***

 三


 ウインディが森にやってきてから数日が経った。彼の怪我はおじさんの懸命な努力と気遣いの甲斐があって順調に回復していた。それでもあまり御神木の元から動くこうとはせず、食べ物も巨体の割にはあまり食べることなく日々が過ぎている。声も相変わらず掠れた小さなもののままで、初めこそ風邪だろうかと思っていたけれどさすがに違和感を感じていた。けれどそのことを尋ねても誰も原因は分からないと答えるだけで真相は霧がかかったまま。霧がかっているといえば、結局うみのこともまだ訊くことができないまま日が過ぎている。
 あまり運動をしないのも良くない、とおじさんは口癖のように唱えている。僕もそれに賛同していたけれど、ウインディが負っているのは重傷であることを考慮して無理に強制することはなかった。が、今日はどうも調子が良いのか、朝に会いに行ってしばらくしてから散歩に行くことをウインディ自ら提案した。それに僕もおじさんも驚いたけれど喜ばしいことだったから、彼の欲すままに今は森をゆっくりと歩いている。途中様々な森の仲間達が顔を出して挨拶を繰り返す。やっぱり皆驚きと喜びを混ざり合った表情を見せている。僕は何故だか少しだけ誇らしい気分になる。まるで世界にできたまんなかの道を堂々と歩いているような、他から羨ましがられるような目立った行動をしているような気がした。そんな風に思わせられてるのは、ウインディのおかげであるのは十分に分かっているけれど。
 空もウインディの元気になっていく姿を祝福するように青々しく、風薫る穏やかな様子だ。
「もっと治るのには時間がかかると思っていたわ。凄い生命力ね」
 おじさんは笑いながらウインディに話しかける。
「そうだな。まだ痛みは残っているし体力も十分回復したわけじゃないが、これほどには復帰したようだ。寝てばかりではやはり辛い。こうしていると気分はからりと晴れていくのが分かる」
「良かったわ。このまま良い方向に行ってくれるのを願うばかりよ」
 ウインディは軽く笑いながら浅く頷いた。
 その会話に入っていけるほど実は僕に余裕は無かった。何故ならウインディの歩幅は僕の何倍もあって、ウインディにとっては普通に歩くだけでも、僕にとっては走るのに近いほど素早く足を動かさなければならないスピードだからだ。僕の前に居るおじさんは歩くというより大きく前へ跳ねるように移動している。それほど苦には見えない。確かに怪我した足を庇うような不安定な歩き方をしているのにこんな速さだなんて、ちょっとした衝撃を受けざるを得ない。
 それでも僕はそれを悟られないように必死にばたつかせるように足を動かした。ウインディのための散歩なのに、僕を気遣うようなことはあっちゃいけない。
 一応説明しておくと何も考えずに歩いているわけではなく、ちゃんと行先はある。普段木漏れ日の下で過ごしているウインディに思いっきりお日様を受けてもらおうとおじさんが考案したのは、森を抜けた先にある丘。最近は僕もあまり行かなくなったけれど、以前真夜中におじさんと流星群を見に行った場所だ。今の季節は若々しい草が一面に生えて、白い花が点々としている風景が広がっていると思う。あそこには僕の様々な思い出がある。おじさんとの思い出だけじゃなくて、薄らとしたお母さんとの思い出もある。僕とお母さんで並んで、日向ぼっこをしたりしたその記憶はいつでも甦る。少し古くなったモノクロの景色で。
「あら、ようやく見えてきたわ」
 緩やかな上り坂になってきた頃、おじさんは嬉しそうに声をあげた。
 その声に僕はぱあっと表情を輝かせて上を向いた。木がどんどん少なくなっていき、広がる草原が姿を見せている。自然と僕の足取りは軽くなる。
 急に元気になった僕に気付いたおじさんはにっこりと笑う。僕もそれに返すように思わず笑った。
 木漏れ日が続いていた道を抜け、遂に丘の入り口へと辿りつく。
 穏やかな日光で温まった草むらが足に心地良い。一面の若草の香りが鼻につく。今日の太陽は昨日より少し優しく気持ちが良い。微風も流れていて、気温は暑すぎず寒すぎず丁度良い空間だ。夏になる手前の青い草花と空のコントラストが美しく、息を思いっきり吸えば開放的で爽やかな空気が僕の中に満ちる。
 ああ、なんて気持ちがいいんだろう!
 僕は弾けた気持ちを抑えきれず駆けだした。一気におじさんやウインディを抜き去って、緩やかな丘の頂上へと走っていく。僕の顔は今、はちきれんばかりの笑顔が広がっていると思う。それほどに気持ちは明るくなっていた。
「坊、そんなに急がなくてもいいわよお!」
 おじさんの呆れたような声が聞こえてきたけどかまわない。
 丘といっても低いものだからあっという間に頂上に辿りつく。よし、一番乗りだ。そこにやってくると僕は振り返り嬉しさを抑えきれずぴょんぴょんとその場を跳ねた。
「一番乗り! おじさん達もはやくー!」
 急かす僕の気持ちとは裏腹に落ち着いた雰囲気でゆっくりとおじさんとウインディはやってくる。一緒に歩いていたときはその足取りは随分速いように思ったのに、到着を待つ今は逆に遅く感じられる。
「もう、突然はしゃいじゃって。まだまだ子供ね」
 相変わらず呆れ顔のおじさんの言葉に僕はいたずらに笑ってみせた。少し視線をずらせばウインディは微笑ましそうに目を細めていた。
 ようやくおじさんとウインディが丘のてっぺんにやってきて、僕等はそこに座ると広がる風景を視野いっぱいに捉えた。豊かな自然と切り立った荒々しい崖が両生していて、少し遠くにはきらめく細い川の様子が分かる。身体中に風が吹き抜けていき、空の息吹を受けているような開放的な気持ちになれる。なんだか、心だけが無限に広がっていくような気がした。眼前にした風景に、抑えられないほどの興奮が生まれてくる。
 やっぱり良い場所だと再認識させられる。
「良い空気だわ」
 おじさんはうっとりとしたような感嘆の声を漏らす。僕は即座に何度も頷いた。
「本当に、心が洗われるようだ。こんな場所があったんだな」
 ウインディもしみじみと言う。
「僕も久々に来たけど、良い場所でしょ。気に入っているんだ!」
 興奮冷めぬ声でウインディに話しかけると、おじさんは微笑む。
「坊、随分とウインディに懐いたのね。初めはけっこうぎくしゃくしてて、見てるこっちがどきどきしちゃってたけど」
 笑ったままでそう言うおじさんの言葉に引っかかりを覚え、僕ははっとおじさんの方を見やる。
「えっ……別に懐いてるとかそんなんじゃなくて、そうじゃなくて……」
 ちょっともじもじと僕は口を尖らせると、おじさんは僕の頭を優しく撫でてきた。
「ずっと緊張しっぱなしだったもの。今はそんなことないじゃない」
 僕はその言葉を黙って聞く。
 おじさんの言う通り、この数日ウインディと会話を重ねるごとに、僕の中にある恐怖心とか緊張感とかそういったものは確実に無くなっていって、今はもう無いといっても等しいと思う。それはウインディに柔らかな物腰があると分かったからだ。未知の世界からやってきたけど、襲われるような気配は全く無く、彼に感じる迫力も随分と薄らいでいった。
 でも、ウインディのことを完全に認めたわけではないというか、何を認めるのかと言われても困るけど、まだ距離を置いているつもりだ、僕としては。それを象徴するように、僕はまだ声に出してウインディという名前を呼んだことはない。
 簡単に心を許すことに、僕の中にある本当に小さなプライドが必死に抵抗していた。
「今はいいじゃないか、そんなことは」
 ウインディはなだめるように口をはさみ、おじさんはそうねと相槌を打つ。
「ここに来て、ようやくきちんとこの地の様子を見ることができるな。そんな余裕も無かったから、落ち着いている感じがする。本当に自然が豊かで、美しい場所だ」
「四季の変化もけっこうあるのよ。夏になれば暑いけどもっと青々しくて鮮やかな景色になるわ」
「それは見てみたいものだな。私の住んでいた場所は四季の変化はそれほど無かったからな」
 あ、また一つ、ウインディの住んでいた所の話がちらりと出てきた。
 ウインディはたまに自分の故郷のことを少しだけ口にする。だけどそれは本当に少しだけで、単語ほどしかいつも出てこない。その度に懐かしそうに顔を微笑ませて、思い出に浸っているように見える。
 今までなんだか言いだせなかったけど、こうして和んでいる今だからこそ聞けるだろうか。もっと、ウインディの故郷のことを。
「ねえ」
 僕はウインディを軽くつつきながら声をかけると、ウインディはおじさんから目を離して僕に視線を向ける。
「なんだ」
 恍けたような、けれど静かな威圧感を携えた声で問う。ふと僅かな背徳感が顔を覗かせたが、今更引くことも気が引けて口を開く。
「どこから来たの」
 そう言うとまずウインディはきょとんと目を丸くした。あぁ、聞いちゃいけなかったか。今まであまり詳しく話してこなかったのは、やっぱり話したくなかったからなのかな。
 少し戸惑う僕を余所に、ウインディはくくっと喉で笑い始めた。そしてその笑いが収まった頃に突然身体をすっと伸ばし視線を遥か向こうへと投げ出す。その姿がいつもより凛々しく感じられて僕も思わず真似するように背筋を伸ばしてしまう。
「前にも言ったろう、海の向こうだ。海を越えた向こう側にある」
「……あのさ、僕うみなんて知らないんだよ。うみって何?」
 少し苛々とした気持ちが募って不満を漏らすように言うと、ウインディは目を大きく開ける。同時におじさんがああそっかと言いながら何度か頷く。
「坊は海を知らないか、そうね、言われてみればそうだわ」
「そうか……」
 呟いてからウインディは何かを考えるように固まる。その後ふっと僕と向き合ってきた。あの目にあるのは凶暴なものではなく、優しさとか穏やかなものであることを、僕はもう十分に知っている。
「海は……そうだな、海は世界を繋いでいるものだよ」
「世界?」
「ああ。海によって陸は離ればなれになっているように見えるけれど、実際は海は陸を繋いでいる。海があるから、世界がある。うん、抽象的になってしまったな。物理的にいえば、そうだな……うまい言葉が見つからない。いわば大量の水だ」
「えっみずって、あの水?」
 僕は思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「その水だ。普通の水より塩っ辛くて、時に美しく時に荒々しい。そして、森に沢山の生き物が住んでいるように、海にも沢山の生き物がいる」
「ふうん、よくわかんないけど」
「まあ、私も自分の言っていることがよく分からない」
 失笑するウインディに僕やおじさんも小さく笑う。
 でも僕の知りたいという欲望は満たされたわけではなく、むしろ好奇心は益々湧いている。大量の水と言われても、全く想像はできない。目を閉じても空のように自分で瞼の裏に描くことはできない。僕の知っている水は、森の中を流れている穏やかな川のそれや、岩の隙間からちょろちょろと流れている湧水、そして時折空から降り注ぐ雨。どうしてただの水が美しかったり荒々しかったりするんだろう、その理由が分からない。だからこそこの目で見てみたい、その大量の水とやらを。
 僕は気持ちほど今までより更に遠くの方を見つめた。彼方、空の向こうへ突き抜けていくように。今の僕の目はきっと輝いているんじゃないだろうかと思う。
「……見に行くか?」
 唐突に飛び出してきた言葉に僕はまず耳を疑った。一瞬聞き間違えたかと思い不審な目でウインディを見る。しかし聞き間違いではなかったようで、同じ言葉をウインディは繰り返した。見に行くか、と。
 驚いているのは僕に限ったことではなく、おじさんも同様だ。慌てるようにウインディの目の前にやってくる。
「何を馬鹿なことを言っているの。あなたはまだ怪我が完治してないのよ!」
「怪我など既に大したものではない。子供の要望をなるべく叶えてやるのが大人の使命さ」
「安静が一番いいわ。今日ようやく歩いたところなのに、海なんて距離があるのよ。だめよ」
「君はどうだ、海を見てみたくはないか?」
 ウインディは突然僕の方に話を振ってきた。突然というと語弊があるのかもしれない。これは僕に関することだ。この提案を呑むか呑まないかは僕の意志にもかかっている。きっと僕が嫌だと言えばウインディは諦めると思う。僕がだめだと強く言えば、考えを改めるかもしれない。そして、僕が行きたいと言えばきっと……。
 おじさんが止めたがっているのはよく分かる。本来僕はここで嫌だ、だめだと言うのが正解なのだろう。なのに、この心の高鳴りは一体なんなのだろうか。どきどきとして呼吸すらも苦しくて、必死に声を出さないようにするだけで精一杯だった。表情に感情を出さないように顔の筋肉に気を配る。一つ一つの些細な行動を気にしなければならないほど僕の中にある思いは溢れだしそうになっていた。そう、僕はここで嫌だ、だめだと言うのが正解なんだ。それはよく分かっている。だけど、だけど……だけど、本当は違う。この胸の高鳴りがまさにその印。僕の身体が、心が叫んでいる。
 僕は自分の世界を広げたかった。自分の知らないことを知りたかった。けれど知るのは怖いことだ。森の周辺から僕はあの日以来、お母さんが人間に捕まって以来離れた事はない。僕は外界に行くのを恐れていた。自分の殻に籠って人間に嫌悪感を持ち続けてそのままずっと変わっていない。人間が憎くて、でも怖くて、森の外もまた連鎖するように怖がっていた。そんな僕の所に跳び込んできたウインディ。外界からやってきた巨大なウインディを僕は距離を置いて恐怖した。けれどどうだ、実際に触れてみると恐ろしいどころか見た目とは裏腹に慈愛に溢れている。そうして僕は思う、世界をもっと知りたいと。ウインディの知っている世界を、森の外へ行ってみたくなった。不安と希望とが隣り合わせになって僕の背中を押そうとしている。
 僕はずっと変わらずにこのまま生活できればいいと思っていた。
 その一方で、あれから変わっていない小さな自分に呆れている僕もいた。
「私のことは気にするな。行きたいか、行きたくないか、答えは二つに一つだ」
 それは天使がそっと手を差し伸べているようにも、悪魔が耳元で囁いているようにも思える言葉だった。
 真っ直ぐに見つめてくるウインディの視線から僕は逃げることはできなかった。ただ、逃げようとは思っていない。僕もずっと見つめ返していた。
 海を見るか、見ないか。
 森を出るか、出ないか。
 今までの僕のままか、変えるのか。
 ……僕の望みか、ウインディの身体か。
「……行きたい」
 僕は呟いた。あまりに小さく弱弱しいものだったから相手には聞こえなかったかもしれない。微風に掻き消されてしまったかもしれない。急に僕の心もすっと縮小し、いつの間にか視界には影が差し込んだ草むらが広がっていた。
「行きたい」
 踏ん張るようにもう一度、今度は少し強く言った。でもその声は震えていた。みっともないほど震えていた。今にも泣きそうなものだった。どうして足が震えているのだろう。興奮のあまりだろうか。いや違う、僕は何かやってはいけないことをしてしまったような罪悪感を伴ってその答えを弾きだしたのだ。ごめんなさいごめんなさい、と心の中で何度も呟く。ああもうわけが分からない。真意を問えば確かに僕は海を見たくてしょうがないのに、こうして実際に行きたいと言えばどうして後悔が押し寄せてくるのか。これも僕が抱える矛盾の一つか。本当は僕はどうしたかったのだろう。
 と、突然僕の頭に生温かい空気が振りかかった。俯かせていた顔を恐る恐る上げると、ウインディの大きな顔がすぐそこにあった。柔和な笑みを携えて僕を見ている。
「行こう」
 ウインディは掠れた声で囁くように言った。静かに喜んでいるように聞こえたのは、僕の身勝手な憶測だろう。
 おじさんは不満そうに口を尖らせていたが何も言わなかった。僕はおじさんに謝罪の言葉を述べるべきだという気がしたけれど、喉までその言葉が出てきておきながら実際に発せられることはなかった。僕は後ろめたくなっておじさんを見ることができなくなってしまった。おじさんは僕を非難する目で見ているだろうか、それを確認することも今は怖くて叶わない。
 僕はウインディに首根っこを甘く噛まれると、草原からいとも簡単に足が浮いた。本当に優しく咥えるように噛まれているから痛さは全く感じない。大きな身体でこんな繊細な作業もできるのかとまた一つ発見をさせられた気分だ。
 僕の足が再び着地した地点は、ウインディの身体の隣。ウインディは体勢を極力低くし、乗れ、と発した。背中に乗れと言うことだろう。僕の中にある自責が足を止める。しかしその高い背の上は非常に魅力的な場所のように僕の目には映った。もう後戻りはできない。僕は僕の中にある欲に従って一歩を踏み出した。異様に辺りが静かなように感じられた。風も虫も花も黙って僕の選択を見つめている。息を呑んで逸らさない。僕はその場を思いっきり蹴った。思っていた以上に高く一度でてっぺんへのぼることはできなかったけれど、ウインディの柔らかな毛にしがみついて懸命によじ登り遂にその場所へとやってきた。
 僕ははっと顔を上げた。
 吹き抜ける風を全身に受け、眼前に広がる風景がまるで違うもののように見えた。こうして少し高い場所にやってくるだけで景色は変わっている。世界とはこんなに色鮮やかだっただろうか、こんなに広かっただろうか! 今までよりずっと木々や崖や遠くの川が生き生きとしている。僕の目頭に熱いものが込み上げてくる。今僕はどんな表情をしているだろうか、分からない。僕の心は今複雑に絡み合っている。断言できるのは、一際輝いているのは爽快感だということ。ああ、なんて単純なんだ。
 一体僕はどうなってしまうのだろう、分からない。でもきっと、矛盾の先に待っている。僕ですら見えない、僕の本当の望みが。
「しっかり掴まっていろ。走るぞ」
 僕はウインディの少し低く静かに気合を入れた声に慌てるように体勢を低くし、しっかりとウインディの身体にしがみついた。
 瞬間、ウインディは走り出した。

( 2013/01/25(金) 14:44 )