Page 52 : 嵐の到来
喫茶店のオーナーに教えられた道を忠実に辿ると、ポケモン専門の病院が道路の左手側に存在していた。僅かに老朽感を漂わせながらも清潔さを保ったそこは二階建てで、広々とした空間を彷彿させた。そして有名なところである故か時間の巡り合わせが悪かった故か、既に中には多くの人とポケモンの姿があった。その大半はやはり鳥ポケモンであり、二階まで吹き抜けになった高い天井の待合室では羽ばたき音があちらこちらから零れ、獣の独特の匂いが充満していた。
病院には良い思い出などない。緊張の面もちでクロは受付へ向かい、他二人もそれに着いていく。
受付の名簿を見れば、ずらりと並べられた先着者の名前に思わずクロは肩を落とす。仕方なく記入するよう指示された書類に必要事項を書き込んでいくと、興味津々といった風に圭は覗き込んできた。
「お前、すげえなあ」
「何が」
苛立ちが混じった声で応対しながら、手は動き続ける。
「いや、さらっと字を書いていくなって」
「別にこのくらい」
「俺は字は未だに得意じゃねえんだよなあ」
ぼやくように圭は言う。
書類を書き終えたクロはそれを受付の女性に渡す。
三人並んで座れるような場所は残っておらず、ラーナーと圭が座りクロは付近で立っった。しばらくその状態が続いているうちに人が抜けてはまた入ってきて、人口密度が減る気配も無い。可愛らしく流れるオルゴール音と高い天井による開放感、そして独特の沈みこんだ感情の漂いが不思議な空間を作りだしている。明らかに非日常を形成していたその場所はクロの苦手とする場所だった。身に纏わりつき体内にやってくる違和感が嫌悪を生み出し、入って二十分程経った頃に耐えきれなくなったように外へと出ていった。それからものの五分程度で同じような理由で圭も出ていく。二人して青い顔をしていたものだから本当に苦手なのだろう、ラーナーは快諾したものの、一方で意外でもあった。平気に構えている自分からしてみれば、少し頼りなさげに見えてしまうのだった。
預けられたポニータのボールに視線を落とす。順番が回ってくる前に主人は帰ってくるだろうか。
話し相手も居なくなりつまらなさそうに辺りを眺めていたラーナーは遂に暇を弄ぶことに飽きて、横に置いた空色のショルダーバッグからいくつもの傷がついた二つのボールを取り出す。一つ溜息をついた。気持ちは向上しない。館内を流れる音楽が浮つく妙な静寂や喫茶店での出来事など様々な要因が重なって、どこか落ち着かない。不安なのだ。何もかもが。これからも、クロのこともポニータのことも圭のことも、自分のことも。黒い靄がかかったような心持でいると、いつの間にかボールの開閉スイッチを押していた。小さな破裂音に似たそれと共に出てきたエーフィとブラッキーは、落ち着いた佇まいで彼女の目の前に姿を現す。
隣に座っていた人を筆頭に、周りの人からまた当然のように注目が集まる。それを気にしないかのようにラーナーは身を乗り出す。真っ先にエーフィが懐いた声をあげて近付いていく。人懐こい様子で前足をラーナーの膝に乗せる。思わずラーナーの沈んだ顔にほんのりと笑みが灯る。
「ふふ」
小さく笑うと軽く抱きしめるように手を回す。
「頑張らなきゃ」
呟いた言葉に二匹は視線を上げた。
ラーナーはエーフィの奥に深い光の籠もる紫紺の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「クロは怪我してるし疲れてもいる。だからあたしがしっかりしなきゃって思うのに、なんだかうまくいかないね」
溜息を吐いた。
「不思議なんだ。さっき圭くんも言ってたけど、今更、どうしてクロはあたしが一緒に行くことを認めてくれたのか。クロと圭くんを見ていると、あたしがここにいてもいいのか、よくわからなくなってくる」
数年の時を経たとは思えない程親しい様子を見せ、同じ過去を共有している二人はラーナーにとっては、少し遠い。
心優しい獣を抱く力が自然と強くなると、額に堅い衝撃が走った。
思わず涙目になりながら目の前のエーフィを戸惑いの表情で見つめる。エーフィの額には宝石のように美しく光る赤い小さな玉が埋め込まれている。念力を使うときに光るそれは勿論硬質であり、そのままラーナーに軽く頭突きをしたのだ。
エーフィは不満そうな声をあげる。言葉は分からないけれど、ラーナーは力無く笑った。
「うん、ありがとう。ごめんね」
拙い様子で彼女は断片的に言葉を綴る。
柔らかな顔をしたエーフィの後ろ、やや距離を置いた位置のブラッキーは不安そうな瞳でラーナーを見つめていた。
その時だった。彼女たちの暗い雰囲気をものともせずに突然病院の中に誰かが駆けこんできたのは。
ゆったりとした時間の流れの中で異質なその存在は爽やかな色合いのセーラー服を身に纏い、黒いポニーテールを靡かせて汗を流しながら、受付へと駆けこんだ。思わずラーナーも目を丸くしてその様子を凝視した。受付に辿り着いても息切れて何もできないようで、大きく肩を上下させていた。その息遣いがすぐそばでしているかのように思えた。それ程にその少女は必死だった。
やや遅れて小さな鳥ポケモン――スバメが彼女の傍までやってくると、受付の机に止まる。ラーナーのすぐ後ろの方で彼女を見ながらひそりと話す人の姿も見える。けれどそのようなことは気にする様子も無く、そしてラーナーは少女から目を離すことができないでいた。
黒髪の少女は持っていた鞄から淡いピンク色のタオルを取り出すとそれに顔を埋めて汗を拭きとる。受付の女性が声をかけると、少女は紅潮した顔でへたりと笑った。
「すいません……エアームドが今日退院ということで」
「お名前は?」
「クヴルールです。クラリス・クヴルール……あの、予約していた時間から少々遅れてしまったんですけど……」
「大丈夫ですよ。今日は混んでいるのでお時間かかるかもしれませんが、こちらを記入してお待ちください」
気分が高揚して声のトーンも高くなっている黒髪の少女――クラリスに対し、慣れた様子で誘導する。書類とペンを受け取ったクラリスはほっと肩を撫で下ろしながら受付から離れる。それと同時に彼女の手持ちポケモンであろうスバメも再び翼を羽ばたかせる。
周囲の注目が落ち着いてきた頃、クラリスはふとラーナー――正しく言えばエーフィとブラッキー――に目を止め、驚愕に顔を塗りつぶし、すぐに目を輝かせて近くまでやってきた。
「凄い、本物のエーフィとブラッキーなんて初めて……! 貴方の手持ちですか?」
高揚感溢れる勢いに押されるようにラーナーは慌てて頷くと、彼女はうっとりと頬を綻ばせた。
「ビロードのような肌触りと聞いていますが……成程、素晴らしい……」
前触れも無く彼女はエーフィの体毛を撫でる。人間に対し懐が大きいエーフィとはいえやはり突然の訪問に驚いたようで、動揺したように顔を僅かに歪めている。ブラッキーに至っては触らぬ神に祟り無しとでも言いたげに、少し遠い場所に移動を始める始末である。
と、スバメが少女の頭にそっと乗った。そうするとスバメの足の爪が食い入り、クラリスは痛そうに表情を歪めた。
「スバメ、頭に乗ってはいけないと何度も言ったでしょう!」
転がるように表情を変え怒気を放った。慌ててスバメは再び翼を羽ばたかせ、慎重にクラリスの右肩に着地した。クラリスは息をつき、未だ垂れてくる珠の汗をタオルで拭く。
改めてラーナーは目の前の見知らぬ者を観察する。陶器のような白い肌に少し吊り上がった大きな黒色の瞳、真っ黒で一本一本がさらさらと流れている髪の毛は彼女の僅かな動きに合わせてきらきらと美しく揺れ、今はしゃがみ込んでいるもののラーナーよりも背が高く、一本の線が真っ直ぐ縦に引かれたように伸びた姿勢は芯のある印象を持たせる。
集中する視線ふとに気が付いた彼女は顔を上げてラーナーと視線を合わせる。力強く突き刺さってきた視線にラーナーは咄嗟に目を逸らした。
「これだけの美しさ、大切にされている証拠ですね。失礼ですが、お名前は?」
尋ねられたラーナーは恐る恐るといったように再度視線を向けると、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。自分のペースに引き付ける魅力や勢いに加えて、丁寧な物腰も兼ね備えていて、ラーナーは戸惑いながらもその勢いに抵抗する気は起きなかった。
「ええっと……ラーナー・クレアライト、です……」
後込みしたような声だったが、相手の微笑みは崩れなかった。
「素敵なお名前。私、クラリスと申します。以後お見知りおきを」
「こ、こちらこそお見知りおき、を」
丁寧な挨拶に対してラーナーは思わず同じ言葉を返すが、たどたどしいものになってしまう。クラリスはそんなラーナーに対して小さく白い歯を見せる。
「今日はどうされたんですか? 二匹とも元気なように見えますが」
まるで以前からから知り合いであったかのように気軽な物腰だ。向けてくる瞳は爛々と輝いていて興味を一心に向けてきているのが分かった。不思議なもので、嫌な気持ちにはならなかった。前のめりに踏み込んでくる挙動には驚くが、悪い人では無いと直感していた。
「いえ、その……この子達ではないんですけど」
「他にもポケモンを持っていらっしゃるんですか! もしかして、凄腕のトレーナーであったりするのでは?」
口調に籠もる熱が高まり表情も一層明るくなったので、ラーナーは慌てて首を振った。
「いっいや違います! 一緒に来てる人のポケモンで……いや、一緒って言っても今は居ないんですけど」
クラリスは納得したように何度か頷く。
「一緒に……ご家族の方とか」
「違います」
咄嗟に強い口調でラーナーは言い放ち、制するような強い口調になったことに思わず口を塞いだ。しかしクラリスは気に留めていないようで、ひとまず安堵した。
「……ただの旅の仲間です」
「旅!?」
クラリスは大きな瞳を更に広げ、ぱっと輝かせた。
「では、他の町から来られたんですか? どこから?」
言葉だけでなく実際に身を乗り出し、強い関心を全面に押し出してくるクラリスにラーナーは怖じ気付きながらも押されるままに応えるしかなかった。
「う、ウォルタです」
「ウォルタ!? 水の町と言われる美しい町ですね。私も一度訪れたことがあります……でも旅だなんて……こんなことって」
上ずった口調でクラリスは感動に浸る。
少々過大な反応ににラーナーは困ったように力無い笑みを浮かべると、玄関に繋がる扉が開いた音がして背後に視線を投げる。と、クロと、その後ろにオレンジ色の髪が僅かに揺れていることから圭も合わせて来たことに気が付いた。
クロはラーナーの傍にいるクラリスにすぐに気が付いて露骨に顔を顰めた。
「そいつ、誰だ」
歩み寄り、明らかに機嫌を損ねている声でクロが尋ねる。漸く彼等の存在に気が付いたクラリスは顔を上げた。次瞬、ふと時が止まったかのように彼女の呼吸が詰まる。
感情の機微を敏感に汲み取ったのであろうスバメは、目と鼻の先にある彼女の顔をぎょっと凝視する。
クラリスは戸惑いと驚きとを携え、頬に再び差してきた火照りは桃色で、茫然としながらも目の前の相手に釘づけになっているようだった。
その先のクロは困惑に染まった苦い表情で、思わずクラリスから目を逸らした。
しばしの奇妙な沈黙の後、クラリスは突然ラーナーの両手を手に取り懇願の瞳で見つめる。握る手は強く、大きな感情の揺れと張り裂ける稲妻のような衝動でラーナー達をあっという間に巻き込んでいく。
「ラーナーさん、この後お時間はございますか? ここで出会えたのも何かの縁、宜しければ少し時間をいただいてご一緒したいです……!」
突飛な提案にラーナーは身を固まらせた。けれどどう返事をしようと結果は同じように思われた。了承しようと拒否しようと、彼女はついていく。そんな確信をするだけの力が彼女にはあった。
スバメは小さく溜息をつくかのような鳴き声を絞り出していた。