Page 53 : 驚き
その場にいる誰もがクラリスの言葉には慄いた。事態を咄嗟に理解できずにいるクロ達を余所に、クラリスは目を輝かせてラーナーを見つめていた。
「旅のお話しも興味がありますし、是非……!」
念には念をとでも言うように更に彼女は身を乗り出す。端正な顔に純粋な瞳を以て言い寄られるとラーナーも気恥ずかしくなり頭の中が白くなる。助け船を求めるかのように視線を横に逸らすと、それに気付いたクロは顔を歪めたまま溜息を吐き、一歩前に出る。
気付いたクラリスはクロの方を向くが、釘付けになって見惚れている横顔にラーナーは妙な違和感を自分の中に抱いていた。
「悪いけど、他人に構っていられるほど余裕は無い」
頬を染め浮ついた彼女の高揚感を切り捨てるように、はっきりと言い放つ。
クラリスはきょとんとした表情を浮かべ少しの間沈黙に浸かる。それを破ったのはスバメの怒ったような鳴き声だ。しかし激昂したスバメをクラリスは即座に手で制止し、筆で滑らかに字を描くようにすいと立ち上がる。少々前のめりになっているような好奇心とは別に、言葉の表情からも見て取れる気品を携えていた。それが今、場を立つという動作たった一つにも表れているようであった。立ち上がってからも、僅かに胸を張り真っ直ぐと芯のある姿勢は不思議と彼女をより大きく見せる。
クラリスは改まってクロの様子を伺うように見つめる。
「ほんの少しでいいのです」
絞り出すような懇願。まるで劇でも見ているかのような、演技性を感じる少々誇張的な言い様だと、情熱を持ったクラリスとは裏腹にクロは冷たい目でみる。しかし、この様子だとそのほんの少しでも、濃密な時間が待っているだろう。止め処ない流水のような、あるいは決壊したダムのような、怒涛の言葉がその口から溢れ出てきてクロ達を呑みこんでいく光景が目に浮かぶようだった。
クロは大きく溜息をついた。
「そういう問題じゃない。諦めてくれ」
「どうしてですか」
「どうしても」
「理由をはっきり申されない限り引き下がることはできません」
「……そっちこそどうしてそこまでしつこいんだ」
直後、クラリスは押し黙り唇を紡ぐ。桃色の頬がみるみる色感を高めていく。クラリスの豊かな感情の動きにラーナーの鼓動まで速まっていく。
「あまり時間が無いこともありますが」伏せた視線を再び上げる。「旅の話を伺いたく存じます」
数秒間の沈黙を置いてからゆっくりと言うと、一歩クロの前に踏み出る。クロとクラリスの背丈はそう変わらず、僅かにクロの方が高い程度。その二人の間では視線が合うことなど容易いことだった。
「……貴方のことも知りたくて……」
凍りつく。その場にいる誰もが。いや、クロの背後に隠れている圭だけは、口を手で押さえ懸命に笑いだすのを堪えて震えていた。
クロやラーナーに限った話じゃない。この場は病院の待合室。多くの人が詰め込まれている場所だ。話している内容など耳をすませば簡単に聞くことができる。敏感なクロがその注目に気が付いていないはずもなく、しかし目の前で真っ直ぐに見詰めてくるクラリスをどう払ったらいいかも分からないまま硬直している。
その時、クロ達にとっては良いタイミングで診察室から名前を呼ぶ声がした。診察順が巡ってきたのだ。
はっと現実に戻ってきたように一同は硬直を解いた。急に彼等に音が戻ってくる。クロは正直に肩を撫でおろした。クロはラーナーに預けていたポニータの入ったボールを半ば剥ぐように取ると、逃げるようにその場を早歩きで過ぎ去っていってしまった。
「っはあ! あー面白かった!」
圭は目頭を薄ら光らせながら、我慢していたものを一気に吐き出してけらけらと笑い出す。驚いてラーナーもクラリスも彼を凝視した。弾けるような大笑いは止まらない。固まりついた空気を打破するような彼の様子にラーナーは解れた表情を見せる。
「泣くほど笑う?」
「だってさあ、あの固まった感じ背中からでも分かったぜ。いやー顔を見てみたかったよ。どんな感じだった?」
圭があまりに愉快に笑うものだから、回想して浮かぶクロの苦々しい表情も面白可笑しくとられるようで、ラーナーは微笑んだ。
「驚いてたよ。思考停止してる感じ」
「ハハッまあ想像できるや。なんだかんだ綺麗な顔してるからああいうの言われたりすんのかなってちょっと思ってたけど、あれは無いな。あんたも面白い人だよ。名前は?」
会話の先を転換して圭はクラリスに視線を向ける。
「……あ、クラリスと申します」
突然紹介を促されたクラリスは一瞬驚いたものの、すぐに調子を整え軽く会釈をする。
「クラリスか。俺は紅崎圭。さっきのあいつは藤波黒っつうんだ」
「圭さんに、黒、さん」
「ああ、さん付けとかあんまり好きじゃねえし別にいいから。クロも最初っから呼び捨てで呼んでやれ。へへっあいつどんな顔するかな」
今の状況を心底面白がっているように圭は頬を緩ませる。
「そうですか、好きではないということであればそうさせていただきましょう。……圭はどこからいらっしゃったのですか?」
気分の高揚は既にピークを迎え今は下り坂の傾向にあるのだろう、落ち着いてきた圭はクラリスの問いに対して恍けたような表情を見せる。
「俺? 知ってるかな……俺はリコリスから」
「リコリス! 勿論知っていますよ。随分山の方から来られているんですね。私の名前のクラリスと少し似ているでしょう。初めて知った時それで印象に残ってるんです」
「へえ、すげえな」
素直に感心した声で圭は言う。
「頭ん中にアーレイスの町、全部入ってるのか?」
「名前なら大体……場所は曖昧な部分がありますが」
「ふーん。リコリスとホクシアしか知らねえ俺からしてみれば十分すげえけど。それともそっちの方が普通なのか? ラーナー」
「どうだろう。私も地理は得意じゃないから……」
圭とラーナーの二人から羨望にも似た視線を集中的に当てられ、クラリスは誇らしそうに胸を張りつつはにかんだ。
「私は得意というよりは、好きなんです」
「好きこそ……なんとやらってやつな」
「……好きこそものの上手なれ?」
「それそれ」
横からラーナーが口を挟むと、軽く肩を上下させながら圭は笑う。
雰囲気が和らいできてラーナーは胸を撫で下ろす。矢継ぎ早に事を進めていく性格のようにラーナーには思われたけれど、圭の人当たりの良い接し方が詰まった流れを穏やかに直していくようだった。クラリスも圭に好感を抱いているようで、気を楽にしている。雰囲気は建て直されつつあり、案外居心地が良い。
「でも、ちょっと知ってるだけですから。旅はどんなところに行かれたのですか?」
クラリスが尋ねると圭は腕を組んで肩を落とす。
「俺はまだ始まったばかりなんだ。ついさっきまでリコリスにいてさ。ラーナーの方が先輩だし、クロなんて三年も旅を続けてる」
「三年!」
丸まった驚きの声が飛ぶ。
「……ちょっと場所変えた方がいいんじゃない?」
声も大きくなってだんだんと会話が加熱してきており、ラーナーは肩身を狭そうに感じたのかこそりと声をかける。
「あー、そうだな……でも俺とラーナーは離れられるけど……まあ声小さくな」
苦笑しながら圭は先程より明らかに小さな声で言う。ラーナーも納得したように安堵の笑みを浮かべて頷いた。
「申し訳ありません……」
俯き肩を落としながらクラリスが言うと、ラーナーは慌てて首を振った。
「いや、謝るほどじゃ」
「周りが見えなくなることに関してはよく指摘されるのです。言われて漸く気付くことばかりで」
「ふうん、窮屈に生きてるんだな」
圭がぼそりと横槍を入れた途端、クラリスは面食らったように押し黙る。直後、圭はにやっと笑う。
「俺はド田舎で育ったけどいろんな人に揉まれてきたし主張しないと埋もれるような感じだったから、そういうことはあんまり言われたことないや」
「そうなのですか……少し羨ましいかもしれません」
クラリスはふぅと溜息を吐く。
「三年も旅を続けていたらそれはもうたくさんの場所へ行ったでしょうね……ラーナーさんはどんな所へ行かれたんですか」
恍惚にも似た表情を浮かべつつ、ふと話題を横に移す。尋ねられてラーナーは脳内で回想を繰り広げ始める。赤い飛沫がちらつこうとするのを無意識に遮断して、故郷を離れていくその時の光景を思い返す。
「ウォルタを出て……バハロに行って……」
道の真ん中で呆然と追憶に浸るクロ。エーフィやブラッキーとの出会い。口でくわえる程の黒の団の話。田園の広がる町。足の長い少女。金髪の少年。笹波白。主張と否定。吐血。必死に駆け抜けていくポニータ。
「それからトレアスに行って」
慣れない生活を原因とした体調悪化に倒れた日々。倒れたまま目を覚まさない少年。暖かな家庭。努力をする姿。ようやく意識を取り戻して感じた喜び。一転、喧嘩。火傷。拒否。戸惑い。遺跡、遠くをただただ眺めている横顔。不器用な思い。朝の市場。再び戻った立ち位置。
随分実の詰まった月日を経てきたものだと回想する。故郷から遠くまで来てしまった。
「そしてトローナを経由してリコリスに行って、ホクシアに出かけたりもして、ついさっきキリに来たところです」
彼女の中では多くの映像が駆け上がってきたけれども、外側からすればただ町の名前を羅列しただけに過ぎない。不足だっただろうかと多少不安を残しながらふとラーナーは視線を上げてみると目の前には爛々と輝いた表情を見せているクラリスがいた。
「――素晴らしい! なんて大冒険」
「冒険なんて、大袈裟な」
苦笑するとクラリスは即座に首を何度も横に振る。
「いいえ、そんなことはありません。素敵」
うっとりと目を俯かせる脳裏には、増えてきた知識から連想される町の様子が映し出されているのだろうか。
ラーナーは不思議な感覚を覚える。確かに傍から見れば旅は輝いたものに見えるのかもしれない。けれどその実どうだろう、照り返した思い出を振り返っても、一概に素敵だとか素晴らしいだとか明るい類の言葉が当てはまるとは思えなかった。嫌だなとラーナーは自分で自分を毒づく。きっと彼女は血溜まりの噎せ返る臭いも、身近な存在が殺されたり、或いは殺されそうになる思いも知らないだろう。それが無ければ、もう少しこの旅も楽なものだったかもしれない。けれどこの旅自体がそういう旅なのだ。それは理解し受け入れている。クラリスが真実を知る必要性も勿論、無い。
だからラーナーは笑った。
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「そうですよ」
クラリスは強く念を押す。
それから暫くは落ち着いた時間が続いた。クラリスは飽きずにエーフィを撫で続け、その感覚が気持ち良いのかエーフィも彼女に身を委ねている。スバメも興味があるのか声をかけると呼応し、何か話をしているようだった。一方のブラッキーは相変わらず距離を開け、少しクラリスが視線を向けると瞬時に静電気のような睨みをきかせる。ラーナーの隣には圭が座り、腕を組んでぼんやりと暇を弄ばせていた。
しかしその場にいる誰もが違和感に包まれ始めていた。
「……遅いね」
ラーナーがぽつりと呟くと圭は少し俯いた状態のままで頷いた。
クロが呼ばれてから随分と時間が経っている。他にスタッフがいるためその間も何人か循環しているものの、クロは混じってこない。もしや、と。ポニータの容体がそれほど良いものでないのだろうと悪い想像を巡らせるには容易い。
と、クロの入っていった部屋の扉が開き、一同は顔を上げた。
帽子を外している彼の表情を長い髪が隠し、よく見えない。その様子が一層重い雰囲気を漂わせていて、一同は不安に駆られる。
近づいてきたクロに対しラーナーと圭は立ち上がる。
「どうだった?」
ラーナーが恐る恐る尋ねるが、クロは口を閉ざしたまま話そうとしない。
「おい、はっきり言えよ。悪かったなら悪かったって」
脅すような口調で圭がせがむ。
黙り込んでいたクロが溜息を吐き、視線を上げる。落ち込み生気すら失ったような虚ろな目でラーナーや圭を捉えた。
「……入院の必要があるかもって」
掠れ声に等しいが、耳を立てていた彼等の耳には届いてきた。しかし聞き取れても意味が理解できなかったとでも言いたげに眉を潜める。
空気は凍り付いていた。静かに動揺が広がり、誰も言葉をかけることができないでいた。
「今は検査に預けているけど……どうなるか分からない」
「もう歩けない、なんてことは……」
「分からない」
圭の問いに咄嗟にクロは答えた。震えた声は混乱が明らかに表れている。また沈黙が圧しかかる。
「そんな状態にまでさせていた……」
歯を食いしばる。ラーナーが視線を落とした先で、彼の左の拳は震撼している。そのまま彼の爪が皮を突き破ってしまうのではないかと錯覚してしまうほどに強く、強く、強く握られていた。言葉にならない感情が滲み出る。もう一度彼の顔を見る。歪んでいる。眉間に皺を寄せている。どうして、そう彼は吐露した。掠れた言葉である。けれど悔しさと怒りが溢れんばかりに詰め込まれた言葉だ。
「俺のせいだ」
ぽつりと述べるたびに彼の背中に重責が圧し掛かる。
「無茶をさせすぎた。あいつに甘え過ぎたんだ」
「クロ」
見ていられなくなったラーナーは思わず声をかける。
「とりあえず、座って落ち着こう」
無理矢理彼の腕を引っ掴むと、ラーナーは先程まで自分が座っていた場所に彼を腰かけさせる。特に抵抗ないものの、表情は変わらない。
と、クラリスの名が呼ばれて彼女は顔を上げる。彼女の順番も回ってきたのだ。その場を離れることに対して後ろ髪を引かれる思いだったものの、もう一度呼名されると観念したようにその場を離れる。彼女の肩から離れていたスバメも慌てたように羽ばたいていく。
一連の出来事もクロの目には入らない。蚊帳の外だ。クロにとってはどうでもよかった。数十分前にクラリスから自分にかけられた言葉も向けられた瞳も切り捨てられる。今の頭の中は混沌としていて、何の情報も入ってこないでいた。
沈黙は重く、虚しいオルゴール音が空を滑っていく。