まっしろな闇











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キリにて
Page 60 : 秘めしもの
 木陰がさわさわと揺れる元の草原に座り込んで、どれだけの時間が過ぎたことだろう。過ぎゆく時間。急くように、噛みしめるように、慈しむように、時間の経過を実感していく。それぞれの感じ方はそれぞれの考え方、感性によって異なる。
 彼等は笑っていた。ラーナーは旅であったこと、出会ったひとのこと、ウォルタでの暮らしを懐かしみながら語る。毒々しい思い出は忘れ、きらめく楽しい日々を口にした。圭は何しろ旅を始めて殆ど時間が経っていない。故に、リコリスでの日々を口にした。喜々として溢れ出てくる思い出は、打てば何倍にも膨れ上がって響くような感覚で飛び出す。彼がいかに充実した日々を送っていたか、それが如実に分かるものだった。クラリスと違って期日がはっきりとしていなかったが、彼もまたいつしかやってくるタイムリミットを理解しながら生きていた。それ故に、クラリスの気持ちがある程度汲み取れたといえるのかもしれない。
 キリの外の世界を話すのは果たして正しいことなのか。
 憧れたクラリスにとっては一番酷なことではないのか。
 疑問は拭えない。しかし彼女は急かす。もっと話してほしいと要求する。
 本当に皮肉で理不尽な話だ、とラーナーは複雑な感情でクラリスの笑顔を見つめていた。


「お話し中、失礼致します」
 少し話の流れが落ち着いてきた頃、頭上から降ってきた声にはっと三人は顔を振り向かせる。
 音を立てないように歩いてきていたエクトルは膝を丁寧に畳み、クラリスの隣にしゃがみ込む。エクトルを敵視している圭は不満そうな顔を浮かべたが、彼をよく慕っているクラリスの手前、露呈は避けた。クラリスの身の上話を聞いてからでは、猶更だ。
「どうしました、エクトル?」
「夢中になっていらっしゃる間に御昼御飯に丁度良い頃合いになりました。用意してありますのでお持ちしましょうか。それと、気温が随分上がって参りましたし、涼しい場所に移動するのも良いかと」
 クラリスは一度圭とラーナーに目を配り、それからほんのりと微笑んで再びエクトルに向き合う。
「大丈夫です。あまり移動しない方が落ち着きますから、御昼はここでいただきます。もうしばらく時間をとっていてもいいですか」
「まったく」
 深い溜息が落ちる。圭の眉がぴくりと反応する。
「予定がどんどん崩壊していきますね」
「でも、貴方ならうまくやってくれるでしょう?」
 淡々と、しかし微笑みながらクラリスは試すような口調で返す。しばしの沈黙の後、エクトルは静かにクラリスに頭を下げ、再び立ち上がった。
「エクトル、貴方もずっと立っているだけでは疲れるでしょう。車内で待機していてもいいんですよ」
「そのお気持ちだけ受け取りましょう。御飯をお持ちします」
「ありがとう」
 エクトルは深くお辞儀をすると、踵を返して車へと戻る。
「優しい人なんですよ、本当は」
 苦笑するクラリス。ゆっくりと遠ざかっていく大きな黒い背中を、ラーナーはじっと見つめていた。
「……あたし、お手伝いしてくる」
「え?」
 唐突にラーナーが言い出して立ち上がる。
「ちょっとエクトルさんとも話したいって思ってたの。圭くんとクラリスは待ってて!」
「ラナ!?」
「いってらっさー」
 止める暇もなくラーナーはさっさとエクトルのところへと走り去ってしまう。既に諦めていたのだろう圭はひらひらと手を振って気の抜けるような声で見送った。その後、圭は大きな溜息を落とす。
「ネイティオの強さがドーピング紛いだって解っても、話すことがあるのな」
「さあ……」
 表情に暗みがさしたところを横目で見やり、圭は一度崩れていた姿勢を正す。ふうと息をつき、真剣な眼差しを送った。
「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
 クラリスは質問の糸口に一瞬嬉しそうに微笑んだが、すぐに圭の様子から楽しい話題ではないことを察し、息を呑んでつられて真面目な顔つきになる。
 何のことかと問う前に、圭が一歩分程クラリスに顔を近づけ、囁いた。
「黒の団って、知ってるか?」
 圭の目は、まるでクラリスを試しているかのように探りを入れていた。
「黒……なんですって?」
「黒の団」
 クラリスはもう一度その言葉を頭の中に思い描き、今までの記憶を洗いざらい見通す。枯渇してしまいそうなくらい遡ってみるものの、彼女の表情には困惑と疑問が思い浮かんでいるままだった。そこで圭の表情は崩れた。答えを聞かずともクラリスの分かりやすい挙動で理解した。頑なになった肩を安堵したように解き、姿勢を戻す。
「……すいません、心当たりは、何も」
「いや、まったくもって、謝るべきことじゃないんだけどな。むしろ安心した。悪い、今のは忘れてくれ」
 無理矢理会話をシャットアウトして、圭は小さく息を吐く。これ以上言及されないうちに、次の話題へと変えていく。
「ポケモンと話せるって言ったっけ。それって、生まれつきのものなのか。例えば、誰かに体を細工されたとか。それこそ、ネイティオみたいに」
「……どうして、そんなこと」
「ちょっと、な。気になったんだ」
 再びクラリスは時間をもらって考え込むが、やはり引き出される情報はほぼまっさらなまま。
「多分、そういうことはないと思います。血縁的なものというか……何が条件なのかははっきりとは分からないんですけど、水神様が選んだ者が噺人の力を受け取ると言い伝えられています」
「ふうん……じゃあ、そうなんだろうな。そうだよな、ずーっと昔から噺人はいたんだ。関係あるはずないか。……はー、用心深いのも疲れるな!」
 ぼそぼそと呟いたのちに突然大きな声をあげ、後方の草原へと体を一気に倒す。草の乾いた匂いが鼻を揺さぶる。葉の向こう側で光る太陽の光がちらちらと視界を囁いて、眩しい。それをぼんやりと見つめていると、そこに不思議そうな顔をしたクラリスが入ってくる。彼はちょっとだけ笑うと、その姿勢のまままた口を開いた。
「クロも、話せるわけじゃねえけど、似たようなことができるんだ」
「クロさんが?」
 クラリスの心臓が大きく跳ねる。今まであまり話にはあえて出さなかった彼の話。脈拍が速まっていく。しかし悟られないように表面だけは平常を装おうとする。
「といっても、ポニータとだけらしい。なんか、目合わせれば意思疎通ができるんだとさ。意味不明だよな」
「……それほど、クロさんとポニータの間には強い絆があるということですか?」
「そうだな……クロが特別なんだよ。いや、ポニータも特別、か」
「特別?」
「そう。俺にはよくわかんないけどな」
 特別という言葉を自分で発して、そこでふっと彼は何かに気が付いたように、倒していた体をひょいと軽い調子で起き上がらせ、突如好奇に満ちた目でクラリスを見つめた。
「特別っていったらクラリスの場合もそうなんだよな……言葉で片付ければ。なあ、あのさ、一応聞いてみるんだけどさ」
「はい、なんでしょう?」
「俺の中から、なんか聞こえたりするか?」
「え?」
 圭は自分の胸に右手の親指を指す。中、というのはそのままの意味らしい。
 ただ、クラリスは素直に飲み込むことができず、圭の手と、圭の顔を交互に何度も見やる。圭の意図が先程から彼女にはまったく読めなかった。予想もしていない藪から棒が飛び出してくるようなものだ。
「クロじゃねえけどさ、意思疎通というか、俺のさ……俺の中から、声が聞こえたりするか?」
「……」
 やはりまったく理解できない。それでも、疑問符が群れを成している頭を無理矢理回転させて、クロがポニータと目を合わせて考えていることを理解しあえるという関係を思い返し、圭の燃えるようなオレンジの瞳をまっすぐに見つめてみる。しかし、そこにあるのはただの瞳でしかなかった。
「……すいません、なんのことか、さっぱりです」
「そっか……良かった! ならいいや!」
 明るく言い放ち、少し移動して幹の隣までやってくると背中をもたれかける。何度も頷き、ゆっくりと納得を噛みしめているようだった。しかし、質問の真意は投げ、勝手に自己完結させた圭に当然クラリスは納得がいかない。少しむっとした顔で体を少し前寄りに倒す。
「どうしてそんなことを尋ねるのですか? 圭は、自分の中から何か、声が聞こえてくるんですか?」
「いや?」
 圭はとぼけたような顔で否定した。
「ちょっと気になってたのさ」


 *


 車の扉を僅かに開いたところで、背後から駆け寄ってくる音にすぐエクトルは気が付いた。自身の守る女性のそれより幾分乱れたテンポ。不思議に思った直後、向こうから話しかけられる。
「エクトルさん、お手伝いします!」
 ラーナーが揚々とした声をかけると、エクトルはほんの僅かに目を丸くして振り返った。
 彼のすぐ隣にまでやってきたラーナーは胸の動悸を抑えながら、凛とした態度で立つ。
「……お気持ちは有難いですが、手伝いという程のことは何もありませんよ。それよりも、お嬢様とゆっくりお話をしていらっしゃった方がよろしいと思います」
「そう言わないでください。私、エクトルさんに聞きたいことがあるんです」
「はあ」
「ポケモンのこととか」
 エクトルは口を閉ざし、ラーナーをじっと見下ろす。ただそれだけの動作だが、元々体格が良く目つきも硬いために、佇んでいるだけで迫力があるのだ。見つめられるだけでまるで軽い威嚇行為だ。しかしラーナーはまるでするりと受け流しているかのように物ともしない。エクトルは内心驚いていたが、張り付いたポーカーフェイスには全くその兆しが浮かばない
 息を吐き、彼は特に何を取り出すことも無く車の扉を閉めた。
「なんの話ですか」
 威圧はそのままに尋ねると、ラーナーは口を締めて一度自分の中で考えを組み直した後、改めて口を開く。
「初めはどうやってネイティオをあそこまで強くしたのか聞きたかったんです。強く育てるためには、いっぱいポケモンのことを知って、理解して、正しい育て方をしないといけないと思うから。でも……」
「お嬢様からネイティオに関する話は聞いたんですね?」
 ラーナーは息を止めた。見破られている。クラリスがクヴルールの掟や秘密を話したことを。
 強い眼光の前では隠していても意味が無いと理解した。ラーナーは目を伏せ、頷いた。
「分かっていますよ。あれだけ大きなリアクションや表情を見ていれば、お嬢様がクヴルールの事情の話をしているであろうことは容易に予想がつきます」
 そう、とエクトルは呟く。
「このネイティオも例外ではありません。多くのネイティから厳選され、更に特殊な劇薬と訓練によって能力を飛躍させ、感情を捨てられてしまったポケモンです」
「感、情……」
 ラーナーの顔は自然と俯き加減になりつつあって、いつの間にかエクトルの視線からは外れていた。
「忠実に命令を全うさせるためです。悲しいことですね」
 実際に出てきた声音はあまりにも平坦で、まったく彼は悲しんでいるように見えなかった。表情が終始変わらない点から感情を隠すことに長けているのは明らかだが、あまりの徹底ぶりに悲しいというその感想が嘘のようにも受け取れた。本当はそんなこと、微塵も思っていないかのような。
 ラーナーは唇を噛みしめる。
「……貴方は、ポケモンを強くしたいんですか?」
 今度は彼から質問が投げかけられる。そこでラーナーはふと我に返り反射的に顔を上げた。
 ラーナーは一瞬息を止める。錯覚か。思い込みか。彼の頬は、決して緩んでいるわけではなかったが、数分前の強張りに比べれば解けているように見えた。
「いや、ポケモンは既に十分強いんです。でも、あたしの方があまりにも未熟で……でも、あたしも戦えるようになりたいんです。……いや、あたし自身は無理なんですけど」
 そう言ってラーナーはバッグの横ポケットから二つのボールを出す。ほう、とエクトルは小さな感嘆の声を出した。
「二匹いるんですね」
「そうです、良かったら見てください」
「いいでしょう」
 頼られることは満更でもないのか、エクトルは僅かでも好奇を持っている。存外、乗り気になってきていた。ラーナーは胸を撫で下ろしつつ、開閉スイッチを押す。もうずいぶんと見慣れた白い光が二つ飛び出しラーナーの足元に着地、一気に体を形成してエーフィとブラッキーが出現する。
「……これは、驚いた」
 表情は殆ど変わっていないが、声には変化がある。ゆっくりと、隠しきれない感情が滲み出ている声だ。エーフィとブラッキーにその目は釘づけになり、しゃがみ込んでその様子を伺う。エーフィはぼんやりと彼を眺めているのに対し、ブラッキーは警戒心を露わにし、赤い鋭い眼光を放ちながら体勢を低くする。
「このブラッキーは随分警戒心の強い性格みたいですね。……もしかして、苦い食べ物が好きだったりしますか?」
 ラーナーは今までのブラッキーの食事の様子を思い返しながら、おずおずと頷いた。
「じゃあ、恐らくせいかくはしんちょうでしょうか。こう見ているだけで他に思い当たるものがない」
 すらりとなんでもないように出てきた。まるで簡単な計算でもしているかのような流暢具合だ。逆にラーナーの方は呆気にとられる。何があったのか一概には理解しきれず、少し時間を置いてからみるみるうちに興奮を見せ始めた。
「……なんで分かるんですか! 一目見ただけで」
「ポケモンの性格は人間よりも単純、といえば聞こえが悪いかもしれませんが、彼等の大まかなせいかくは味の好みと相互関係にあるという説があります。能力値の伸びしろとも関係があるらしく、またそれらはほぼ正しいとの立証もありますね」
「えーっと……」
 ほぼ詰まることなく一気に出てきた論理にラーナーは混乱する。
 話している最中にその様子に気が付いたエクトルは一度説明を止め、小さな咳払いをして誤魔化す。
「とにかく、しんちょうな性格のポケモンは、一般に渋いものが苦手で苦いものが好きだと言われています」
「へえ……すごい……」
 ラーナーはブラッキーの食の好みを思い出しながら茫然とエクトルを見つめる。自分が考えているよりもずっと彼は知識をその頭に詰め込んでいる。そしてしっかりと理解しているからこそ、こうしてすらすらと応用できているのだ。なんて人だろう、ラーナーは驚きと好奇心が一気に立ち上ってくるのを感じた。
「ポケモンのせいかくを把握しておくのは大切です。こちらのエーフィはこうして見ているだけじゃさすがに分かりませんが……味の好みは解りますか?」
「エーフィは逆に、ブラッキーが嫌いなものをすごくおいしそうに食べるんです。性格はこう、のんびり屋さんというか」
「じゃあ、恐らくおっとりに大別されるでしょうね。酸っぱいものが苦手では?」
 彼の予想はまさに的中だった。ぐうの音も出ない。
「すごい、すごい、すごいです!」
「お褒めに預かり光栄です。けど、それほどのことではありませんよ」
「でも、今までそんなこと知らなかった……それに、エクトルさん、すらすら言うじゃないですか。やっぱり、すごい。ポケモンのことが大好きなんですね」
「ポケモンを大好き……ですか。そんなこと、久しぶりに聞きました」
 エーフィに少し手を伸ばすと、エーフィの大きな瞳はしっかりとエクトルを捉え、自らその手に鼻を近づけていく。
「いろんな知識を詰め込んでいますから、この知識がポケモンを好きだった故に覚えたことだったのか、単に必要だったから覚えたことだったのか、最早解らないのですよ」
「でも、エクトルさんはポケモンをきっと好きです」
「そうだと自信を持って言える時期もあったような気がします」
 淡々と述べられる言葉には懐古の破片が散らばっているようにラーナーには思われた。
 エクトルは普通の人より一回りも大きい角の立った手でエーフィの肌触りを確認する。柔らかで心地良い、ビロードのような艶やかさ。エーフィは表情を緩めた。と同時に、彼の目元が柔らかくなる。
「……見ただけで分かるくらいこの二匹はよく育てられている。これなら、トレーナーの指示無しでも十分戦える力がありそうです」
「それって、あんまり良くないんじゃないんですか」
「この二匹はつまり、貰ったポケモンなんですね?」
「はい」
「本来“おや”であるトレーナーの傍にいる時はポケモンバトルで勝つために育てられたのかもしれない。けど、今、あなたがその代わりを無理して務める必要はないのでは。今のご時世、バトルで旅費を稼ごうと考えているのならお勧めしません。それを安定してできるのは砂漠で砂を手で掴むような人数です」
「いや、そういうつもりじゃないんですけど……知っておいて損はないじゃないですか」
「それには同意致します。しかしあまりに漠然としすぎです。ポケモンはすぐに全部を知ることができるほど浅くはありません」
「ですよね……」
 遠慮無く飛んでくる言葉の矢にラーナーは肩を落とす。決してバトルをしたいわけじゃない。彼女はただ、クロと同じ位置に立つ力がほしいのだ。一人飛び出して傷つく彼を、見ていられないのだ。
 自分には何もできる力がないとラーナーは今の自分を否定する。今の自分では誰のことも支えられない。
 そんな彼女の気持ちを知っているはずがなく、しかしなんらかの事情があることはエクトルも察している。それを踏まえた上で、彼はゆっくりと立ち上がる。一気に大きくなる図体。倍増する迫力。強張りを取り戻した表情で、再び口を開いた。
「正直、今はこんな立ち話よりもお嬢様との時間を大切にしてほしい、と、勝手ながら私は思っております」
「……」
 ラーナーは言葉が出ず、そっと目を伏せる。
「御承知の通り、もう、あまり時間はありませんから」
「……クラリスを、なんとかしてあげることは……本当にできないんでしょうか」
 両手を強く握りしめ、強い口調で目の前の大男にかかる。発言の後、歯はきりきりと音が聞こえてきそうなくらい食いしばられていた。
「それが、本題ですか?」
 冷静に尋ね返す。栗色の瞳はしっかりと張り付けられているように固定されて動かない。
 エクトルの溜息が彼女の耳には余計に大きく聞こえてきた。
「定めです。歴代の噺人が従ってきました。お嬢様とて例外ではありませんし、逆らえば先祖に顔向けができません。それに、お嬢様は数十年来の逸材ですから、猶更許されないでしょう」
「でも、こんなのって、ないです」
「お察し致します。けれど、これは我々の掟。冷たい言い方になりますが、旅人であるあなた方には関係のないことです」
 エクトルの言葉がラーナーに突き刺さる。理性では理解できる。しかし感情がまったく納得できないでいた。強く拳を握りしめる。何もできない悔しさに唇が震える。その感情の揺れをエーフィとブラッキーは敏感に感じ取り、主の顔を見上げた。
「けれど……私は、なるべくお嬢様の思いを叶えてさしあげたいと思っています」
 静かな懇願だった。ラーナーは顔を上げ、じっとエクトルの顔を見る。背が高く良い体格の彼だが、今は少し寂しそうに背中がやや丸まっているように見えた。気丈に振る舞う中で隠しきれない細々とした感情。彼は、ラーナー達と違い、ずっと前からクラリスを傍で見届けてきたのだ。より複雑な葛藤と決意が彼を支えているに違いない。
「クラリスのこと、大切に思ってるんですね」
 ラーナーがしみじみとしながら声をかけると、エクトルは不器用に微笑んだ。その姿が、ラーナーの瞳の裏を強く焼き焦がすのだった。

( 2013/09/16(月) 20:50 )