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六
朝は巡る。淡々と繰り返される。
ウインディ程の巨体を動かせるような生き物はこの森におらず、彼は死んだその場所に埋められた。本来死んだ者に対してそんなことはやらない。時間が経って、鳥や虫などの生き物が啄んでいくのを眺めているだけ。それを拒むことを提案したのはおじさんだった。おじさんは人間は生き物が死んだときこうやって埋葬するのが習慣なのだと。こうしてやるのがきっとウインディのためになると。
掘り起こされたために土の色が剥き出しになった丘のてっぺんに僕は立つ。ここからはこのあたりの景色がよく見える。山々の移ろいが手に取るように分かるここから、いつか彼の主人が見える時が訪れるだろうか。仮に現れたとしても、姿かたちを知らない僕には判断のしようがない。仕方のないことだ。どうしようもないことだ。分かっているのにひどくもどかしく感じられる。
生まれた頃から人間と共に生きてきたウインディが、人間と殆ど接することないこの森で死んだなんて少し不思議な話だ。彼の言葉を借りるなら、これも全部運命だというんだろうか。そんな簡単な言葉で片付けられてしまうのだろうか。だとしたら、なんて残酷なんだろう。
空は呆れるほどに爽やかな青が塗られていた。
それを虚無の心で眺めていると、僕を呼ぶおじさんの声に振り返った。
「坊」
「おじさん」
出てきた言葉は思っていたより小さなもので、おじさんは目を細めた。そしてゆっくりと僕の傍にやってくる。傘の下になった僕は小さな体をおじさんの体に力無く委ねた。柔らかな体におさまるとおじさんは腕でそっと抱きしめてくれた。そうするとまた僕の目頭が熱くなってしまう。
「もういっぱい泣いたのに、まだ泣くの」
呆れたように、でも優しくおじさんは呟く。僕は小さく何度か頷いた。
「随分泣き虫な子になっちゃったわね」
「……こんなに泣くつもりは無かった」
「いいのよ。泣くときに泣いておきなさい」
おじさんの言葉がふわりと僕を包み込み心地良い。それが更に涙を呼んで止まらなくなる。
ああ、いつまで止まっているつもりなのだろう、僕は。
流星群の明くる朝、ウインディは既に息絶えていて、何度名前を呼んでも決して返事が来ることはなかった。それが何を意味するのかを真に理解したのは、おじさんが黙って今のように僕を抱いてくれた時。信じられないままでいたのが諦めに変わったのは、ウインディが地面に埋められていく時。お母さんとの別れも唐突だったけれど、ウインディも突然だった。温かな吐息と共にあんなに沢山語ってくれたのに。耳にまだ独特の掠れ声が残っているのに。おじさんの、もっと時間が伸びることを願う思いが今なら痛いほどに分かる。きっと近いうちに別れがくると思っていても、現実は想像よりも遥かに重い。
どうしてみんな、僕の前からいなくなってしまうんだ。
僕はウインディのことを慕ってた。ウインディのようになりたい、そんなこと、ずっと前から分かっていたのに。もっと早ければ。もっと早く認めていれば。そうしたらもっと違う目で彼を見ることができていたのに。僕が海に行きたいって言ったことだってウインディは許したけど、僕は自分を許せていない。あんなことしなければ、ウインディはきっと今も生きていた。もっと長く一緒に居られた。こんな不毛な後悔、今更どうしようもないって解っていても考えてしまう。
僕の望みに偽りは無い。言うだけなら簡単だ。それは人間を恨みながらも何もせずに怯えているだけだった日々とよく似ている。その停止状態からどう脱却すればいいのか。おかしいなあ、確かにウインディと話しているあの時はようやく進みだせると思ったのに、いざ本当にいなくなってしまったら急に足が竦んでしまった。ウインディのようになりたいって思っても、どうしたらいいのか本当にわからない。何もかも選ぶ権利があると言われても、逆に分からなくなってしまった。だって仮に間違ったことを選択してしまったら道を踏み外すんだろう? また後悔をすることになるんだろう?
「坊、何をそんなに悩んでいるの」
おじさんがゆっくりと尋ねてくるのが、埋めた耳元で聞こえてきた。優しく撫でるような声は衰弱した心を慰める。おじさんだけだ、おじさんだけはいつも僕の傍にいてくれる。居なくならずにいてくれる。それがどれほど僕を支えてきたのか分からない。だからこそおじさんには今、自分のことを話せるような気がした。
僕は嗚咽の混ざったままで口を開いた。
「僕……、やっぱり自分が情けない」
ぱっとしわくちゃになっているであろう顔をあげる。心配そうな視線を向けているおじさんと目が合う。動揺と戸惑いが残り、しばらく沈黙する。僕はその間に懸命に自分の言葉を整理しておじさんに伝えようとする準備をする。おじさんはただ黙って待っていた。
「ウインディ、言ってたんだ」
ようやく言葉が紡がれていく。
「僕に力があるって。未来とか可能性とか、自由とか、そういうものを持っていることがつまり力なんだって。死ぬ間際にそんなこと言うなんて……ウインディはずるい」
一度口をぎゅっと縛る。
「ねえ、どうしたらいいのかな。どう進んだら、僕のやりたい方向に、正しい方向に進めるのかな……」
悲しみが雪崩れこんで、僕の思考は停止していた。この感覚はお母さんがいなくなった時によく似ている。様々な感情が入り乱れて、混乱している状態なんだ。一度経験したからかなんとなくわかる。けど、わからない。
「正しい方向……」
おじさんは考え込むように呟いた。
「坊、もしかして、まだウインディと海に行ったことを後悔しているの? だから怖いの?」
「それだけじゃない」
僕は即座に言い放つ。
「いろんなことがもどかしい……きっともっと良い未来があったのに……」
くぐもった悔しさが言葉に滲み出る。冷たい重苦しい沈黙が漂い、風の音すら僕にはよく分からなかった。
「坊」
数秒ほど間をとってから、おじさんは再び僕を呼び、僕の顔を覗き込んだ。おじさんとまっすぐに視線が合う。
「坊、ウインディは十分に坊を認めてくれた。坊もウインディを認めたでしょう。だから、今度は坊が自分を認めてあげるの」
ゆっくりと言い聞かせるような声音だった。強い視線を真っ直ぐに突き刺してくるおじさんの言葉は僕の心にしんと溶け込んでいく。息を静かに潜めてもう一度自分の中で最後に加えられたものを繰り返して噛みしめる。理解しようとする。
「僕が……僕を?」
おじさんはしっかりと頷いた。
「そうよ。坊がしたいことを、したいようにやるの。それができるのよ。なんでもできるって言われても困るかもしれないけど、坊が思ったように選んでいけばいい。それが坊の力だってウインディは言ってくれたんでしょう? 坊はいつも自分に対して限界を決め込んでたけど、そんな必要ない。坊はそんなことを気にする必要なんて無い。正しいとか間違ってるとか、坊の前には関係ないの。海のことだって私は止めたけど……今はもうそんなこと気にしてない。ただ進んでいけばいいだけよ。ウインディの言いたいこと、私にはよく分かる……」
実感のこもったようなおじさんの語り口を一言一句聞き逃さないように、僕は耳を立てていた。また一つ僕は救いの手が差し伸べられているのだと直感した。
おじさんは一度僕を離し、持ってきていたらしいピンク色の木の実を僕に差し出す。食べなさいという言葉と一緒に。思えば今朝は何も食べていなかった。思い出した空腹感に従って僕はそれを啄む。柔らかい皮の向こうにある実の部分を口にすると一気に口中にさっぱりとした瑞々しい甘味が広がる。時々塩気が混じるのはまだ僕の目から零れている涙が口の中に紛れ込んでくるせいだ。
一気に食べ終えた僕の喉は、いっぱい泣いたせいもあって水を欲していた。その旨をおじさんに伝えると、自然と川に向かう流れになった。後ろめたさを覚えながら丘を一度下り、慣れた道を抜けていく。会話は無かったけれど、とぼとぼと遅いテンポにおじさんが合わせてくれるのがよく分かった。ウインディとこの道を歩いて丘に向かう時、ウインディの歩行速度に負けていなかったおじさんの姿をふと思い出した。
木々が少し途切れるその場所に小さな川は存在する。ものの数分で辿り着いたところ他にも何匹か森の仲間が既に居て、それぞれに水を飲んだり体を洗ったりしている。
山の方からやってきた清流に僕は口をつけて水をなめる。細い喉が少しずつ潤っていく。でも足りない、まだ足りない、足りない。僕は前のめりになっていき、止まらなくなった衝動のままに川にとびこんだ。おじさんが思わず声をあげたのが分かった。川はぎりぎり顔が出るくらい。火照る体と心を冷やす水が気持ちいい。顔をつける。涙は紛れて分からなくなる。容赦無く押し寄せる流れに負けないように必死に踏んばった。それだけなのに、何故か必死になって生きているということに近い気がした。
顔に滴る水を払おうと首を振る。水滴が光りながら空中に小さな弧を描いた。
空を仰いだ。呆然と沈黙を過ごし、ふっと息を吐いた。
「僕、生きてるんだなあ」
「どうしたの、改まっちゃって」
おじさんは微笑む。
「ウインディが来て、坊は変わったわね」
「そうかな」
「ええ。いろんなことを糧にして、これからもどんどん変わっていくのよ」
期待と、心なしか寂しさも混じったような風におじさんは言う。僕はふつと口を噤んで清流に沈む自分の足元に視線を落とす。こんな小さくて弱々しい足。駆け出しても到底ウインディには及ばない。それが僕。けれどウインディは、死んでしまった。受け入れる他ない真実が突き刺さる。
溜息混じりに、嗚呼と感慨に浸ったような声が聞こえてきた。
「淋しいわねえ」
おじさんはぼそりと呟いた。僕はもう一度おじさんに視線を向けて首を傾げると、おじさんは微笑んだ。
「でも、いつかは坊が離れていくって解ってた。坊は気にせずにいていいのよ。私はね、坊がしあわせになってくれれば、それでいいの」
隠すことなく正直に話されるおじさんの気持ち。お母さんではないけれど、お母さんのようなおじさんの心。
そうか、僕の周りから誰かがいなくなってばかりじゃない。おじさんはいてくれた。けれど、僕は自分のやりたいことを追いかけていこうと決めれば、僕がおじさんから離れていくことになるんだ。おじさんだけじゃない、いつか森から離れることになるんだ。生まれ育ったこの場所から、僕を包んでいたこの世界から。それが、跳び出すということなんだ。
当然のことを実感して急に息を詰める。ぽたりぽたりと川に浮かんではすぐ流れていく水の波紋を数秒間茫然と眺めた後、僕は小石の敷き詰められた川底を歩き始めた。おじさんのいる川岸までやってくると、水浸しになった全身を冷たい風が突き抜けていく。寒気が襲うそれは心を落ち着かせる。
「……ちょっと、一人にさせてもらってもいい?」
おじさんに視線をやってから尋ねると、おじさんは母性の籠った微笑みを浮かべて小さく頷いた。
「いってらっしゃい」
軽く背中を押された。恒例にも感じるそれは僕を相も変わらず支えている。
おじさんに背を向けたまま、ゆっくりと乾いた地面を踏みしめ始めた。川から離れていくと、敷き詰められた葉は踏んで固められて小さな道が現れる。川を流れる涼しげな水の音はどんどん遠ざかっていく。足についた水はいつの間にか拭きとられていた。木々の隙間から森の仲間が顔を出す。時に声をかけてくれるからそれに対して返す。僕と同じように森と共に生きてきた住民たち。お世話になったのはおじさんだけじゃない。いろんな生き物が形作っている世界は居心地が良く、不思議に思うほど円滑に循環している。
歩いているうちに広い場所に出る。まだ太陽がそう高く上がっていない朝の時間帯であるせいか、あまり他に生き物がいるようには見えない。
僕は立ち止り目を細め、森の中心であり一番の大樹である御神木を見上げた。
遥か上の方で、茂る葉が風にささやかに揺れている。それに合わせて淡い色の木陰が躍る。
ここで僕とウインディは出逢った。
あの日は雨が降っていた。
見た事のない巨大な獣。雨水に沁み込んで流れる見た事のない量の血。平穏な僕の世界を突き破ってきた。ウインディという存在自体が僕にとっては未知の世界だった。初めての生き物、初めての感情、初めての海、初めて顔を見せた自分の本当の感情。抱いたのは嫉妬と焦燥と憧れ。
確かな幸せが存在する内側の世界と、人間の存在する未知の領域である外側の世界。跳び出すのを怖がっていた。だからはっきりと分断することで忌み嫌い、遠ざけてきた。ウインディは僕の中ではっきりと分かれた内側と外側を繋げていった。架け橋となった。橋であるが故に、渡るかどうかは僕の自由だ。後悔をいっぱいしてきた僕だから、なんとなくわかる。本当は、何をしようと後悔や矛盾は待ち受けている。正しいこと、間違っていることはいつだって隣り合わせだ。それを怖がっていたら、どこにも進めなくなってしまう。そして、いつか進まなかったことを後悔するんだ。それはおじさんの言うしあわせじゃない。どうしようもなく怖い。けど、僕の望みはあの流星群の日からはっきりと見えている。それに従えとウインディやおじさんは言ってくれた。僕にある力は自分の望みに従える力。思い出せ、一瞬見失いそうになったけど、ウインディがはっきりと言ってくれたじゃないか。ほら、僕の中にはまだウインディが生きている。彼の思いを無駄にしたくない。背中を押してくれた先にあるのは、怖くて憎たらしいけれど、海のようなものが息づいている心躍る未知の世界。ウインディが愛していた世界。そこには、気高く優しく強い、ウインディに繋がるものがきっとある。ここにいては決して得られないものがある。
そして、自分の力でそれらを拾い集めていくうちに理想に追いつけると、僕には僕の力があるのだと、そう信じることが僕が僕を認めるということならば、僕は。
風が少し大きくなる。影が揺さぶられる。心地良い風が僕を突き抜けていった。
別れてから少しの時間を置いて、おじさんは御神木の傍にやってくる。足音でそれに気付いていたけれど、僕はあえて振り向かずにただまっすぐに葉の揺れを視界いっぱいに広げて、隙間にちらちらと瞬く木漏れ日を眺めていた。
「おじさん」
静かに僕から声をかける。おじさんの地を蹴る音がふと止まり、辺りには静寂が残る。僕の耳には、先程まで聞こえていなかった風の音が入るようになっていた。
「僕、強くなるよ」
感銘の声も驚きの声も何も聞こえてこない。沈黙は聞き届けてくれている証拠だ。僕は僅かに微笑む。全ての感覚が透き通り、心は閉じこもった壁をすり抜け羽を身につけたかのように軽やかになっていた。きっとこれが、自由という感覚なんだろう。今ならなんだってできるような気がした。流星群のあの日おじさんには恥ずかしくて言えなかった僕の望みも、今なら言える。
「力をつけて、いつかこの森を出て、知らない世界を知って人間を知って……ウインディみたいに立派に生きてみせるんだ」
橋の向こう側、群青と白波の光景と共にウインディの堂々たる姿が脳裏にはっきりと照った瞬間、僕は走り出した。
あの日の疾風が、あの日の流星が、僕の中を閃いた。