非英雄の葛藤
【一】
「トウヤ、どうして……」
イッシュ地方リュウラセンの塔の頂上、黒とも茶ともとれる深い色をしたポニーテールが特徴的な少女はうろたえるように眼前の茶髪の少年を見つめる。純粋で、無垢で、なにもしらなかった瞳だ。
トウヤと呼ばれたその少年は、唇を噛みしめ視線を彼女から逸らす。後ろめたさが胸をきりきりと締め付けて、とても彼女を直視していられなかった。
破壊された柱が倒れ、欠片は塵となり散乱していた。まだ新しい乾いた香りが漂っていて、冷たい風が吹き荒ぶたびに肌に突き刺さるようだ。そう、新しい。元々歴史ある建造物で、全体的に風化し古びていたが、今この場が荒んでいるのは、つい先程の出来事が原因だった。緊張で氷のごとく張りつめている空気の中では少女も少年も微動だにすることができないでいた。トウヤの肩に乗るエモンガが心配そうに彼の顔を覗き込む。そのときにようやくトウヤははっと気付くと、迷いを振り払うように首を横に振り、尖った視線を少女に差し向けた。その睨みに思わず少女はたじろぐが、負けじと少女は睨みかえす。
「そこをどいて、トウヤ! あたし、Nを追いかける。彼を……ゼクロムを止める!」
彼女は手を横に大きく振って感情的になる。その手にはモンスターボールは握られていない。
トウヤは彼女の正面から動こうとしない。
「そういうわけには行かない。今回僕に命じられたのは、トウコ、君をここで足止めすることだからね」
「命じられた……って、トウヤ冗談言わないでよ! まるであなたがプラズマ団って言ってるような」
彼女――トウコは途中で言葉を切る。
まさか、と疑う間もなく、嘘だ、と否定する間もなく、大きく見開かれた空色の瞳に映るトウヤは右手にモンスターボールを構え、トウコに向かって突き出していた。深く被った帽子の下から覗く鋭い目つき。ただひとり、トウコだけを見つめている。
「……君の言う通りさ」
低い声でトウヤは呟くように言う。鋭い風が吹いている中でトウコは彼の言葉を聞き逃さないように耳を立てる。そして夢であってほしいと心の中で何度も叫ぶ。叫んでも叫んでも現実が重たく彼女の前に対峙した。
一呼吸置いてからトウヤは再び口を開く。
「僕はプラズマ団だ」
宣告。
トウコは開いた口を閉じることができず、かといって何を言うこともできず立ち尽くした。壮絶な濁流が胸を呑み込んで、溺れてしまいそうだと思った。実際、もがいているように呼吸がつらい。顔が困惑に歪み、握られた拳は力強く血が滲み出てしまいそうな勢いである。なにも考えたくなかった。なにも考えられなかった。
トウヤはトウコが再び動くのを待った。それが優しさなのか迷いなのか決意なのか、彼女に推し量ることはできなかったが、確かなのはトウヤが作っている猶予の中で、トウコの感情が整理されるはずなど無いということだけだった。
「嘘を言わないで」
ようやく絞り出したような声はあまりにもかよわい。対するトウヤは至って冷静沈着だった。
「嘘じゃない」
「……あたし、ずっとトウヤのこと大切に思ってきた。旅にまだ慣れない頃に出逢ってから色んなことを気にかけてくれて、嬉しかった。ベルとチェレンと沢山の人と、そしてあなたとならプラズマ団を止められるって信じてた!」
「それはとんだ勘違いだったね。僕自身がプラズマ団だなんて、これっぽっちも考えなかったんだろう。同情するよ」
「トウヤ……っ」
「こんなことを話している暇があるのかい。N様の話は聞いていただろう? あの方のおっしゃる通り、君にもう一人の英雄になれる素質があるのならレシラムは君の元に現れるだろう。ただ、前提条件として早急にライトストーンを探す必要があるんじゃないか?」
さらりと流れるように、当たり前だと言うような発言をトウコは聞き逃さなかった。
現在彼女と敵対関係にあるプラズマ団。彼等はポケモンを人間の手から解放しようと声をあげ、各地で演説を行うに止まらず、実際にポケモンを強制的に奪い取っている。トウコに根ざしている正義は彼等の行為を見過ごせず、旅の最中に相対するたびに衝突を繰り返してきた。そのプラズマ団の頂点、王に君臨しているのが、N。そのNを目上の者としている証拠の呼称に、トウコは強ばっていた身体の力が瞬く間に抜けるのを感じた。あっけなく、ちょうど風船から空気が抜けていくように、するすると現実が急に色味を増す。ああ、本当にこの人は自分達の敵なんだ、と。彼もまた倒す相手なんだ。
力が入らない。理解はできても感情が追いつけない。
トウヤはトウコの様子をじっくりと伺い、抵抗の様子が無いことを見定めると目を閉じる。そして右手に持ったボールの開閉スイッチを押す。それと同時にボールが開き中から光が飛び出すと、あっという間に中に入っていたポケモンの姿を形成する。色鮮やかで大きな翼が特徴的なウォーグルが猛々しい声をあげた。
その声に弾かれたようにトウコは顔を上げる。トウヤはすぐにウォーグルの背に乗り、直後にウォーグルは巨大な翼を大きく羽ばたかせ、トウヤの重みを諸共せずに飛び去ろうとした。トウコはもう一度彼の名前を叫んだ。今の彼女が持つ力の限りを声に乗せた。けれどもう一歩足が動くことは無かった。トウヤはちらとトウコの方に一瞥をくれただけで、遥か上空に向かって飛び立った。恐らく、先にこの場を離れたNの後を追うのだろう。
静寂が訪れた塔の頂上に一人取り残されたトウコは、その場にへなへなと座り込む。床は細かな砂がまき散らされており、粒が素肌に食い込んだ。しかしそんなことはかまわなかった。今の今まで立っているだけで精一杯だったのだ。
今でも思い出すだけで震える。
リュウラセンの塔。イッシュ伝説において、最上階にて理想を追い求める人間をゼクロムが待ち続けていたといわれている。プラズマ団が塔の壁を突きやぶり中へと入っていったという情報を得て、不審に思ったジムリーダー、ハチクとチェレンにトウコも続いた。プラズマ団の阻みを潜り抜け、地響きと雷のような轟音に震えるリュウラセンの塔を駆け上がり辿りついた頂上で待っていたのは、ゼクロムの叫び。眼前にした時の伝説の姿は神々しく堂々としていて、そして黒き全身から溢れだす圧巻の強さに感じたのは恐怖。足がすくみ、震え、自分が対峙しているものの大きさを思い知らされた。その伝説を従えた緑髪の青年の姿はいつもよりずっと遠くに感じられた。Nは伝説と対等に立っていた。王だなんだと呼ばれ常識を逸脱した性格と頭脳をもちあわせていながら、戦いを繰り返してゆくうちに、トウコはNに対して大きな差を感じなくなっていた。思考も思想も噛み合わないけれど、勝てない相手ではなかった。ポケモンをトモダチと呼び心の底から愛する姿には、むしろ親近感に似た感情すら抱いていた。それなのに、どうしてここまで離れてしまったのだろう。いつのまに手の届かない場所にいたのだろう。それとも、対等だと感じていたのは自分だけだったのだろうか。錯覚だったのだろうか。彼は王だ。そしてゼクロムを従えた英雄だ。一方、自分は普通の人間だ。少し人よりもポケモンバトルの才能があるだけの人間がNを止める? レシラム? もう一人の英雄になる? Nと対等になる? Nは、ゼクロムの対の存在であり、真実の象徴であるレシラムがトウコと出会う未来がみえると言った。そんなことが本当にできるのか?
呆然とした中で目まぐるしく出来事は過ぎ去っていった。頭の中はめちゃくちゃだった。最後の締めにはトウヤの真実ときた。トウヤもまたトウコにとってかけがえのないひとだった。まっさらに信じていた。疑ってすらいなかった。
プラズマ団と戦っていたハチクとチェレンがトウコを追って塔の頂上に着いた時、二人はトウコの座りこんでいる姿に驚き急いで現状の説明を急かした。けれどトウコは誰にも触れてほしくなかった。しばらく一人にしてほしいとその言葉も出てこなくて、黙ったまま虚空を見つめていた。
【二】
ゼクロムの復活後、Nは城に戻り玉座に腰かけ休息をとっていた。太陽の光の届かないこの城で、Nは高い天井を見つめる。風が無いお陰で水の立つ音は全く聞こえてこない。城の中で最も巨大な面積を誇るこの王の間には今彼一人しかいない。彼の小さな呼吸だけが部屋に残る。しんと心に沁み入る心地よい静寂であった。この時間をいつまでも感じていれればいいのにと心の中で彼は呟いた。彼の周りはゼクロムの復活に浮足立っているが、当の王本人は不思議と落ち着きをはらっている。決して音を立てない水面のように。
背もたれに寄りかかり目を閉じ、しばらくしてから瞼の裏に映る不透明な未来を視る。情景は前に視たものと変わらない。確定的な未来なのだろうか、しかしトウコに関する未来はいつも自分の視た未来とはずれが生じる。そのこともあって彼にとってトウコは不確定要素であり、謎に包まれた存在だった。世界を変えるための数式の解は未だはっきりとみえぬまま、準備だけは着々と整いつつあった。
と、沈黙を破るように小さな足音が部屋に響いた。客の気配にNはおもむろに目を開き身体を起こすと、遥か先に見慣れた少年の姿があるのに気付いた。
表情が淀んでいるトウヤはじっとNを見つめていた。やがて深々と被っていた帽子を取ると、時間を大切に噛みしめるようにゆっくりと赤い絨毯の上を歩き始める。
「やあ、今日は御苦労さま」
Nのすぐ傍までトウヤがやってきた時、Nは彼に声をかけた。トウヤは軽くお辞儀をする。相変わらず表情は曇っている。その理由は当然Nにも当たりがついていた。
「トウコに本当のことを言ったこと、後悔しているのかい」
即座にトウヤは首を横に振った。
「そんなことはありませんよ。いずれは話すことになると分かっていましたから」
「分かっていながらずっと黙って彼女に近づいていたんだね」
「それは単に彼女が気になってたからです。人間を嫌うあなたがあれほど関心を持っている者がどんな人物なのか、自分の目で見極めたかっただけです」
ふうんとNは息を吐くと、興味を示すように身を乗り出す。
「で、何の用だい。わざわざキミの嫌いなこの部屋に来るなんて、珍しいじゃないか」
「嫌いな部屋だなんて、そんなこと思っていませんよ」
トウヤは苦笑し、しかしすぐに目を光らせる。
「どうしてトウコを待っているんですか」
少し冷たい沈黙が訪れる。Nはトウヤの瞳を見詰めたまま何も口にしない。
「ゼクロムが復活し、ポケモンを解放するという目的を達成するまでもう秒読みの状態です。今、リーグに向かえば今日中にでも果たされるでしょう。けれどN様は敢えてトウコに対峙するように進言しましたね。どうしてですか」
「……ゲーチスにも同じようなことを聞かれたよ。二度同じことを口にしなければならないかな」
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。気持ちは分からなくもないよ」
Nは少し笑うと、乗り出していた身を再び倒して自身を落ち着かせるように大きく息を吐く。
「ボクは確かめたいんだ」
「確かめる、ですか」
こくりとNは頷く。
「イッシュに伝わる伝説によれば、かつて二人の英雄が互いの信念をかけて戦った。結局どちらが勝つこと無く一度戦いは終結したけどね。ボクは自分の考えに疑問を持たないし、トウコも自分の信念を貫き敵対するだろう。彼女は英雄としてボクと対峙する資格がある。かつてのように二人の英雄が対峙する。それにボクが勝った時、本当にボクが英雄でありボクの考えは正しいということを証明できる……世界を変える方程式の答えをようやく導き出せる!」
Nの瞳は真っ直ぐに輝き、その口元が微笑んでいるようにトウヤには見えた。
嗚呼、なんて純粋な人なのだろうか。トウヤは心の中で呟いた。あまりにピュアでイノセントだ、と誰かが言っていたのを彼は思い出した。この曇りの無いどこまでも真っ白な心だからこそゼクロムに選ばれたのだろうか。英雄になる条件とは一体なんなのだろうか。彼が選ばれたということは彼が英雄であることは間違いないだろう。けれどそれでどうしてトウコも英雄であると分かるのだろうか。トウヤには分からない。そこは決して彼の立ち居ることのできない領域であった。玉座に座ることができるのは、ただ一人の王のみである。
トウヤは心内で嘲笑する。純粋であるということは即ち完璧であるということだ。本当に何もかもが完璧に進んできている。このNの意志のみだろう、あの人の計算内になかったことは。しかしこんなことは計画に大した支障は無い。それほど土台は雨に打たれしっかりと踏まれてきた大地のように固く安定している。
全てが上手くいっている――本当の首謀者の手によって。
一人考えごとをしている間にNは不審げにトウヤの名を呼んだ。慌てるようにトウヤは顔をあげると、そこにはおどけた表情の王の姿があった。
「急に黙り込むから何事かと思ったよ」
「申し訳ありません。少し考えごとをしていました」
トウヤはごまかすように微笑む。
「しっかりとした考えを持たれているなら良いんです。少し安心しました。……いつの時代も信念が強い者が世界を変えると言います。トウコは本当に芯の強い人ですから、多少の動揺はすぐに収まるでしょう。彼女は強いですよ」
「ああ、よく知っているよ。けれど、ボクも負けるわけにはいかない」
やや睨み加減の瞳が彼の意志の強さを物語る。余程の覚悟を持たなければ今の彼には勝つことが出来ないだろう。トウヤはそう確信する。四天王は勿論、チャンピオンのアデクも最早敵ではない。
トウコ、君は彼を、この計画を崩すことができるかい?
遠くでライトストーンを探し回っている少
女の姿が脳裏に浮かぶ。
「……トウヤ、キミは、どちらが勝つと思う?」
不意に出てきた問いに、トウヤは目を丸くした。いつも自分で自分に問いかけては答えを見つけ出し自己完結してしまう彼なのに、他人に答えを尋ねるなんて珍しい。加えて、弱気になっているともとれる問いだ。何故急にそんなことを自分に尋ねるのかトウヤは疑問を抱きながら、一呼吸の間を置いてからあっさりと答えた。
「N様が勝つと信じていますよ」
「それはプラズマ団の意志だろう。キミ自身はどう思うんだい」
「僕自身、と言われましても」
素直に戸惑うと、Nは苦笑いを浮かべた。
「いや、すまないね。別に、自信を失ったわけではないんだ。ただ、キミはプラズマ団でありながらボクとトウコの間に挟まっている奇妙な存在だから、面白い答えをもっているかもしれないと考えてね」
「そうですか……」
奇妙な存在だとは、また変わった表現をされてしまった。
「確かに僕はトウコによく接触していますが、それはあくまでプラズマ団の脅威となり得るかどうかを推しはかるためのものです。決して彼女の肩を持とうなどとは考えていません。僕はずっと、N様の悲願が達成されることを心待ちにしています」
「そうか」
短くNは返事をする。どうやら何か納得したようで、安堵したようにトウヤは肩を落とす。
「……では、また後ほど」
深くお辞儀をすると、右手に持っていた帽子を被り直しNに背を向ける。
しかし数歩歩いた後に思い出したように再び振り返る。それに気付いたNは目を少しだけ見開いた。
「そういえば、ゼクロムはどうなさったんですか。この部屋にはいないようですが、ボールに入れたんですか?」
「いや」
トウヤの言葉が終わるか終らないかの微妙なところで即座にNは否定する。
「あんな大きな身体を小さなボールに入れるだなんて可哀想だろう。そもそもゼクロムは、これから解放の象徴となるのだからね。地上……懐かしきイッシュの空を飛んでいるよ」
「そうですか」
「どうかしたのかい」
「いいえ、どうもしません。折角ですからN様もゼクロムと一緒に飛行されてはどうですか。その方がゼクロムも喜ぶでしょう」
「……それは、本心かな」
勘ぐるようなNの口調にトウヤはにこりと笑った。
「勿論ですよ」
【三】
Nとトウコが初めて出逢った場所はカラクサタウンだが、トウヤがトウコが初めて対面したのはヒウンシティでのことだった。その時既にトウヤはトウコの存在を知っていたが、話したことは無い。田舎娘であるトウコは高層ビルの立ち並ぶヒウンシティの姿に目を輝かせ身体全体ではしゃぎようを体現していた。あちらこちらを走り回り、彼女のパートナーであるジャノビーも思わずボールから飛び出して必死に暴走ともいえるトウコを止めようとしたものだった。
その様子を失笑しつつ距離を置いてトウヤは見物していた。本来彼はNから離れすぎないよう指示されていたが、その時他の団員に御守は任せていた。Nはトウコと出逢った当初から彼女を特別視していた。そして未来を見ることができる力を使い、何度か自分から会いに行っている。それがトウヤには不思議でたまらなかった。そして完璧に積み上げられてきた計画に支障があっては困ると危惧していた。だからトウコを一度自らの目で正しく見ておきたかったのだ。プラズマ団にとって脅威になりうるかどうかを。
しかしヒウンの様子を見ている限り、はしゃぎ回る姿に呆れすら感じてしまった。こんなただの普通の少女に何を王は見出したのだろうかと疑問は膨らむだけだった。
結局収穫は得られないまま、ヒウンの活発で忙しい雰囲気とは切り離されたような暗い路地、スリムストリートにてライブキャスターを使って仲間と連絡をとろうとした。その時、路地に迷いこんできたトウコが突然彼に話しかけてきたのだ。それが彼等の出会いだった。
「すいません!」
俯いていたトウヤは驚き思わず身を震わせた。その様子にトウコもつられるように驚いてしまう。トウヤは高鳴る心臓を抑え、上っ面程は笑っていようと、仮面のように作り笑いを浮かべた。
「なんですか?」
「ここら辺にプラズマ団がいませんでしたか? 友達のポケモンが攫われたんです!」
ぎくりと彼の心が動揺した。必死に顔が引きつるのをぐっと堪え、ぎこちない笑みのまま首を振った。そして思ってもいない面倒事に巻き込まれてしまいそうな悪寒が彼の背を襲った。
「見かけてませんよ」
「そ、そうですか。ああいう場合暗い所に隠れるモノかなって思ったんですけど……チェレンとかアーティさんは見つけたかな?」
途中から独り言になったがトウヤはその言葉を聞き逃さなかった。作戦に町のジムリーダーが関与しているのは予想外だった。ヒウンに隠れ家があるのは知っている。しかしその場所は誰が考えたのか彼の知る由も無いがヒウンジムの真正面のビルなのだ。馬鹿か、とトウヤはそれを知った時罵倒したくなったものだ。灯台もと暗しとは言うが、アーティは掴みどころが無さそうに見えて意外に勘が鋭くキレ者だ。場所が確定されるのも時間の問題だろう。
トウコはライブキャスターを覗き込み連絡をとろうとした。瞬間的にトウヤは阻止しなければならないと勘付いた。せめて目の前の少女だけでもアジトから遠ざけなければ、と。
「僕、探すの手伝いましょうか?」
器用に笑顔を浮かべたままトウヤはトウコに手を差し伸べる。
トウコは一瞬呆然としていたが、やがてぱっと花開くように笑顔になる。心から喜んでいる表情は、まるで夏に咲く向日葵のようだった。その顔がトウヤの思っていた以上に明るく可愛らしく、思わず頬が照るのを感じた。
「本当ですか! 私、実はここに来たばかりで道とか全然分からなくて……この街大きすぎて探そうにも苦労するばかりで、ぶっちゃけ今も迷子でした。助かります!」
「じゃあ、とりあえずここにはいないと思うので抜けましょうか」
元気良く返事をするトウコと共に、トウヤは歩き出した。彼女の顔はほっと一安心したようにリラックスしていた。初めて会った人にもここまで懐くのか、簡単なものだな。社交性があるといえば聞こえはいいが、あまりにも無防備なようにしか彼には見えなかった。改めて普通の一般人にしか見えないと確信する。多少バトルが得意でジム戦を乗り越えてきただけで、恐れるに足らない。
道中自己紹介を互いに済ませる。勿論トウヤの方は彼女の名を知っていたけれど、まるで本当に初対面であるかのように振舞った。へえ、僕と似た名前だね、と言って見せると嬉しそうにトウコは頷く。旅の話やヒウンの話など、巧みな会話によって彼女からの信頼を短時間にして厚くする。人間を嫌うNと違ってその点に置いてトウヤは寛容的であり柔軟だった。そして気付かれないようにさり気なくアジトから彼女から遠ざけさせる。
「あの、トウヤくん?」
「何?」
「いや、嬉しいんだけど、嬉しいんだけどさ……プラズマ団を探さなきゃ……」
「早く食べないと折角のアイスが溶けるよ?」
言いながらトウヤは先に手に持つヒウンアイスを頬張る。彼はバニラ味で、トウコは苺味のアイスだ。
トウヤは久々に食べたが相変わらず程良い甘さと心地よい冷たさが口の中を潤す。多くのメディアに取り上げられ美味だと歌われ、ヒウンシティに住む人々は勿論のこと、誘われるように各地から大勢の人が買いにくるのも頷ける。あまりに人気であるがために大抵長い行列に並ばなければならないことと、毎日すぐに売り切れてしまうことが欠点だが。
「これだけ歩き回って疲れたでしょ。人間、休息は必須だよ」
トウコは平然とアイスを頬張るトウヤをじっと見つめる。そしてヒウンアイスに視線を移す。昔から憧れていた人気スイーツを眼前にして食べないわけにはいかなかった。意を決して恐る恐る一口かじりついてみると、途端に笑顔が弾れる。
「何これ、おいっしい!」
反射的に歓喜の声をあげるとすたすたと歩いていた人々が驚いたように一斉に彼女に注目する。すぐにそれに気付いてトウコは萎縮し、顔を真っ赤に染めた。トウヤは思わず笑ってしまった。内情をすぐに表に出す人なんだなとまた一つ彼女を理解する。本当に普通の人だ。
「でしょう。思わず叫んじゃう気持ちも分からなくもないよ。僕も気に入っているんだ」
「もう本当に。無駄に甘ったるい感じも無いし、苺の果肉がいい感じの酸味で。口がとろけちゃう……」
一口食べただけなのにも関わらず興奮冷めやらぬ様子だ。感想を言葉にしないと気が済まないタイプなのだろうか、食レポさながらである。もう二口ほど頬張る。その度に歓喜の声をあげる。いつの間にかトウヤはトウコの幸せそうな様子を観察するのが楽しくなっていた。こうやって豊かに感情を表現するひとを、長らく相手にしていなかったような気がする。
トウコは一度呼吸を置いて、トウヤの持つアイスを見やる。彼はまだ一口食べたきりだ。
「トウヤくんのバニラも食べてみたいな」
「いいよ、適当に食べて」
「あたしの食べる?」
「いや、遠慮しておくよ」
そう、と首を傾げつつもトウコはバニラのアイスを受け取ると少し遠慮気味に小さくかじる。やはり幸せそうに頬をたるませてからすぐ彼に返した。
トウヤはまじまじとトウコの顔をみる。自分の思惑通りアジトから遠い距離に誘導している上に、今頭の中はアイスのことでいっぱいになっていることだろう。本当に単純でやりやすい相手だと鼻で笑いそうになる。けれどその思惑とは離れて、短時間にして彼女の裏表の無いさっぱりとした性格にどこか心惹かれていた。友達のために懸命にヒウンの人一人一人に目を配らせ、必死に探そうとしている姿は彼には眩しく思えた。けれどそこに特別なところは相変わらず見えてこない。
「あ、そうだ、皆にも食べさせてあげよ!」
突然思いついたようにトウコは言うと懐からモンスターボールを取り出し、スイッチを押して、パートナーのジャノビーを出す。その後も次々とポケモンを出していく。シママ、ヒヤップ、ハトーボーといった計四匹のポケモンが登場した。勢揃いした彼女の手持ちをトウヤはじっくりと観察する。見た感じどれも特別に強いというわけでも無さそうな、まだ最終形態まで進化していないポケモンばかりだ。はっきりと言ってしまえば、弱い。プラズマ団の考えにのっとれば、このポケモン達も囚われの身なのだ、とトウヤは憐れみに似た視線を送る。
いっそここで奪ってしまおうか。
黒い考えが彼の脳裏をよぎる。
「皆でアイス食べよう! 一個しかないけど!」
そう言ってトウコはその場にしゃがみ込む。すると四匹は皆笑顔を浮かべて彼女の元に集結する。順にアイスを舐めていき、トウコを鏡で映したようにそれぞれ歓声をあげる。傍観していたトウヤは目を丸くする。もっともっとと彼等はトウコを急かし、もみくちゃになる。トウヤの目の前から高い笑い声が絶えなかった。周りの人の目を気にすることなく、トウコ達は初めて口にするヒウンアイスに存分にはしゃいでいる。ただのアイスで、だ。一分も経たないうちにトウコの持っているアイスは無くなってしまった。
幸福をそのまま体現しているようだとトウヤは思った。その仲を引き裂きたくないと、考えてもいなかったことが頭を過ぎった。
「皆慌て過ぎだよもう、あっという間に無くなっちゃったじゃんか。……トウヤくんもポケモン達に分けてあげたら?」
「え? ああ……」
弾かれるように顔を上げたトウヤに、トウコは失笑する。
「どしたの、ぼーっとしちゃって。きっと喜ぶよ。トウヤくんもポケモン持ってるでしょ?」
「そう、だね」
トウヤは動揺する心を抑えて懐から一つボールを取り出す。掌に乗るその小さなボールをしばらく見つめる。
結局、そのボールを開くことなく、再度しまってにこりと微笑を浮かべた。
「いや、僕はいいや。これあげるよ。君達で食べなよ」
「え、さすがにそれは悪いよ。全部トウヤくんの奢りなんだからさ。それまで食べちゃったら殆どあたし達が食べちゃうことになるよ」
「いいよ別に。はい、遠慮せずに」
トウヤは右手に持つアイスを彼女に差し出す。さすがにトウコは戸惑い受け取るか受け取らぬべきか迷う。急かすようにトウヤは更に彼女に近づき、諦めたようにそれをトウコは受け取ろうとする。
その瞬間、彼女の手首に巻いてあるライブキャスターがけたたましい音をあげた。二人同時に肩が飛び上がり、結局アイスがトウコの手に渡ることはなかった。トウコは慌てて通信を繋げる。相手は彼女の幼馴染の一人であるチェレンだった。
『トウコ、今どこにいる!?』
トウヤのところまで聞こえてくるほどその声は大きく、興奮しているようだった。焦りも感じられる。耳を立てて様子を窺いながら、トウヤはカメラに自分の姿が移らないように後方に下がる。
「あーえっと……モードストリートって所。アイス売ってる辺り」
『アイスって……まさか食べてたんじゃないよね?』
「そ、そんなことないよ。それよりどうしたの」
『どうしたの、じゃない。プラズマ団の隠れ場所の当たりがついた。とりあえず船乗り場の辺りまで出てきてくれ。なるべく急いで!』
その後一方的にチェレンは通信を切る。あっという間の出来事にトウコは数秒間ぽかんとしていたが、ジャノビーが冷静に彼女の足を叩いてようやく我に返る。
一瞬のことだった。
トウコは瞬時に緊張感を高める。その様子は先程までただのアイスに喜んでいるただの彼女とは纏う空気感が違っていた。握りしめられた拳。彼女の正義に燃える志。周囲にいる自分のポケモンに視線を配る。トウヤは息を止める。真剣な視線の強さにトウヤは無意識に彼女にNの姿を重ね合わせた。重ね合わせてしまった。
トウコは全てのポケモンをボールに戻し、トウヤの方を振り返る。トウヤの身体は硬直した。最早彼女を止めることは彼にはできなかった。
「ごめんトウヤくん。あたし行かなくちゃ! 絶対にポケモンを取りかえさないと。付き合ってくれてありがとね!」
トウヤは何か声をかけようとしたけれど、その前にトウコはその場を走り出した。襲いかかってくるような人の波にぶつかりつつ船乗り場の方向へと走っていく。
呆気にとられながら彼女の背中を見届けるしかなかった。何も知らず、本当は騙されてこの場所に引きとめられていたということにも気付かず、そして誰かの為に一生懸命になり走る。全速力で駆けていく。誰も彼女を止めることなんてできなかった。それはトウヤとて例外ではなかっただけの話だった。人間、あそこまで急激に心を切り替えられるものなのか。いや、違う。息を止めた。似た感覚をトウヤは知っている。身近なところで感じている。
その場に取り残され、辺りを数え切れない人達がせかせかと通り過ぎていく。トウヤは急に気が抜け、ビルの壁に背中を寄せる。高いビルに閉ざされた狭い空を見つめ、溜息をついた。そして先程しまったボールを再び出し、今度は迷うことなく中からポケモンを出す。光は方向を曲げトウヤの頭の上に到達するとそこで姿を現す。彼の持ち合わせているポケモンのうちの一匹、エモンガだ。可愛らしい声をあげて彼の顔を上から覗き込む。
「食べる?」
そう言ってアイスを差し出すとエモンガは大きく頷いて彼の腕に飛び乗る。そして遠慮することなく頬張り、嬉しそうに声をあげる。
その顔を見てトウヤは優しく笑みを浮かべた。
その後アジトは発見され、トウコはプラズマ団と戦い勝利し、アーティの説得もあって、トウコのもう一人の幼馴染であるベルの元に彼女のポケモン、ムンナが無事戻ってきた。ゲーチスもその場にいたことにトウヤは驚いたが、それ以上にムンナを返したことに彼は驚きを隠せなかった。けれどその理由を問うことはなく、トウヤは再び元々の任務、つまりはNのボディガード役を務める為にヒウンを離れた。
その間もずっとトウコのことを考えていた。そしてあの時何故Nとトウコの姿が重なったのか、それを考えたが答えは出てこなかった。何しろ二人は敵対していて、それぞれの考えはまるで正反対なのだから。けれどNが彼女を気にかけるのは、恐らくそのあたりに答えがあるのだろう。
だからその後も、Nに倣うようにトウヤは繰り返しトウコに会いに向かった。偶然を装い彼女を探り人となりに触れ、答えを探し続けた。やがて、それはおぼろげに浮かんできた。決して折れることの無い芯の強さ、曲げようとしない信念、そしてポケモンを愛し愛されている姿。彼女のポケモンは会う度に強くなっていることが目に見えるようで、成長は著しいものだった。最早普通の女の子という言葉では片づけられない段階まできていた。トウコにはポケモンを育てる才能がある。戦わせる才能もある。イッシュを巡り、彼女はジムリーダーもプラズマ団も対峙しては勝ちぬいた。強くなるのは単に勝負に勝つ強さだけではなかった。トウコのポケモンは誰より何よりトウコを愛していた。勝負をするたびに傷付くのに、嫌う素振りは欠片ほども無かった。お互いを認め、強い意志を持ち、図鑑を埋めて、ポケモンリーグを目指し戦い続けている。折れない。確固たるそれにトウヤが気付くのに大した時間は要さなかった。ポケモンを誰よりも愛しているからこそ、ポケモンが傷つくのを嫌い、避けられないバトルではその場でトモダチになったポケモンを扱うNとは、同じ愛情という言葉でまとめられても根ざす意味がまるで違う。
そしていつしか彼は確信した。
トウコはプラズマ団にとって危険な存在だと。完璧だと思われた計画を崩しかねない、と。トウヤはプラズマ団だ。Nの意志に従う、ポケモン達を人間の手から解放する、そのために生きている。ずっと前から定められていたことだ。
そうして危惧する一方でトウヤは自分で気が付いていなかった。彼の心もまた徐々に変化していっていることを。
【四】
『……もしもし』
トウヤのライブキャスターからトウコの声が届く。カメラはオフにしてあるため互いの顔は見えない。トウヤがプラズマ団であることをトウコが分かってから一週間程経った日の昼下がりだった。今トウヤが立っているのはポケモンリーグを一望できる切り立った崖。つまり地下にあるプラズマ団の城の上に位置している。厳しい環境下では人の目につくことは当然無く、吹いてくる風は冷たい。
予想していた通り、複雑で不機嫌そうな彼女の声にトウヤは笑ってしまいそうになるが、その一方で心が軋むように痛むのを感じた。なんだか、随分と長い間彼女の声を聞いていなかったような気がした。
「久しぶりだね」
『今更、何を話そうっていうの?』
「ライトストーンは手に入れたんだろ。おめでとう」
『そんな、御祝いの言葉なんていらないよ。トウヤは……敵、じゃん』
言葉に迷いが見えた。本当に分かりやすい。顔が見えていなくても、声だけで彼女の感情が流れこんでくる。
「まあそうだね。ただ、ストーンは手に入れても肝心のレシラムは復活していないと」
『……トウヤは何でも知っているんだね』
「そりゃあ敵の情報は積極的にチェックしないとね」
数秒間トウコから返事は返ってこなかった。少し時間を置いてから彼女はまた話し始める。
『そんなことを話す為に電話してるの? 馬鹿にしたいわけ?』
「別にそんなつもりはないさ。最後のバッジを手に入れたと聞いたから、そろそろリーグに挑戦するんだろうなと思ってね」
『今日にでもチェンピオンロードに向かおうかなって思っていたところだよ』
「まったく、簡単にそういう情報を言ってくれるとは、まだ僕のこと信用してくれてるみたいに聞こえるよ」
皮肉をたっぷりと塗り込んだ言葉を届けると、また沈黙が訪れる。何か言いだしてくるだろうかとトウヤは待ち受けたが一向に声は聞こえてこないため、図星なのだろうなと勘付く。
「思ってもいない収穫だな。まあ、嬉しいよ」
『やめてよ!』
悲鳴にも似た声がスピーカーから飛び込んできてトウヤは面食らってしまう。
『動揺させるために電話したの? そんな手には乗らないよ。あたし、もう決めたから。もしものことがあれば絶対に、私が、皆を守るって。絶対にNを止めるって』
一呼吸置く。トウヤは目を細める。もしものとき、というのは、チャンピオンのアデクが負けたときのことを指しているのだろう。即ち、王が世界に号令をかける資格を得た時。
「なに、あんなに迷っていたのに、いつのまに決心がついたんだ」
『誰のせいで迷ったと思ってるんだか』
「さて、誰かなあ。……もう、君は立ち直らないかもしれないと思ってたのに」
『バカにしないで』
ピシャリと言い放った。
そうだ。それでこそトウコなのだ。揺るがない、芯の部分。譲らない自分自身。支える仲間。思い通りになるはずがない。純粋さ、強さ、眩しさ。彼女や、しいては彼の主を構築する要素が、トウヤの心に棘のように突き刺さる。
「……トウコは本当に真っ直ぐだね。そういう所が、少しN様に似てるって思うよ」
『……Nと私は違うよ。真っ直ぐの意味が。根本的なところで、彼は特別だよ』
「案外同じようなものだ、外野からしてみれば」
やや投げやりに彼は言ってみせる。また沈黙が訪れる。ふと彼は顔を上げるとエモンガが風に乗りこちらへと向かっているのが視界に入った。笑顔を浮かべながら少しずつ減速し、抱きつくようにトウヤの頭上に着陸する。トウヤは軽くその頭を撫でてやると、もう一度ライブキャスターに視線を移す。
「トウコ」
噛みしめるように呼ぶと、何、と開いてから返答が来る。ぶっきら棒な声質がトウヤには寂しく感じられた。もう元のように話すことはできないのだろうかと考えてが過ぎってから、すぐにそれを振り切る。
「僕はさ、万が一にN様が最後の決戦の際に勝てなかった場合、その時には代わりに戦い倒すようにゲーチス様に命令されているんだ」
トウコから返答は無い。かまわずトウヤは話を続ける。
「むしろ、その為に僕はずっとプラズマ団にいたようなものだ。言わば保険だね。旅の間、密かにN様の身体を御守りするというのも大切な役目の一つだったけど、僕に課せられた一番の役割はそれだ。その為の準備は何年も前から進められてきた。何年も前から、ね。いつでも僕は戦える。その気になれば君達を倒せる自信もある。けど」
一度話をとぎる。相手の静聴が心地よく彼は感じた。どんな表情をしているのか分からないのがただ一つ残念だった。
「僕はN様の意志を尊重する。N様はそんなことを望んでいない。もしも君と戦って敗れたとしても認めるだろう覚悟が、あの方には出来ている。だから僕は君とは戦わない。代わりに僕は、最後の戦いに変な横入りが入らないように全力を尽くす。僕自身にも、誰にも邪魔はさせない。……その舞台に恐らく君は立つ。その覚悟を持って来てほしい」
真剣な眼差しでトウヤは言い切ると、しばらくしてから小さな喉を鳴らすような笑い声が聞こえてくる。思わずトウヤは顔をしかめた。こちらは心底真面目に話しているというのに、小馬鹿にされているようだ。
『もしかして、そんなこと言う為に電話したの? トウヤは心配性だね』
「……あのねえ、僕は本気で」
『もしもアデクさんが負けた時の為に、あたしだって準備は整えてる』
トウヤの声を遮って、トウコは続けた。
『ちょっとだけ怖いけどさ。でもあたし達は絶対に勝つよ、負けるわけにはいかない。人とポケモンは共存できる、これからもずっと。引き離すなんて、間違ってる。だから止める。そう決めたの。これはそういう戦い。Nも同じ。お互いに譲れないから、私たちは戦うしかない。そうすることでしか決められない。どちらかが勝って、どちらかが負けて、どちらかの夢が砕かれる。Nに立ち向かうということは、つまりそういうことでしょ。トウヤに言われなくても分かってる』
トウヤは目を丸くする。急にトウコは大人びたようだった。同時に彼女の足音が遠のいていくような感覚がした。
トウコは今、怖いほどに真剣な顔をしているだろう。言葉は剣のように鋭く、研ぎ澄まされている。彼女の決意の証がスピーカー越しでもありありと伝わってくるようだ。
彼女の言い分を聞き届けた後にトウヤは肩を落とした。彼女の言う通りだ。自分は心配性で、おせっかいだ。
ああ、どんどん遠くなっていく。Nもトウコも異なる存在で違うゴールを目指しているというのに、同じ場所へと迷わずに走っていく。二人の間に立っていると苦しいほどに解る。使命とか才能とか信念とか、大それたものが彼等を導いて、互いを引き寄せている。そこに自分が入る隙間なんてなかった。
「それぞれの形でちゃんとした決意はできているわけだ。心配して損したよ」
『トウヤに心配されるほどあたしはもう弱くないよ。皆がついてるから』
「……そうだな。じゃあ、もう電話を切るよ。せいぜい四天王に負けるようなことが無いようにしてくれ」
『心配性もいい加減にしてよ、……もう前とは違うんだから。じゃあね』
トウヤも別れの挨拶を告げようとしたが、一方的に通信を切られてしまう。もう前とは違う。トウコは変わった。Nも変わった。そうだ、違うんだ。もう、戻れない。確実に、何かが始まり、何かが終わろうとしている。
僕は――。
ふっと空を見上げる。厚い雲が頭上でぽかんと浮かんでいるが、鮮やかな青空が視界全体に広がっていた。雲の隙間から隠れていた太陽が顔を出す。そしてトウヤは顔を引き締め、歩き出した。全てが決まる時がすぐそこまで来ていた。世界を変える方程式、それがもうじきに解かれる。
【五】
チャンピオンアデクがNに負けたという報せはすぐにトウヤの耳に入ってきた。本来ならこれで自分達の目的は達成され、ポケモンを解放するよう王は宣言し、その流れが世界を包み、全ての人間がプラズマ団に抗えなくなるというプロセスが成立するはずだった。
けれど王はそれを望まなかった。王の望みに従い、プラズマ団は城を晒し、そしてトウコ達を呼んだ。久々にトウヤは城の窓から外を覗き、そしてトウコの表情を見た。アデクが敗北を喫した事実に少なからず動揺しているが、既に決心の炎が燃え、身体中に迸っているようだった。こうなることを彼女は覚悟していた。
突如城に残っている団員が歓声を上げる。トウヤは驚いて振り向くと、広い廊下の真ん中を堂々と歩くNの姿が目に入った。そのすぐ後についてゲーチスも歩いている。賞賛の声が飛び交うが、英雄は少しも笑わずむしろしかめ面を保っている。彼の集中力は途切れていない。目的が達成されたと確信を持つためにはもう一つ峠を越えなければならない。それが高い山なのか低い山なのかは誰にとっても未知数なものだった。いや、端から見れば容易に越えられるものかもしれない。結局トウコはレシラムを復活させることが出来ないまま城にやってくるからだ。
トウヤの傍までNがやってきた辺りで、トウヤはNの雰囲気に合わせるように重々しい表情で礼をする。Nはそれをちらと見やり、しかしすぐに視線をまた前に戻して彼の前を通り過ぎていった。足音がトウヤから遠ざかっていき、階段を上がっていくのが分かった。周りの興奮冷めやらぬ状態をトウヤは蔑むように傍観していた。落ち着け、静かにしろよ、うるさい、まだ戦いは終わっていない、どの言葉を投げつけてやろうかと考えている間に、爆発音にも似た衝撃が下の階から響いた。
それは一瞬で周辺を静めるのに十分な出来事だった。なんて派手な迎え入れだろうか。トウヤの脳裏に少し嫌な予感が走り、階段へと急いで向かう。まさかトウコを入口で仕留めるつもりだろうか、そんな考えがよぎったのだ。
階段を駆け下りようとした瞬間、トウヤは足を止めた。階段の下から同じように駆けてくる音に気がついたのだ。慎重な様子が欠片も無いため、報告をしに来た団員のものかと彼は想定した。けれど予想に反してやってきたのは、他でもないトウコ自身だった。
トウコはトウヤの姿を目に止めた瞬間驚いたように目を見開いたが、振り払うようにトウヤからすぐに視線を逸らす。そしてあっという間に彼の前を走り去ってしまった。顔は少し俯いていた為表情はあまり分からなかったが、その走っていく姿で完全に心意気は吹っ切れていることだけトウヤには理解できた。思わずトウヤはトウコの背中を目で追う。金色に輝く真っ直ぐで長い廊下を彼女は走っていく。部屋の前にやってくる度確かめるように中を覗いたり、あるいは入ったりを繰り返している。遠慮の素振りは全く無い。
「……まったく、ここは敵の本拠地なのに」
苦笑しながら彼は呟いた。
まるで、風のようだ。決して掴むことのできない、風。
【六】
途中で切れたレール。
おもちゃにある傷跡。
バスケットのゴールに入った電車のおもちゃ。
傾いた額縁、その隣の幾何学的な絵画。
床に描かれた空。
壊れた世界で完璧に育てられた王は、未来に何を見出すと言うのか。
【七】
トウヤはゆっくりと床を踏みしめ、城の最上階へとやってくる。この階には殆ど人はいない。緊張感の張り詰められた痛いほどの静寂がしんと心に沁み入り、その中をトウヤは歩いていく。すぐに王の間の付近までやってくると、七賢人の長であるゲーチスの姿が視界に入る。慌てるようにトウヤはすぐに礼をする。
「おや、丁度良いところに来ましたね」
温厚な口ぶりでゲーチスはトウヤに声をかける。彼は基本的に誰に対しても敬語を扱う。
「もうじきに戦いは始まるでしょう」
その言葉が言い終わるかいい終わらないかの時に、城を破壊してしまいそうな巨大な咆哮と共に、王の間の奥の壁が張裂ける。叫びは風となり、空気が震撼する。漆黒のドラゴンは赤い目をぎらりと光らせ、尾を青く光らせて間もなく、白い電撃が続けざまに嵐の如く広い部屋中を暴れ回った。部屋に張られた水は一瞬にして蒸発してしまった。全てを掻き毟らんとばかりに吹き飛ばして、まるでドラゴン自体が稲妻そのものであるかのようだ。そこにあるのは圧倒的な力。かつてこの世界を破壊した力。
ゼクロムはようやく落ち着いたように雷撃を止める。それでも尚身体の表面を有り余った電気が走っている。決して底を見せることはない。
逆光を受けて闇のような身体は一層黒く存在感をあらわしていた。トウヤの背中にぞっと寒気が走る。あれは伝説という威厳を持ち合わせた化け物だ。それはトウコにとっても同じだった。威勢良く飛び込んできたはいいが、リュウラセンの塔での邂逅以来の二度目の対面に底深い畏怖の念を感じずにはいられなかった。全身の震えは止まらない。立ち向かわねばならない。戦わなければならない。トウコはモンスターボールに手をかけた。ゼクロムに比べてずっと小さな光が王の間に弾け、彼女の周りに揃う。パートナーであるジャローダをはじめとして、ずっと旅を共にしてきた精鋭達。ケンホロウ、ヒヤッキー、ゼブライカに、ズルズキン。彼女たちの間に言葉などなくても培ってきた意志は疎通し、トウコを勇気づける。トウコ達は、化け物を真正面から見据えた。
その時だった。彼女のバッグの中で何かが蠢き出したのは。
小刻みに震えるそれをトウコは驚いたように取り出した。右手に掴まれたライトストーンは生きているかのように震え、淡い光をこぼしながら彼女の手をゆったりとした速度で離れていく。その場にいる者は皆、行方を瞬きもせずに見守った。浮かび上がるライトストーンから迸る異様な気配に、トウコはその場を後ずさる。石はゼクロムの発散した電撃のエネルギーを吸い込み尚一層強く光り、大きく風を巻き起こす。風は石を包むように激しくなっていき、中心の石の形は徐々に変わり小さな生き物を創り出すとあっという間に巨大化する。それはゼクロムと遜色が無い体格で、風に包まれて真っ白に美しい姿をしていた。誰もが息を呑む中で、その透き通った蒼い瞳がぱっと現れた。瞬間、風を切り裂くように大きな翼を一気に広げると地上に着地、高い咆哮が放たれる。美しくも逞しい声は城を突き抜け、尾が音を上げて燃え上がるように赤く光り、刹那、白い巨体から鮮やかな炎が爆発した。炎は辺りを包み、凄まじい熱風が巻き起こる。轟音が鼓膜を張り裂けんとばかりに炸裂する。
数秒後にそれもひいた時、トウヤは全身が震えあがった。喉が乾き、足はすくんだように動かない。視線の先に、伝説のドラゴンが二匹共姿を現している。遂に英雄が二人揃ったのだ。まるで二人の英雄が激突するイッシュ伝説を再現しているようだ。ぶつかり続けた旅路の末、Nとトウコは同じ場所に辿り着いた。
「まったく、本当にあの小娘までもが英雄になるとは」
ゲーチスは溜息をつくように呟く。
「こんなふざけたことがあっても良いのか」
その言葉をトウヤは遠耳で聞くようにしながら、レシラムの姿を見つめる。レシラムはトウコと向き合い、彼女を見つめている。最後の戦いの序章が奏でられようとしている。
「……ところでトウヤ」
突然の呼び出しにはっとトウヤは気がついてゲーチスの方を見上げる。その目は冷たく光っていて、何か嫌な予感がトウヤの背を走る。しかしそれを堪え、表面に出さないように冷静な表情を保つ。
「なんでしょうか」
「あなたはどうしてここに居るのですか?」
思いがけない問いにトウヤは思わず顔をしかめた。
レシラムの叫びが張裂ける。トウコは手始めに白いドラゴンと対峙していた。彼女が求めるのは真実か、彼女が持ちあわせる心がどんなものか、レシラムは戦いを通して見極めようとしているのだ。
「どうしてって……」
「聞かせていただきましたよ。昨日のあなたとトウコの会話を。あなたに渡したライブキャスターには盗聴器を仕込んであります。……あなたに戦う意志は無いそうですね」
ゆったりと言い聞かせるようなゲーチスの言葉に、大きな悪寒がトウヤの全身を打つ。見開かれた瞳は決してゲーチスから視線をずらさない。
大きな溜息をゲーチスは吐く。
「元々あなたを信用をしていたわけではありません。本来ならもっと昔に手を打っておくべきだったのでしょう、ここを逃げ出しまた戻ってきた時に」
「……昔の話です。お聞きになっていたのなら分かるでしょう。僕はN様の意思を尊重しただけです」
「まったく、甘いですね」
ゲーチスの言葉の一つ一つがトウヤを貫いていく。
「あなたはもう用無しだと言っているのです」
彼方から戦いの音が聞こえてくる。
その中でトウヤははっきりとゲーチスの声を聞き取り、呆然と相手を見つめる。ゲーチスの口元はささやかに笑みを含んでいた。
「計画には必要ないと分かった以上、何をしでかすか分からないのはあなたも同じですよ、トウヤ」
幾何学的な模様をあしらったマントの下から右手が差し出される。
「あなたは頭が良いから分かるでしょう。自分にどんな選択肢が残されているか、そして何を選ぶべきかは」
「……っ」
歯を食いしばり、トウヤは頭の中で必死にパズルを解いていく。相手は本気だ。最早敵と同類と見なされている自分に残されていることは簡単なことだった。ここで本当に裏切ってゲーチスに対抗するか否か、だ。けれど形勢が不利なのは目に見えていた。実力は底知れないが、世界中から賢人を集めてくることができるような人なのだから弱い筈が無い。何よりトウヤは長年に渡り支配されてきた人間だ。抗うことは精神的にも容易いことではない。結局、勝てる確信を彼は持つことができなかった。とすれば彼に残されているのはただ一つの選択肢のみだった。
逆らえないと分かった人間が一人、二人とポケモンを手放していき、その流れが世界を包む――。
Nやゲーチスの言葉が彼の脳裏を抉る。
長い迷路を歩く彼が辿りついた場所は行き止まりだった。打つ手は無く、逆らうことは出来ないと分かればするべきことは一つだけ。
トウヤは自分の持つ六つの小さなモンスターボールを全て取り出すと、それらを細い目で見つめる。しばらく考え込むように静止する。それから諦めたように顔を俯かせると、右手のボール達を全てゲーチスの手中へと収める。ゲーチスの表情がいよいよにたりと深く笑う。対照的にトウヤは拳を強く握り小刻みに震えていた。もう自分には戦える手段が無い。対抗することはもう出来ない。いよいよトウヤに拠り所となる柱は無くなった。用無しだと切り捨てられ、ポケモンも失った。Nやトウコと違い、自分自身のの芯も無い。無力だ。圧倒的にからっぽだ。もうただ一人の何もできない人間でしかなくなってしまった。
しかしゲーチスはそこで終わらなかった。更に伸びてきた左手に握られているのは彼のボール。それを投げると光が飛び出し、あっという間にその姿を現す。赤を基調とした身体に刃物のようなパーツを頭部や腰、腕などにつけた堂々たるポケモンはキリキザンだ。トウヤはすぐにその出現に気付き、何が起ころうとしているのか理解できず、後ずさりをした。
ゲーチスは右手に持っていたトウヤのボールを全て空中へと高く投げた。
「開閉スイッチを破壊しなさい」
ゲーチスからキリキザンへ指示が出された瞬間、キリキザンは床を蹴り上げ飛び上がると両手を振りあげた。思わずトウヤはやめろと叫びそうになるが、それよりもキリキザンの動きはずっと素早かった。破壊の音がいくつも廊下に響く。キリキザンの腕の刃は確実に開閉スイッチを斬ってしまった。六つのボールが無残にひび割れた状態で床に叩き落とされる。
トウヤは息を止めた。唖然としたまま動くことが出来なかった。目前の状況を呑み込めず、溜息すらも出てこない。か細い呼吸が彼の中に響く。現実は冷酷だった。本当に終わってしまった。彼の足元には開かなくなってしまったボールが転がっている。
ふっと力が抜けたようにトウヤはその場に座り込んだ。一番近くにあるボールが目に入る。ひびの入ったボールが動くことは無く、死んだようにくたばっている。それが六匹のうちどのポケモンであるかトウヤには最早分からなかった。無性にかなしみが沸いてくるのに、涙の気配はなかった。
トウヤの絶望する様子をじっくりと観察したゲーチスは満足そうに笑みを浮かべたまま、王の間に目を向けた。その空間にも冷たい静寂が訪れていた。炎の気配が消えている。トウコがレシラムをその手に収めたのだ。状況を理解した瞬間ゲーチスは笑みを止め、苦々しげに彼女の背中を睨む。
トウヤは一つのひび割れたボールを手に取るとゲーチスと同じように王の間を見た。いまや、重たい胸を抱えてしがみ付くように戦いの行く末を見守るしかない。決着の時は近付いていた。
「ボクには未来が見える!」
Nの叫びにも似た声が響く。
「絶対に勝つ!!」
その表情は険しく、未だかつて見せた事がないほど声に気負いがある。それは彼の思いがどれだけ強いかを物語っていた。誰の為でも無くただポケモンの為に賭ける彼の理想。迎え撃つは人間とポケモンの共存を望むトウコ。真実の炎を心に燃やし続け、ボールに収めたレシラムを再び外へと出す。Nのゼクロムも前に出て対峙する。二匹の咆哮が重なった。
英雄が激突する。
【八】
かつて、双子の英雄が対立した時、一匹のドラゴンはその身体を二つに分けた。
理想が正しいのか、真実が正しいのか、それを決める為に戦った。
けれどその戦いに決着が着くことは無く、和解によって戦争は終結を迎えた。その後もう一度争いが起こるまで、世界は平和であった。
結果として、二匹が対立した時世界は戦火に包まれ、二匹が手を取りあった時世界は平和に包まれたといえる。
人によって様々な考えがある。混ざり合いながら世界はできている。昔も今も変わらない。それぞれが互いに認め合うことで世界は維持されている。
【九】
トウコとNの二人の英雄の激闘からおよそ二週間が経とうとしていた。
人間とポケモンが共存するいつもと変わらない風景がイッシュに広がっている。新しい英雄の話などごく一部の人間しか認知していない。Nがチャンピオンに勝利したという事象すらも世間には広がっていない。なぜならそのN自身がどこかへと姿を消してしまったからだ。ゼクロムと共に空を走り、自分が決めた事に従って彼は彼なりに道を歩み始めたのだ。
ゲーチスを筆頭とした七賢人や一部のプラズマ団の団員は警察に逮捕され、トウヤも事情聴取は受けたが解放され、何をしようということもなく現在はヒウンシティを歩いていた。ここはトウコと初めて会った場所だ。ゲーチスに渡された盗聴器付きのライブキャスターは警察に渡してしまった。その為連絡手段は全く無い。しかし、ヒウンシティに来たら、いつかトウコに会えるのではないかというぼんやりとした期待を抱いていた。
人混みを避けるように噴水のある広場までやってくる。ダンサーが自分の踊りを披露している。小さな子供がボールを蹴って遊んでいる。トレーナーであろう人が自分のポケモンであるヤナップとベンチに座って話している。なんてことも無い日常がトウヤにはとても眩しく感じられた。彼にとっての日常はもう壊されてしまったのだ。
噴水に腰かける。背後の水の音は涼しげだ。慌ただしい街の喧騒とは切り離されたような空間は、いつもより随分と遅い時間の流れを感じさせた。
まったく、なんてのどかな日常の切れ端だろうか。世界は何も変わっていない。様々な人がこの広場には点々としているが、大体の人の傍にはポケモンがいる。Nがトウコと戦わず、チャンピオンになった時点で号令をかけていればきっとその繋がりを引き裂くことができただろうに。そんな考えがトウヤに訪れるがすぐに振り払う。最早叶わぬ幻想となってしまったのだ。現実と向き合い、そこに馴染んでいかなければならない。新たな日常を創り出さなければならない。けれどどうやって、と自らに問う。もうトウヤには何も無い。帰る場所も無く、戦う意味も役割も無く、一人になってしまった。身分の上もなければ下もない世界、そこに一人だけ突如放りだされたトウヤは途方に暮れている。改めて痛感せざるを得ない。自分はなんとからっぽな存在なのだろう。
そうして俯いていると、可愛らしい高い声が上空から彼の耳に入る。ゆっくりと顔を上げると、そこには彼のポケモンであるエモンガの姿があった。ビルの向こう側から笑みを絶やさずぐんぐん下降してくる。もう一度トウヤを呼ぶように声をあげる。トウヤは微笑みながら重い腰をゆっくりと上げる。そしてエモンガはやはり彼の帽子の上へとスピードを落としてから辿りつく。その後、トウヤは空から近づいてくるのに気がついて目を細めると、息を呑んだ。
トウヤ、と彼女は呼んだ。色鮮やかな仮面のような顔をしたケンホロウに乗っている。まだ高層ビルの高さほどの距離もあるのに、その声はトウヤに届いた。周りの人たちも驚いたように彼女を見る。一部では感嘆の声が飛び出す。四天王を破った彼女の名はそれなりにイッシュに渡っていた。
地上と彼女の距離は一気に縮まっていき、あっという間にトウヤの傍へとやってきた。ケンホロウはゆっくりと地上に着地する。
「トウヤ!」
嬉しそうに声をあげるトウコの姿が、トウヤの目の前に現れた。
「久しぶり、なんかちょっと痩せた?」
「あ、ああ……そう、かもね」
濁すようにトウヤはうろたえる。その様子を見てトウコは笑い飛ばすように声をあげる。
「なに、なんか固いね。久々っていってもそんな時間経ってないじゃん。あー喉乾いたな、なんか飲もっと」
言いながらケンホロウをボールに戻し、トウコははしゃぐようにその場を離れ、付近にある自動販売機の前に立つ。相変わらず彼女の様子に戸惑うトウヤは怪訝な表情を浮かべながら彼女の傍に歩み寄る。
トウコは小銭を払うと考えるように並べられた賞品を見て悩むように目を細める。数秒後ころっと表情を変えて一つのスイッチを押した。
「よし、あたしはサイコソーダ。特別にトウヤにもおごってあげよう!」
サイコソーダが軽快な音を立てて出てくる。それを取ると笑いながらトウヤにそれを差し出す。透明な蒼い瓶の中で小さな泡が立つ。
「ソーダが良ければこれをあげるよ?」
「いや、僕そういうジュースはだめだから、いいよ」
「あ、もしかして水派ってやつ? あたし、その考え分かんないんだよねーチェレンもなんだけど。なんで水にお金をかけるんだか」
言いながらトウコは躊躇わずおいしい水を購入し無理矢理トウヤの手に押しつける。彼女のペースになかなか乗りきれないトウヤは、流されるままに受け取るしかなかった。
トウコは自販機から軽い足取りで離れると噴水の周りの石垣に腰かける。高揚した気分を抑えるように深呼吸をしてからソーダの蓋を取る。炭酸の抜ける音がした。喉が渇いていたのか一気に飲み込んでいく。トウヤも彼女に甘えて手元にあるおいしい水に口をつける。
ほっと落ち着いた状況になったところで、トウヤはねえとトウコに声をかける。彼女はとぼけた顔つきで聞き返す。
「なに、普通に接してるの」
「何が? あ、もしかして奢りを気にしてる? いいんだよ。前にトウヤにはヒウンアイスを奢ってもらったしさ」
「そんなこと、まだ覚えてるんだ……じゃなくて、だから、なんで普通にトウコが僕に接してるの」
「戦いは終わったのだよ、トウヤくん。変な距離感は面倒なだけなのだよ」
可笑しな口調にトウヤは思わず笑ってしまう。ようやく表情を崩したトウヤににへらとトウコは白い歯を見せた。
これがあの時主と死闘を繰り広げ、勝ち抜いた英雄の姿だというのだろうか。トウヤは初めてトウコを見た時に似た感覚で拍子抜けしてしまう。震えがらせるような緊張感を携え覚悟を全身に纏い、白いドラゴンを統べた存在。戦いに勝利し、世界を変える方程式の答えを彼に導いた存在。白い光の中に溶けるように去っていったNの最後の言葉を聞き届けた存在。
最後の瞬間、トウヤは思わずNに手を伸ばそうと駆け出して部屋に入っていったけれど、冠もマントも捨てた王は翼が生えたように軽やかで晴れやかで、空へと翔けていくのを遠目で見届けるしかなかった。堪えきれず名を呼んだ声が届いたのかどうかも分からない。返事も無ければ、逆光に邪魔されて顔が少しでもトウヤに向いたかどうか。届いていないかもしれない。Nは常にポケモンが幸せになる夢を見ていた。そしてトウコを見ていた。
思い出してトウヤは嘲笑する。所詮自分はその程度、特別にはなり得ない者だったのだろう。
「トウコ、今時間がある?」
尋ねたトウヤの言葉にトウコは間伐入れずに頷いた。
「なら、少し僕の話を聞いてよ」
「トウヤの話?」
「うん。僕に関する僕の話」
「聞くよ」
二つ返事で彼女から了承を得ると、トウヤは言葉を選び始める。表情が少し陰っているために一風変わった雰囲気を敏感に感じ取ったトウコは自然と背筋を伸ばす。
水をもう一口飲む。脳裏に映る映像に沿って、彼は口を開いた。
「僕は小さな頃、親に捨てられたんだ」
トウヤの話が始まると、トウコの表情は一転し神妙な顔つきになる。
「親の顔も覚えてない。名前だけ書かれた手紙と共に、置いてきぼりにされた。多分ほっとかれたまま死んでしまいそうだったけど、その前に、ゲーチス様に拾われたんだ」
「……ダークトリニティと、同じだね」
「その話は聞いてるのか。そう、彼等と同じ。ダークトリニティとは別の目的で僕は育てられたけどね。……前に言ったよね、僕に与えられた役割は、王がもしもチャンピオンに負けた時に代わりに戦うことだ。ゲーチス様は、自分の手をいかに汚さずに世界を手に入れるか考え続けておられた。余計な考えが吹きこまれないようN様と同じように外界とは関係を断たれた。小さな頃から王に仕える存在として、プラズマ団の考えも教えられてきた。元々捨てられたことで親を憎んでたから、人間を嫌いになるのに時間はかからなかったし、順調に計画は進められたんだ。その過程で、まだ地上に城があった頃、庭で遊んでいる時に外からやってきた怪我を負ったエモンガに出逢った」
「それって、もしかして」
トウコはトウヤの頭上に目をやる。その行動にトウヤはそっと微笑み頭にいるエモンガの頭を撫でる。気持ちよさそうにエモンガは小さな声を漏らした。
「そう、このエモンガ。怪我を治して全快した後に自然に戻してあげようっていうことを決めたんだけどね」
一度話を切り、背を更に深くベンチにもたれさせる。
「ゲーチス様が連れてきたポケモンは何匹も見てきたけど、外から直接やってきたポケモンっていうのは初めてでね。付きっきりで看病してたら懐いちゃって。外に飛んでいくことは何度もあったけどその頃から僕の頭に戻るようになってた。そのまま僕のポケモンになった。唯一の僕自身の手持ちだ」
「唯一……って、トウヤ、他にもポケモン持ってたじゃん。ウォーグルとかランクルスとか、他にも」
「エモンガ以外は全てゲーチス様に与えられたポケモンなんだ。恐らく、盗んできたポケモンだろうね」
絶句するトウコを余所に、トウヤはトウコからもらった水を口に含むと、落ち着かせるように深呼吸をする。真下を見下ろし頭を垂れている。その頭からエモンガがするりと降りてくると、彼の腕の中に滑りこんでくる。小さく鳴いてトウヤの身体に密着し体温を共有する。自然とトウヤの表情が緩み、エモンガの頭を軽く撫でる。
微笑ましい光景を目にしてトウコも緊張を解き、小さく泡の弾ける音を続けているソーダを一口飲む。飲み込んだ様子をトウヤは見送った後、再び口を開く。
「身体が成長してからバトルの腕を磨かされて、身体も鍛えられて。傍でN様を守れるよう、いつでも戦えるようにそんな日々が続いて。ふと、その生活に嫌気がさしたんだ。強制させられた訓練に心が追いつかなかった。逃げ出したかった。そうしたらエモンガが誘うんだよ。外に行こうって……。僕はその手に引かれて一度あの環境をとびだしたことがある。歩いて歩いて歩いて、ある町に辿り着いた。プラズマ団以外の人は数年ぶりに見た。そして、人に寄り添うポケモンの姿も。……僕はあの時、プラズマ団の思想が世界のすべてではないと、どこか知ってしまったんだよ。まあ、すぐに見つかって城に連れ戻されたけどね。それもゲーチス様の計算のうちだったのかなあ。丁度その頃にN様と初めて対面させてもらって、話もした。生まれた時から純粋培養されてきたN様の考えはクリアで、何言ってるんだか正直よく分からないことも多々あったけど、本当にポケモンが好きだっていうのはよく分かった。全身から溢れるポケモンへのラブ、さ。ポケモンの為に王となり世界を変えるって。なんかなあ、N様は人を束ねるカリスマ性があったんだよ。それがゲーチス様によって作られた思いであったとしても。……N様の部屋、見ただろう。空に床が描かれていたり、電車のレールが途中で切れていたり、どこか歪だったでしょ。あそこでN様はずっと育てられてきた。僕は、一度外の世界を見たせいかもしれないけど、あれがおかしいということは察していた。ゲーチス様が裏の首謀者だということも後で知った。だから、猶更N様の傍にいなければならないと思った。それに、何よりあの真っ直ぐな思想と堂々とした風体に、僕も圧倒された。歪んでるのに。いや、純粋なのに歪んでいるというその矛盾こそが、N様を惹きつける一つの要因だったとは思うけど。とにかく。仕えることに躊躇いは無かった。あの人が望む方向へ付き添っていこうと思ったんだよ」
すらすらと簡単に出てくる。それは彼が心の底からNを慕っていることを示していた。
「全てがうまくいってたんだ。けれど、トウコ、君を筆頭としてN様は様々な人と出会うことで考えに僅かな迷いが生じた。本当に僅かなものだよ。志は変わらなかったから、ポケモンを大好きな気持ちは変わらないからこそチャンピオンに勝つことはできた。けど、自分の知っているのとは違って、ポケモンと人は互いに助け合えるし、わかりあえるということを旅を通して知ってしまった。時には戦いを通して更に絆は深まっていくのだと」
一度トウヤは言葉を切り、トウコの様子を伺う。その表情は崩れずしっかりとトウヤを見据えていた。強い瞳だとトウヤは思った。純粋に、強い。彼女の真っ直ぐな心をそのまま表している。Nの瞳をどこか髣髴させるものがあった。
腹が立つ程彼女も主も唯一の思いを持っている。トウヤはそれが揺らぐのを見たくなった。たとえ意味の無い行為だと分かっていても。
「もう何もかもが無くなってしまったよ。支えとしていた人も思想もポケモンも、帰る場所も何もかも。そうしちゃったのはさ、トウコ、君のせいだよ。トウコは英雄となったけれど、それによってN様の夢は失せた。そして僕も大きすぎるものを失った。これからどうやって生きていけばいいのか、全然分からない状態のまま、今に至るわけだ。それに対して、トウコは何を思ってる?」
独白が続いたトウヤは突然トウコに話を振る。トウコはそれに驚くこともなく黙って少し顔を俯かせ、考え込むように唇を固く紡ぐ。
水を吹き上げ、そして落ちていく噴水の音が彼等の背後で淡々と続いている。
「同じようなことをこの間七賢人にも言われた」
トウヤの方は見ずに真正面の虚空を遠い目で見つめたままトウコは話し始めた。七賢人。一応トウヤは彼等が脱走しているという風の噂を耳にしていたが、事実は知らないでいた。密かに驚きながら、トウコの話に集中する。
「あたしがNの夢を壊したことを、忘れるなって。それからどうしたら良かったんだろうって考えた。でも、あたしが負けていれば、あたしも含め、たくさんの人が大きなものを失っていた。あの戦いはそういう戦いだった。どちらが勝とうと絶対に何かが失われる。そんな戦いだった。でもね、あたし達は覚悟していた。トウヤだって、それだけNのことを慕っていたなら、覚悟はできていたでしょう」
トウヤの心臓が大きく跳ねる。間を置いてから視線をトウヤの方に投げた。揺るぎのない視線だった。
「……でもね、あたしは、あれはつらいバトルだったと思ってる。あんなに大きな覚悟と犠牲が必要な戦いなんて」
トウコが弱々しく零してから、またぱっと顔を上げる。
「Nが言ってたの、聞いた? 異なる考えを否定するのではなく、異なる考えを受け入れることで世界は化学反応を起こす、これこそが世界を変える為の数式だって」
「……聞いたさ。あの部屋の外で小さく聞こえたよ」
「ほんとう、最後まで数式に囚われてたね。Nらしく出した答え。その数式は真実だし、理想。不思議だと思わない? あたしたち、違う考えをもってぶつかっていたのに、ある一つの答えに辿り着いてしまった。戦うことでようやくそれが解ったんだよ。Nの夢は壊れてしまったけど……Nは一つの答えを導き出した。だから、あの戦いはつらいばっかりのものじゃなかったって思える」
トウコは手に持つソーダを少しだけ飲んでから半分ほど残っている瓶を隣に置いてふっと立ち上がる。一気に高低差ができあがりトウヤはトウコの顔を少し顔を上に傾けて見た。エモンガが落ちないようにしっかりとしがみ付く様子がトウコの目に入る。それを見たからか、真面目で少し冷たかった彼女の表情がやわらかくとろけた。
「Nは進んでるよ。大丈夫、トウヤもそれに続けられる。トウヤはあの戦いで、Nの意志を尊重するって自分で決めたでしょ。それって、誰でもないトウヤの思いでしょ。トウヤには何も無いんじゃない。エモンガだっているよ。それに今までのことだって夢物語なんかじゃない。Nがいたことも、彼が夢を持っていたことも、戦いで導き出した答えも全部、本当のことなんだよ。確かにあったことなんだよ。真実なんだよ! それを抱えて生きていくのは、一連の戦いに関係しているあたしたちだからこそできることなんじゃないかな、きっと。……そういう感じなんだよ」
「……何それ、最後の辺りのせいで台無しだって分かってる? 結局トウコもよくわかってないんじゃん」
苦笑しながらトウヤは言うと鏡のようにトウコも失笑する。
「はは、Nと違って私がそんなに頭良くないのはトウヤだってよく知ってるでしょ。それに、だからこそ旅してるんだよ。私だって、これからどうしていくかなんて決めてないからさ。なんていうのかなあ……言葉が出てこないや。まあいいや」
「適当だなあ」
「小難しいことばかり考えていたら疲れてきたんだ。それよりさ、提案があるんだけど」
「何?」
聞き返すと、トウコは白い歯を見せてにんまりと笑う。その笑顔の真意が取れずトウヤは不審そうに眉をひそめる。
トウコは腰の後ろに右手を回すと、次の瞬間には手に小さなモンスターボールが一つ握られていた。ようやく彼女の考えが読めたトウヤは納得した。
「バトルしようよ。何だかんだでトウヤとバトルしたことないし」
「……僕にはエモンガしかいないって分かってての提案だよね」
「勿論。いいじゃん、トウヤはあたしのポケモンを把握してるし、五分五分ってことで」
「全然五分五分じゃないよ」
「細かいことは気にしない。とにかくやろうよ。考えるより動いた方が頭がすっきりしていいかもよ」
「何その脳筋みたいな考え。まあいいけどさ」
実にトウコらしい。考えるより、とりあえず動け。そうして彼女は栄光をものにしてきた。
トウヤは重い腰をゆっくりと上げると、トウコと同じように水の入ったボトルを置く。
手厳しい発言だなあ、とトウコは苦笑すると、跳ねるようにトウヤから距離を置きボールをかざす。対するトウヤは上に視線を向けた、と同時にエモンガがトウヤの頭を力強く蹴り、軽く浮いてから地面に辿りつきトウコと相対する。どうやらエモンガは戦う気満々といったようで、その表情には笑みすらも浮かんでいる。ただ、トウヤの方も満更ではないようで心が高鳴るのを感じていた。冷静な表情を保つことに意識を向け、僅かに武者震いをする身体を落ち着かせようと少しだけ深く呼吸をする。目の前にいるのはチャンピオンと同格の強さを持ち、そしてトウヤの仕えたNに勝利した人間だ。その事実がトウヤの感情を静かに徐々に高めていく。
失うものなどもうなにもない。使命も役目も負っていないトウヤに、何が残っているのか。戦うことで見えてくるものがあるのなら、戦うことで答えを導き出せたのなら、迷路のたどり着いた先が行き止まりばかりではないのなら、今は掴もうと足掻くしかない。
周りに居た人々は彼等の様子に気付いて囁き合ったり歓声の声をあげたり口笛を鳴らしたりと、好き勝手にバトルへ期待を膨らませる。踊りを披露していたダンサーも遊んでいた子供もポケモンと話していたトレーナーも皆、トウヤとトウコのバトルに関心を寄せてそれぞれ動きを止める。ギャラリーの存在のおかげで、まだバトルが始まっていないにも関わらず一気に場の雰囲気が高揚していった。
トウコは真上にボールを投げた。途端ボールは口を開け、中から飛び出した光が中のポケモンの姿を一瞬で形成する。威勢良く声をあげて飛び出してきたのは、オレンジを基調とした身体に黄色のふわふわとした毛を纏った足や首、尾と赤のとさかが特徴的なズルズキンだ。パートナーであるジャローダがくるのでは、と予想していたトウヤは面食らう。しかし、ズルズキンは彼女の中でもエースの座を誇る。普段おっとりとした印象を持たせる垂れた目つきも、バトルとなれば睨むような視線をエモンガにぶつける。相性を見ればひこうタイプを持つエモンガが有利だ。エモンガの特性が静電気であり、脱皮を特性に持つとはいえ、物理技中心のズルズキンにはリスクがあることも彼女なら知っているだろう。エモンガは打たれ弱いため技の一撃が怖いが、スピードはエモンガの方が上であることに自信がある。しかし、トウヤは気は緩めず逆に引き締める。
両雄が揃い、観客は高い歓声をあげた。短時間にして噂を聞きつけたのか、瞬く間に客も増えていた。子供も大人も入り混じってバトルを見守る。今イッシュでトップクラスの強さを持つトウコは随分と世間では有名となっているようだ。彼等からしてみれば、トウヤは名も無きただのモブトレーナーだろう。見ていろ、と野心が燃えた。大きく踊る心を抑えきれなかった。遂にその顔に小さく笑窪が刻まれる。心臓の鼓動が速くなっていく。しばらく無気力で佇んでいたトウヤには、このバトルは十分すぎる発火材料だった。彼の中で止まっていた時計が今にも動き出そうとしている。
考えるより動いた方が頭がすっきりしていいかもよ。
トウコの言葉がトウヤの脳裏をよぎる。先程それを彼は小馬鹿にしたが、今なら納得できた。
「準備はいい、トウヤ!」
騒ぐ観客の声の中でトウコは叫ぶ。
「いつでも」
不敵な笑みを浮かべてトウヤは返す。
「よしいくよ、ローキック!」
先手必勝。エモンガのすばしっこさをまずは抑えつけようという考えか。開始早々ズルズキンは地を蹴りエモンガの前に跳び上がる。さすがチャンピオン級のトレーナーのエース。本来素早さには恵まれないズルズキンの疾走は、それでも速い。エモンガの小さな足をとらえんと、体勢がぐっと低くなる。地面を沿うように滑る軌道。その瞬間沸く観客の渦。トウヤは命令のタイミングを逃さない。
「でんこうせっかで踏んで、飛べ!」
命令の直後エモンガはその場を跳び、ズルズキンの頭上へと一瞬でやってくるとその頭を土台に空へと飛び上がった。ズルズキンはエモンガの瞬発力に追いつけず蹴りは失敗、体勢も崩されるが、踏み台にされた程度ではダメージは無しに等しい。
エモンガはしばらくスピードに乗ったままぐんぐん上昇し、最高地点までやってきた頃に手を広げ滑空の安定を図る。ズルズキンとの距離は随分と離れている。が、エモンガの先程の電光石火のスピードをもってすればすぐに縮められる間合いだろう。
「かげぶんしん」
空を滑り周囲にある建物の壁を踏み台にしながら、エモンガはスピードを一気に上げ、自身の分身を創り出していく。
「だましうち」
分身が作られていく過程を遮るようにトウコは指示をする。ズルズキンは撹乱に惑わされず冷静に分身の増えていく様子を睨むように観察すると、助走を付けて斜めに飛び上がる。飛び上がった先には既にエモンガの姿がいくつも重なっている。しかしズルズキンは躊躇なく足を振り下ろした。
「ほうでん!」
不敵に笑い命令したトウヤに対し、トウコはしまったというように目を見開いた。
タイミングに狂いは無かった。ズルズキンの最初の蹴りはフェイク。空を切りその場所の分身が消えた所に飛び込んできたエモンガに裏拳を見舞おうとしたズルズキンだったが、その直前にエモンガの身体から一気に電撃が放出される。エモンガは普段からマントのような膜に電気を貯めているため、エネルギーを集める動作は全く無い。目と鼻の先という至近距離から莫大な量の電気を喰らったズルズキンはなす術もなく崩れ落ちる。
地面に叩きつけられ、特徴の黄色い毛は所々焦げ付いていた。しかしすぐに立ち上がり身体に残る電気を振り払うようにその場を跳ね、硬直した身体をリラックスさせる。その様子を見てほっとトウコは息を吐く。
影分身は騙し討ちを誘うためのものに過ぎなかった。確実に攻撃を当てられる騙し討ちで近づいてきたところを待ち構えたように放電で迎え撃つ。トウヤが命令を言い切ったか言い切らなかったかのタイミングで既にエモンガは放電していた。エモンガは次に放電を指示されることを分かっていたのだろう。
トウコは悔しそうに唇を噛む。なめてかかってはトウヤの思うつぼだ。正直にいえば、驕っていた。四天王を倒し、Nを倒したのだという事実が彼女に自信を持たせていたのだ、無理はない。しかし、相手は狡猾なゲーチスが用意していたいざというときの秘密兵器だ。持ち合わせているポケモンが十分でなくても実力はお墨付き。何より、トウヤはズルズキンの戦い方や技を知り尽くしている。
油断すれば足下を掬われる。
エモンガはビルの壁を蹴りスピードを付けてズルズキンへと降下する。
「すなかけ!」
「フラッシュ!」
ズルズキンは足で力の限り地面を抉り、すぐに足を水平に回転。削られた表面がエモンガへと吹き荒ぶが、エモンガもほぼ同時に身体を強く発光させた。真昼の夏の太陽の如し。
刹那の眩さが消えると、反射的に目を瞑っていたトウコは再び視界を広げる。しかしズルズキンの傍にエモンガの姿は無い。
一時の静寂が訪れ、トウコは辺りに気を配りながらズルズキンの様子を見る。目が開かないのだろうか、瞼を何度も叩いている。眼前でフラッシュをされて、ズルズキンの目が潰れてしまったのだ。耳を頼りにするにも、観客の声が大きすぎて必要な音を拾うのはそう簡単なことではないだろう。得意げに薄く笑うトウヤとは裏腹に、トウコは冷や汗が背を流れるのを感じた。
「でんこうせっか」
エモンガが噴水の陰から飛び出してくる。
「右、すなかけ!」
トウコの命令を頼りに再び足元を削り砂を浴びせる。エモンガは少し怯みスピードが落ちたが、かまわず突っ込む。が、落ちたスピードの分当然威力は格段に落ちる。
負けじとズルズキンはエモンガが離れる前に左手を伸ばし、エモンガの膜を掴む。その瞬間、膜に溜まった電気がズルズキンに直接流れ込んでしまう。視覚を潰されても掴んでしまえば攻撃できるという判断だったのだろうが、静電気によってズルズキンの身体に電気が纏わり、麻痺してしまう。
「からげんき!」
歓声の中でも指示がはっきりと聞こえるよう、トウコは力の限り叫んだ。
ズルズキンは歯を食いしばり、麻痺して悲鳴をあげる身体に発破をかける。真っ赤になった顔で左足を踏み出すと、それを軸に素早く右足をエモンガへと叩き込んだ。瞬間、渾身の足技がエモンガの全身に食い込み、ズルズキンの手から離れ地面に吹き飛ばされる。
トウヤが動揺し、エモンガが身体の痛みによろけている間に、ズルズキンは仁王立ちし、自分のとさかを掴むとそれを引っ張りあげる。すると自身の身体が上に大きく伸びる。身体が伸びているのではなく、本当に伸びているのは身体の表面、薄皮だ。思いっきり引っ張っていくと首のあたりで薄皮が切れて、まず綺麗な頭が出てくる。不必要となった殆ど透明の薄皮は適当に投げ捨て、首から下の皮は足から、服を脱ぐように剥いでいく。一連の動作にそれほど時間を要さず、脱皮は完了した。つまり、麻痺の回復を意味する。
麻痺によって空元気の威力は倍増し、体力や耐久に恵まれないエモンガには大打撃となってしまった。なんとか立ちあがったが、足元はふらついている。まだズルズキンの視野は暗闇であるとはいえ、トウヤが優勢であるとはっきりと言える状況ではなくなった。
なんて無理矢理な戦略なんだろう、とトウヤは半ば呆れてしまう。同時に、視力が使い物にならなくなっても、トウコの命令を信じ、起死回生の技を繰り出したズルズキンに脱帽したくなる。トウコも冷静だ。エモンガのスピードを抑えるための砂かけのタイミングは的確だった。ズルズキンがエモンガの膜を掴み麻痺してしまったことは予想外だっただろうが、そこから空元気を素早く思いついた。
もしも、エモンガ以外にポケモンを持っていたら。
トウヤはそれを一瞬考え、少し淋しく笑う。
もしも、エモンガ以外にポケモンを持っていたら、こんな泥塗れで力と力をぶつけあうだけの、楽しいバトルがもっと続くのに、と。
「とべ!」
エモンガは疲労を堪え軽く助走を付けて飛び上がった。
「真上にしねんのずつき!」
「エアスラッシュ!」
離陸して間もないエモンガの隙をズルズキンは狙う。勿論ズルズキン自身にエモンガの姿は見えていないが、トウコの命令から間もなく上に向かって力強く跳ぶ。しかしその隙を簡単に与えるほどエモンガは軽く育てられているわけじゃない。すぐさまエモンガは膜で空気を切り裂き風の刃を創り出し振りかざす。鋭利な風はズルズキンの体を切り裂く。しかしズルズキンも負けない。ゴリ押しで突き進む。
頭突きはクリーンヒットとまではいかなかったが、エモンガのバランスを崩させるには十分だった。エモンガは翼で飛ぶわけではない上、ここは狭いフィールドであるため一度体勢を崩されると空中で立て直すのは困難だった。
「アクロバット」
地面に衝突寸前でエモンガは身体をひっくり返し痛みを堪え地面を蹴る。瞬時に低空飛行で正面のズルズキンの懐までやってくると身体全体でぶつかっていく。ズルズキンの苦手なひこうタイプのわざをここにきて畳みかけてきている。長引く前に一気に勝負をつけるつもりだ。が、僅かに軌道は逸れている。トウヤは眉をひそめたがすぐに気が付く。二度の砂かけの効果がここにきて表れたのだ。
「左に回避!」
アクロバットの逸れる様子をトウコは見逃さなかった。ズルズキンはすぐさま軽い足取りでその場を左に離れる。直後にエモンガが空を切って虚しく通過していく。
「一気にいけ、ほうでんだ!」
「地面を掘って! 体勢を低く!」
エモンガは飛行を止め、電気を溜める。次の瞬間、小さな身体からは想像も出来ない大きく激しい電撃を繰り出す。残りの力を振り絞り、先程に比べると随分威力が大きい。雷の如く凄まじい音と共に空気に張り裂ける。道の舗装すら破壊する。周囲からは思わず黄色い声が上がった。
しかしズルズキンも地面を足で叩き割る。ズルズキンが逃げられるような穴を作るには時間が無い。特大の放電を避けるのは目の見えないズルズキンには不可能だ。ズルズキンは放電をまともに食らう。しかし掘った地面に電気は逃げていく。せめてもとトウコが弾き出した苦肉の策だ。見たことがある戦法だとトウヤは思った。それは、彼女が旅で積み重ねてきた経験だ。
放出された電撃は弱まっていく。ズルズキンは堪え、大業の直後の隙を狙う。それはトウコが狙っていた事だったし、ズルズキンも理解していた。トウヤもわかっていたが、彼は放電で試合を決めてしまうつもりだった。放電に耐えたとして、エモンガに次の攻撃を耐える、あるいは避ける力が残っているか。
エモンガの放電が終結しようとする。ズルズキンは痺れる身体を起こし、何とか立ちあがる。その健気で負けず嫌いな性格にトウコは唇を噛みしめた。
ズルズキンとエモンガの間に距離はそれほど無い。ズルズキンの攻撃可能範囲内だ。
「真正面に走って!」
その通りにズルズキンは力を振り絞り地面を蹴り、隙の出来たエモンガの元へ一気に跳び込む。エモンガは身体のダメージに加えて放電にエネルギーを使い果たし既に満身創痍だった。それでも、負けたくないと強く思ったのかもう一度空へ跳び上がろうとする。
「とびひざげり!」
最後の一撃だ。タイミングはぴしゃり。恐ろしいほどにズルズキンに迷いはない。好機を逃すな。ズルズキンは叫び声をあげた。足にエモンガに迸っている電気の火花が散ったとき、ズルズキンの膝はエモンガの身体に抉り込んだ。
「エモンガ!」
トウヤは思わず悲鳴をあげていた。
トウコのズルズキンが今覚えている技の中でも特に威力の高い技だ。彼女は勝負を決めにかかった。
空中に蹴り上げられたエモンガが地に墜ちる。砂埃が巻き上げられた中で、エモンガには立ち上がる体力も気力も残っていなかった。戦闘不能だ。
観客がしんと静まる。ズルズキンの荒い呼吸が広場にしんと響く。
トウヤは呆気にとられながらも優しく微笑み、エモンガの元へと歩いていく。バトルに終止符が打たれた。その瞬間観客はどっと沸く。彼等の健闘を称えて拍手と口笛が鳴り響く。最初こそトウコに向けられたものばかりだったけれど、今はトウヤやエモンガにも賞賛が送られる。
コンクリートの下敷きになっているエモンガを抱き上げて、トウヤはエモンガの身体を撫でる。電気は欠片も残されておらず、一滴まで惜しむことなく力を使い果たしてしまったようだ。謝るかのように俯くエモンガに、トウヤは首を横に振った。
「ありがとう、お疲れ様。久々のバトルだったのに、よくやってくれたよ。本当に、ありがとう」
エモンガは力無く可愛らしい声をあげる。ぼろぼろになった自分の友達を見ていると、心がずきずきと痛むのに、どこか晴れやかだった。それでもいいとエモンガは許してくれているようだった。エモンガはトウヤと共に戦った。戦ってくれた。お礼を言う他なかった。やさしく抱いたままトウヤは顔を上げると、トウコもすぐ傍にいてズルズキンと話をしていた。瞼は相変わらず開かないままでいるが、どちらとも勝利に満面の笑顔を浮かべていた。
そしてトウコはトウヤに視線を向ける。
「おつかれ、トウヤ、エモンガ」
「そっちこそ」
トウヤは立ち上がると、トウコの側へと歩み寄る。その気配を感じ取ったズルズキンは、右手を挙げてエモンガの健闘を称える。エモンガも応えるように小さな声をあげた。
「さすがに強いな」
「トウヤも凄かったよ。フラッシュで目潰しされた時にはどうしようかと思ったよ! やらしい!」
「それ、砂かけ重ねた君が言う? その割には堂々とした立ち回りだったし……さすがだよ。本当に。そういうのを多分、絆って言うんだろうな」
「あはは……なんかトウヤにそんなこと言われると、照れちゃうな。絆だって、ズルズキン」
トウコがズルズキンに声をかけると、相手はぽかんと首を傾げる。バトルの気迫はどこへやら。気が抜けたのだろうか。締まりがない。
「もう、相変わらずだなあ! ま、いっか。お疲れさま。ゆっくり休んでね」
そう言ってからトウコはズルズキンをボールに戻す。
続いてトウヤも声をかけながらエモンガをボールに戻し、腰に手を当てて大きく息を吐いた。落ち着いて観衆の声に耳を傾ける。沢山の人が観戦していた。大勢がトウヤ達のバトルに魅入られていたのだ。こんな状況でトウヤはバトルをしたことがない。深い心地良さに包まれたし、何よりも楽しかった。
「いい気分転換になった?」
トウコはトウヤを覗き込んで試すように尋ねる。トウヤは目を少し開きながら苦笑する。何も考えずバトルが始まったわけじゃない。彼女はトウヤのことを心配していたのだ。
「うん」
「なら、良かった」
彼女は安堵の表情を見せる。
勝てないな、とトウヤは実感するしかなかった。
「それより、大分ここ壊しちゃったけど、どうしよう」
二人は改めて周りを見回す。広場には穴が至るところに作られ、コンクリートの残骸が虚しく転がっていた。好戦の証だが、ただのどうろと違って公共の場であるが故に許されることではない。
「……まあ、後でアーティさんに事情を話して謝ろうか」
トウコは肩を落としながら呟き、トウヤはそれに同意して深く頷いた。
【十】
熱戦の後、しばらく時間が経った。興奮冷めやらぬ観客と軽く交流してから、広場の破損についてヒウンジムリーダーであるアーティの元へ謝罪と相談をしに向かった。しかしアーティは笑いながら軽く許しを下した。僕も似たようなこと沢山やってきてるし、別に大丈夫だよ。そう呑気なことを言っていた。そんなに気楽でいいのだろうかとトウヤは呆れたが、言葉に甘える他なかった。修理は後々のことになるが、その時にはトウコもトウヤも手伝うことで一段落ついたのだった。
それから夕日が望める時間帯に、二人はヒウンシティからかけられているスカイアローブリッジに足を運んでいた。空色と白を基調とした巨大でスタイリッシュな橋も海も今は真っ赤にに染めあげられ、ヒウンの街に目を向けてみれば白い光が点々と付いている。大きくカラフルなネオンの看板も派手に光り輝き、もうじき名物の美しい夜景を見ることができるだろう。
「トウコ、僕さ」
手すりにもたれかかった状態でトウヤは呟くように話し始めた。隣にいたトウコは彼に視線を向ける。
「あの決戦の日に、ゲーチス様にボールを破壊されて、なんていうか、重い言い方だけど絶望を感じたんだ」
「うん」
「大きなものを失って、それで僕考えてしまったんだ。離れたくないって」
「うん」
「ポケモンを奪われる側の気持ちを、奪う側の僕が痛い程理解したあの時点で、僕はプラズマ団から離れる理由ができていたんだなって。今日のバトルでも、他にポケモンがいたらなって考えたりしてた」
「楽しかったもんね、今日のバトル」
トウヤは深く息を吐きながら静かに頷いた。白波が静かに立っている。今日は比較的穏やかな潮風で、ほとんど無音の世界である。
「ああいうバトルをいつか、Nとしたいなってあたし思うんだ」
トウコは海の向こうの遠くに視線を投げる。思いを馳せる先は、言うまでもなくどこかへと消え去ったNの姿。
「英雄とか正しいとか正しくないとかの争いなしにさ。もう、あんな戦いしたくないんだ。ベルやチェレンも呼んで、みんなで友達になって笑いあいたい」
「……理想的だね」
トウヤもまた主のことを思う。トウヤのよく知るNではトウコの話す理想像は夢物語のようなものだ。彼は人間を相手にすることに慣れていないのだから。けれど旅立って何か変わろうとしているのならば、また会った時にそれは現実となるかもしれない。
再会がいつになるのか、まったく見当もつかないのだが。
しばらく沈黙が流れる中に、汽笛の音が飛び込んできた。二人とも視線を下に向けると、橋の下を巨大で真っ白な豪華客船が通り過ぎようとしていた。夕方にのみ運行するその船は優雅で雄大で、煌びやかな品のある美しさを帯びている。海上を滑っていくその様子は重くゆったりとしていて、彼等二人には少々縁遠いものだ。遠いものだからこそ惹かれるのは、誰しも同じなのかもしれない。特にトウコは初めて客船を見た時から羨望の眼差しを向けていた。今もトウコは羨ましそうに口元を緩めて船の動きを追っている。トウヤは船でなく、船を見て楽しそうに笑うトウコのことを見て微笑んだ。敵わないな、と思った。何に対してもまっすぐで、純粋で、真剣で、周りを巻き込む大きな力がある。自分にはないものだ。だからこそ、レシラムは彼女を認めたのかもしれない。
敵わないな。
トウヤはもう一度心の中で呟いた。しんと雪が溶けるように腑に落ちるものがあった。
「楽しそうだね」
豪華客船を見つめ続けていたトウコはおどけたような表情でトウヤに視線を移す。
「楽しいよ」少し間を置いてからまた口を開く。「トウヤも、楽しい?」
「ああ、楽しい」
何が楽しいと言えるのか、具体的に口にするのは難しい。今彼を包む全てが、彼の心を和らげる。生温い潮風が、爛々と輝く燃えるような太陽が、小さく波を立てる海が、彼の中に佇む主の姿が、そして隣で少し上目づかいで覗いてくるトウコの姿が。不思議な気分に彼は浸る。確かに敵同士だったはずなのに、今はこうして自然と、そして心の底から安心できる人だと言える。
異なる考えを否定するのではなく、異なる考えを受け入れることで世界は化学反応を起こす――。
Nの解いた方程式の答えがトウヤの頭の中に浮かぶ。ほんとだ、その通りだ、彼は小さく微笑んだ。理想であり、真実でもある解だ。異なった思いは一つになり得る。トウコとNが最後には一つの同じ場所に辿り着いたように。
そして同時にやってきた好奇心。数式に拘ってきた人の近くにいたせいか、彼もまた数学的論理を欲求する頭になってしまったようだった。これは自分にたまたま当てはまったものか? トウコとNの関係にのみ当てはまるものか? 果たして、どんな人にでも当てはまるものなのか? 彼は問う。トウヤはまだ世界をよく知らない。あの野良試合でまきおこった歓声だって、知らない世界だった。プラズマ団に閉じこもってきた代償である無知な自分の存在に気付くと、トウヤは思わず苦笑した。
ならば、探しにいこう。
彼に圧し掛かるものはいつの間にか軽くなっていた。
「僕、もう少し旅を続けてみるよ」
「お、やる気出てきた?」
「……目的が、見えたような気がしたんだ」
トウヤは幸せそうに笑った。
導き出された世界を変える方程式の答え。
そうだ、証明が必要だ。
今までNに忠誠を誓い続けプラズマ団の計画に固執してきたからこそ見えなかった世界の外側。トウコが教えてくれた場所。巡り、誰の者でもないトウヤ自身の考えを生み出し、調和させること。それは数式の回答の証明に繋がること。
それこそがトウヤの前に伸びる道。
彼は腕を伸ばした。そこに彼の相棒が飛んできた。どこまでもついていくよ、そう言うように。そうだ、一人じゃない。きっと、笑いあえるときがやってくる。
さあ、旅が始まる。