父様を思い浮かべながら目を閉じると、残像を光が貫く。後ろめたいことこの上ない。
でも、きっと杞憂だ。
僕は考えるのを放棄する。父様になんらかの恨みを持っているわけじゃないのだから、そのうち消えるだろう。今はそれを待つだけだ。
「……で、リフレッシュに森に行きたいとなったわけだ」
「そういうこと」
茂る森の空白、ギャップ部分から侵入したアキレアが地に降り立つと、僕は慣れた足取りで彼から降りる。そして肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。塵一つ無いのではと錯覚するような、ひんやりかつ凛とした風。それに乗って鼻の中を緑の匂いが充満する。一気に体中を駆け巡ると、僕がこの自然の中に溶け込まれたような錯覚に襲われた。
視線を動かすと、木に登っていたり草原でこそこそと動いているポケモンの姿が目に入る。彼等の声が聞こえてくる。
「人間だ」
とか、
「眠い」
とか、
「木の実が取れないよお」
とか、
「登れないのかばっかだなあ」
とか、そんな他愛も無い言葉が転がっている。
人間とは違うけれど、どこか人間とも似たところを感じる断片的な言葉が流れる不思議な空気感。森林浴とはよく言ったもので、本当に森という浴槽にどっぷりと浸かって癒されているようだった。
自然と口角が上がってしまう。あ、頭痛も無いや。思い出してぶり返すのも嫌だから考えるのはよしておこう。
森といってもこの付近は地面もなだらかで、木々の間隔もそう狭くない。整えられてはいないけれど、軽く散歩をすることくらいはできる。踏み固まったような場所をアキレアと共に歩き、尚一層森と一体化していく。
「調子が良さそうだな」
アキレアが口を出すと、僕は素直に頷く。
「落ち着くよ、ここの空気は。いろんなこと忘れていられるし」
「俺もこっちの方が城よりも好きだ」
「君は、ずばっと物事を言うよね」
はは、とアキレアは乾きを含む笑んだ声を漏らした。
「あそこは狭い。まあ、いつでも高いところから空を飛んで行けるのは好きだけどな」
「何もかも見下ろせるからね」
「でも、森は好きだ。本当は、切り立った山の方が落ち着くけど」
「なるほどねえ」
いつだったかしたことのある会話だと思いながら、断つのも申し訳なくて相槌を打つ。同じ話が繰り返されるほどに、僕たちの日常は相変わらず殆ど何も変わらず続けている。森に来ることだって、特別な刺激を期待しているわけじゃない。いつもと違う環境はわくわくする。それは確か。でも、少し経ったらサヨナラする風景。
草原を踏みしめる。ポケモン達の声が耳に入っては抜けていく。ここには窮屈な制度も勉強も体術訓練も何も無い。無機質な壁に囲まれた部屋よりも、ずっと変化には富んでいる。
それでも、見えない縛りは僕を城に引き戻すのだろう。
「ねえ」
アキレアに話しかける。
「ん?」
なんでもないように彼は視線を向けてきた。
「なら、いっそずっと、城から出てしまおうか」
思っていたより平坦な抑揚で口の中から流れ出した言葉に、アキレアは沈黙を返す。僕もそれ以上は続けず、ほぼ変化の無いテンポで地面を歩いていた。
少しだけ重くなった空気は、息が苦しい。
「どんなことがあっても、王族は王族だ」
十秒程過ぎた頃にアキレアは声を滑らせる。
「そして、俺も王族のポケモンだ」
「……そうだね」
「それを案外誇りに思ってるから」
「なんだそれ」
「どうも俺は、勇敢な空の戦士と呼ばれる類の生き物らしい」
自分で言うと、なんというか残念だ。確かに、ウォーグルは一般的にそう言われているし、だからこそ王族のポケモンとしてよく選ばれるのだけど。元来種族として持ち合わせている性格として、誇りは重要なのかもしれない。
「だから、この位置でいいのさ」
こんなにのんびりとした場所でかっこつけたって、つかないのに。
僕は息を吐く。アキレアは受け入れている。ずばっと物事を言う彼の言うことは本心だろう。だから信頼しているのだけど、温度差に溜息をつきたくなったのだ。
なぜ僕は王族に生まれたのだろう。
どうしてポケモンと話すことができる力を持っているのだろう。
運命という力で片付けられるのだろうか。
考えの連鎖が続いて父様の姿が思い浮かぶと、閃光が突き刺さる。ああ、嫌だ。なんだこれ。この瞳に映るこれは、一体なんなんだ。頭がまた痛くなってくる。
ほらこうやって、見えない縛りは僕を城に引き戻す。
逃げられないことなど骨に染みる程解っていた。そもそもアキレアと違って勇気に欠けた僕に、王族を捨てる力など無い。仮に実現させたとしても、城内だけでなく民にも混乱が及ぶ。無闇に無責任な行動をとるほど、僕はもう子供じゃない。
なんて、こうやって森に足を運んでいる僕が今更言える台詞でも無いのかもしれないけど。
ああ、暇だなあ。
僕はぼやいた気持ちで空を仰いだ。
それでも、閃光は何かの信号のように僕を掴んで離さない。
何かの示しなら、変化の兆しだとでも言うのなら、はっきりとそれを導いてくれたっていいのに。
四
父様が死んだ。
僕はそれを昼食を終えて部屋にいる時、焦燥と戸惑いと悲哀で混乱している男の従者から聞いた。
父様の死は、即ち王の死を指す。
無我夢中で僕は廊下を駆けた。全力で走ったのはいつ以来か分からなかった。ただただ走った。長い廊下だ。綺麗な廊下だ。異様に静かだ。所々に配置されている兵士や従者の顔に困惑の表情は見えない。だから従者の言葉は嘘のように思えた。まるで僕だけ違う世界を走っているような気がした。あまりに現実感に欠けていたのだ。けど従者の表情が脳裏に焼き付いて離れないのだ。彼の恐々とした言い口が耳を離れないのだ。嘘だ。僕は叫ぼうとした。やめろ。僕は叫ぼうとした。違う。違う、違う。息が切れる。喉が痛い。心臓が爆発してしまう。けど必死に足を前に前に前に突き出した。地を蹴る。空気を裂く。階段を駆け上がっていく。辛い。何をしているんだろう僕は。決まってる。真実をこの目で確かめるためだ。
開け放たれた王の間。
僕はそこに飛び込んだ。
そこでようやく僕の足は止まった。
耳に聞こえてくるのは叫びのような母様の泣き声。兄様達のすすり泣く声。従者の声にならない声。ポケモンの涙の声、戸惑いの声。どうして。どうしてなんだ。彼等は問う。その中心にいる、白い顔をして横たわった父様に向かって。
分からなかった。あまりにも現実感が無さ過ぎる。目の前に在る光景が何か遠くの景色か蜃気楼のように思える。誰の目からも流される涙が嘘に思えた。全てがありふれている。けどこれが現実だった。訳が分からない。速まる鼓動は落ち着かない。溢れる思いは虚空に消える。僕には何も残っていない。空っぽの状態で、茫然と虚無に佇んでいた。どうして涙が出ないのだろう。今、どうして冷静でいられるのだろう。そんなことを考えられるほどに、どうして。
瞼の裏に浮かぶ閃光は、その日を境に何事も無かったかのように影を潜めた。
しかし数日後に代わりに暗闇の景色に浮かんできたのは、赤いとぐろを巻き僕の眼球を焼かんとするような、炎だった。
急遽必要になった王の後継者。
順当にいけば、次男の兄様がその位に就くはずだった。代々王はなるべく早く生まれた者に受け継がれていくものだった。
しかし、城の中では次男の兄様を推す声と三男の兄様を推す声とが入り乱れていた。今まで息を潜めていた城内の暗い部分が筒抜けに聞こえてくる。後継問題だけではなく、偉い人々の中では更に上の地位を求める者も少なくないし、兄様達が若いが故に後ろから支えるように見せかけて実権を握ろうとする者もいる。下々の従者達も行方が分からぬ自分のこれからに恐々と怯えている。城の混乱は国に及ぶ。今までの父様の政治に不満を抱いていた民が、混乱に乗じて何か企んでいるという風の噂が流れ、それに怒った誰かが国に行動の制限をかける。逆効果だと僕は思う。何か嫌な予感がした。良くないことが突然連鎖を起こしていく。平和というのはもしかしたら張りぼてに過ぎなかったのかもしれない。そんなことを考えるようになった。忙しなく動く周囲は僕の意見も尋ねてくる。あなたはどうするのか、どうしたいのか。この機会に王の地位を狙ってみないかなんて、そこまではっきりは言ってこなかったけれどそういった意図が見え透いた言葉も聞いてきた。うるさい。うんざりだ。耳障りだ。
「痛々しいものだな」
アキレアの毒づいた意見に僕は頷いた。
目の裏が痛む。以前より強く。目を瞑ると、時折知らない景色が脳裏に浮かびあがってくる。轟々と音が聞こえてきそうな狂った炎。太陽のような稲妻の光。呑み込まれそうになる。思わず背筋が凍りつくような光景が怖くて、眠るのすら恐怖に感じるようになった。嫌だった。どうしてしまったんだろう。閃光からようやく解き放たれたのになんでまた変な景色が僕の目に映るんだ。でもきっと、混乱が収束すればうまくいく。いつかきっと、何事もなかったかのような時間が訪れる。
目を逸らしたが故に、城の大きな亀裂が修復できるところを超えてしまっても僕は知らぬ顔を貫いていたのだ。
五
それは突然だった。
次男の兄様を推す勢力の第一人者である大臣が、食事の最中に血を吐いて倒れ、間もなく帰らぬ人となった事件が勃発した。死因は食物に含まれていた毒。安全だと思われていた城中での事件に、流石の僕も身の危険を感じざるを得なかった。元々明白であった敵対関係がここで浮彫になり、兄様同士もいがみ合うことが多くなる。些細なことでも食ってかかり、互いを罵り合う。殊更、政治に関する議会ではその様子が明らかだった。今後この国をどうしていくか。頭の回転が良く比較的温厚な性格をした次男の兄様と、少々性格が荒々しいが明るく民からもよく好かれている三男の兄様。その後ろに並ぶ多くの人々。意見が飛び交い、収まりを知らない。トップが崩れると、必然的に民の生活も不安定なものになる。顔を隠しアキレアと共に城下町の様子を伺うと、以前とは違う町の光景に胸が締め付けられる。上昇する物価、路頭に迷う人々、武器を集めている民の姿……。危険であるが故に最近はアキレアに外出を止められ、僕自身も嫌になり町に出ることは無くなったけれど、廊下を歩いていても今にも切れてしまいそうな吊り橋のような不安定さが露骨に滲み出ていた。誰もが誰かに殺されるかもしれないと怯え、疑心暗鬼になる。
目に映る炎の景色は日に日にはっきりとしたものになっていく。口にすると本当のことになってしまいそうで、アキレアにも伝えることができない。怯える毎日に終止符が打たれることをただただ願っていた。でも、心のどこかでそれはもう無理だと囁く声も確かに聞こえていた。
勿論、この真っ二つになってしまった関係を修正しようと動いている者もいた。母様はその群に入る。母様の発言力は特に大きい。女といえ、前王妃である。
「戦争なんて、絶対起こしてはいけない」
母様は繰り返した。戦を唱える声が出るようになってから、毎日のように口癖のように言う。父様と共に国を支えてきたその力強い瞳で威圧する。
「どんなことがあっても、それだけはいけない」
僕は、どちらにもつかない立ち位置にあったけれど、根本的に母様達とは大きく違う。ただ、途方に暮れていただけだった。
頭痛はひどくなっていく。部屋に出るのも起き上がることすらも辛い程に。
想像上の爆音が、まるで本物のように脳内に響いていた。警報のようにも思われた。父様と閃光の関係性を仮定すれば、いつか、もしかしたら、……。
そして。
突然の爆発音が遂に現実に鳴らされた。警笛が響く。民が城下町だけではなく各地から集まり、大群を作りだし、ポケモンも引き連れ、王政を拒絶しようと武器を掲げた。対抗しようと軍が出撃し、その混乱に乗じ、今までの言葉を良しと思わず邪魔者と判断された母様目がけて刃が振り下ろされた瞬間、全体は一声に号をあげた。剣のぶつかり合う音が木霊する。矢が飛び交う。しかし、強いのは何よりもポケモンだった。鍛えられ人間よりもずっと強い力を持ったポケモンが、それぞれの主人の指示に従い、壊していく、焼いていく、殺していく。戦いは戦いを呼び、憎悪は憎悪を呼び、悲しみは悲しみを呼び、怒りは怒りを呼び、瞬く間に広がっていく。もう、話し合いの言葉など無かった。僕はアキレアに乗り、城を脱出した。兄様達は勿論多くの大臣達なども身の危険を感じ城を離れる者も現れた。そうすればそれを追いかけ、また戦火は広がっていく……。
知っていた。僕は、知っていたのに。
眼前の光景に抱いた感覚は、既視感の一言に尽きる。
しかし、終わると思っていた瞼裏の世界は止まらない。
まだ何かがあるのか。もう十分に戦火は国を破壊していっているというのに。
この目が映すものは、何を伝えたいんだ。
ある時だった。
僕は寝床にしていた場所がまた危険に晒され再び逃げている最中で、フードのついたマントを身に着けて外から自分を隠し、アキレアの飛行術に身を任せていた。
既に荒んでいた町を通り過ぎ、まだ鮮やかな緑の残る草原の上空。異様な空気感を敏感に掴み取ると、はっと空に視線を突き刺した。
暗雲が空を覆っている、その姿が視界いっぱいに広がった、直後。
熱風が吹き荒れる。気温が一気に上昇したかと思えば、瞬いた瞬間に地上に炎が爆発した。雲間で稲妻が光り始めた次瞬、張り裂けるような特大の電撃が轟いた。それらはほぼ同時に大地を大きく震撼させる。僕達も圧力に押され一気に吹っ飛ばされる。一瞬の出来事だった。めちゃくちゃに黒を塗りたくったかのような衝撃。この世のものではない兵器が炸裂したのかと最初は思った。
「……っクッ」
アキレアがすっと飛ばされた僕の体の下にやってきて、不安定さが露骨になりながらもなんとか彼を掴み取る。
そこで僕は全ての光景を目にした。
炎が叫んでいた。
そこは、文字通り地上に広がった火の海。
まるでその突然の爆発に触発されたかのように地上が大きく揺れる。巨大な雑音が掻き鳴らされる。悲鳴が聞こえる。そして息を止める。少し遠く、大人しかった山の頂が赤く光り、猛烈な煙が空へと高く上がっていき――。
咆哮。
爆発。
慟哭。
重なる。圧し掛かる。掻き回す。腐った異臭が鼻を衝く。喉を競り上がる焦燥。まともに呼吸をしているかどうかすら危うい。全身を貫く轟音と針のような疾風。またどこかで爆音が響いた。右方向。黒い煙が一面を覆う。埋もれる甲高い悲鳴が耳に届く。煙に埋もれていく。溶岩が唸りを上げて雪崩れる先にはいくつもの人の姿があった。違う。僕は目を背けた。違う。違う。あれは人じゃない。人の形をした何かだ。生き物じゃない。違う。名を呼ぶ声も助けを求める声も幻聴だ、まぼろしだ。
瞬間、手が滑る。
一瞬の隙に乗じた嵐のような爆風に僕は身を投げ出され、息を止め、心臓の鼓動が浮かび上がったのを感じた。
すかさず、アキレアは驚異的な反射力で自身を捻り一気に急降下、空を落ちる僕に縦に寄り添う。僕は風で張り裂けそうな腕を懸命に伸ばす。痛い。金切声が手元から聞こえてくるみたいだ。地面が近づいてくる。地を凄まじい速度で這う溶岩の姿が駆ける。嫌だ。ほんの少し腕に力を入れてアキレアの体に触れた瞬間、彼は重力加速による運動エネルギーをうまく殺しながらふっと掬い上げる。間一髪。僕はアキレアの体にしがみ付いた。もう決して離さないと言葉にならない声で叫ぶ。全身が震えて止まらなかった。一気に喉の奥の方から嗚咽が跳び上がってくる。怖かった。やめろ。怖い。怖い。やめて。死にたくない。しにたくない。
「マスター」
鼓膜が轟で張り裂けそうになっている中、アキレアの声が耳元でして僕ははっと顔をあげた。
「もう、何があるか分からない。解っているか」
大地が叩き割れるような周囲に対して、アキレアはいやに静かだった。どこか震えていた。そんな声が聞き取れる僕もおかしいのかもしれない。ただ、少しだけ心が落ち着いていくのを感じた。ポケモンと話すことができるこの力に心から感謝したのは、今が初めてかもしれない。アキレアがいる。僕の傍に居る。それを確信できる。一つ一つ噛みしめるように確かなものを確かめなければ、全部が黒煙に喰われてしまいそうな気がした。アキレアの声が聞こえる。喉が締まって出なかった声がようやく顔を出す。
「……うん」
掠れた声が、アキレアに届いたどうかは分からない。
「全力で守る。それが与えられた使命だから。けど、本当にもう何が起こったっておかしくないんだ」
「アキレア」
まだ話している最中だったかもしれない。けれど僕は彼の名を呼んだ。アキレアは口を紡ぐ。
「絶対、生き延びよう」
その言葉に、アキレアは数秒の間を置いてから、掠れた笑いだけを返していた。
彼の羽はいつのまにかいくつももげていた。
僕等の体は空中を舞う煤に塗れ、汚れていた。経験したことのない日々にそれでなくても体は悲鳴をあげていたのに、まるで追い打ちをかけるようなこのおかしな天変地異だ。アキレアも、本当によくやってくれている。
生き延びる。
そんな言葉、発せられるだけまだ僕に余裕はあったのか。無我夢中になって逃げている最中や突然シャットアウトされたかのような危険が眼前に照った時は、少なくとも考えてはいない。体が勝手に動いていた。逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて、逃げて、逃げた。どこに、と問えば、解らない、と答える。ただ目の前の危機を避けようとしているだけ。死にたくない、全身が弾けんばかりに叫んでいる。死にたくない、怖い、と。ああ、いつになったら怒りは止まるのか。もういいじゃないか、もうよしてくれよ。何もかも滅ぼすつもりなのか? 人もポケモンも関係ないのか?
僕はふいに顔を上げた。遠くで光るマグマの褐色。暗雲から走る稲妻。収まらない地震。変形する大地。掻き消された悲鳴。
知ってる。
僕は戦火の広がっていく最中に感じた時よりも強く、強く、確信した。これは、瞼の裏の世界だ。まさか、僕が見ていたのは未来だったというのか? けど、現実はなんて恐ろしいのだろう。この先を僕は知らない。何が起こるかなんて、解らない。
意識が遠ざかりそうな眩暈が襲う中、二匹のドラゴンの姿が脳裏を光った。
これはきっと、世界の終わり。
「――ぼーっとしてんじゃねえッマスター!!」
張り裂けるような叫びに気を取り戻す。慌てて体勢を低くしアキレアの胴体にしっかりとつかまる。
「クソッ……なんだあれは……」
速度を落としながら苦々しい声をあげるアキレアの声にちらと視線を上げる。そして呼吸が詰まる思いに駆られる。空を完全に覆い尽くしている暗雲の下、無数ともとれる翼を持つ生き物たち――ポケモンの姿が正面に群がっていた。群れに統率があるわけではない。皆混乱している。偶然か故意的か互いに衝突し合って、力を無くした者は容赦なく空中から叩き落とされる。また一匹、羽を散らし虚空から地面へと真っ逆さまに落下していく。何をしてるんだ。何が起こってるんだ。
混沌とした群集は弱肉強食を体現しながらこちらに向かってくる。アキレアだけなら切り抜けられるかもしれないが、僕が背中にいては大した技を使うことができないだろう。
「迂回する! 振り落とされるなよ!」
僕は大きく頷くと、アキレアは再びスピードを上げた。大きく右方向へと転換する。
胴体が傾き重力と風圧とが襲い掛かってくる。
視界の端で、群れから落とされた何かの鳥ポケモンがひび割れた大地に吸い込まれていくのを捉え、僕は見て見ぬふりをしようと顔を背ける。知らない。怖い。死にたくない。嫌だ。いやだ。
と、空気を切り裂く風の刃。それがポケモンの技であることはすぐに分かった。群れの何かが発したものが零れてきたのか。激痛と大きな揺れがたたみかけてくる。完全にバランスを崩したアキレアに僕は必死にしがみ付こうとした。
「グッ」
アキレアは顔を歪めながら体勢を立て直そうとするが、散らばった羽を空中に残しながら地上への落下は止まらない。どんどん硬い地面は近づいてくる――!
僅かに彼は羽ばたく。けど、体勢が戻るまでは至らない。次点、彼の大きな体がクッションとなったものの弾けるような衝撃が襲い掛かり、いつのまにか僕は宙に投げ出され、理解をする前に体は地面に打ち付けられていた。
割られたかのような痛みで体が痺れていたが、耐えながらゆっくりと上半身を起こす。その間もぶつけたところや擦ったところが引き留めようとするかのように激痛が走る。眩む視界で体を見れば、血が滲んでいる箇所もある。頭上から垂れる存在を感じた時、頭も強く打ったことを改めて実感した。それでも、頭は決して割れていない。
地響きが実感できる中、僕は視界を広げ、アキレアに目を止める。
「アキレアッ……」
未だ揺れる視界で時間をかけて彼のところへ近づいていく。痛い。いたい。頭も、腕も、足も、胴体も、何もかもが痛い。地面を擦りながら、激痛と戦いながらアキレアの様子を見る一心でただただ歩みを進める。僕はアキレアの体のおかげで落下時の一番大きな衝撃を食らうことは無かった。しかし、アキレアは直接叩きつけられている。
時間をかけてアキレアの傍まで行くと、彼に襲い掛かった貫きは僕の比にならないことを思い知る。
煙の臭いに混じって鼻を突く異臭。
あらぬ方向に折れた翼。
衝撃をそのまま表し地面に刻み付けた、弾ける血溜まり。
なんとか動こうとしている兆しは見えるものの、僕と違って殆ど動くことはできない状態にある。ようやく手が届く位置までやってくると、凄まじい精神力を以て気絶していないことに気がついた。なんて奴だ。目は開いており、僕に視線を向けてくる。
「……マスター……無事か?」
苦し紛れの声でアキレアは呟き、ゆっくりと体を起こそうとする。僕はそれを支えるが、やはり痛みが辛いのだろう、何度も苦い呻き声を漏らす。頭から血が流れている。同じくらいの目線になったところで改めてアキレアを見る。彼は安堵したのか、穏やかな瞳をしているように見えた。なんでこんな時まで僕の心配をするんだよ。ボロボロな体でそんなこと言うなよ。どこまで主人重視なんだよ。そんな風に育てられてきたからって、おかしい。
「おかしいよ、アキレア。君は、おかしい」
アキレアがそれを聞くとふっと嘲笑を漏らした。
「今のこの状況でそんなこと、言えるのか」
硝煙の混じった風が突き抜けていく。
「そっちの方が、よっぽど狂ってる」
雷の光が白く周囲を照らす。間伐入れずにやってくる轟が地を揺らす。けれど驚かない自分にふと気が付いた。慣れとは恐ろしいものだと思う。狂ってる、確かにそうだ。こんなのおかしい。変だ。怖い。おぞましい。なのに、受け入れている自分がいる。ああ、もうわけわかんないや。どっちがおかしいんだよ。何が普通なんだよ。普通ってなんだよ。何から逃げてるんだっけ。どうして逃げているんだっけ。何を必死になって生きているんだ。
「マスター」
呼ばれて顔を上げる。
「俺はこの通り、もうマスターを乗せて飛ぶのは、無理だ」
「……」
「今ので一気に疲労まできやがったのかな。体がどうも、動かねえんだ」
「置いていけって、いうのか」
震えた声でゆっくりと言うと、アキレアは静かに頷く。
「足手纏いはいらない」
「……できない」
「切り捨てろ」
「できない」
「死にたいのか」
「違う」
「なら、行くんだ」
「できない!」
「甘えんのもいい加減にしろ王子様!!」
怒号の炸裂に思わず怖気づく。
「あんたが生き延びなかったら、俺はなんのために今まで飛んできたんだ、なんのために逃げてきたんだ! ここで俺のために残り、共々溶岩に飲まれるか雷に焼かれるかするのか? ふざけるのも大概にすべきだ」
なんて精神力と体力だ。目も当てられないような怪我を負っているにも関わらず、まだこんな大声をあげられるなんて。ここまで感情に任せ怒りを露わにしたアキレアを、僕は見たことがなかった。それ故に、驚きと戸惑いで僕はすぐに言い返すことができなかったのだ。
僕等の間で重い沈黙が流れる最中も、周囲の環境は更に火に呑まれていく。熱風が吹き荒れる。気管が膨れ上がり、中で破裂してしまいそうだった。苦しいけれど、僕はアキレアを置いていくという選択肢がどうしても頭の中に出てこなかった。
「君は勇敢な空の戦士と呼ばれるポケモンだろう」
アキレアは顔を上げる。
「なら、一緒に来い」
「……」
「そして、最後まで守ってくれ。君がいなければ、僕にはナイフ一つしか残らない。何もできない。だから、来い」
アキレアは僕を目を丸くして見つめていた。彼を説得させるためではあるけれど、誇張し格好つけた台詞は彼にそれなりに響いたようだ。元来鋭い彼の眼光に負けないように僕も睨むような勢いで視線を送り続けた。
彼がもう僕を守れるほどの力は今はもう残っていないと、解っていた。
けれど、僕はアキレアと共に生き延びたかった。ただ、それだけなんだ。
六
それから大地を焼き払う天変地異は三日三晩続いた。その間、潜りこんだ洞穴に身を潜めていたものの安寧の時を得ることができるはずもなく、怯えながら、ほぼ眠ることもできずに固い地面の上でただただ時間を過ごしていた。袋に入っていた乾物の食糧は一度の食事で三口齧るほどに抑え筒に入った水も舐める程度。そうしていても元々量が少なかったこともあって底をつき、体は衰弱していた。最早空腹を感じないほどになっていたけれど、僅かな痙攣が全身に纏わりつく。それでも外に顔を出せばいつも炎が地面から空高く昇り立っていて、とてもそこから出る気にはなれなかった。
ぼんやりと寝転がっていたところ、顔に冷たい何かがかかり、驚いて咄嗟に飛び起きた。
恐る恐る当たった部分を撫でてみると、透明に光る液体が指を垂れる。水だ。はっと頭上を見る。天井に滴り、また落ちる。僕は傍らに横たわるアキレアをその場に残し、何度往復したか分からない道を再び辿る。この歩きづらかった道もさすがに少し慣れ、それでも何が突然起こってもいいように片手にナイフを掴んだまま、息を潜めて入口へと向かう。
漏れてきた光の具合から、少なくとも夜ではないようだ。そして耳に聞こえてくるのは――雨だ、雨の音だ。けど、洞穴に浸透して雨漏りをおこす程ということは、余程強いものに思われた。実際、まだ外まで少し距離があるのに聞こえてくるのは生易しい小雨程度のものでないことは確実といっていいだろう。
足元にも水溜りができてきた頃、僕は洞穴の入口の近くまでやってきて、歩みを止める。
叩きつけるような土砂降りの雨に包まれ白く霞んだ外の景色。今まで見てきた赤黒い光景とは明らかに様子が違う。
ナイフを握っていた手の力は抜け、一歩、また一歩と外へと近づいていく。
立ち上る白いものは、霧でも雨でもない、煙だ。まるで地上が熱に覆われていて、そこに雨が叩きつけられ、水蒸気が大量に溢れだしているように見えた。
空は塗りつぶしたような黒い雲が覆う。
一面が白黒の景色の中で、耳を劈くような激しい雨を以てしても未だ消えない赤い炎が遠くで凪いでいる。
こんな場所、僕は知らない。
こんな景色、僕は知らない。
心にはただ虚無が残るだけ。
なんでだ。
なんでだよ。
こんなのおかしいだろ。
おかしいのは僕の方なのか。
狂ってるのは僕等の方なのか。
――違う。
違う。
「おかしい」
足を踏み出した。落ち着いてきたはずの傷を雨が抉り、痺れる。けど、何故か心地良さすら感じる。冷たい。寒い。痛い。そんな端的な感情だけが確かなものだった。ボロボロになった靴はもうその役目を全く果たしていなかった。怠惰は思考を鈍らせる。頭は停止して、動かない。
うるさい。雨の音が五月蠅い。
傷に染み、切り裂くような痛みが走ろうと、ただ歩き続けていた。なんのあても無く、かつて草原だった場所を、かつて町だった場所を、かつてヒトがいた場所を、かつてポケモンがいた場所を、あるく。
ここは一体どこだろう。僕は王族で城に籠った生活を送っていたけれど、よく様相を隠して町にこっそり遊びに出ていた。全てを把握していたわけじゃないけど、ある程度の地理や人々の顔は覚えている。美味しかった食事の店やかっこいい武具が売られた店や、笑う子供がはしゃぎまわる広場など、印象深いものは目を閉じてもはっきりと思い出せる。けど、今実際に見ているこの世界はどうだろう。
何も無かった。
果たしてこの状況を形容する言葉が他にあるだろうか。
何も無いのだ。
浅黒く焼けて所々ひび割れた大地があるだけ。
それでも何かあったことを示そうと辺りに敷き詰められた、水に浮かぶ灰。
倒れた誰か。倒れた何か。
確かに息吹いていたものは焼き尽くされ、今、雨に打たれている。
静かだった。
うるさいのに、しずかだった。
はは。
なにもないや。
この広い広い荒野に一人だけ歩いている。
遠くまで何もかも見えるよ。
こんなにここは広い世界だったんだ、知らなかった。
あははは。
ぼくはなんてちっぽけなんだろう。
世界がおかしいんじゃない。僕がおかしいんでもない。
全部おかしいんだ。
何もかも狂って、そして日常にまた溶けていくのか。
僕は、嘲笑した。
視界に遠方の景色まで入っていたからこそ、僕はその存在に気が付いた。
白く霞むような中で、黒く影が動いている。瞬間、一気に雨の音が耳元で強く鳴り始める。鼓動が強く速くなっていく。目を凝らしてその存在を捉えようとする。固まったまま動かないでいても向こう側からやってきて、だんだんとその姿かたちがはっきりと見えてくるようになる。
白黒の中でまた新たな色が生まれる。
蒼い空の色をした、強靭に鍛えられた四肢の体。黄金の二つの長い角を生やし、そのすぐ下で同じく金色に染まった瞳がまっすぐにこちらを見つめている。凛と歩くその姿に僕は既視感を覚えた。昔から母様に読んでもらっていた絵本や、昔話を集めた他の書物などで何度か目にしている。名前はそう――コバルオン。本の中で、いくつものポケモン達を先導し守っていた、勇敢な戦士。
実際にお目にかかるのは初めてで、僕は思わず息を呑む。
コバルオンははっきりと目に見える位置までやってきて歩みを止める。警戒しているのか間合いをとっているものの、十分だった。その鋭い目に捉えられて、僕は身動き一つできないでいた。再度雨の音は遠くなっていく。傷の痛みも痺れて逆に何も感じなくなっていた。
「生きている人間が居たとはな」
少し低いトーンの声が聞こえてくる。
「それも、こんな雨の中で」
「……僕も、生きている者がいるとは思っていなかった」
自然と口走ると、コバルオンは面食らったかのように目を丸くし、体勢を僅かに低くして警戒を強める。僕は息を呑んだが、あらかじめ僕が何を準備しようと、生身の人間と伝説と言われたポケモンとで取っ組み合えばどちらが勝つか、答えは明白だ。
「……人間、私の言葉が分かるのか」
人間、とは僕のことを指しているのだろう。初めて使われた二人称だけれど他に居ないのだから当然僕のことだ。恐る恐る頷くと、コバルオンは目を細める。
「王族の人間か」
今度は僕が驚く番だった。
「どうして分かったんだ」
「王族の家系では代々何人かそういう人間が生まれる。先祖の血なのだろうが……」
コバルオンは一歩、二歩と前に踏み出す。
「言葉が分かるなら、話は早い」
僕は頭を掠めた危険信号の光に従い、一歩、二歩と後ずさる。
「何をやったか、人間が何をしたのか、解っているのか」
衝動や感情を無理矢理力づくで押し殺しながらゆっくりとコバルオンは話し始めた。けれどそこに込められた思いは突き刺さるように飛んできて、言葉が出てこなかった。距離が離れているのに、見えない圧力で口を押し付けられているようだった。
「醜い争いを始めポケモンまで使い、野生の者達の住処も戦火に巻き込んだ」
土砂降りの中で、コバルオンの体には無数の傷がついているのに気が付いた。切り傷や、擦り傷。止まってはいるものの明らかに血が出ていたであろう大きなものもある。
「私とその仲間で、人間と戦った。ポケモン達を守るために。今までは達観していても、仲間を傷つけられれば話は別。そしてこの天地の狂い……レシラムやゼクロムの怒り……呼び起こした根本の原因は、お前たちの身勝手な行動だと、解っているのか」
責められているのだ。そして、コバルオンの言いたいことも理解できた。
この状況で言い訳もできないから僕は口を紡ぎ項垂れていた。僕は戦争に賛同してもいなければ反対もしなかった。傍観という形をとって目を背けたに過ぎない。関係が無いようで、関係が有る。僕の力でどうこうできることでは無かったかもしれないけれど、もう今更だ。何を言ったところで、嘘っぽい戯言しか平和に暇を弄んできた僕の口からは出てこない。
正面から痛いほどに突き抜けてくる感情は、怒りも悔しさも哀しみも重なり合った、殺意そのものなのだと、漠然と理解した。
「僕を殺すのか」
敢えて先手をとると、コバルオンの足が止まった。
「僕を殺したところで、何も解決しない」
雨の沈黙が流れる。力が抜けている僕に対して、コバルオンはなんて強い瞳だろう。そのまま視線で貫かれてしまいそうなくらいなのに、僕は何故かそれを平然と受け止めている。
「他のポケモン達は死んでしまったのか」
コバルオンが咄嗟に睨みをきかせ、びくりと背中を震わせる。
「仲間と共に安全な場所に避難させている。どんな危機が迫ろうと、どこか穴はあり、何者かは生き残る……たとえそれが一握りでも」
「そうか……良かった」
なんの考えもなくただ正直な気持ちが口から出る。
「……不思議なやつだ」
コバルオンは怪訝な表情を浮かべたまま言う。
「ポケモンは何も悪くないんだ」
僕は右手を握りしめる。
アキレアの姿が脳裏を駆けた。
「関係ないのに戦火に巻き込まれた人も多くいた……」
煤と成り果てた横たわる何かを横目に、僕は言葉を詰まらせる。
「どうしてこうなったんだ……どちらが正しいとか悪いとか、そんなことでどうして戦わなければなかったんだ……」
ぽつりぽつりと出てくる言葉が聞こえているのか聞こえていないのか解らないけれど、コバルオンは黙って僕を見届けていた。
そして止めていた足を僕は動かし、コバルオンの方へと歩みを進める。コバルオンが警戒を強めて威嚇をしたのに気が付いたけれど、それに怯えることはなかった。大きな水溜りを静かにゆっくりと歩き、コバルオンの横を通り過ぎる。
「……どこへ行く」
後方のコバルオンの尋ねた声に立ち止まった。
「城に行く。あそこからなら、全体を見渡せる……」
雨脚が強くなる。
再度歩き始めるが、コバルオンが追ってくるような気配はまったく感じられない。耳に届いてくるのはただ雨の音だけ。
歩いて。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
それでも城は見えてこなかった。これほど視界は開けているのに、欠片も見当たらなかった。それが何を示すのか、かえって冷静になった頭で大体予想はついている。それでも足を引きずり続ける。どれほどの時間が経ち、どれほどの距離を重ねてきたのだろう。そんなことどうでもいい。
「……」
僕は足に固いものがぶつかったのに気が付く。ゆっくりと当たったものを確かめようと拾い上げると、黒い煤の上に泥を重ねたような状態の、掌より少し大きい程の石だ。降りしきる雨水を使って付着したものを払うと、見覚えのある灰色の様相が顔を出す。視線を上げて辿るように見てみれば、同じような石がたくさん落ちていて、少し距離を置いたところに巨大な瓦礫の山があるのに気が付いた。
拾った石を捨て、僕は弾けるようにその場を走り出した。服は存分に水を吸って重たいうえ、随分体力も削られているために少し走っただけですぐに息が上がる。掠れた息遣いで瓦礫の麓までやってくる。
「……」
よく見てみれば周囲には同じような石の瓦礫がいくつも点在していた。草原が広がり木々があったことを示すような焦げた物体も存在している。
――なんでだ。
僕は咄嗟に瓦礫の山に手をかけていた。石を拾っては捨て、拾っては捨てを繰り返す。刃物のように鋭くなっているものもあって、手にいくつもの傷がつく。がらん、がらんと音が虚しく響く。赤がこびり付いた石を見つけた途端、しばらく平常運転をしていた心臓が大きく跳ねる。寒さで手が凍えて思うように動かなくなってきた頃、掘り下げた隙間に汚れた肌色の存在を目につけた。もう、それ以上見たくはなかった。目を背け、僕は瓦礫の上に座り込んだ。雨が激しく打つ。呼吸ができない。心臓が高鳴って、思考が浮遊してしまいそうだ。
「……」
動かないと心が死んでしまいそうな嫌な直感が僕の体を鞭打つ。僕は瓦礫の上に足を乗せ、ゆっくりと山を上っていく。雨のおかげで足場は最悪だ。時々滑り落ちそうになりなながら、我ながら格好の悪い体勢になりながら、慎重に頂上へ向かっていく。
頂点に立った時、僕は土砂降りの中、以前よりずっと低くなった城からの景色を見渡した。
暗雲の下、まっさらになった国の姿を目の当たりにする。
小さな瓦礫が転々と転がっている。木々という木々は突き倒され、燃やされ、流され、跡形もない。大地のひびに溜まる雨水。水溜りというよりも浅い海が形成されていっているようだ。遠くの山は削られ、力を無くした火砕流が固まって大きく横たわっている。
何も無い。
本当に、何も無いんだ。ここに来て、改めて周囲を見て、悲惨な真実を前に確信が走る。
力無く手からナイフが滑り落ち、からんからんと情けない音を立てながら瓦礫の山の一部と成り果てる。
ああ、どうして僕は一人だけ、生きているのだろう。なぜ、逃げたのだろう。
なんのために……。
「……」
僕は視界の右の端に、銀色の棒が瓦礫に刺さっているのが映っているのに気が付き、その傍まで体を引きずる。棒は手で持って、親指と人差し指がぎりぎり付く程度の太さだ。刺さっている部分の石をいくつか転がり落とし、僕はその棒を引っ張る。深く突き刺さっているのかうまく出すことができず、もう一度根本の石を掘り返す。再び棒を掴み、全体重を後ろの方にかけると、がらりと瓦礫の崩れる音がしたと同時に僕の体は後方に落ち、地面に当たった殴られたような衝撃が頭に響く。激痛にしばらく動けなくなって固まっていたが、少し落ち着いてきた頃、出てきた棒の全貌を目に入れる。
「……国旗」
砂や煤を被り汚れてはいるもののそれはまさしく、白と黒を基調としたデザインの僕たちの国の旗だった。
これも生き残っていたのか。今までなんとも思っていなかったのに、急におかしな仲間意識に似たものを感じてしまう。多くの国旗がこの城には掲げられていたけれど、大半は国民の反乱軍によって踏みつぶされ、戦火に巻き込まれて焼かれてしまったはず。辛うじてそれらの視界から逃れたのだろう。そして今、こうして僕の目に入った。
旗を眺めていると、脳裏に忘れかけていたかつての町の姿が、森の姿が、人の姿が、ポケモンの姿が沸々と浮かび上がっていく。長年をかけて作りだしてきた平和なイッシュの国。できるのなら、戻りたい。ひとりぼっちの時間が怖くて辛くて、痛い。暇だと呟いていたあの日々が懐かしくて、愛おしい。非日常じゃなくていい。平和でいい。争いはいらない。正義だ悪だと分断する必要なんてない。そんなこと、平和の尊さに比べればなんの意味もない。命の尊さに比べればなんの意味もない。大切なことに壊された後で気付く。なんて簡単に崩れ去ってしまうものなんだろう。なんて儚いんだろう。今、戦争は終わった。終わったんだ。代償として、何もかもを失って。けど、僕は生きている。国旗は残っている。
何も無い。
けれど、僕は、国は、死んでいない……。
生きている限り、僕等には勇気が残されている……。
取り戻したい。あの平和を。
思いが光り、数秒間国旗を見つめた後、僕はそれを肩に乗せて城の跡地を後にした。
雨が少し弱まったように感じられてきた頃、元の道を辿っていると同じようなところでコバルオンがまだ居たことに気が付いた。コバルオンも僕の存在に気が付いていて、先程の鋭い視線とは裏腹に憐れんだような目で僕を見ている。
「城は無くなっていただろう」
頷く。
「それはなんだ」
コバルオンは顎で指す。棒を揺らしてみせると、コバルオンが頷いた。
「国旗だ」
「国旗?」
「残っていたんだ」
「なぜ持っている」
「持とうと思ったからさ」
意味が理解できないようでコバルオンは目を細めて僅かに首を傾げる。
鉛のような沈黙が佇み、それでも僕等は一歩もその場を動くことができないでいた。お互いに探り合っているような、奇妙な空気感に包まれている。
先に静寂を破ったのは、静かに滑るコバルオンの言葉だった。
「……生きている人間はお前だけではない」
「……」
「奇跡的に生き残った者もいるし、遠くに足を運べば誰かは存在している。そこを目指すがいい。そして、もう私達とは関わらないように生きろ」
僕は視線を上げ、コバルオンを見ると首を軽く横に振った。
「コバルオン、それじゃあ何も解決しない」
彼に一文一句はっきりと聞こえるように、強い口調で話を始める。
「僕等が目指すべきは、過去の過ちも全て受け入れ、助け合い共存し、平和を取り戻すことだ。戦いは何も生み出さない。今、この惨状を見て分かる。哀しみを生むだけだ。この国は壊れすぎた。直さなくちゃいけない。けど、ちっぽけな力を持った人間の力だけじゃ、無理だ」
コバルオンはじっと僕の瞳を真摯に見つめている。
「人間とポケモン――二つの種は絶対に共存できる。僕は信じてる」
敢えて語尾を強め、旗を持っていない左手をコバルオンに向けて差し出す。
「コバルオン、手を貸してくれ」
先程瓦礫を発掘した行為のおかげで掌は擦り傷が多くできていて、血が滲んでいた。雨水が当たって、流れていく。
コバルオンは冷静な表情で僕の左手を見やり、長考していた。或いは僕の意志を勘繰っているのかもしれない。
「……否、だ」
ゆっくりと紡ぎだされた言葉に僕は若干唇を噛みながら、それでも出した左手を下ろさない。
「私は人間の始めた争いを許すことはできない。人間が私達の仲間を使って戦ったことも、住処にまで火を及ぼしたことも……これから一切そんなことが無いと、永久に無いと言い切れるか」
「……」
「言えないだろう。人間はそうだ。常に利害を考え、自分の考えが正しいと押し進めようとし、だめならば、強行突破も辞さない……関係の無い者たちのことも考えずに。以前、この地で大きな争いがあった時からそうだった。どうしてゼクロムやレシラムが当時の戦いに参加し、人間を信じ見守り続けてきたのか……私には分からない。けれど、彼等も今回で分かっただろう。人間は結局、争うのだと。だから、焼き尽くしたのだ」
「……」
「この惨劇は、ドラゴンの怒りだ」
コバルオンは最後にそう言い放つと、踵を返して少しずつ僕から離れていった。だんだんと離れていく後ろ姿を追う力が残っていないことに、僕は愕然とする。けれど、たとえばまだ元気があったとしてもコバルオンを追えば返り討ちにされるだろう。それほどに彼の怒りもまた、すぐに癒えるものではないのだ。ポケモン達を守りたいという思い、人間への憎悪、自らのプライド。コバルオンにも抱えるものがたくさんあるのだろう。それを、突然現れた僕が簡単に動かせるものではない。
僕はついに左手を下ろし、怠惰と疲労に塗れた帰路を辿ることにした。
七
なあ、アキレア。僕はずっと現実から目を背けていたんだ。家庭教師の先生に黙って授業をさぼったり、剣術の訓練が嫌で町に飛び出したり、兄様達の頑張っている様子を遠くから眺めていたり。人間は平等だと思うけど、王族にたまたま生まれてしまったからには、それなりの心持でいなければならなかったはずだ。将来、王になるかとかそういったことは別にして、最低でも王の補佐といえる位置には辿り着く。けれどそれからも目を逸らしていた。周りがなんとかやってくれると呆けていた。
けど、今を見てくれ。誰もいないんだ。兄様も姉様も、母様も父様も、婆やも、従者の皆も、町の人々も誰もいない。現実と無理矢理にでも向き合わなければならない。
そうして改めて考えた時、思ったんだ。
今までの状態でいて戦争が起こるのなら、変えるしかない。
考えを改めて、また零から始めなければならない。
零から。
多くの犠牲を払った上で、進まなければならない。生き残った者達は、今回のことを教訓にしなければならない。誰かがやるのを待っていられるような状況ではないんだ、アキレア。生き残っている誰もが、未来を切り開かなければこの状況を打破することはできないんだ。僕は、今まで怯えて動かすことができないでいた勇気を使っていくよ。
怒りも哀しみも全てを受け入れる。
不思議なんだ、今僕は何も無いのに力が内側から湧いてくる。目を閉じると、遠くの景色が見える。雲間から光が零れてくるのが見える。
明日、コバルオンが居る場所も視える。もう一度、僕は行く。
僕はやる。
それが、僕にできる祈りであり、懺悔なんだ。
そんな僕を、君は見守っていてくれるかい。
八
雨は上がっていた。けれど煙を吸い込んだ暗雲は相変わらず空を覆っており、太陽の光がまともに差し込んでいない。夜ではないことは分かったが、時間感覚はとうに失われていた。
僕は濡れたままの服を身に着け、肩に国旗を担ぎ、再び昨日の道を歩いた。道とはいっても、荒廃の地をただただまっすぐ歩くだけ。心はいやに静かだった。雨の音が無くなって物理的に音が消え去っているせいかもしれない。無音だった。時折吹く風が地面を撫でるくらいなもので、その中を僕の小さな足音が響いていた。こうしていると、生き残っているのは自分だけなんじゃないだろうかという錯覚に襲われる。こんなに広いところに、ひとりだけ。ふっと地面が無くなったかのような妙な浮遊感に似た恐怖心が淀む。心臓が高鳴る。掠れたようにボロボロになった国旗が揺れる。かつて息吹いていた何かの灰が通り過ぎていく。心を締め付ける孤独感を胸に、息の詰まる静寂の中を歩みを続けた。
当然一言も喋ること無く、僕はかつて城だった瓦礫の山の傍までやってきて目を細める。
昨日視た通り、コバルオンはそこにいた。
倒れ込んだ塔の傍で、まるで待っていたかのように僕には見えた。
「……コバルオン」
呼んでみたものの、視線も彼はこちらに向けず微動もせず、瓦礫のてっぺんのあたりを眺めていた。元々大きな建物であったが故に崩れ去っても絶望しそうなくらい大きく、コバルオンの何倍も何倍も高い。勝手な思い込みだろうか、悲哀を携えた視線を投げかけているように見えた。
僕は溜息をつくと、一歩、二歩とコバルオンの元に近づく。
「瓦礫を片付けにでも来たのか」
突然声が出され足を止める。けれど彼が動かしているのは口のみで、表情すら殆ど変化がない。
「無残なものだな。人間の所業というものは、こうも容易く壊れてしまう」
「……壊れたものは、直せばいいだけだよ」
僕は肩に重く圧し掛かっていた国旗を瓦礫の上に横たえる。一気に身が軽くなり、ほうと息をつく。
「もう何も無い。失うものも何も無い。もう、作りだしていくだけ」
「それが難しいことだと、解っていてもか」
「十分に知っている」
「……何故希望を持てる」
コバルオンの問いに僕は口を紡ぐ。
「家を失い家族を失い絶望し、海に身を投げる者も少なくない……それが現実だ。何も無いことに恐れは無いのか」
「恐れ、か」
僕はぽつりと呟き、今の心境を顧みてみる。けれど、コバルオンの言葉と僕の心は一致しなかった。例えるならば、波紋一つ広げず風も吹かない、そうして無音に佇む湖。或いは、しんと沈み自分と同化した夜の空。いや、夜よりも朝に近い。朝焼け。まだ人もポケモンも風も目を覚ましていない、朝焼けの風景。自分でも疑問に思うほど心は凛として、穏やかだった。
「ただ生きるために逃げていた時や、昨日の土砂降りの風景を思えば、もう何も感じない」
「……不思議な奴だ」
昨日と同じ台詞をコバルオンは吐いた。
不思議、か。もうそれでいい。第一そんな言葉、今の世界では通用しない。何もかも普通ではないのだから。
「そうやって心を掻きたてているのは、責任感か?」
「責任……か。コバルオン、君にも僕の気持ちは解るんじゃないかと思うんだ」
「……」
「君は多くのポケモンを守る戦士だろう。責任感と言えば、一流だ。責任なんて言葉、本来僕には程遠い。そんな生活を僕はしてきた」
「……」
「けど、そんなことは言っていられない」
僕は屈んで倒していた国旗に手をかけ、一気に持ち上げた。
「今までの自分も王族の行いも戦争も、全て過去にあった真実。それを全て受け止める。君を含めたポケモンや生き残っている人の、哀しみや怒りも全部受け入れる。僕はポケモンと話せる力を今までどうと思うことは無かったけれど、今なら解る。人とポケモン、両方を受け止め共存の架け橋となるために受け継がれてきた力なんだ。そして僕が王族として生まれてきたのは、多くの民を率いていくため。当たり前のようで、解っていなかった」
僕はゆっくりと瓦礫に足をかけた。慎重に上がっていく。右手に持つのは、ボロボロになった国旗。所々破れて煤を被っても、生き残っていた国の象徴。
時折足を滑らしそうになりながら、一歩一歩確実に踏みつけていく。この下には、何も無いのに、多くの哀しみが溢れている。それを僕が背負いきれるのか。それは想像もできない。
けれど。
顔を上げる。
暗雲を睨みつける。
右手に力を込める。
風に旗がはためく。
大きく息を吸う。
頂点に辿り着いた時、僕は振り返りコバルオンを見下ろした。
「僕には未来が見える!」
叫ぶ。
「絶対に国を造り変えてみせる!!」
空気が震えている。稲妻のような衝動と、炎のような情熱が湧き上がってくる。力が満ち溢れてくる。
「コバルオン、共に行こう! そして、作ろう。新しい、イッシュの国を!!」
棒を握りしめている右手に左手も添えて、振り上げた。
直下、渾身の力を以て瓦礫の山に国旗を突き刺した。足元の石が弾けとび、白と黒の伝説のドラゴンを称えたイッシュのシンボルが広がった。
コバルオンはしばらく視線を重ねた後、強靭な足腰で瓦礫の山を軽々と駆け登っていき、あっという間に僕の傍までやってくる。正義を掲げ威圧感を兼ね備えた瞳が、優しく光ったような気がした。
「真の心と見た」
旗を挟み、僕の隣にやってくる。
「信じてみよう……お前の理想を」
噛みしめるようなコバルオンの言葉に、僕は、ずっと忘れてしまっていた穏やかな笑顔を自然と零す。
一呼吸を置くと、視界に眩さがちらつき、暗雲の切れ間から太陽の光が差し込んだのだと気付いた。
荒れ果てた広い広い大地の上に、国旗が風に乗って力強く揺れた。
了